秘書は夜、暴かれる 社長と淫靡な愛人契約 2
いよいよ計画を実行する日。
朝から気持ちが浮足立っているのを、誰にも気づかれなかったのは幸いだった。
こんな日に律翔がいたら、あの鋭い観察眼ですぐに『どうしました?』と問われかねない。いくら紗季でも、面と向かって問い詰められれば、ぼろを出さない自信はなかった。
──顔を合わせずに済むからこそ、やるなら今日しかない。
そうしてこれまで通り、平気な顔をしてアイレックスに勤めるのが紗季の考えだ。裏切っていながらも、ここで働くのは楽しい。充実している。
前職よりずっと遣り甲斐を感じているのは偽りのない事実だった。叶うなら──このまま勤め続けられたらどれだけ幸せか。
悩まない日はなかった。
「藤野さん、お先に失礼します」
「はい。お気をつけて」
最後までフロアに残っていた社員を見送り、紗季は大きく深呼吸した。
心臓は口から飛び出さんばかりになっている。窓の外はすっかり夜の帳が下り、一人になると表通りの喧騒が急に耳障りに聞こえた。
──この後、戻る予定の社員はいない。
しかしビルの警備員が巡回でやってくることはある。ならば長時間居座るのはリスクが高い。素早く行動に移すべきだと頭では分かっていても、紗季の身体はなかなか動いてくれなかった。
今夜、引き返せない道に踏み込む。
今までのお茶を濁す程度の情報ではなく、社外に漏らせば確実にアイレックスの不利益になるようなものを、売り渡すために。
とっくに覚悟をしたはずでも、いざとなると良心が邪魔をした。懲役刑をくらっても仕方ない犯罪者になるのは、流石に二の足を踏むものらしい。
母のためなら何でもする決意に変わりはないが、立ち上がるため紗季は全身の力を使わなくてはならなかった。
──先に消灯してしまおう。そうすれば万が一途中で警備の巡回があっても、隠れられるかもしれない。
自身のパソコンを落とし、フロアの照明を切った。
途端に視界は暗転したが、窓から入る光は存外明るい。疚しい者が煌々とした光の下より暗闇を求める気持ちが何となく理解できた。
自分の輪郭が曖昧に溶け、汚い部分を直視せずに済むから安心するのかもしれない。
紗季は忍び足で律翔のデスクへ接近し、彼の席へ腰を下ろす。座り心地のいい椅子は、律翔の拘りでもあった。
他の社員の椅子も、一般的なオフィスチェアよりずっと高価で性能が優れているので、好評を博している。
社員に利益還元を惜しまない彼は、理想的な経営者なのだろう。部下からも慕われている。
仕事における要求はシビアでも、大半の社員が遣り甲斐を持って臨んでいるのが明らかだった。それは、アイレックスの一員である紗季も同じだ。
──ここでの仕事は本当に毎日忙しいし、特に秘書になってからは何でも屋みたいで大変だけど……
あの会社だって必死に就職活動をし望んで入った場所だったが、今ほど全力を傾けてはいなかった気がする。
当時父が亡くなり、紗季の軸足が仕事よりも家族に傾いていたせいもあるとは思う。それでも働くことが純粋に面白いと感じたのは、皮肉にも伯父の命令に従い転職した後だった。
──許されるならこのままアイレックスで──美門社長の下で働きたい。あの人に認められると、純粋に嬉しい。そうできたら、どんなにいいだろう。本当は……
愚かな紗季の思考は、律翔のパソコンが起動した明るさで打ち破られた。
頭に浮かんだ本音に誰よりも愕然としたのは、紗季自身だ。
これからアイレックス──ひいては当の律翔に損害を与えようとしているのに、あまりにも身勝手で愚かな自分に吐き気がした。
──考えちゃいけない。何も考えず、機械的に手を動かさなくちゃ。……お母さんに元気で長生きしてもらうためには、他に方法はないでしょ。被害者ぶるな、私。
全力で奥歯を噛み締める。
そこからは罪悪感から目を逸らしてひたすら事前のシミュレーション通りにパスワードを入力し、スマホで写真を撮った。
致命的な情報流出とまではいかなくても、この事実が露見すればアイレックスが痛手を被るのは確実だ。信用問題にも発展する。
分かっていて尚、紗季は敢えて考えまいとした。
焦燥感が募る中パソコンをシャットダウンし、目的のデータを撮影したスマホを鞄の奥に突っ込む。
撤収するため腰を上げた瞬間。
「──ふぅん。怪しいとは思っていましたが、実際現実を目の当たりにするとショックなものですね」
最悪のタイミングで、最も見つかりたくない人に声をかけられたのである。
咄嗟に浮かんだのは、どうすればこの場を取り繕えるか。
律翔が紗季の嘘で騙されてくれるとは到底思えない。そう感じる時点で、完全に尻込みしていた。
