もう一度、夫婦しますか? 離婚したはずの寡黙な医師の元夫が一途に甘く蕩かしてきます 3
長かった夏の気配がようやく消えようとしていた九月の終わり。かけ足でやってきた秋を受け入れがたかったのは、夏が暑すぎたせいばかりではなかった。
専門学校の授業が終わるなり明里はすぐに荷物をまとめ席を立つ。そのまま教室を出ようとしたところで呼び止められる。
「明里、またお母さんのところ? みんなで自主練のあとカラオケ行こうって話してたんだけど」
「うん、ごめん」
「じゃあ無理かー。早くお母さんよくなるといいねー」
気遣ってくれた同級生に笑顔を返し、明里は急ぎ足で教室を出た。
(自主練、全然できてないや。カラオケも……行きたかったな)
自転車の鍵を外しながら、明里はため息を吐く。
空には刷毛でさっとはいたような筋雲がたなびいていた。
夏が終わり、皆あれこれ精力的に活動し始めている。就職活動を見据え早々にインターン先を探し始める者だっているのだ。
けれど今明里は何もできずにいる。
美容師を志し理美容専門学校に入学した。幼い頃からの夢に向かって第一歩を踏み出したこのタイミングで、母が病に倒れた。
もとより母と子のふたり暮らし。とても裕福とは言えない生活をしている。他に頼れる親族も近しい相手もいない。
学校と、バイトと、母の見舞い。それらをこなすだけで十九歳の明里の生活はギリギリだった。
必死で自転車を漕いで、なんとか予定通り母の入院先に着く。
「……っ、ふぅ……」
病室へ向かう前に、手鏡を取り出し乱れた髪と息を整えた。母に会う時はいつもの顔でなければいけない。
(このくらいなら直さなくていいかな)
ブリーチした髪をまとめ直し、汗でよれたアイラインを微調整すると、なんとかいつもの顔になる。
「お母さん、来たよ」
「おかえり」
笑顔で迎えてくれる母の顔を、自分とよく似た瞳を見るたびにホッとする。しかし頬からはごっそりと肉が落ち、お仕着せの病衣の中で身体が泳いでいるのがわかってしまう。
きっかけは、食欲不振だった。食べられなくなった母は、仕事の疲れか夏バテよと笑って気にしていなかった。けれどあまりにも痩せ始めたことから重い腰を上げ受診した時には、もう何もかもが手遅れだった。
告げられた病名は、すい臓がん。
当然即入院になったが、肝臓へ転移しており、すでに積極的治療は難しい状態だった。
もう、長くはないと言われている。
バイトや学校を休むことは母が許さなかったので、バイトの前、ほんのわずかな時間しか顔を合わせることはできない。
病院も配慮してくれているのだろう。本来ならふたり部屋を母ひとりで使わせてもらっている。だからこうしてふたりきりで過ごすことができているのだ。
「今日調子はどう?」
「悪くないわよ」
「ならよかった」
痩せてしまった手に触れると、張りを失いずいぶんかさついていた。ぞんざいに切られた爪を見ると胸が痛む。
決して裕福な暮らしではなかったが、母はいつも身綺麗にしていた。
「細かいところを綺麗にしておけば、服は安物でもよく見えるのよ」というのが信条で、姿勢や髪、爪、肌の手入れは欠かさなかった。
けれど今目の前にいる母は、これまでの母とは思えないくらい、何もかもがぼろぼろだ。
(病気のせいなんだから、仕方ないけど)
そんな母を見ているのが明里は辛かった。
「ねえ、お母さん、ちょっと気分転換しようよ」
「何をするの?」
「綺麗にしたら気分も上がるでしょ? おそろいにしよ!」
明里は鞄から用意してきたポーチを取り出す。中身は母がいつも風呂上がりにしていた爪のお手入れセットと鮮やかなオレンジのマニキュア。今明里が塗っているのと同じ色だ。
「まあ」
驚いた母の顔が嬉しそうにほころぶ。
(よかった)
この顔が、見たかった。
自分の命が長くないことは、母も当然知っている。だからこそ、ひと時でも曇りがちな笑みを晴らしてあげたかったのだ。
「髪はまだしてあげられないけど、このくらいならできるから」
せめて来年、国家試験に合格した後なら、カットをしてあげられたのに。
美容師になりたいと思ったのは、いつも綺麗でいることの価値を教えてくれた母の影響だ。
母を見習って自分への手入れは欠かしていない。明里が自分をおざなりにしてしまえば、きっと母は気に病むだろうから。
