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もう一度、夫婦しますか? 離婚したはずの寡黙な医師の元夫が一途に甘く蕩かしてきます 2

第二話


 澄河総合病院での明里の施術相手は、四十代後半の女性患者だった。
「では扱いやすい長さに整えさせていただきますね」
「うん、思いっきりばっさりいっちゃって! どうせ抜けちゃうんだから」
 患者は肩まであるたっぷりとした髪をつまみ上げ、からからと笑う。その口調は驚くほど明るい。
 けれど彼女のカルテには大腸がん、抗がん剤治療予定と記載されている。
 ケープを装着し、スピードを意識してカットしていく。まだ本格的な治療が始まる前なので体調に問題はなさそうだが、施術が患者の負担になることには違いない。
「病院でカットしてもらう人って、いるのかしら?」
 病院での施術は定期訪問している施設とは違い、患者個人からの依頼である。
「はい、結構いらっしゃいますよ」
 他の科と比べると内科は数週間から数か月と長期で入院し続ける患者が少なくないため、依頼自体は珍しくない。
「退院前ですとか、見舞いの人に会うからとか、手術をしたら髪を洗えなくなるから短くしたい、なんて場合もありますね」
「私みたいに抗がん剤使うからって人もいるの?」
「抗がん剤治療される方は、あらかじめ短くしておく方が多い印象ですね。でも入院前って忙しいですから」
「そうなのよ。子供たちのこととか色々頼んでたら、全然美容室行く時間取れなくて」
「だからお客様のように入院後に依頼される方も普通にいらっしゃいますよ」
「よかったぁ。こんなの初めてだから」
 話をしながらも、手を止めることはない。
(いい髪の毛なのになぁ)
 ボリュームもコシもあり、しっかりとしている。午前中に施術した施設の利用者と違い、まだまだ元気な髪だ。これが失われるのは美容師としてシンプルに残念だなと思ってしまう。
 それでも、命には代えられない。
「……治療が終わればまた伸びるのよね」
 仕方がないとわかっていても、実際に短くなっていく髪を見て、不安になってしまったのだろう。患者の声に先ほどは感じられなかった恐れが滲み出す。それを察し、明里はさっと笑みを浮かべてみせる。
「ええ。髪が伸びるのは一か月で一センチ程度ですから、少しお時間はかかってしまいますが。それまではウイッグを利用されると……」
 明里の言葉に、患者が思い出したように言った。
「そうだ、ウイッグのカットってお願いできます?」
「もちろんですよ。ただ、料金は別に頂戴することになりますが、大丈夫ですか?」
 一般的な美容室では受け付けていない場合が多いが、こころビューティケアではウイッグのカットも対応している。
「構わないわ。娘が買ってきてくれたんだけど、どうしてもかぶってる感が出ちゃうのよ」
 患者が取り出したウイッグを確かめさせてもらい、明里は説明する。
「こちらは人工毛のウイッグなので、人毛と違って独特の光沢があるんです。あと静電気で絡まりやすいので、それが違和感の原因かもしれませんね」
「あらぁ、やっぱり高いものの方がよかったのかしら」
 ウイッグは大きく分けると人工毛と人毛の二種類ある。化繊でできている人工毛に対し、人毛はその名の通り人の髪の毛を使用しているため、どうしても高価になってしまう。
「人毛の方が自然な仕上がりですが、人口毛の方はカラーやスタイルが豊富ですし、手の届きやすいお値段ですから、いろんな楽しみ方ができますよ。……このお色、お客様の髪と色合いがよく似ています。娘さん、きっとこの色で探してくださったのでしょうね」
 明里の言葉に患者がはっとなる。
「……そうね。ちゃんと選んでくれたみたい」
 人工毛の不自然さばかりが目についてそこまで気にしていなかったのだろう。