格が違う。自分だって年齢の割にはそれなりに苦労してきたし、経験を積んでいるはずだ。今の状況だって修羅場をくぐっていると言えなくもないだろう。
だがそんなもの、彼の足元にも及ばないと──本能的に察したのだ。
けれど紗季だけの意思で勝手にこの舞台から降りることは叶わない。ならば、か細い希望に縋り、懸命に背筋を伸ばして紗季は彼と視線を合わせた。
「……社長、ご予定では本日会社にはお帰りにならないはずですよね? ですから私も今退社するところでした。戻られるなら、お待ちしていたのに」
「そんな必要はありません。とっくに就業時間は過ぎています」
柔らかな声音に疑心や怒りは籠もっていなかった。
けれど対峙している紗季の背中には、冷たい汗が伝っている。踏ん張っていないと、膝が笑いかねない。
感じたことのない威圧感で、今にも後退ってしまいそうだった。
──疑われている。当然だ。自分でも私の行動は怪し過ぎる。
今日、紗季が残業しなくてはならないほど仕事が溜まっているかどうか、律翔なら容易に想像がつくに決まっていた。
仮に急な案件が持ち込まれたとしても、こんな暗闇でコソコソと社長のパソコンを弄る理由はどこにもない。
良かれと思い照明を消したが、裏目に出たと言わざるを得なかった。明るい中でならまだ『明日のことで確認したいことがあって』と言い逃れができたかもしれないのに。
現状では『隠れて後ろめたい真似をしていました』と告白しているようなものだ。
「それより、一応確認させてください。藤野さんはいったい何をしてらしたのですか?」
直球の質問に喉が干上がる。
下手なごまかしは通じない。小芝居は求められてもいないのだと、言外に伝わってきた。
──だからって、簡単に降参するわけにはいかない。私が捕まったら、もし伯父さんが援助を続けてくれても、お母さんがショックを受ける。
最悪、『自分のせいで娘が道を踏み外した』と嘆きそうだ。伯父が紗季を擁護する発言をしてくれるはずもない。
その結果、母が援助を拒む未来まで想像できて、紗季は腹に力を籠めた。
──気圧されるな。浅ましくてもみっともなくても、最後の最後まで足掻くんだ。
「……明日の朝一に必要な資料がありまして、確認しておりました。退勤直前にクライアントから時間変更の申し出があったため勝手に端末に触れてしまい、申し訳ありません」
全てが嘘ではない。
ただし『退勤直前』に関しては、やや大げさに告げていた。
──本当は一時間前には連絡があった。でも誤差の範囲内で言い張ってみせる。あれこれ雑務を片付けているうちに優先順位が低い仕事を後回しにするのは、珍しくないもの。
「なるほど?」
律翔の革靴が床を叩く音が煩く響いた気がするのは、おそらくこちらの神経がささくれ立っているせいだ。
五感の全てが鋭敏になっている。それに反して、目はなかなか暗闇に慣れてくれなかった。
一歩ずつ近づいてくる彼の表情は、未だ窺えない。しかし距離が接近するにつれ、紗季の肌が如実に粟立った。
──今すぐ逃げ出したい。
まるで生存本能からの警告。捕食される予感に恐怖で叫び出しそう。
警察に突き出されるよりも更に悪いことが起こる気がして、紗季は咄嗟に鞄を胸の前で抱えた。
「……今なら藤野さんが正直に話してくだされば、対応を考えますよ? ──その鞄の中からスマホを無理やり取り出されて調べられたいですか?」
──詰んだ。
逃げ道があると思ったのは、希望的観測でしかなかったらしい。初めから袋小路に追い詰められていたのだと悟り、紗季はよろめいた。
「……何もかも、お見通しということですか……っ」
「鼠が社内に潜んでいるのは、薄々感じていました。このところ小さな違和感が度々あった。例えば直前に変更が多い僕のスケジュールを把握されていたり、提携を申し込もうとしていた企業に先手を打たれたりね。けれど情報を流しているにしても、それが誰なのかまでは確信が持てませんでした。……いえ、貴女だと思いたくなかったというのが真実かもしれません。だから、全てを明らかにするために罠を仕掛けたんです」
「罠?」
「藤野さんが見ているのを承知の上でパスワードを入力し、今夜絶好の機会を演出したという意味です」
丸ごと彼の掌の上だったのだと知り、絶句した。
だが考えてみたら、紗季自身も『うまくいき過ぎている』と感じる警戒心が欠片ほどはあった気もする。されど目の前に垂らされた餌があまりに美味しそうなのと、焦りもあって、つい飛びついてしまったのだ。
──もっと慎重になるべきだったのに……!