「でも、時間は大丈夫?」
「今日はバイト休みー」
本当はこのためにシフトをずらしてもらったのは、内緒だ。痩せて骨と皮ばかりになった手を取る。少しでも母の気持ちが晴れますようにと願いながら。
「小さい時とは反対だね」
「ふふ、そうね」
小さい頃、母が手入れしている時、ねだって明里もしてもらっていた。甘皮を整えるのも、爪の表面を綺麗に磨くのも、全部母が教えてくれたこと。それを今、母に返している。
(ずっとこんな時間が続けばいいのに)
大切な人を労る優しい時間。
けれど時間は有限で、決して留まることはない。
不自然に黄みがかった肌、どんどん痩せていく身体、時折何かを堪えている表情。それらはあまりにも残酷に明里へ残りの時間を突き付けてくる。
だからこそ、今この時が大切だった。
ベースコートを塗り始めたところで、病室のドアがノックされる。
「はい、どうぞ」
「失礼……」
入室をうかがう声を聞いただけで、明里はうんざりしてしまった。
(なんで今来るかな)
顔をのぞかせたのは、母の主治医である加納だ。センター分けにした長めの前髪のせいか、どことなく陰がある。それがある種の繊細さと気難しさを醸し出していた。
「なんだこの匂いは」
加納は病室に漂う匂いに顔を顰める。こうなるとせっかくのイケメンも台無しである。
「なにって、気分転換にネイルしてるだけですけど」
母との貴重な時間が邪魔されたようで、明里はつんと言い返す。すると加納は眉を顰めた。
「やめてくれ。今塗ったものはすぐ落とすように」
「なんでですか!?」
頭ごなしに否定され、反射的にまた言い返してしまう。
母の主治医である加納が明里はあまり好きではなかった。
(顔はいいかもしれないけど、なんかいつもブスッとしてるし、言い方キツくて偉そうだし)
そもそもベテランではなく若いという時点で気に入らない。もうすぐ死ぬ母にはこの程度でいいと言われている気がして。
「ネイルくらい、いいじゃないですか!」
食欲がなく少量しか食べられないので食べ物の差し入れはプレッシャーになってしまう。そんな母に喜んでほしくて考えたのが爪の手入れだったのに。
しかし加納は大きなため息を吐いてみせた。
「ネイルをしていると測定器具が使えないからだ。急を要する場合、命に関わる」
「あ……」
理由を聞けばそれは至極当然で、明里は喉まで上がってきていた反論を飲み込む。
ちらりと母を見れば苦笑している。
きっと母はネイルがダメなことを知っていたに違いない。それなのに黙って受け入れてくれたのは、明里の心遣いを無下にしたくなかったのだろう。
「すみません。すぐ落とします」
(言ってくれればよかったのに)
そんな風に思ってしまう自分の未熟さに泣きたくなる。気持ちだけが空回りして、結局母に迷惑をかけてしまっている。
(悔しい)
高校を卒業したのと同時に、子供であることも卒業したつもりだった。けれど現実問題、明里はまだ世間も常識も弁えられない未熟者のまま。
「余計なことをしてごめんなさい……」
せめてと絞り出した謝罪は、これまた叱られた子供のような声で、ますます自分が嫌になる。
「謝る必要はない」
言葉と共に、ぽん、と頭に温かいものが触れる。それは明里にとってずいぶん縁遠いものだったから──咄嗟に何をされたのかわからなかった。
(頭、撫でられてる)
まるで、小さな子供を慰めるように。
「色をつけるのはダメだが……」
加納はそこで一度言葉を切ると、少し考えて続けた。
「……匂いはいいと思う」
「えっ」
「気分転換するなら、何かいい匂いがするものでも持ってくるといい」
(やってもいいこと、教えてくれたんだ)
「じゃあ明日お香持ってきます!」
「……火を使うものもダメだ」
勢い込んで答えた明里に、加納は困ったように笑った。
それは、加納という医師個人に対する印象が変わった瞬間だった。
「あぁ、気持ちいいねぇ」
「そう? ここ、お腹にいいツボだって」
マッサージをしながら、手の甲の親指とひと差し指の骨が交わる付け根のあたりをぎゅうっと強く押す。
「うーん、効きそう。色々勉強してくれたのねぇ」
「美容師になるならマッサージも練習しないとだから」
