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秘書は夜、暴かれる 社長と淫靡な愛人契約 3

第三話

    
 電話で連絡してきたのは、証拠を残さないためだろう。メールやメッセージでは、万が一誰かに見られた場合、二人の繋がりを邪推される。
 久しぶりの休日で惰眠を貪っていた紗季は、伯父からの電話で叩き起こされた。
『こんな時間まで寝ているとは、いいご身分だな』
「すみません。昨日は美門社長と共に海外からのお客様を接待し、家に帰ったのは明け方だったので……」
 こんな時間、といってもまだ八時過ぎだ。特に誰にも迷惑をかけていないなら、糾弾されるほどでもない。
 しかし伯父は紗季が三コール以内に出るのが当然と考えているらしい。
 ──仕事じゃないんだから……いや、伯父さんにとって私は、何でも言うことを聞く部下以下か。
『言い訳は聞きたくない』
 ピシャリと言い捨てられ、紗季は言葉を呑み込んだ。余計なことを告げれば、面倒なことになるのは明白。
 伯父は姪如きに口答えされるのを、異常に嫌うからだ。
『それで、何か進展はあったのか。その海外からの来客との会話に興味深い点があれば、教えなさい』
「……申し訳ありません。会談の場に私は同席していません。社長とお二人だけで密談されたので」
『だったらそれだけ重要な話をしていたということではないか。……全く、お前は使えないな。何故強引に同席しなかったんだ』
 そう言われても、不可能である。
 上司に席を外せと言われ、居座る秘書がどこにいる。
 さりとて勿論、紗季は反論しない。じっと黙って伯父の文句に耳を傾けた。
『……まぁいい。このところ役立たずのお前には別の仕事をしてもらう。今夜私の客をもてなしなさい。絶対に失礼のないようにめかしこんでくるんだぞ。念のため、泊まる準備も忘れるな。それからこの件は誰にも漏らすなよ』
「伯父さんのお客様って……」
『盛信興業の社長だ』
 ヒュッと喉奥で悲鳴が漏れた。胃が冷たくなった気もする。
 紗季は直接的な関わりも面識もなかったが、当該人物が悪評高いのは知っている。特に女性関係にだらしなく、素人相手にも平気で性加害することで有名だった。
 盛信興業の社長を接待するなら、とにかく綺麗どころを侍らせ女を抱かせろと囁かれるほどだ。
 しかも酒が入ると歯止めがきかなくなるらしい。
 そして周囲もまるで止めない。
 むしろ社長好みの女を掻き集め、『そういう要員』ではない女性が気に入られた場合でも、喜んで提供するのだとか。
 ──このご時世でも、古い体質の会社であればあり得る話だ。
 そんな場に伯父が紗季を引っ張り出そうとする目的は一つしかない。
 枯れ木も山の賑わいで、様々な系統の女を並べる意図もあるだろうが、もし紗季が気に入られても構わないと考えているに決まっていた。
 何なら、どんな結果になっても騒ぐ心配がないので丁度いいと思っている節もある。
 ハニートラップを命じられるよりも一層軽んじられているのは明らかで、紗季は完全に目が覚めた。
 ──伯父さんは本気で私をどう雑に扱ってもいいと見做しているんだ。
「……すみませんが、伺えません」
『何だと? 私の命令に逆らうのか』
「いえ、そうではありません。実は先日、美門社長から交際を申し込まれました。じっくり時間をかけて信用を勝ち得た結果、完全に私に心を許したようです。ここで軽はずみな行動をしては怪しまれますし、何より恋人として関係を維持した方がより多くの情報を引き出せると思います。そのためには他の男性と親密になる行動は、避けるべきです」
『そんな重要な話を、何故すぐに報告しなかったっ?』
 伯父が電話の向こうでがなり立てている。
 おそらく瞬時に損得を計算しているに違いない。
 予定通り盛信興業の社長に紗季を宛がってご機嫌取りをするか。もしくは、美門社長との仲を深めさせ、恋人の立場を利用し機密を引き出させるか。
 思案の結果、伯父が選んだのは。
『……ふん。案外美門は女の趣味が悪いんだな。どうりで今まで色々なタイプの女を送り込んでも見向きもしなかったはずだ。だが考えようによってはお前如きで満足するなら、この先色々な策が練れそうだ』
 散々な言いように、紗季はスマホを握りしめることで耐えた。
『それにしてもお前が私にすぐ伝えなかったのは問題だぞ。どういうつもりだ?』
「特に意図はありません。単純に昨日のお客様を迎える準備で忙しかっただけです。交際するか否かの判断は、伯父さんに任せるつもりでした」
『そんなもの、受け入れるに決まっているだろう! もし断れば、アイレックスで働き難くなると分からないのか?』
 ──でも私が勝手に『イエス』と答えたと知ったら、伯父さんはきっと『勝手に決めるな』と怒りましたよね。
 結果が同じでも自分に主導権がないのは許せない男だ。
 伯父の性格は熟知している。だからこの件に関して告げるタイミングを計っていたのだが──考えてみたら今朝の電話はいい機会だったと言えなくもなかった。