言い逃れる道は断たれた。
ならばこれから紗季が選べるのは、大人しく罪を認めて律翔の怒りを少しでも和らげることだ。あわよくば情状酌量を。伯父の指示であることは、隠し通さねばならない。あくまでも自分の独断であると、言い切らねばならなかった。
そう決意して口を開いた刹那。
「──で、藤野さんの背後にいるのは誰ですか?」
いつの間にか目の前まで来ていた律翔が嫣然と微笑む。ここまで接近されたことで、彼と真正面から目が合った。
いつものように、心の中を覗き込まれそうな眼差しに射貫かれ、紗季は硬直する。律翔は顔を歪めてもいないし、無表情でもない。ただ穏やかに微笑んだまま。
それが、紗季に尋常ではない恐怖を抱かせた。
咄嗟に何も言葉が出てこず、動揺が顔に浮かぶ。視線は泳ぎ、呼吸が乱れた。必死に踏ん張っていた脚からも力が抜け、無意識に一歩後退っていた。
これでは『黒幕がいる』と白状したのも同然である。
彼はゆっくりと目を細め、優雅に口角を上げた。老若男女問わず、見惚れずにいられない麗しさだ。
誰しもが魅了され、頬を染めるに違いない。
しかし紗季には死刑宣告と同等の絶望をもたらした。
──微塵も瞳の奥が笑っていない。
どこまでも冷ややか。律翔の真意が判然とせず、いっそ罵倒された方が気が楽になるくらい、紗季は混乱に突き落とされた。
人は『分からない』『理解できない』ものを根源的に恐れる。正に今がその瞬間だった。
「下手な虚言は時間の無駄です。考えられる相手は、貴女の伯父の藤野太一氏でしょうか?」
「な……っ」
よもやそこまで見抜かれているとは思いもせず、紗季は驚愕を露わに凍り付いた。
自分と伯父が親族であることは、公になっていない。藤野姓はそこそこ多い苗字だ。
二人を紐づける言動も事態もなかったと断言できるのに、何故バレたのか。紗季は高速で頭を回転させ、『かなり初期から疑われていた可能性』に思い至った。
──うまくやっているつもりになっていたのは、私だけ? ひょっとしたら入社当初から身辺調査をされていた? いや、いくら何でもそこまでは……
「その反応は、正解みたいですね」
「……伯父は関係ありません。私一人で勝手にしたことです」
「案外往生際が悪い。では聞き方を変えます。藤野さんが知り得た情報を、誰に流す予定ですか?」
紗季がアイレックスで得た情報は、自分で抱えていても何の意味もない。誰かに引き渡してこそ、価値が生まれる。
危険を冒して集めたそれらの内容を、売り渡す相手は誰か──問われて紗季は言い淀むしかなかった。
──適当にでっちあげる? でもそれじゃ無関係の誰かに迷惑がかかるかもしれない。そうでなくても頭がぐちゃぐちゃで、何も思いつかない……!
「太一氏を庇いたいというよりも、お母様の心配をしていますか?」
「……っ」
律翔にじっと見つめられ、丸裸にされている心地がした。
実際、紗季が何を言っても彼を騙すのは不可能だった。真実はとっくに暴かれている。ただ答え合わせをされているだけ。
淡々と事実確認されているのと変わらない時間は、まるで拷問じみていた。
──取り調べを受ける被疑者は、きっとこんな気持ちだ。
無力感と焦りで、ぼろを出さないのが精一杯。最終的に崖っぷちへ追い詰められると分かっていながら、無駄な足掻きをせずにいられない。
下手に喋れば口を滑らせそうで、紗季は沈黙するしかなくなった。
「黙っているのは、肯定と見做しますよ?」
しかしこちらのささやかな抵抗は、あっさりと打ち破られた。
どこか愉悦を湛えた律翔がより迫ってきて、紗季はよろめく。その際椅子が脚に当たり、意思に反して完全に膝から力が抜けた。
どさりと勢いよく椅子へ腰を下ろした状態になる。
左右の肘置きに彼の手が置かれ──腕の檻に閉じ込められた錯覚に陥った。
ぐっと上体を屈めた律翔の顔貌が接近し、もはや吐息が降りかかりそう。体温まで感じられる距離感に、眩暈がした。
「藤野さんは、伯父の太一氏の命令で我が社にスパイとして潜入したのですか? 対価はご病気のお母様への援助でしょうか」
──ああ……これ以上嘘は吐けない。下手に偽りを並べたら、藪蛇になる。
彼の紗季に対する心証が悪化し、厳しい罰を求められる。そんな事態になるなら、いっそ全部認めてしまった方がマシだと感じた。
──美門社長は私を犯人だと思いたくなかったと言ってくださった。それくらいは信頼していたということ。なら、卑怯でも同情に訴えれば、少しでも窮地を好転させられるんじゃない?