もちろん母のために勉強したのだが、美容師にマッサージが必要なのも嘘ではない。
長時間の施術で座りっぱなしになったお客様の身体と緊張をほぐすために、マッサージを施術の仕上げとして取り入れているサロンは多いのだ。
「そうねぇ。ちゃんと考えて頑張って偉いわね」
母の気分転換になり、いい匂いでリフレッシュできること。この条件で色々考え、主治医である加納に相談し、そしてたどり着いたのが、ハンドマッサージだった。今日用意したマッサージ用のオイルは、爽やかで優しいシトラスの香りだ。
「こうして明里に揉んでもらうと、痛みが少しおさまる気がするわ」
「そう? よかった!」
もちろん母の言葉が娘へのリップサービスであることはわかっていた。
すい臓がんは、がんの中でも痛みが出やすいと言われている。
すでに積極的な治療をしていない母には強い痛み止めが処方されており、一日中激痛に苦しむことはない。だが、痛みを完全に消し去ることは現代医療でもできない。
優しく母の手を揉みながら、お腹だけがぽこりと不自然に大きくなった痩せた身体を見て明里はこみ上げてくるものをなんとか飲み込む。腹水がたまっているのだ。
「もうたくさんよ。いつもありがとうね、明里」
「このくらいならいつでもできるから、やってほしい時はいつでも言ってね」
「じゃあまた明日もお願いしちゃおうかしら」
ふふ、と母は優しく微笑む。けれどなんとか気丈に振る舞っているものの、明らかに疲れているのが見て取れる。一昨日よりも昨日、昨日より今日と母の体調は悪化している。
「いいよ! マッサージなら毎日したって加納先生も文句言わないだろうし」
ネイルの一件があってから、明里の加納を見る目は少しだけ変わった。
第一印象のフィルターを外してみれば、加納は真面目な医師だった。
まず間違ったことは、言わない。素人の何気ない質問にもちゃんと答えてくれるし、理解できるまで噛み砕いて教えてくれる。ただ言葉が端的すぎるので誤解を招きやすいのだ。
なによりも患者に対して誠実だ。家族である明里にも、ちゃんと向き合ってくれる。まだ年若く侮られがちな明里には、それが一番嬉しかった。
「そろそろバイト行くね。また明日来るから」
「行ってらっしゃい。無理しないでね」
母に見送られ、病室を出る。
「……はぁ」
扉が閉まった途端、ため息が出た。
母が明里を引き留めたことはこれまで一度もない。それが寂しく、申し訳なかった。
本当は、バイトも学校も休んで、ずっと母の側にいたい。
けれど母がそれを求めないのは明里の将来を思ってのことだ。自分がいなくなっても、明里ひとりで生きていけるように、今、予行演習をさせているのだ。
(お母さんがいない生活になんて、慣れたくないのに)
母がいなくなれば、明里の家族はいなくなってしまう。一応、戸籍上の父も生きてはいるはずだが、物心ついた時から母ひとり子ひとりの生活をしていたから、家族だという実感はゼロだ。
(何か、お腹に入れないと)
バイトは物流倉庫での仕分け作業で、時給はよいが体力を使う仕事だ。食欲はまるでないけれど何か食べなければ持たない。
ふらりと病院のコンビニに寄る。街の二十四時間営業のコンビニと違い、病院のコンビニは二十一時には閉店する。そのため閉店間際になるとおにぎりや弁当がかなり割引されるのだ。
「そんなので足りるのか」
四割引きになっていたおにぎりをひとつ手に取ったところで、背後から声をかけられる。声の主の顔を見ずとも誰だかわかってしまった。
「ダイエットしてるんで」
「必要ないだろう。もう少しちゃんと食べなさい」
明里の雑な言い訳に、加納は呆れたように注意してくる。最初の頃きゃんきゃん噛みついてしまったからか、もうこの人に対して取り繕おうという気持ちは湧いてこない。
「……しょうがないんです。お金、なくて」
医療保険には加入していたが、すぐに支払われるわけではない。様々な制度を利用し、今のところ母がこれまで頑張って貯めてくれていたお金でやりくりしているが、余裕は全くなかった。
母の仕事は社員寮の住み込みの管理人だ。入院するため休職したことで収入は激減している。それに入院には治療費とはまた別に食事や病衣、テレビや冷蔵庫の使用料など実費もかかる。
積極的な治療を行わないと決めた。けれどこれから先いくらかかるのか、考えるだけで頭が痛い。
