もう一度、夫婦しますか? 離婚したはずの寡黙な医師の元夫が一途に甘く蕩かしてきます 1
「お世話になっております。こころビューティケアです!」
正面玄関に横付けした車から降りた佐野明里(さのあかり)は、いつものように受付のインターフォンに明るく声をかけた。
「はーい、お待ちしてました。どうぞ」
馴染みの職員からの返答と同時に、入口の扉が開く。この有料老人ホームは、月に一度訪問している得意先である。
明里の勤め先であるこころビューティケアは、高齢者施設・病院・在宅介護向けに特化した訪問理美容サービス会社だ。この会社で明里は訪問美容師として働いている。
提供する施術は一般的なサロンで働く美容師と大きな違いはない。様々な理由で美容室に足を運べない人の自宅や介護施設、病院などを直接訪問してヘアカットやカラーなどの美容サービスを提供している。高齢化社会の進行に伴い、近年非常に需要が高まっている業態だ。
「今日の予約は十四名、ベッドでの施術はおふたりでしたよね?」
施設の職員に予約人数を確認するのは、体調不良などで必ず変更があるからだ。
「ええと、高木(たかぎ)さんがちょっと無理になって」
「では十三名、ベッドでの施術はおひとりですね。承知しました」
この程度の変更など問題にはならない。そもそも訪問美容の施術は思い通りに行く方が稀だ。日々臨機応変な対応が求められる仕事であった。
顧客カルテに記入し、手早く車から機材を降ろす。台車と大型キャリーケースで運び入れる機材はかなりの量だが、施設にこれから美容室を作り上げるにはどれも欠かせない。
「シャンプー台は降ろさなくていいんだよな」
一緒に来た同僚の石塚(いしづか)から確認され、明里は頷く。
「はい。今日は利用するお客様いないんで」
「了解。助かる」
移動式のシャンプー台を支えるスタンドは男性の石塚でも負担を感じる重さだ。運ばなくていいなら運びたくないだろう。
シャンプー台を降ろさないのは、珍しいことではない。カット後はそのまま入浴する利用者が多く、訪問美容で洗髪まで希望する人は意外と少ないのだ。利用者がひとりで入浴できないこともあるため、施設にとってもその方が合理的という面もある。
シャンプーをする場合でも、前流し──腰を曲げてもらい頭の上から流す形で洗う場合が多い。理容室でよくある洗い方である。
それでも念のため車に移動式のシャンプー台を積んでいるのは、この前流しができなかったり、寝たきりなどベッドでシャンプーが必要な場合があるからだ。
いつどんな施術が必要になってもなるべく対応できるように備えておくのは、訪問美容サービスにおいてとても大切なことだ。これも臨機応変のひとつ。
石塚とふたりで協力しながらレクリエーション室を手早く臨時の美容室に整えていく。
姿見と椅子をセッティングし、ドライヤーのコードを延長タップに繋ぎ、折りたたみワゴンに鋏やコームなどの道具を並べる。
美容室として必要なものだけでなく、アロマディフューザーを使用し、姿見の側には造花を飾る。少しでも居心地のいい空間にするためだ。
およそ十分ほどで、なんの変哲もない一室が小さな美容室へと姿を変えていた。
「うん、イイ感じですね」
整った空間を見ると、ぴしりと明里の背筋が伸びる。それは石塚も同じらしい。表情が引き締まっている。
「もう、いいかしら」
すると待ちきれないとばかりに入口から声がかかった。その見慣れた顔を確かめ、明里は自然に笑顔になる。
「はい! 移動美容室こころ、ただいま開店いたしました。杉本(すぎもと)様、こちらへどうぞ!」
素早く利用者に近づき、そっと手を差し伸べる。椅子まで誘導するのも仕事のうちだ。
「こころさんに髪をやってもらうのが月に一度の楽しみなのよ」
「そう言っていただけて本当に嬉しいです!」
実際、彼女はこの施設で定期的に施術するようになってから、いつも必ず利用してくれる。
「私も今日は杉本様とお会いできるのを楽しみに参りましたから」
「まあ、お上手ね」
利用者の女性がころころと笑う。明里はお世辞を言ったつもりはない。
彼女は毎回一番のりでやってきてくれるし、なにより元気な顔を見せてくれる。それが訪問美容師にとってどれだけ嬉しいことか。