「……おっしゃる通りです。母の治療には莫大なお金がかかります。私一人では賄いきれない……だから、伯父に助けを求めました」
律翔は静かに耳を傾けてくれている。その双眸からは相変わらず思考が読めなかったものの、軽蔑や皮肉の色は浮かんでいなかった。
「美門社長、どうかお願いします。全ては私一人でやったことにしてもらえませんか。もし私が伯父を告発すれば、母への援助を打ち切られてしまいます。私が全ての罪を被れば、伯父だってきっと母へ情けをかけてくれると思うんです」
「大した覚悟ですね。自分だけが犯罪者として捕まっても構わないと?」
「はい。私が消えれば、伯父に情報を流す人間もいなくなります。アイレックスに、これ以上の損害はありません。あちらも警戒して大人しくなるはずです……どうか私を警察に突き出してください!」
「お断りします」
決死の覚悟で紗季は懇願したが、至極冷淡に断られた。
取り付く島もないとは、正にこのこと。
先ほどの対応を考えるとは何だったのか。紗季が勝手に期待していただけと思い知り、頬に朱が上った。
──恥ずかしい。温情をかけてもらえると心の底で甘えていたんだ。私はどこまで自分勝手で浅ましいの。
自己嫌悪で涙が滲む。泣くのはより一層狡い気がして、紗季は下を向いた。
これで、万事休す。母の治療費を支払える当てはない。そして娘が罪を犯したと知り、どれだけ苦しむことか。
しかもそんな最悪な未来を引き寄せてしまったのは、他の誰でもなく紗季自身だった。
──馬鹿な私。もし過去に戻ってやり直せたら──ううん。きっと今と同じになっている。
「愚かな自己犠牲より、もっと強かに行動してはどうですか?」
「……え?」
けれど次に聞こえてきたのは、あまりにも想定外の台詞だった。
てっきり警察へ通報されると身構えていたのに、律翔は電話をかけている様子も警備員を呼ぶ素振りもない。
混乱しつつ紗季が顔を上げると、彼は僅かに首を傾げた。
「どうせなら、二重スパイになりませんか?」
「……はい?」
本気で律翔の言っている意味が理解できず、呆然とする。すると彼は、紗季が俯いた拍子に落ちかかった前髪を指先で横へ流してくれた。
「失礼。目にかかって、鬱陶しそうだったので」
「え、あの……そんなことはどうでもいいのですが」
「どうでもよくはありません。他者の身体へ勝手に触れるのは、糾弾される行為ですから」
「あ、はい……」
素晴らしいコンプライアンス意識の高さではあるものの、今この場にはそぐわない気もした。そんな場合か、と紗季が頭の片隅で考えたのも仕方ないことである。
だいたい逃げられない状態に追い詰めているのも同然な体勢で、言うことでもなかった。
「藤野さん、貴女はこのままうちに勤めて、太一氏に情報を流してください。ただし我が社にとって本当に大事な機密は駄目です。あくまでも僕が許可した内容を少しずつ。その裏で彼をコントロールし、目的を探ってください」
「それは……私に二重スパイになれということですかっ?」
「先ほど、そう申し上げたつもりです」
まるで覚えが悪い生徒を諭す教師のように、律翔はゆっくり噛み締める口調で「如何です?」と宣った。
「で、できません。ただでさえ犯罪に手を染めたのに、これ以上罪を重ねるなんて……それに伯父はとても勘がいいのです。きっと私の裏切りに気づいて、母が人質に取られます」
どんな報復をされるのか、考えただけでゾッとした。
その場合、伯父は全力で全ての責任を紗季に擦り付けるだろう。そして一切容赦なく、母を見捨てる。これまでかかった治療費の返還を求めるくらいのことをすると思った。
とことんまで紗季たち親子を追い詰め、溜飲を下げようとする。完全に潰し、伯父の視界に二度と入らないところまで。
そういう人だと分かっているから──紗季は伯父に反旗を翻すなどと考えも及ばなかったのだ。
「ですが僕の提案を受け入れれば、単純に報酬は二倍になりますよ? 太一氏からはこれまで通りお母様へ援助をしてもらえばいい。こちらもきちんと対価を支払います。勿論、現在の給与とは別に。ちなみに月々いくらの治療費が必要なのですか? 同額を用意しましょう」
「え……」
心が揺れなかったと言えば、嘘になる。あまりにも好条件。魅力的な話だ。
しかしだからこそ、紗季はより警戒心を漲らせた。
「……そんなにいただける働きを、私ができるとは思えません。何が目的ですか?」
何事も等価交換だ。大金を得るために犠牲にするものの大きさを考え、紗季はいったい何を律翔にさせられるのか怯えた。
──私が伯父さんから聞き出せる情報なんて、たかが知れている。だとしたら、もっと直接的に危害を加えろとか言われかねないじゃない。
企業スパイより何倍も重い犯罪へ加担しろと命じられたら。