お金のことを言えば、普通ひとはそれ以上踏み込んでこない、はずだった。
「少し待て」
「えっ」
けれど加納は黙ってサンドイッチとおにぎりを買い、明里に押し付けてきた。
「先生、これ……」
「世話をする者に倒れられると困る。ちゃんと食べるように」
「ありがとう、ございます……」
それは明らかに医師という立場にある者の適切な行動ではなかった。
けれど人としての思いやりからの贈り物だということだけは、痛いほど伝わってきた。
街路樹が葉を落とし始める頃になると、明里が見舞いに来ても母は眠っていることが増えた。起きていられる時間が減った、というのが正しいかもしれない。病からくる強い倦怠感と痛み止めの影響で、どうしてもそうなっていくのだと説明は受けている。
けれど静かな寝顔はあまりにも、最悪のことを思い起こさせる。
「様子はどうだ」
「あんまり、変わらないです」
明里がバイトの前に見舞いに訪れると、加納が顔を見せるようになった。そうして言葉を交わすことが増えた。
「う……」
眠ったままの母が小さな呻きを漏らす。
「……お母さん」
手を握ると、かすかに応えはあるし、温もりもある。
「……このまま、ずっと寝たままになっちゃうのかな」
加納は肯定も否定もしない。曖昧なことは言わない人だともうわかっているから、その可能性も十分あるというところなのだろう。
ここから母が回復することはない。それならばずっと眠っていた方がいいのかもしれない。
一日でも長く生きてほしい。
笑って明里と名を呼んでほしい。
けれど同じくらい苦しまないでほしい。
「ごめんね、お母さん……」
明里を育てるために母はずっと苦労し続けてきた。まだ明里は何も返せていないのに、受け取ることもできずにいなくなってしまう。
確実に衰えていく母を見ていると、残酷で理不尽な現実に押しつぶされそうになる。
それでも、逃げることはできない。
明里は母の、たったひとりの家族だから。
「……飯は、食べているのか」
「……食べてますよ」
嘘だ。全然食べられていない。以前は節約のためだったけれど、今は食べる気持ちそのものが失せてしまった。
「ほら」
白衣の大きなポケットから加納が取り出したのは、ショートブレッドタイプの栄養補助食品だった。
「ありがとう、ございます」
以前病院内のコンビニで偶然顔を合わせて以来、加納はたびたびこうしてお菓子や栄養バーを渡してくる。
そのあまりにもぶっきらぼうな気遣いに、思わず笑ってしまう。
「先生って関西のおばちゃんみたい」
「なんだと?」
「関西っていうか、大阪のおばちゃんってよく飴くれるんですって。先生と同じですよね」
「……悪いが俺はまだそんな年じゃない」
眠っている母を見下ろしながら、加納が不服そうに呟く。その表情がおかしくて、いつもついからかうようなことを言ってしまう。
本来ならばしてはいけない形の交流だと、お互い薄々わかっていた。けれど、誰も頼れない今の状況で差し出された不器用な同情は、明里にとって小さくない救いだった。
加納がどういう気持ちでこちらを気遣ってくれているのかは、明里にはわからない。元々何を考えているのかよくわからない人だ。
(そういえば先生個人のことってあんまり知らないな)
入院生活が長くなってくれば、自然と病院のスタッフとは顔馴染みになるし軽い雑談もする。けれどそんな疑問を抱いたのは、加納だけだった。
「先生って何歳ですか?」
「二十九だ」
「私十九です」
改めて明里の年齢を知った加納が、少し面食らったように目を見開く。
「若いな」
「先生も思ったよりおじさんでした」
「……おじさん」
「十こ違ったらおじさんですよ。あっ、おじさんなのにおばちゃんみたいって言ってごめんなさい」
「……気にするところはそこなのか」
「他に何を気にするんですか?」
「……もうおばちゃんでいい。とにかく君はちゃんと食べなさい」
「はぁい。そうやって食べろ食べろって言うの、本当におばちゃんっぽいですよね」
加納は眉間に皺を寄せながらも、明里の失礼な指摘を咎めない。
「年寄りは若い者に食べろと言うものだ」
「なるほどです」
母も、いつも明里の空腹具合を気にしていた。
──お腹いっぱいになった?