 明里は手早くカットを済ませ、ウイッグのカットに移る。
「ではお顔の形に合わせて毛の量や長さを調整していきますね」
 患者本人にウイッグを装着してもらい、似合わせでカットしていく。ウイッグの場合スタンドなどを使ってカットすることもあるが、実際に使う人と一緒に調整する方がより違和感なく仕上がるのだ。
「わぁ、すごい! これで帽子かぶったらぱっと見はわからないかも!」
 調整が終わったウイッグを見て、患者が嬉しそうに笑う。その様子を見て明里も嬉しくなってくる。自分の手で誰かの気持ちを明るくできるこの仕事が、明里は大好きだ。
 カットを終え、片付けをしていたところ、病室の扉が叩かれる。
(しまった、遅くなっちゃったから)
 予定外だったウイッグのカットをしていたせいで、予定より時間が押している。
(早く片付けないと)
 急いで散らばった髪を養生シートごとまとめたところで、扉が開いた。
「失礼します」
「えっ」
 何気ない入室の挨拶。そのたったひと言で、明里は動けなくなる。
 それは、聞こえた声が、これまで何度も何度も思い出した、決して忘れることのない人の声そのものだったから。
(ここに、いるわけないのに)
 信じられない気持ちで扉の方へ視線を向けると、そこには涼やかな二重の目を驚いたように見開くひとりの医師がいた。 
「あら加納(かのう)先生」
 患者が医師の名を呼ぶ。それは今この状況が嘘ではないと教えてくれた。
 加納淳弥(じゅんや)。
 彼の名を、声を、その顔を、目の当たりにしたのは、実に七年ぶりだった。
 背が高く、白衣の下に隠れていてもわかる無駄のない身体つきと端整な顔立ちも、センター分けされた少し長めの前髪も、何も変わっていない。
 ただ、七年前は整った顔ゆえにどこか陰のある印象だった。しかし三十代後半になった彼には、医師として多くの現場を潜ってきた男の静かな貫禄と落ち着きが感じられた。
 患者から名を呼ばれた淳弥は、すぐさま驚愕の表情を消し医師の顔になる。
「カットの最中でしたか。改めた方がいいかな」
 片付けをしている明里を見て、淳弥が患者に静かに問いかける。
「い、いえ! もうカットは終わったので大丈夫です。お話があるのなら私の方が一旦席を外しますので!」
 明里は丸めた養生シートを抱えたまま急いで病室を出る。なにより患者が最優先だ。
 けれど廊下に出るなり力が抜け、ずるずるとその場にしゃがみ込んでしまう。
(……勤め先、変わってたんだ)
 明里の知る淳弥の勤め先は別の病院だった。だからまさかここで顔を合わせるだなんて想像もしていなかったのだ。
(でも、七年も経ってるんだから、変わって当たり前よね)
 実際、この七年の間に明里だって転職を経験している。彼は医師という引く手あまたの職種だ。澄河総合病院はこの地域のがん治療では一番と言われている。消化器内科医の彼が新たな勤め先として選ぶのはある意味当然ではあった。
(でも、他は全然何も変わってない)
 声も、纏う空気感も、気遣いが先に出るところも、あの頃の、まま。
(まだ、会いたくなかった)
 ぎゅっと胸が引き絞られるように痛む。
(だって私、淳弥さんの前に立てるような人間になれてない)
 そんな思いに囚われていると、不意に病室の扉が開く。
「あ……」
 淳弥は扉を閉めると、しゃがんだままの明里に向き直った。
 もとより身長差はある。けれどしゃがんでいるとまるで自分が小さな子供のように思えてきて、明里は慌てて立ち上がった。
「すまない。仕事の邪魔をした」
「いえ、もう片付けだけですから……」
「……痩せたな」
 失礼します、と言いかけた明里の声を遮ったのは、気遣いの言葉だった。
「ちゃんと、食べているのか?」
(ああ、優しいな)