こうして間近で視線をぶつけ合っても真意が読めない律翔を、無防備に信じる気にはなれなかった。いくら彼の能力を尊敬していても、それとこれは話が別だ。
「目的は、煩い鼠の駆除ですよ」
低く涼やかな声は微塵も変わらない。
それこそミーティングで部下からの報告へ耳を傾けている時同様に、落ち着き払っていた。
だが律翔がたった今口にした『鼠』が指し示すのは、伯父である。
紗季にとっては絶対に逆らえない相手を譬えるには、あまりにも小さく、取るに足らない存在だった。
「目障りなんです。さほど害にならないなら泳がせておいても構いませんが、そろそろ許容範囲を超えてきました。丁度警告したいと思っていたんですよ。かと言って、あちらは大鵬ホールディングスの重役ですからね。業界の大手です。表立って対立するのは、アイレックスの不利益になる。──今はまだ」
「だ、だったら、私が消えるだけでも伯父には痛手だと思いますが……っ」
「貴女が消えれば、しばらくは大人しくなるでしょう。ですが自分に捜査の手が伸びないと確信すれば、ただの成功体験にしかなりません。いずれまた新たな人物を駒として送り込んでくる。いたちごっこです」
言われてみれば、その通り。
紗季が使えない道具なら、新しい優秀な道具を投入すればいいだけ。
如何にも伯父が考えそうなことに、紗季の口元が引き攣った。
「面倒事を長引かせるのは、本意ではありません。次のスパイが藤野さんより扱い難い人物であったら、困りますし。それに正直、貴女はとても優秀な秘書なので、僕は手放したくないんです」
「ぇッ」
優秀と言われ、つい喜んでしまった。場違いな歓喜が紗季の胸に広がる。
しかし慌てて気を引き締め、大きく息を吸った。
「評価していただき、ありがとうございます。ですが私はそこまで器用な人間ではありません。伯父を騙しきる自信がありませんし、リスクを背負ってまで更なる重い罪を犯せません」
「藤野さんは、太一氏を恐れているのですか?」
「……っ、私たち親子の命を握られているのも同じですから」
屈辱感を噛み締めて、紗季はどうにか言葉を吐き出した。
改めて口にすると、情けなくて悔しい。けれどこれが現実だ。抗う手足は、最初からもがれていた。
「……きっと伯父は私の変化に気づきます。もし私が美門社長側に寝返ったと知れば──持てる力の全てで報復してくるでしょう。……私は最悪の中でも少しはマシな方を選びたいのです」
「それが藤野さん一人が罪を被ることだと?」
「はい。ですからどうか、告発するのは私だけにしていただけませんか? きっとそれが一番、アイレックスにも実害がないと思います。あの人は裏切りを許さない。おそらく美門社長自身にも被害が及びます」
律翔の片眉が器用に上がる。
彼のこちらを探る眼差しには、何かを思案する色が浮かんだ。
「──つまり問題は、藤野さんが太一氏にこれまで通りの態度を貫ける自信がないこと、それから一層の罪を重ねる罪悪感といったところですか?」
「その通りです」
的確に要約され、ぐうの音も出ない。
己の無力さ、惨めさが浮き彫りになり、紗季は目の奥が熱くなるのを感じた。
「後者に関しては、僕が求めるのは特定の情報を太一氏側へ流すことです。貴女はあくまでも聞き齧った『噂』を親族に漏らすだけ。受け手側が手にした情報をどうするかは、あちらの自由だ。完全なる嘘でもないなら、騙したことにはなりませんよね? これは法的に問題ありません。噂を多少盛ったり主観で伝えたりするのは、よくあることです。違いますか?」
「い、いいえ……」
反射的に首を横に振ってしまう。瞬きもできず、紗季は律翔を凝視した。
この場の空気は完全に支配され、彼を王者のように見せる。紗季はさながら、ありがたい言葉を傾聴する服従者だった。
「なら、罪悪感を抱く必要はありませんね」
「で、ですが伯父を裏切ることに変わりはありません。私はきっと態度に出てしまいます。いくら気をつけても不自然さを隠せず今までと全く同じには……っ」
「だったら『同じ』ではなくなればいい」
またもや予想外のことを告げられ、混乱が極致になる。
全力で頭を働かせても意味が分からず、紗季はただ口を開閉した。
「こういうのはどうです? 僕が藤野さんに告白し、付き合うことになった──というシナリオは? 太一氏には、より相手の懐へ潜り込むため仕掛けたハニートラップが成功したとでも伝えてください。これなら多少言動に変化があっても、関係性が変わったせいで押し通せるでしょう。先方を油断もさせられますね。計画が順調だと誤認させ、時間を稼ぐこともできると思います」
「……は、い?」
驚きの連続で、すっかり脳が麻痺している。あり得ない言葉を耳が拾い、紗季の頭が疑問符だらけになった。
──交際していると嘘を吐けってこと……?