前の月には元気だったお客様が、今月にはもう、いない。この仕事をしていると、そんな別れは珍しいことではないのだ。
いつもこれがお客様にとって最後の施術になるかもしれない、自分が最後の美容師になるかもしれない。そういう気持ちで取り組んでいる。
「だいぶ髪の毛が元気になってきましたね。それにグレイヘアもイイ感じです!」
「そうなの。途中はみっともなかったけど、今は悪くないわね」
明里はコームで毛束を持ち上げ、髪を観察する。もう毛先までしっかりと白くなっている髪は、以前よりも柔らかくパサつきが少ない。鋏を入れると伝わってくる感触からもそれがわかる。
初めてこの女性を施術した時のことを思い出す。あの頃の髪は痛んでスカスカで、締まりのない感触だった。けれど今の髪はちゃんと手ごたえがある。
「先日お買い上げいただいたトリートメントの効果もしっかり出てますね」
「あのトリートメントすごく好きよ。香りもいいし。塗って乾かすだけなのもいいわ。……そうだ、もうすぐなくなるから新しいのをお願いできる?」
「ありがとうございます! カットが終わったらご用意します」
女性の髪は、この施設に入居するまでは、かなり身なりに気を遣っていたのだろうとわかるものだった。
だが自由に外出できなくなれば、美容は継続していくことが難しい。定期的なカラーが難しくなったことを、女性はなによりも気に病んでいた。そこには生活に人の手を借りている状況で見た目にこだわるなんて、という葛藤も見えた。
けれど施設に入居しても、できる限りこれまでと同じ生活を送りたいと願うのは、自然な感情だ。そこに寄り添ってあげるのが訪問美容師の大切な役目でもある。
「白髪染め、やめてよかったわ」
女性の口から出た肯定的な言葉に、明里はカットを続けながら笑顔で応える。
「ずっと白髪染めをしていると、どうしても髪の毛が細くなっていきますからね」
だから明里は、高齢のお客様の悩みで一番多い「髪のボリュームダウン」の方面からアプローチした。白髪染めをやめれば髪のボリュームが出てくることがある、という明里の提案を信じ、約一年かけて彼女は自分の変化を受け入れてくれた。
単に「染めていないみっともない白髪」ではなく「グレイヘア」という新たな名称を使ったのもよかったのだろう。トリートメントをすすめたのも、「自分でも手入れしている」という達成感を得てほしかったからだ。
(よかった。喜んでもらえて)
基本的にトリートメントなどのセールスはしないのだが、この女性には合っていたようで、明里は密かに安堵する。
「私あなたほど明るく染めたことはないけど、若い人でも髪は細くなるの?」
頭の高い位置でお団子にしてある明里の髪色は、ミルクティーベージュ。ブリーチしてから色を入れているので透明感があり普通に染めるよりずっと明るく見える。
「そうですね、続けているとやっぱり傷みますね」
問いかけに笑顔で応えながら、明里は鏡の中の自分を見る。映っているのは特筆すべき点のない平凡な顔立ちだ。強いて目立つところを挙げるとすれば、ぱっちりとした二重の瞳と、滲み出る愛嬌だろうか。
「でも、私の髪って割と太くて丈夫なので、ひとよりは傷みに強いかもしれません。……母もそうだったので」
「まあ! お母さまからいいものを頂いたわね」
「ありがとうございます」
顔立ちも、髪も、母から受け継いだもので、明里の宝物だ。それを褒めてもらえて、心が温かくなる。
鋏を入れるたびに細かな毛先がクロスへと落ちていく。少しずつ整っていく髪を見て女性が呟いた。
「前はつむじのあたりがぺたんこになるのが嫌だったけれど、最近はあまり気にならないわ」
「トップを短めにカットして段を入れると、丸いシルエットになるんですよ。髪が元気だとふんわり仕上がりますね」
明里の言葉にまた女性が笑う。
「うふふ、あなたのおかげね」
自分で自分に手をかけてあげたいという気持ち。それが身になっているのだという実感。それらがこもった利用者の声は、なによりも嬉しい。
「杉本様がケアを頑張られたからですよ!」
施設の暮らしは穏やかだけれど、裏を返せば単調だ。だから些細な自信や喜びを積み重ねて、今の暮らしを楽しんでほしいと明里は思う。
「はい、できました! いかがですか?」