 やはり淳弥は何も変わっていない。七年前と同じように明里を思いやってくれる。
 だけどもう、明里は誤解しない。年長者が若い者の食事や体調を心配するのはよくあることだからだ。
「大丈夫です。では……」
「待ってくれ」
 頭を下げ、明里は仕事に戻ろうとした。けれど扉に手をかけた明里を淳弥は呼び止める。
「納骨はしたのか」
「……っ!?」
 亡くなった母のことだとすぐにわかった。
 彼といた時、母の墓を用意してくれようとしたのを断ったのは明里だ。母の墓だけは、誰の手も借りず自分の力でなんとかしたかった。
「……はい、なんとか」
 必死で貯金してようやく母に安住の地を用意できたのは、ほんの少し前のこと。
(気にして、くれていたんだ)
 嬉しいと感じると同時に、自分が彼の元にいらぬ心配を残してきてしまったことに申し訳なさが湧き出してくる。なぜなら彼が続けるであろう言葉がわかってしまったからだ。
「よければ、墓参りに行きたい」
「お忙しいのに、そんなことをまでしてもらうわけには」
 もう関係ないとは言えなかった。そう言えばきっと淳弥は黙る。
 けれどきっと──悲しい顔を、する。
「頼む。……俺に不義理をさせないでほしい。連絡先を教えてくれ」
 七年前、関係を切った時に番号を変えているので、淳弥は明里の連絡先を知らない。
 勝手に変えたことを責められているように感じるのは、後ろめたさからだろうか。
「……わかりました」
 母のことだけは突っぱねることもできず、明里はおとなしくスマホを操作し、連絡先を表示する。
「俺の方は」
「……変わっていないなら、わかります」
 番号を変え一方的に関係を切ったのは自分のくせに、淳弥の連絡先は消せなかった。
 いつかひとかどの人間になったら恩返しをするため。
 そう言い訳して、お守りのように持っていたのだ。
「そうか。……俺は、変わっていない」
 安堵したかのようにほんの少し淳弥が微笑む。その笑顔に、胸が大きく跳ねた。
「い、いえ。では私は仕事に戻らせていただきます」
 そそくさと患者の病室に戻り、片付けを再開する。
 来た時よりも綺麗に、というのがこころビューティケアのモットーだ。
 けれど片付けをしながらも、頭の中は淳弥でいっぱいだった。
(会いたくなかったけど、会えた)
 矛盾する己の気持ちがおかしい。けれど、偽らざる本心であった。
 会いたくないから一方的に連絡を絶ったのに、会って再び繋がれたことが嬉しくてたまらなくて、気持ちが落ち着かない。
 そんな状態でも手は動くのは、これまで積み重ねてきた経験のおかげだろう。
「ねえねえ、加納先生と知り合いなの?」
 最後の仕上げで床のモップかけをしていると、患者が興味津々とばかりに尋ねてきた。
 どうやら扉の小窓から話していたのが見えたらしい。
「知り合いというか……先生には母が昔お世話になりまして」
「ああ、なるほど」
 そこで納得したかと思いきや、患者は少し声を潜めて続ける。
「……あの先生ちょっと怖くない?」
「そんなことないですよ。すっごく優しくていい先生です!」
 昔から、誤解されがちな人だった。何しろ淳弥は決して、愛想がいい医師ではない。言葉も多くない。そのせいか一見すると話しかけづらく、近寄りがたく思える、そんなタイプだ。
「口数が少ないし、ちょっとぶっきらぼうですけど……わかるまでちゃんと説明してくれますし、検査とかもすごく考えてやってくれますし」
 彼が不愛想に見えるのは、言葉が少ないからだ。けれど治療を通じてこちらに真摯に向き合ってくれるし、説明だって惜しまない。付き合っていけばいくほど、「この人ならば任せられる」と安心感を抱かせる力を持っている。
 言葉ではなく、態度で伝えてくれる人だった。
「そうなんだ。ちょっと安心したかも」
「はい。信頼できる先生です」