「僕と付き合っているとなったら、藤野さんから太一氏への連絡頻度が少なくなっても不思議じゃない。普通なら、伯父よりも交際相手との時間を優先しますよね? それに『僕をより一層夢中にさせるため』と言えば、文句はないはずです。これで今までより太一氏と距離をおけると思います。ごく自然にね。しかもうっかり怪しい言動があっても、上司と部下ではなく恋人同士ならあり得ると思いませんか?」
疑問形を取られても、紗季には何と答えればいいのか分からなかった。
律翔の堂々とした話しぶりに、洗脳されかけている。彼が言うなら間違いがないかもと危うく頷きそうになった。
「そんな嘘、美門社長には利益がなさ過ぎますよね。むしろ不利益です。社内で噂になりでもしたら──」
「僕の心配をしてくれるのですか? 優しいですね。一応秘密の関係ということにしましょう。僕も自分の秘書に手を出す男と見做されるのは心外です。しかも言い寄ってくる女性を散々クビにしてきたのに」
「ますます美門社長に得なことは何もないじゃありませんか。あるのはリスクだけです。そ、それにおっしゃることが本当なら私が実際にするのは、伯父に特定の話を流すことと交際している振りのみですよね。これでは先ほどお聞きした報酬なんて、絶対に受け取れません!」
ほぼ何もしていないに等しい。
あまりにも不公平で紗季ばかりが利益を得ていた。
──警察に突き出されて終わりだと思っていたのに、何故こんな話になっているの?
化かされているとしか思えない。詐欺だってここまでうまい話にはならないのでは。
見え見えの餌をチラつかせられても、飛びつくのは危険。誰かに利用されトカゲのしっぽ切りに遭うのは、一度で充分だった。
「やはり藤野さんは金に転ぶ人種ではないんですね。安心しました」
「え」
「すみません。試すつもりはありませんでしたが、今の遣り取りで憂いが完全に払拭されました」
不可解なことを告げられ、紗季は眉間に皺を寄せた。
息遣いさえも聞こえかねない至近距離で見つめ合っていると、現実感が希薄になる。悪い夢に迷い込んだ気分。さもなければ幻覚妄想の類。
ここに至る経緯さえ曖昧になって、紗季は改めて『何故』と思わずにいられなかった。
「これまで藤野さんの仕事ぶりに文句はありませんでした。別の思惑があったにしろ、誠実に働いてくださいましたし。先を読んで気配りできる点は勿論、自ら判断して動いてくれることに、何度も助けられました。やはりみすみす逃すには、惜しい人材です。会社的にも。僕自身にとっても」
律翔が腰を折ったことで、二人の間に残されていた空間が減る。紗季は後頭部を背もたれに食い込ませる勢いで限界まで後ろに下がったが、今や互いの鼻がくっつきそうな位置に彼の顔が迫っていた。
「……藤野さんが偽りではなく、実際に恋人の役割を果たしてくださるなら、多額の報酬を受け取るのも当然の権利だと思いませんか?」
人は驚愕し過ぎると、声すら出なくなるものらしい。
紗季は惚けた表情で、律翔を視界に捉えた。
──私の耳がおかしくなった?