「あぁ……」
姿見に映る己の姿に、利用者の女性が嬉しそうに微笑む。
美容師をやっていてよかった、と心から思う瞬間だ。
「いつも綺麗にしてくれてありがとう」
「こちらこそ、いつもご利用ありがとうございます。そうだ、来月はお誕生日でしたよね。プレゼントのサービス、何がいいか考えておいてくださいね!」
こころでは利用者の誕生日月に特典のサービスをしている。ハンドマッサージか爪の手入れ、もしくは利用料から一割引きだ。それを伝えると、女性の笑みがより深まる。
「この年になると誕生日なんて億劫なだけだと思ってたけど、いいこともあるわね。来月楽しみにしてるわ」
「はい! また来月、お待ちしております!」
笑顔の利用者に頭を下げ、そっと支えながら出口まで誘導する。
ひとりひとり丁寧に。だが施設での施術は時間との戦いでもある。施設でのカットの単価は二千円、なにより数をこなさなければならない。
「いつもながら時間との勝負だよなぁ」
ハンドルを握る石塚がため息交じりに呟いた。
すべての施術を終え、片付けを済ませて施設を後にする頃には、正午を回っていた。
「ひとりあたり二十分、まあもっと早く済む人もいるけど、これ以上は削れないか」
「もう少し余裕もっていきたいですけど、難しいですよね」
助手席で顧客カルテを記入しながら明里は苦笑する。
店舗で客を迎え入れるのではなく移動がある分、訪問美容サービスは時間との戦いだ。この後、午後は総合病院の病棟に行く予定になっている。
「事務所に戻る時間はなさそうだな。佐野さん何か用事ある?」
「大丈夫です。石塚さんこそ平気ですか?」
昼休み、明里は割とのんびり過ごしているが、石塚は家の用事で出かけたりしているはずだ。
「今日は問題ないよ。じゃ、昼メシにしますか。今日ご飯は?」
「大丈夫です! おにぎりあります!」
さっとアルミホイルに包まれたおにぎりをバッグから出してみせると、石塚が呆れたように肩をすくめる。
「まったく、たまには弁当でも持ってきた方がいいんじゃないの?」
「朝そんな余裕ないですよ。石塚さんみたいに作ってくれる人がいるならいいですけど、ひとり分わざわざ作るのも面倒で」
毎日愛妻弁当を持参する石塚と違い、明里はひとり暮らしだ。
公園の駐車場に車を停め、昼食を取る。まだ強い陽射しには夏の名残があったが、窓を少し開けると涼やかな秋の風が入ってきて、エンジンを切っても不快ではない。
遠くから子供たちの笑い声やボールを蹴る賑やかな音も聞こえてくる。
「もっとちゃんと食べた方がいいんじゃないか?」
明里の今日のランチは自作の昆布おにぎりとゆで卵だ。大きな弁当箱にぎっしりおかずとご飯が詰まっている石塚の昼食と比べると確かに貧相ではある。
「なんだかあんまりたくさん食べられなくなってきちゃって」
「おいおい、まだ二十八だろ? 俺たちは身体が資本なんだから、しっかり食え」
「ダイエットです、ダイエット」
と言いつつ、あまり食べないのは節約のためだ。元からたくさん食べるタイプでもないし、ずっとそんな食生活を続けていたからあまり食べたいとも思わなくなってしまった。
(これでもちゃんとしてる方なんだけどな)
かけだしの頃は本当にお金も時間もなくて、菓子パンひとつなんてのも当たり前だった。
今は多少栄養のことも考えておにぎりだけでなくゆで卵もつけるようになったのだが、それでも石塚の目には足りないと映るらしい。
昔に比べてきちんとお給料がもらえるようにはなったが、あまりお金は使いたくない。
服はファストファッションだし、高価なアクセサリーやバッグには興味がない。住む場所も寝られれば十分。すでに生活のほとんどを切り詰めているので、他に削れる部分は食費しかないのである。
「んなもん必要ないだろう。今のままで十分」
「ええー、最近顔回りに肉ついた気がするんですよね」
言い訳のように丸い頬を撫でながら明里はサイドミラーで自分を確かめる。
ぱっちりとした二重の瞳に昔はがっちりアイラインを引いていたけれど、今は輪郭を整える程度だ。あまりメイクは濃くしていない。
というのも顧客のほとんどが高齢者なので、若さを出した方が可愛がられるのである。
だからきつく見えがちなモードなものや顔立ちを書き換える変身メイクはしないようにしている。