 これから辛い治療が待っているから、不安だったのだろう。患者の表情が和らいだのを見て明里はほっとする。
「では、終わりましたので、失礼します」
 施設では必ず次の約束をするようにしている。けれど病院ではしない。入院期間はなるべく短い方がいいからだ。
 病棟に挨拶して、車に戻り荷物を積み助手席に乗り込んだ。そしてドアを閉め外から切り離された途端、全身から力が抜けた。
「……はぁ」
(まさか、ここで再会するなんて)
 以前の勤め先だけ避けていればいいと思っていた自分の浅はかさに口元を歪めた、その時。
 不意に、スマホが震えた。
 別の病棟で施術している石塚だろうかと何気なく画面を見て、息が止まる。
 通知に表示されていたのは、先ほど連絡先を教えたばかりの淳弥の名だったから。
『急だが、今夜時間はあるだろうか』
 簡潔な誘いのメッセージに、心臓が騒ぎ始める。
(どうして)
 母の墓参りだったら、別に場所を教えるだけでいい。わざわざ忙しい時間を取って会う必要はないはずだ。
 淳弥がどんな人かはわかっている。信頼に値する人だと知っている。
 けれど七年離れていたのだ。今彼がなぜ、何を考えてこのメッセージを送ってきたのか見当もつかない。
「わっ!?」
 通知を見つめたままでいたら、再びスマホが震える。
『ゆっくり話がしたい』
(今、何を話したいんだろう?)
 離れていた七年間の積もる話をしたいということなのだろうか。何も面白いことなんてないのに。
「お疲れー」
 画面を見つめたまま困惑していると、運転席のドアが開き石塚が乗り込んできた。軽の車体が弾むように揺れて、明里は我に返る。
「お、お疲れさまです」
「新しい病棟の話、色々聞いてきたよ」
 石塚がニッと笑って親指を立ててみせる。
 元はサロンのトップスタイリストである彼はやはり人と親しくなるのが上手い。この話術で派遣先のスタッフからあれこれ情報を引き出してくるのだ。
「最近他の病院から移ってきた内科の先生が中核メンバーになってるらしいよ。名前は……」
「もしかして、加納先生、ですか?」
「そうそう。まだ三十代なのにすっげぇやり手なんだってさ! 佐野さんも聞いたの?」
「今日担当した患者さんから」
「あぁーなるほど。なんかめっちゃイケメンらしいね」
「そうですね。すごく素敵な人でした」
「佐野さんにそこまで言わせる先生、俺も会ってみたいなぁ」
 何も知らない石塚は笑いながら車のエンジンをかける。
「……今日ってもう事務所戻りますよね」
「その予定だけど。どうした?」
「いえ、何か追加の仕事なかったかなと思って」
「会社から連絡ないから大丈夫だろ。今日もさっさと片付けて帰ろうぜ」
 こころビューティケアでは、基本的に残業はない。サービスを提供している相手がそもそも夜間対応していないのだから当然である。
 仕事が終われば、特に予定はない。だから淳弥と会う時間は、ある。
(なんで淳弥さんは私に会いたいんだろう)
 そこがわからなすぎて、どうしたらいいのかがわからない。
「……石塚さん、もし元カノから連絡きたらどうします?」
「はぁ? なんだよ急に」
「例えばの話です、例えば!」
 石塚は特に考えることなく「別にどうもしないな」とこともなげに言った。
「俺はもう結婚して嫁さんも子供もいるし。今更話すことなんかないからスルーする」
「ですよね……」
「なに? 元カレから連絡きた?」
「えっ!?」
「今相手いないなら話くらい聞いてもいいんじゃない?」
 車を走らせながら、石塚は楽しそうに笑う。
「でも……」
「ま、嫌いになって別れたんじゃない場合に限る、だけどな。酒癖悪いとか浮気されたとか、そういうのは治らないから無視一択」
「そんな人じゃないです!」
 思わず強く言い返してしまった明里に、石塚はひゅうと口笛を吹いてみせた。