彼が言葉を切ったことで、静寂が訪れる。外の喧騒は聞こえていても、紗季の耳には余計な雑音は届かなかった。
全身全霊で耳をそばだてているのは、律翔の言葉を聞くため。それなのに彼はしばし押し黙っている。
時間にして数秒間の沈黙が、耐え難い苦痛を生む。
先に限界に達したのは、紗季だった。
「……何を、おっしゃって……」
「言葉通りの意味です。藤野さんが僕の恋人として行動してくれるなら、相応の対価を支払います。ああ、ご心配なく。心を寄越せとは言いません。ですが僕はプラトニックな関係だけで満足できる男ではないので、そこは留意してください」
「つ、つまり──」
「セックスは込みという意味です」
せっかく上品で遠回しな言い方をしていたのに、律翔自身が台無しにした。
直球な物言いの衝撃で、紗季は固まる。よもや彼の口から明け透けな単語が出るなんて考えなかったせいもあった。
──絶対に私の耳がおかしいんだ。
「どうですか? 悪くない取引だと思いますが」
「ふ、ふざけないでください」
「ふざけていません。至極真剣です。藤野さんは違法行為に手を染めずに済み、報酬はこれまでの倍額手に入る。僕は鼠を捕獲し、性欲まで解消できるという寸法です」
「せ、せい……よく……」
再び信じられないワードが飛び出して、クラクラした。
「立場上、女性と付き合うのが難しくて困っていたんです。今まで秋波を送ってきた秘書を全員クビにしてきたのに、いざこちらから社内で下手に声をかければセクハラになってしまいます。といって他所で関係性を築くための時間は取れない。昔はもう少し身軽でしたが、この年になると責任も増します。でも残念ながら、肉欲は消えないんですよね」
淫欲なんて持っていませんと言わんばかりの涼しい顔をして、とんでもないことを宣う。
発言を聞いていなければ、清潔感溢れる紳士なまま。
だが紗季との物理的な距離感のおかしさが、律翔の言葉に信憑性を持たせた。
「藤野さんは、僕に男としての興味はないでしょう? これまで一度たりともそんな視線を向けてきたことがない。むしろ──常に警戒心が瞳に宿っていた。太一氏の命令があるからかとも考えましたが──見抜いているんじゃありませんか?」
もったいぶった仕草で言葉を切った彼がニヤリと笑う。
作り物ではない本物の笑みは、皮肉げで悪辣だった。
「僕の外面と内面の違いに」
「……!」
ビクッと紗季の身体が強張る。
鋭い牙を突き立てられたと感じたのは、ただの錯覚でしかない。そうだと理解していても、急所を噛まれた感覚が全身を駆け抜けた。
「完璧に演じているつもりなんだけどね。経営者として厳しい判断を下すことはあっても、基本的には温厚で理知的な人格者と思われるために。でも藤野さんの目は騙せなかったみたいだ」
段々律翔の言葉遣いが砕けてくる。
二年間、過剰なほど丁寧に喋る彼しか見てこなかったので、違和感を拭えない。しかしそれを指摘できる余裕はどこにもなかった。
律翔が軽く顔を傾け、今や紗季の耳元へ唇を寄せている。相手の表情は視界に入らない位置。
けれどその分、彼の吐息が耳孔を擽った。
ギリギリ胸が触れ合わないだけで、抱きしめられているのと大差ない隙間しか二人の間には残されていない。
吸い込んだ呼気には、律翔の使うフレグランスの香りが混じっていた。
「僕は鋭い観察眼を持つ、聡明な人間が好きだ。鼠なんかにみすみす使役されるのを、傍観しているのは性に合わない」
囁きが媚薬に変わる。
紗季の身体の芯がゾクゾクと震えた。こんなことは初めての体験で、どうすればいいのか迷子になる。
頬が火照り、咄嗟に横へずれ彼から逃げようとしたが、無駄だった。
肘置きには律翔の手が置かれたまま。下手に動いたせいで、逆に身体が掠めてしまった。
──熱い。のぼせたみたいに眩暈がする……!
「今ここで、決めなさい。僕の提案を呑むかどうか。我ながらどちらにも利益がある公平な取引だ。迷う理由は見つからない」
美声が決断を迫ってくる。
紗季は懸命に酸素を吸い込んだ。呼吸音が喉奥で耳障りな音を立てる。動揺しているせいで自分の身体を制御できない。
喘ぎに似た呼気にならないよう、全力で己を律しなくてはならなかった。
「も、もしお断りしたら……」
「その時は、警察に通報するしかない。当然、太一氏の件も含めて」
どこが公平なのだと叫びたい。
申し出は確かに紗季にとって美味しいものだ。性的なことを求められているとしても、破格の条件なのは間違いなかった。
例えば今夜律翔に捕まらず伯父の言いなりになり続ける未来があったとして──それよりも、ずっとマシと言えるのではないか。
──でもこれじゃ脅迫じゃない?