「分かりました。それでは美門社長とお付き合いします。……盛信興業の社長とは、お会いしないで大丈夫ですね?」
『ああ。告白した女がいきなり別の男の酒宴に参加しては、面白くないだろうからな。せっかく釣り上げた魚をみすみす逃す必要はあるまい。そこから私との繋がりを探られても厄介だ』
「……ありがとうございます」
 秘かに安堵の息を吐き、紗季は心にもない礼を告げた。握りしめた拳は、白くなっている。
 だがこれで、今後はこういった役割を振られる心配が減ったのは確かだ。
 少なくとも律翔と付き合っていると思われている間は、伯父にコールガール扱いされる不安が消えた。
 ──変なの。飼い主が変更になっただけで、私が厳しい立場に立たされているのは変わらないのに、美門社長に救われた気がするなんて……
『もっと美門の心を掴むよう、くれぐれも精進しろ』
「はい。肝に銘じます」
 一転上機嫌になった伯父は、別れの挨拶もなく電話を切った。もはや紗季に用はないと言わんばかり。
 部下に指示を飛ばす上司そのものだった。
「……最悪な目覚めだ」
 せっかくの休日なのに気分が悪い。起き抜けには感じなかった頭痛は、寝不足が原因ではなく完全に伯父のせいとしか思えなかった。
「うぅ……シャワーでも浴びてサッパリするかな」
 昨晩は疲労困憊で、メイクを落とすなりベッドに倒れ込んだ。だから入浴もしていない。
 一人暮らしだとどうしてもシャワーで済ませがちだが、こんな沈んだ気持ちを振り払うには、じっくり肩まで湯に浸かるのもありかもしれない。
 そう思い立って、紗季は二週間ぶりにバスタブに湯を張りとっておきのバスボムを入れ、入浴を楽しんだ。おかげで重怠かった頭と身体が軽くなった心地がする。
 リフレッシュして気持ちを切り替え、溜まっていた家事を片付けねばとやる気を奮い立たせた、その時。
 スマホが着信を告げ、紗季は慌てて通話状態にした。
「はい」
『僕だ。今から出られる?』
「み、美門社長……っ?」
 今日まで、律翔と電話で話したことは数えきれない回数ある。さりとて全て、仕事の上でだ。
 こんな風にプライベートでは初めてな上、軽い口調で囁かれたことはなく、紗季は狼狽せずにいられなかった。
 しかも電話だから当然なのだが、声が直接耳に注がれている錯覚に陥る。まるですぐそこで囁かれているような擽ったさが、より紗季を慌てさせた。
『呼び方を変える努力を忘れていない?』
「えっ」
 内心それどころではないのだが、紗季はどうにか落ち着きを取り戻した。
 タイミング的に伯父に言われたから律翔の心を掴もうとしているようで癪に障るけれど、ここは彼の機嫌を損ねないのが優先である。
 ゆっくりと息を吐き出し、腹に力を入れた。
「律翔……さん」
「さんも必要ないと言いたいところだが、まぁ追々慣れてくれればいいか。先は長いんだし」
 あの衝撃の夜以来。
 二人の関係は劇的に変化──していなかった。丁度大きな案件を抱えていたこともあり、互いに仕事以外は時間も労力も割ける余裕がなかったのだ。
 今日がようやくの休みなので、昨夜は特に無理をして働いた。おかげで海外から来た客人もかなり満足してくれた──のだが。
 ──やっぱり恋人の振りをするって話は、なくなっていなかったんだ。
 律翔からは改めて話を持ちかけられなかったので、ひょっとしたらなぁなぁになったのではないかと、淡い期待を抱いていた。
 しかしそれは紗季の願望に過ぎなかったらしい。
 たかがキス一つで完了するわけもない。本番はこれからだと察し、紗季は無意識のうちに正座になった。
『昨晩、今日の予定は特にないと言っていたね?』
「はい。よく覚えていらっしゃいますね」
 紳士な客人が『女性は早めに帰った方がいい』と言ってくれたのだが、その際紗季は『ご心配なく。それに明日は休暇をいただいております。一日中休息をとるつもりなので大丈夫です』と返した覚えがある。
 おそらくそれを律翔は聞いていたのだろう。耳敏い。
『お母様と会う予定は?』
「今日はありません」
『だったら、今からランチに行かないか』
 何気なく時計を見ると、十一時を回っていた。
 かなり長く入浴していたらしい。
 朝食を取っていなかったこともあり、時間を確認した途端、紗季の腹が空腹を訴えた。
『一時間後に、君の部屋の前へ迎えに行く。もし遅れそうなら連絡してくれ』
「ぁ、待ってくださ……っ」
 腹の音は彼に聞こえなかったと信じたい。が、若干含み笑いが声に滲んでいたことから、耳に届いたと思われる。
 羞恥心で悶えそうになりつつも、紗季は身支度を整えた。
 ──スーツ……いや、今日は仕事じゃないからカジュアルな方がいい? 最近職場と部屋の往復しかしていないから、小綺麗な服がないんだけど。
 よもや部屋着に毛が生えた程度の普段着というわけにはいくまい。
 散々迷った結果、多少はマシと思えるシャツとパンツに着替える。化粧を施して時刻を確かめれば、約束の一時間が過ぎようとしていた。
 ──早くしなくちゃ……!