「なるほど、そんな相手がいたら俺の紹介なんていらないかぁ」
「あ……」
 あっさり例え話ではなく自分の話だと見抜かれ、明里は助手席で身を縮こませる。
「どんな理由で別れたのかは知らないけど、未練あるなら行っといた方がいいかもな」
(未練とは、少し違うような)
 明里はあの頃に戻りたい、とは思わない。
 むしろ、ふたりでいたあの頃を後悔していると言ってもいい。
 でも気持ちを残していると言われれば、その通りだった。
 じっとメッセージの画面を見つめる。
『ゆっくり話がしたい』
 七年前、関係を断ち切ったのは明里からだった。
 淳弥は己の気持ちをことさら語る人ではない。だから口にしなかっただけで、もしかしたらあの時、彼には彼の言い分があったのかもしれない。
(そうだとしたら、私にはちゃんと受け止める義務がある)
 偶然再会したのは、きちんと向き合えということなのか。
「……会って、みます」
「気楽にな。あ、あとちゃんと人の目があるところで会うんだぞ!? 間違ってもふたりきりはダメだ!」
「石塚さん、お父さんみたい」
「おかしいな、俺こんなデカい娘いないはずだけど~?」
(そういえば石塚さんと淳弥さんって、同じ年齢だ)
 ふたりとも明里より十歳年上の、頼りがいのある男性である。
 でも、石塚と淳弥は明里の中で全然違う。
(私がこんな気持ちになるのは、淳弥さんだけ)
 少し震える指で、返信を打つ。
『私も、話したいです』
 ずっと会いたくて、会いたくなかった相手。
 淳弥を忘れたことなんて、この七年間で一日もなかった。
 彼は明里の恩人で──元夫でもあった。

 待ち合わせ場所になったのは、明里の勤め先の最寄りである私鉄の駅からそう離れていない繁華街にあるレストランだった。
 予定通り定時で仕事を終えた明里は急ぎ店へと向かう。
(変、じゃないかな)
 急な誘いだったから、残念なことに服はシルケット加工されたTシャツに黒のカーディガン、グレーのセミワイドパンツといういつもの通勤着だし、お団子ヘアもそのままだ。少しでもちゃんとしたくてメイクだけは手を入れたけれど、おかげで事務所を出るのが遅くなってしまった。
(石塚さんが余計なこと言うから)
 さっさと帰っていった石塚を思い出し、明里はつい唇を尖らせる。
「佐野さん、これからデートだってさ」
 なんて事務所で暴露されたものだから、同僚たちから散々からかわれてしまったのだ。
(こういう話に関しては石塚さんちょっとデリカシーないよね)
 既婚者の余裕なのか、はたまた色恋話が好きなのか。……恐らく後者であろう。同僚たちも既婚者が多いので、独身者、それも若い明里の恋愛話は完全にいい話のタネだ。
(別に、そんなんじゃないのに)
 明里と淳弥の関係は、離婚という形で一度完全に終わっている。
 焼け木杭に火がつくにも、間に横たわる七年の歳月はそう短くはない。
「あ……」
 早足で向かっていると、店の入口に背の高い人影が見えた。
(待たせちゃった)
 慌てて明里は駆け出す。
 淳弥に迷惑をかけてしまうのが明里にとって一番嫌なことだったから。
「お、お待たせ、しました」
 息を切らしてやってきた明里に、淳弥は苦笑いを浮かべた。
 明里と同じように仕事帰りだろうに、くたびれた感じは全くない。シンプルな無地のTシャツに、すっきりとしたシルエットのジャケットとテーパードパンツを合わせ、レザーのトートバッグを持ったスタイルは清潔感があり、仕事着の時と印象があまり変わらないくらいだ。
 淳弥は常に医師として相応しい振る舞いや装いをしている。それも七年前と何も変わっていないのだろう。
「そう急がなくてもいい」
 ぽん、と頭に手が乗せられ、その重さと感触に泣きそうになる。
「急に誘って悪かった」
「……いえ」
(何も変わってない)