ご飯の後、確かめるようにそう言った母の笑顔を思い出す。
(また、お母さんのご飯食べたいよ)
けれどそれはもう、叶わぬ願いだ。食欲がないのは何を食べても砂を噛んでいるかのように味気ないせいもある。
そんな中、加納からもらったものだけは不思議と味がする。誰かの気持ちがこもったものは、手作りでなくとも違うのかもしれない。
だからよくないとわかっていても、加納の優しさに甘え続けてしまっていた。
「なんか先生と話してると、ホッとします」
「……そうか」
学校の同級生にも、友達にも言えない母のことを知っている相手だからか、それとも同情してくれているからか、はたまた大人だからか。
理由はわからぬまま、明里は眠る母を見つめる。そんな明里を、加納は静かに見守ってくれる。
「何か、不安なことはあるか?」
「不安……」
おしゃべりをして心が緩んでいたからだろうか。口から出たのは母のことではなかった。
「住むところ、ですかね」
「どうかしたのか?」
鋭く問いただされ失言に気づいたけれどもう遅い。
「……今住んでいるのが、母の職場で」
それだけで加納はすべてを察したらしい。考え込むように眉間に皺が寄る。
ふたりの住居は母の仕事場である社員寮だ。正規雇用であったため療養中も寮での居住を認められたものの、仕事のできない状況が続いており肩身は狭かった。
今は代理の管理人が通いで来ているが、母が目を覚まさなかった場合は、速やかに出ていかなければならない。
母も、住むところも失ったらどうなるのか。
けれど先のことはまだ何も考えられない。考えなければ、いけないのに。
だがこの不安は、加納にはなんの関係もないことだ。
「すみません、先生に関係ないこと聞かせてしまって」
慌てて笑みを作り頭を下げる。だが視線を戻した時、思いのほか強い眼差しが返ってきて戸惑ってしまう。
「……いや、どうしようもなくなったら、言ってくれ。力になる」
「……ありがとうございます」
(本当に、優しい先生だ)
たとえ言葉だけでも、不安な気持ちに寄り添ってくれる。その姿勢がなによりありがたかった。
(できるだけ、先になりますように)
母を失うことも、住むところを失う不安も、なるべく遅く、先のことになってほしい。
けれどその明里の願いは、叶わなかった。
元々長くはないと言われていた母の容態は坂を転げ落ちるように悪くなっていき、当初予告されたものよりもずっと早くその時は来てしまった。
「お母さん……。これでお別れだね」
そんな明里の小さな呟きは、別れを惜しむ他の人たちの声にかき消されてしまう。
けれど一番伝えたい相手にはもうどんな言葉も届かないのだから、それでよかったのかもしれない。
斎場は思いのほか混雑していた。
ひっきりなしに人が出入りし、別れの儀式を繰り返している様子はどこか現実味がなく、目の前の出来事なのにまるでテレビを見ているかのようだ。
親戚付き合いがなかった明里にとって、これが初めての弔いだというのもあるかもしれない。
霜が降りた寒い日の夕方、母は眠るように息を引き取った。新しい年を迎えることはできなかった。
そして今、ベッドではなく簡素な棺桶に横たわり、現世との別れを迎えようとしていた。
最期、苦痛に喘ぎながら死を迎えたわけではない。それだけが明里にとって、少しだけ救いであった。
大勢の参列者に囲まれ、涙の中で見送られる棺もあれば、大往生だったのか穏やかな空気に包まれた一団もある。炉の前で繰り広げられている光景は一様ではなかった。
そんな中、明里はたったひとりで母との最期の別れを迎えていた。
僧侶による読経も、焼香も、明里以外参列者もいない直葬。
近しい親族も、最期の別れを知らせる親しい友人もいない。これまで人との縁が薄いことなど気にしたこともなかったけれど、いざこのような状況になると寂しく感じてしまう。
(私はずっとお母さんがいてくれたから、平気だったよ)
楽しい時も辛い時も悲しい時も、ずっと母が側にいてくれた。幸せだった。
けれど母を送り出し、今日から明里はひとりで生きていかなければいけない。
(……でも、寂しいよ。お母さん)
視界が滲み、眦から涙が溢れて落ちる。