選択肢があるように見えて、実際は一つだけ。
紗季が拒絶すれば、彼は全部ぶちまけると言っているのだ。そうなれば自分が全ての罪を被る計画もぱぁ。
紗季が考える最悪の可能性に至る確率が一気に上がる。だとしたら律翔の手を取る以外、代替案はないに等しかった。
「わ、私は──」
「いつもなら藤野さんは決断が早いのに、随分迷うね。……そんなに僕の恋人役は嫌かな」
「い、いいえ。そうではなく……!」
逡巡している一番の問題点は、そこではなかった。
勿論引っ掛かっていないとは言えないが、今すぐ判断を下すには、考えるべきことが多過ぎるのが本当の理由だ。
許されるなら、一度持ち帰って検討したい。
とはいえ、それが認められないのは明らかだった。
上体を起こした律翔が紗季と視線を絡めてくる。彼の顔にははっきりと『すぐに返事をしろ』と書かれていた。
「……なら、少しは安心した。幸運の女神は前髪しかない。夜が明けたら、僕の考えは変わっている可能性があるのを忘れないで」
「……っ、わ、分かりました……っ、二重スパイになって、美門社長のおっしゃる通りにします……!」
目を閉じて絞り出した声はあまりにも小さい。すぐに律翔の反応がなかったため、紗季は聞こえなかったのかと訝った。
「あ、の」
「本当に?」
恐々瞼を押し上げれば、そこには瞠目した彼がいた。自分が持ちかけた提案なのにどうして驚いた様子なのだろう。
ただそんな律翔の表情は一瞬で掻き消され、数秒後にはいつもの優美な微笑に戻っていた。
「じゃあ、取引成立だ。今日からプライベートでは名前で呼ばせてもらう。紗季も律翔と呼んでくれ」
「えぇっ」
美門社長としか呼んだことがないのに、いきなり変えるのは難しい。
しかしそれも命令の一つと捉え、紗季は渋々頷いた。
「分かりました。ですが急に切り替えるのは無理です。間違えても、許していただけますか?」
「……まぁ、付き合い始めの初々しいぎこちなさだと思えば許容できる。だが、その言葉遣いは完全に雇用者と従業員のものだ。気分を楽しむためにも早急に訂正してくれ」
「……努力します」
建前上恋人と言っても、実情は雇われているのと変わらない。紗季にとっては、飼い主が伯父から律翔に変更になっただけでもあった。
ただし今後は違法行為に手を染めないで済むことで、随分心が軽くなる。
もう罪を犯さないでいい──そう思うと、身体を求められるくらい何でもないとすら思えた。
──今後一生伯父さんに支配される人生と比べたら、平和だ。だってあの人は、この先もお母さんの治療費を盾に私に無理難題を押し付け、操ろうとするはず。それは受けた恩を返すために黙って従うつもりだったけど──今回企業スパイを終えれば、将来は更にとんでもないことを要求されるのが目に見えている。
伯父にとって、紗季は『弟の忘れ形見』ではなく『便利な駒』だ。
親愛なんて欠片もない。
道具の使い心地に満足すれば、次はもっと危険な橋を渡らせられる不安が常にあった。
本音では、紗季だってこの負の繋がりを断ち切りたかったのだ。
けれど自分からは解放を望めない。
そういう立場に自らを貶めた。諦めるしかなく、母のためと唱えて歯を食いしばってきたのを認めざるを得なかった。
──でも、美門社長が私如きでずっと満足できるとも思えない。きっと伯父さんの影響を完全に排除できたら、その時が私たちの関係の終わりの日だ。
いずれは全てを清算できるはず。生涯搾取されるのと比べたら、楽勝ではないか。
半ばやけっぱちになりながらも、紗季は強く手を握りしめた。
「……まずは何をすればいいですか?」
「では紗季から口づけを」
綻んだ律翔の唇が官能的で、視線が吸い寄せられる。思いの外、赤い。薄く艶やかな点が、どうしてか卑猥に感じられた。
普段魅力的でありつつも、清潔感溢れる出で立ちだからだろうか。性的なものを感じさせない清廉さを、彼は常に纏っていた。
解放された色香が紗季を容赦なく苛む。悪酔いしてしまいそう。
本性を垣間見せた律翔は、明らかに危険な男だった。
それでも、たとえ目の前に差し出されたものが毒杯だとしても自分は飲み干すしかない。
思い切り背もたれに全身を預けていた紗季は、腹筋に力を入れて上体を起こした。
愉悦に満ちた彼へ、こちらから顔を寄せる。
初めて合わせた唇は、想像よりも柔らかく温かかった。
「……これで契約成立だ。これからもよろしく」
薄闇の中で妖しく微笑む美しい男は、人を堕落に誘う悪魔に見えた。