 優しくて気遣いがあって、でもそれを表に出しすぎない。淳弥はそういう人だ。無遠慮なのはこの頭に乗せられる手だけ。
 明里の胸に懐かしさと切なさが同時にせり上がってきて、泣きたくなる。
(ちゃんとしなきゃ)
 もう右も左もわからない子供ではないのだ。この七年、ひとりで頑張ってきたのだから。
 明里は知らず俯いていた顔を上げ、にこりと笑みを浮かべてみせた。そんな明里に、淳弥は優しく目を細める。
「さあ、行こうか」
「はい」
 促され店に足を踏み入れた瞬間、食欲をそそるにんにくとオリーブオイルの香ばしい匂いが鼻に届いて、否応なしに空腹が刺激される。
 木目を基調とした店内は温かな照明に照らされ、壁には色鮮やかなタイルやワインボトルが飾られている。ちょうど夕食時とあって客席はほとんど埋まり、グラスを合わせる音や楽しそうな笑い声が満ちていた。
(すごく雰囲気いいお店)
 普段食費を削っている分、こういったお店を利用する機会は正直少ない。せいぜい友人と会う時くらいだ。
 向かい合って座り、注文を済ませたら自然と沈黙が落ちた。
 気まずいわけではない。なんというか、何を話せばいいのかわからない、というべきか。
 互いに距離感を測りかねているような、もどかしい雰囲気の中、先に口を開いたのは淳弥だった。
「改めて……久しぶりだな」
「お久しぶりです」
「訪問美容師になっていたのか」
「はい。前からずっと、目指していて」
 美容師になりたいと思ったのは、母を綺麗にしてあげたかったからだ。
 目標を失った後、訪問美容師という福祉に近い働き方を知り、病床の母のように自分で整えるのが難しい人を笑顔にしてあげたいと思ったのが、若いうちに訪問美容師に転職した理由だ。
「……そうか。夢を叶えたんだな」
 なぜ明里が訪問美容師を志したのか淳弥にはわかったのだろう。向けられる眼差しに慈愛が滲む。
(本当に、優しい人)
 明里は淳弥に迷惑かけてばかりのろくでもない妻だったのに。
「先生、相変わらずですね」
 名前を呼ぶのは躊躇われ、敬称で呼ぶ。それはまるで出会った頃のようだった。
「……そうか? おじさんになっただろう?」
「先生は昔から全然おじさんじゃないですよ」
 自虐的に笑う淳弥に、明里は苦笑を返す。
 かつて十もある年齢差をそんな風にからかったことがあった。十九と二十九だった時は、彼がずいぶん年上に見えていたから。
 けれど社会に出て、二十八と三十八になった今は、不思議とそこまでの差を感じない。
(私も大人になったから、かな)
 実感としてはまだ薄いが、淳弥と共にいても違和感が減ったのは単純に嬉しかった。
 あの頃明里はまだ子供だった。誰かに守られていなければ何もできない半人前だった。
「君は、変わったね」
「そりゃもう二十八ですし」
 いつまでも子供ではない。一人前になるように必死で頑張ってきたのだ。
「ああ。素敵な大人の女性になった」
「……っ」
 不意打ちで褒められて顔がぶわっと熱くなるのがわかった。
(……淳弥さんってこんなこと言う人だったっけ)
 当の淳弥は明里の前で穏やかに微笑んでいるだけ。
(いやいや、これくらいは普通、かな。石塚さんなら言いそうだし)
 そこに注文した料理が運ばれてくる。
 どうしたらいいかわからず、明里は料理に意識を向ける。
「わぁ、美味しそう!」
 大皿には色とりどりの前菜とピンチョスが美しく盛り付けられていて、本当に美味しそうだ。
「好きなものを食べるといい。腹が減っただろう」
 その言葉に懐かしさが押し寄せてくる。
 いつも淳弥は明里の空腹具合を心配してくれる。それが一種の親愛の示し方であることを大人になって知った。
 けれどそれは、愛しい相手というよりも庇護する者に対して抱く感情だ。
(やっぱり淳弥さんにとって私はまだまだ子供みたいなものなんだろうな)