たったひとりで娘を産み育てた母の強さを、明里はまだ持てていない。
今はどうしようもない喪失感だけが重く伸しかかり、胸にぽっかりと空いた穴に冷たい風が吹き抜けていく。それがただただ辛く、苦しい。
「そろそろ、お別れのお時間になります」
「……はい」
離れがたくて泣きながらずっと棺の中の母を眺めていた明里に、斎場の職員がそっと声をかけてくる。
促され涙を拭き小さな窓を閉じようとした、その時。ばたばたと焦ったような足音が近づいてきた。
何気なく視線を向け、明里は驚きで立ち尽くす。
「すみませんっ、まだ、大丈夫ですか」
「先生……」
駆け寄ってきたのは喪服姿の加納だった。相当急いで来たのだろう、肩で息をしている。
(どうして)
なぜ加納がここにいるのか。驚きすぎて尋ねることもできない明里へ、加納は静かに頭を下げる。
「このたびはお悔やみ申し上げます。ぎりぎりになってしまって、すまない」
「いえ……」
来てくれるだなんて、考えもしなかった。明里と加納は、患者の家族と医師、ただそれだけの関係だ。そしてこの縁は、数日前、母の最期を看取ってもらい終わったはずでもあった。
だというのに加納の姿を見ただけで、胸を吹き抜けていた風の冷たさが幾分和らいだような気がしてくる。
ごく自然な様子で加納は母の棺に手を合わせる。そしてようやく棺の小窓が閉ざされた。
苦しみはまだここにある。けれどひとりではないというだけで、先ほどまでの嘆きは治まっていた。
「それではお見送りをお願いいたします」
金属製の分厚い両開きの扉が開き、棺が職員の手で真っ暗な炉の中に収められていくのを、明里は加納と共に静かに見送った。
「あの、先生……」
「待合所は向こうだ。行こう」
促され、並んで遺族の利用する待合所へと向かう。加納は窓の外が見えるベンチ席に明里を座らせると、自動販売機で飲み物を買い、渡してくれる。
加納はブラックコーヒー、明里にはホットのミルクココア。
「ありがとう、ございます」
「一時間半かかると言っていたな。案外長い」
どうやらこのまま明里と一緒に火葬が終わるのを待ってくれるらしい。
(いてもらえるのは、正直ありがたいけど……でも……)
そこまで甘えていいのだろうか。
元々火葬なんて親族かそれに準ずるほど近しい相手でなければ参列しないものだ。
最期の見送りの時は本当にありがたかった。けれど、収骨まで元担当医でしかない加納を付き合わせるのは申し訳ないという気持ちが湧いてくる。
(これ以上は、迷惑、だよね)
温かいというより熱いくらいの缶を手の中で転がしながら、明里は意を決して口を開いた。
「あの、先生」
「なんだ」
「もう、大丈夫です。だから……」
これ以上は十分です。そう続ける前に明里の頭にふわりと大きくて温かなものが乗せられる。
「子供が無理をするな」
「子供じゃ、ないです……」
法律ではもう明里は成人している。次の誕生日がくれば飲酒喫煙だって問題ない。だから、ひとりでも平気なはずなのだ。
「住むところは、どうするんだ? もう決まっているのか?」
「それは……」
まだ母が亡くなって数日、手続きに追われ今後のことなど考える余裕は全くなかった。
この直葬が終わったら、今の住まいは出なければならないだろう。
だが先立つものがない。入院費の支払いで、貯金のほとんどは消えてしまった。
新しい家を探すまでの間の仮の住居のあても、さらに新居が見つかっても、敷金礼金引っ越し代まで払えるかどうかもわからなかった。
「親戚は?」
「……いません」
探せば実際にはいるのかもしれない。けれど連絡先のひとつも語ることなく母は死んでしまった。戸籍で名前しか知らない父親なんて他人と同じだ。
「でも、どうにかします。大丈夫です」
明里は力強く言い切ってみせた。
けれど本当は自信も根拠もなく、不安だらけだ。
もしも明里がまだ未成年であったなら、公的な支援を頼ることができた。けれどすでに成人している身では、手厚い支援は望めない。自分が主体となって動いていかなければならないのだ。
「どうしよう」なんて言っている場合ではない。どうにかするのだ。