「それは太ったんじゃなくてたるんでんの。マッサージしろ!」
「えーん、厳しい!」
訪問美容師歴でいくと、石塚より明里の方が長い。しかしサロンで数年経験を積んだらすぐに訪問美容の道に進んだ明里と違い、石塚は十五年以上都心のサロンで流行のヘアスタイルを作り続けてきた元トップスタイリストで、年齢も十歳上だ。
そのため人としても美容師としてもいつもアドバイスを受けているのは明里の方である。
スパイラルパーマをかけた明るいアッシュブラウンのマッシュヘアをツーブロックにしたスタイルはすらりとした体鏸と相まって、石塚はまだ三十そこそこにしか見えないくらい若々しい。美容師らしくきちんとセルフケアをしているのだ。
顔立ちで幼く見える明里とはある意味反対である。
「相棒に倒れられると困るのはこっちなんだよ。ほら食え!」
言うなり石塚は自分の鞄からタッパーを取り出し明里に押し付けてくる。蓋を開けてみれば具だくさんの筑前煮がぎっしり詰まっていた。
「嫁さんが持っていけってさ」
「えっ、嬉しい! ありがとうございます! さっそくいただきます!」
「やっぱ腹減ってんじゃねーか。食え食え」
「れんこんなんて久しぶりに食べたー!」
「はは、嫁さん喜ぶわ」
以前ひとり暮らしだと伝えてから、石塚は夫婦で明里を気遣ってくれる。
(私って、本当に恵まれてる)
味の染みた美味しい筑前煮を食べながら、明里は人との繋がりに感謝する。
明里はいつも誰かに助けられて生きてきた。
なるべく自分も助ける側に回りたいと思ってはいるが、なかなか難しい。
「涼しくなってきて何がいいかって、やっぱ嫁さんの弁当食えることだよなぁ」
おかずを口に運びながらしみじみと石塚が呟く。
「ちょっと前まで危なかったですもんね」
施術中弁当はどうしたって車の中に置いておくしかなくなる。クーラーボックスを持ち込んだりもしたが、昨今の酷暑では限界があり、夏の間はコンビニの世話になることが多かった。
近頃のコンビニはおにぎりひとつでもなかなかいいお値段である。それもあって涼しくなってきた今はことさら節約が頭をちらついてしまうのだ。
「やっぱ飯は仕事中の楽しみだからさ」
「石塚さんの奥さん料理お上手ですもんねぇ」
これまで石塚から何度も奥さん手作りの料理やお菓子の差し入れをもらっているが、どれも本当に美味しい。
「訪問美容師になって何がいいって、やっぱ昼飯ゆっくり食えることだよなぁ」
車の中での昼食であるというのに、しみじみと石塚が呟く。
「サロンだと休憩時間めちゃくちゃですもんね」
サロン勤務はどこまでも顧客優先だ。忙しい時は休憩なんて取れない。バックヤードでおにぎりやパンを口に詰め込むだけ、なんて昼食も珍しくはない。
「残業もほとんどないし。明るいうちに家帰れるのホントありがたいわ」
「わかります」
美容師という職業は一見すると、華やかに見える。
けれど実際の仕事内容は、驚くほど過酷だ。
技術の足りていないアシスタントの頃は給料がかなり安く、ここで挫折する人も多い。
いざスタイリストとしてデビューできても、技術の寿命は驚くほど短い。気付けば新しい技術、新しいスタイルが次々と出てくる。ようやく習得したと思った頃にはすぐまた次を学び直さなければならないのだ。
さらに今は集客の中心が広告ではなくSNSとなっているため、こちらの活動も重要になる。営業が終わった後撮影し、その動画を編集し、投稿文を考え、アカウントの運営・管理をしていかなければならない。
そうして得た指名だって、いつ誰に奪われるかわからない。技術は同等でも売上に差があることなど精神的な負担は大きかった。
だが訪問美容師はまるきり違う。
求められるのは最新の流行やおしゃれではなく、基礎的なカットの技術と安心感だ。
また、個人でやっているなら営業も自分でやらなければならないが、こころビューティケアのように会社形態だと営業担当は別にいるため、美容師はサービスに集中できる。
この職場は忙しいけれど、充実していた。
「奥さん最近体調どうですか?」
「おー、元気元気。新しい薬が身体に合ってるみたいでさ。毎日やたら料理してるよ」