 明里の自認が変わっていても、淳弥は違う。扱いが変わらないというのは、そういうことだ。
 思わず苦笑してしまいそうになるが、こうやって和やかに話すことができているのは、変わっていないおかげだろう。ならば文句を言うようなことではない。
「いただきます」
 生ハム、マリネされた魚介、炭火で焼かれた色とりどりの野菜たち。ピンチョスは蟹とアボカド、炙ったホタテに半熟卵など、鮮やかな具材がバゲットに重ねられ串でまとめられている。
 そっと串をひとつつまみ、口に運ぶ。
「美味しい!」
「もっと食べなさい」
「あの……仕事終わりですからお腹は減ってますけど、私今はちゃんと食べてますからね?」
 あまりにも言われるとちょっと反発したくなってしまう。
「君のちゃんとは信用できない。こと、食事に関しては」
 そこで一度言葉を切り、淳弥はため息交じりに続ける。
「……節約だとか言ってコンビニおにぎりひとつ程度で済ませているのではないのか?」
「うっ」
 一応自作はしているが、おにぎりひとつは実際その通りなので何も言い返せない。
 明里と淳弥の間に関係と呼べるものが生まれたのは、それこそコンビニのおにぎりがきっかけだったのだから。
「……だが、頑張ったんだな」
 優しい声にはっとなる。
「ちゃんと自分でお母さんの居場所を用意したんだから」
「……それくらいしかもうできること、ないですから」
 母が安らかに眠れる場所を手に入れることは、明里にとって最初で最後の親孝行だった。
(私がなんで節約してたのか、ちゃんとわかってくれてる)
 どんなに苦しくても、辛くても、肉親である明里がすべきことだった。
 だから大変だったねと同情するのではなく、静かに労ってくれたことが、嬉しかった。
 見た目も味も楽しみながら前菜を味わっていると、淳弥が苦笑する。
「食事を面倒がる癖はまだ治っていないんだな」
「先生のおせっかいも治ってないですね」
(そのおせっかいに、救ってもらったのに)
 自分で口にしておきながら、可愛くない物言いだと思う。
「……そうだな。考え方や癖は、そう簡単には治らない」
 変わったのか、変わっていないのか。曖昧なままでいるのが、ふと苦しくなる。さっきはそれでいいと思ったのに。
「……先生、今日どうして私を誘ってくれたんですか?」
 頭の中でぐるぐると回っている疑問をそのまま口に出したような問いかけ。それでも名前ではなく、尊称で呼びかけられたのは、かつてよりは成長できたからだろう。
「そうだな。急で驚いたろう」
 当然だとばかりに淳弥は小さく頷いてみせた。そしてバッグから厚みのある封筒を取り出し明里へと差し出してくる。
「これを、返そうと思って」
「なんで……」
 中を見なくても形状でそれが何かわかった。
 現金の入った封筒だ。
 恐らく明里がこの七年の間に節約に節約を重ね、淳弥に送金し続けたもの。
 多くの顧客を抱えているトップスタイリストならいざ知らず、新卒のアシスタントの給与なんてたかが知れている。それでも必死に働いて、少しまとまった金額ができるたびに振り込んでいた。
 目の前にある封筒の厚みは明里がこれまで積み重ねてきた七年だ。それでも、世話になった分にはまだ全然足りていない。
「受け取る理由がない」
 静かな声に、明里は首を横に振る。咄嗟に言葉が出なかった。
(私の方こそ、返される理由がないのに)
 このお金は、明里にとって精一杯の誠意の証だった。だから返されても、はい喜んで、とは到底ならない。
 しかし淳弥は受け取るのを嫌がるだろうからと、あえて振り込みという形を続けたのは明里のエゴではあった。
 そこに黄金色に炊き上がったパエリアが運ばれてくる。
 海老やムール貝、あさりが殻ごと並び、レモンの黄色と刻んだパセリの緑が鮮やかで、湯気と共に魚介の香りが立ち上る。