待合所の窓の外には、小さいけれど和風庭園が整えられている。けれど冬空の下で木々は寒々しく眠っているように見えた。ぼんやりと外を眺めながら、明里はそっと温かいミルクココアに口をつけた。甘くこってりとしたココアが、喉をゆっくりと落ちていく。
(美味しい)
母が亡くなってから、いや、その前から何を食べても味がしなかったのに。
やはり加納にもらったものだけは、美味しく感じる。
ほう、と知らず詰めていた息を吐き出した、その時。
「……無理しなくていい」
静かな声の気遣いが降ってくる。
「大切な人を失った時は、悲しんでいいんだ」
「え……」
「大丈夫だ。立ち上がれなくなったら、支えてやる。……そのために来た」
頼れる相手がいないことを、加納はわかっていた。だからわざわざ忙しい中、駆けつけてくれたのだ。悲しみに打ちひしがれる明里を、支えるためだけに。
「先生……」
明里は思わず手の中の缶を握りしめる。不器用に差し出された優しさは、手の中のミルクココアのように甘く、悲しみに染まった心に沁みていく。
明里がおずおずと頭をたくましい肩に預けても、加納は何も言わなかった。我ながらどこまで甘ったれなのかと思う。
(今だけ)
このココアがなくなるまで。
母が煙になって天へ昇っていくのを待つ間だけ。
一緒に見送ってくれた優しすぎる主治医に、ほんの少しだけ寄りかからせてもらおう。
そうしたら、これからどんなに大変でも──きっと頑張れるから。
ふたりで庭を眺めている時間は、眠っている母を見守っていたあの病室の時間とどこか似ていた。
穏やかで、静かで、そして悲しくて、明里の瞳からまた、涙が零れる。加納は何も言わずただ肩を貸し続けてくれた。
時間が来て魂を天に送り骨になった母は、生前はあれほど痩せていたのというのに、不思議なほどしっかりとそこにいた。
待っていた時間とは反対に、収骨はあっという間に終わり、骨壺の蓋は閉じられる。
「ひとって、最後にはこんなに小さくなっちゃうんですね」
母はそこまで大きな人ではなかったが、明里が抱えることはできなかった。けれど今、母は明里の腕の中に納まってしまう。
(これからは、わたしひとりで生きていくんだ)
腕の重みがそれを知らせているようだった。
「先生、今日は本当にありがとうございました」
明里は加納に向き直り、心からの感謝と共に頭を下げた。
直葬は、収骨で終了となる。
胸はまだ悲しみで満たされていたし、吹き抜ける風も冷たいまま。けれど、穏やかな気持ちで母を送ることができたのは加納のおかげだ。
「……もし君がよければ」
「はい」
なんの気なしに相槌を打った次の瞬間。思いもよらない提案が降ってきた。
「うちに、来るか?」
「えっ」
「住むところがないんだろう?」
「いえ、あの」
確かに住むところはない。頼る相手もいない。だからといって加納の家に住むだなんて考えもしなかった。
あまりのことに混乱する明里に、加納は静かに、けれど熱心に言い募る。
「安心しろ、ワンルームじゃない。部屋は余ってる」
「でも……」
「子供が遠慮するな。困っているんだろう」
また加納の大きな手が明里の頭を撫でる。
(先生から私ってどれだけ小さな子に見えているんだろう)
「先生にこれ以上迷惑はかけられません」
「……問題ない。君のお母さんに頼まれたんだ」
「えっ」
「困っていたら、助けてやってくれ、と」
そんなことを母が言うだろうか。これまで他の誰にも頼ったことのない母が。
ゆっくりと、手を差し伸べられる。まるで、ポケットから取り出したお菓子を渡してくれるように。
(これ以上甘えたら、駄目だ)
もうココアは飲み干してしまったし、母は無事天へと旅立った。寄りかかっていい時間は終わったはずだ。けれど加納の手は、明里に差し伸べられたまま。
「ほら、行こう」
優しすぎる声に、泣きそうになる。
(でも、お母さんに頼まれたって、言ってた)
加納の手を取れば、自分はひとりではなくなる。それは今の明里にとってあまりにも抗いがたい誘惑だった。
「……本当に、いいんですか?」
「いいよ」
迷った末に明里は加納の手を取った。その温かくて、大きな手を。
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