数年前、妻が難病を患ったのをきっかけに石塚はサロン勤めをやめ、こころビューティケアに転職してきた。土日は休めず、長時間労働のサロン勤めでは妻の看病をはじめとした家族の時間を確保するのは難しいからだ。
彼と同じように子育て中だったり、ブランクがあったりと、こころビューティケアに勤めている人の多くが働き方を重視して訪問美容師の道を選んでいる。
そんな中、明里は訪問美容師になるためにサロンから転職した、ある意味異色のスタイリストだった。
「それはよかった! 今度この煮物のお礼させてくださいね」
「いらねぇよ。それ嫁さん作りすぎてもううちのチビたちも食べねぇから、食べてもらうと逆に助かるんだわ」
「えー! お母さんの手作り、最高なのに」
(お母さんのご飯、食べたいな)
弁当を作りたくないのは、家庭の味を思い出してしまうからかもしれない。
甘い卵焼き、生姜のきいた唐揚げ、ポテトサラダ、具だくさんのお味噌汁。どれも馴染んで自分でも作れる。けれど食べたいと思うのは母が作ってくれたものだ。もう二度と、食べられないもの。
石塚が分けてくれた筑前煮からは、そんな手作り特有の、どこか懐かしい味がする。
だが香るように漂った郷愁にも似た感情が、表情に出てしまったのかもしれない。石塚がはっと顔を強張らせる。
「すまん、悪いこと言わせた」
「気にしないでください。私もお母さんが生きていた時はそんなもんでしたから」
唯一の肉親である母はすでに亡く、明里には家族がいない。
それを知っているからこそ、石塚はなにくれとなく明里を気遣ってくれるのだ。それは彼だけでなくこころビューティケアの他のスタッフも同じであった。
「彼氏とかいないのか?」
「石塚さん、それ今セクハラですよ」
明里が大げさに顔を顰めると、石塚からも「わかっとるわ!」と返ってくる。
「この仕事じゃ出会いなんかないだろ。知り合い紹介してやろうかと思って」
「えー、石塚さんのお友達ってちょっとチャラそう」
「なにぃ?」
茶化した明里に石塚はわざとらしく凄んでみせた。
「こういうのがひとそれぞれってのはわかってるけど、俺は家族がいるから色々頑張れたタイプだからさ。佐野さんもそうなんじゃないかと思って」
どうやら思ったよりもずっと真面目に明里の将来を案じてくれたらしい。
「家族ってか、今ならパートナーか。そういう相手がいるってのは、いいことだよ」
「……そうですね、いつか」
(もう、いたんです)
そのひと以外、家族になってほしい相手はいないと、誰にも告げるつもりはなかった。
「そういう気持ちになったら、お願いします」
「はいよ。……えーと、午後は澄河(すみかわ)総合病院だったよな」
澄河総合病院は病床数五百を超えるこの地域最大の総合病院だ。特にがん治療に強く、がん診療連携拠点病院に指定されている。地域住民からの信頼も厚い。
「そうです。内科病棟」
「社長から聞いたんだけど、あそこ今度緩和ケア病棟もできるらしい」
「あ、新しく作ってるの緩和ケアだったんですね」
営業担当である社長が話をしていたということは、こころビューティケアも関わる可能性があるということだ。
「緩和ケア……」
治療を終えた患者がたどり着く、最後の時間を過ごすための医療。
明里が訪問美容師を志したきっかけでもあった。
ふと明里の脳裏に、白衣を着た男性の姿が蘇る。
『ちゃんと、食べているか』
労りに満ちた声を、優しい手のひらの感触と熱を、今もまだ覚えている。
「また仕事増えるかもなぁ。まあ商売繁盛はいいことだけど。そろそろ新しいスタッフも入れてほしいわ」
「そうですね」
元々美容師という職種は、三年以内の離職率が約四割という、続けることが難しい仕事である。求人を出しても人はそう簡単に集まらない。
さらにいうと訪問美容師という働き方自体、まだそう多く知られているものではない上に、使用する技術が限られるという新卒を採用しづらい業務形態をしている。
一番大きな理由は美容師を志す者の多くが求める「おしゃれ」とは違うサービスを提供していることだ。せっかく入社してもそのギャップについていけず辞める者も少なくはない。
でも明里はこの仕事を辞めるつもりは全くなかった。
(今自分にできることをちゃんとやっていこう)
それこそがこれまで人から受けた恩を返すことなのだから。