「あ……っ」
 店のスタッフが配膳している間に、封筒は明里の側に押しやられてしまう。
「先生」
「君がそこまで思い詰める必要はないし、お金は受け取れない。……ずっとそう伝えたかった」
 明里の言葉を遮るように、淳弥は静かに、けれどはっきりと言い切った。一方的に連絡先を変えてしまったから伝えようがなかったのだろう。
「だって私、先生に迷惑かけてばっかりで」
 じわり視界が滲む。
(だめ)
 泣いたら駄目だ。そんなの子供のすることだから。大人はちゃんと自分の気持ちを言葉で伝えなければいけない。
 感情を堪えるように口を引き結んだ明里に、淳弥は静かに言った。
「……迷惑かどうかは、俺が決めることだ」
(前にも、同じようなこと話した気がする)
 そういえばあの時も一緒にご飯を食べていた。
「さあ、それは仕舞ってくれ」
「で、でも私にできることってこれしかなくて」
「気持ちは受け取った。もう十分だ。……ほら、食べよう」
 言うと淳弥はパエリアを取り分けてくれる。けれど盛られた皿を渡されて明里は困惑する。
「先生、海老はひとりいっこですよ!」
 二尾あった大ぶりの海老が両方とも明里の皿に載っている。それを指摘すると淳弥はふと表情を緩めた。
「海老、好きだろう」
「覚えていて、くれたんですね」
 迷惑なことではなく、好物を覚えていてくれた。それだけで嬉しくてありがたくて、堪えきれなくなった涙が溢れて頬を伝う。
「忘れないさ」
 優しく呟かれたそのひと言に、また涙が溢れた。
「……ありがとう、ございます」
(本当に、淳弥さんは優しい)
 涙を拭い、取り分けてもらった海老の殻を剥き、口へ運ぶ。ぷりっとした食感と共に海老のうまみが弾けて、噛むたびに深い味わいが広がる。
「美味しい」
 淳弥と食べるご飯は、いつも美味しい。ちゃんと味がする。
 けれど美味しいと感じるのと同じくらい、胸が締め付けられるのはなぜだろう。
 再び溢れそうになる涙を誤魔化すように目を瞬かせる。そしてパエリアにレモンを絞り、今度は米を口に運んだ。酸味が加わるとまた別の味わいになって、これも美味しい。
「ああ、美味いな」
 同じように食べた淳弥が微笑む。
(懐かしい)
 かつてはこんな風に向かい合って、食事をするのが当たり前だった。
「仕事はいつが休みなんだ?」
「土日です、けど」
 なぜそんなことを尋ねてくるのか? という疑問が顔に出てしまったらしい。淳弥が苦笑する。
「できれば墓参りに同行を頼みたいのだが、難しいだろうか?」
「あっ!」
(そうだ。そのために今日誘ってくれたんだった)
 淳弥と再会できて、覚えていてくれたことが嬉しすぎて、すっかり本来の目的を忘れてしまっていた自分が恥ずかしくなる。
「前もって言ってもらえれば、土日ならいつでも大丈夫です」
「予定はないのか」
「休みの日はほとんど家で寝ているだけだから」
 淳弥への恩返しと母の墓のためにかなり生活を切り詰めていたおかげで、元々広くなかった明里の交友関係はだいぶ狭まってしまった。
 訪問美容を始めてからは、平日休みのサロン勤めの友人たちとはそもそも予定が合わないのもある。
「そうか、なら来週の日曜、一緒に行こう」
「……ありがとうございます」
(なんだか、急に止まっていたものが動き出したみたい)
 再会したその日にこうして会って、さらに次に会う約束までしてしまった。
(どうしたら、いいんだろう)
 淳弥はかつての妻に、その母に義理立てしてくれているだけだ。
 わかっている。わかっている、はず、なのに。
(期待、しちゃう)
 そう思った瞬間、記憶の扉が開く。今目の前にあるかぐわしい匂いと笑い声に満ちた店が遠ざかっていく。気持ちが、感覚が、巻き戻っていく。
 七年前に、ふたりで暮らしていた、あの頃に。