 彼を待たせるのは言語道断。紗季は鞄を引っ掴むと、小走りで階下に向かった。
「──お待たせして、申し訳ありません!」
 マンション前には、場違いと言わざるを得ない高級車が停まっていた。この界隈では滅多にお目にかからない車種だ。
 お世辞にも高級住宅街ではない立地にある紗季が暮らす建物は、『マンション』を名乗りながらも実質『アパート』という方がしっくりくる。
 エレベーターすらない築年数が長い物件は、駅からやや離れている。一番の売りは家賃が相場よりも低いこと。
 そこを気に入って、紗季は学生時代からここに住み続けていた。
「今到着したばかりで待っていないので、心配なく。近くにコインパーキングがあるか調べようと思っていたところだ」
「社長……いえ、律翔さんがご自分で運転してきたんですか?」
「運転手付きで恋人をデートに誘う男に見える?」
 世の中そういう人はいるかもしれないし、彼ならば似合うと思わなくもなかったが、そこはぐっと押し黙った。
 代わりに紗季は素早く車に乗り込む。
 アイレックスは社用車を所有していないので、移動は専らタクシーかレンタカーだった。紗季が運転することもある。
 だが運転席に座る律翔を見るのは初めてで、視線のやり場に困った。
 じっと見るのは変なのだが、さりとて不自然に逸らすのも何だかおかしい。気を抜くとハンドルに添えられた彼の長い指先や、スーツではなくラフな格好、上げていない前髪へ目が吸い寄せられる。
 出張中でもこんな姿は目にしたことがない。
 悔しいがとても似合っていた。
 本日の彼は白いTシャツの上に長袖のリネンシャツを羽織っている。適度に袖を捲っているので、手首が見える点がカジュアルさを醸し出していた。下はネイビーのパンツ。タックが入っていることで砕け過ぎず、知的で清潔感のある印象だった。
 足元がレザースニーカーなのも程よいバランス感覚に思える。
 紗季は僅かな時間でそれらをざっと目に焼き付ける。無関心を装ってはいても思い切り気になっていたので、つい盗み見てしまった。
「食べたいものはある? 特になければ、僕がよく行く店でいいかな」
「あ……それでしたら私が手配を」
「これは業務じゃない。あくまでも『恋人』として誘ったつもりなんだけど」
 面食らったため、言葉がうまく出てこない。
 いつもの調子で予約など事前連絡は、疑いもせず紗季のやるべきことだと思っていた。それなのにやんわり止められ、頭が真っ白になる。
 あまつさえ『恋人』を強調されて、動揺したのもあった。
 ──美門社長が言う『交際』は、専ら身体の関係を指すと思っていたのに。こんな一般的な付き合い方のようなことをされるなんて、考えもしなかった。
 昼間に落ち合って共に食事に行くのは、立派なデートだ。
 しかも家まで迎えに来てもらっている。これは契約で結ばれただけの関係には、贅沢な気がした。
 分不相応とでも言うのか。後腐れなく性欲処理する相手に傾ける気遣いとして、過剰にも思えたのだ。
 ──てっきり、もっと雑に扱われるのが当たり前だと思っていた。
 きちんとした恋人を作る時間も手間も惜しんだからこそ、律翔は紗季にあんな提案を持ちかけたに違いない。それなのにわざわざ休日に会って食事するのは面倒ではないだろうか。
 ──あ、それともこの後……求められるのかな?
 そうならば、納得できる。まだ日は高いが、多忙な彼のこと、時間を作れたのが今だけという可能性も捨てられなかった。
 ──だけどだったら尚更、食事に時間を使わなくても……
「今日は髪を下ろしているんだ?」
「え? はい。休日はだいたいこのままです」
 きっちり髪を纏めるのは、紗季の戦闘準備でもある。やる気を漲らせ、オンとオフを切り替える感じだ。
 その分、プライベートでは極力髪を縛りたくなかった。
「……ふぅん。似合うね」
「ぁ、ありがとうございます」
 突然の誉め言葉にうまく反応できなかった。
 会社での律翔は容姿に関わる不用意な発言をしない。男女も年齢も関係なく、コンプライアンス意識は高かった。
 故に紗季に対しても髪形に言及されたのは初めてだ。褒められれば悪い気はしないが、何と返せばいいのか分からない。彼の目的が読めず、居心地が悪くなる。
 そんな空気を払拭しようとして話題を振ろうにも、今度は適切な話題が見つからなかった。
 職場でなら共通の話があるが、会社を離れると途端に糸口を見失う。きっと紗季が業務の延長線上の会話を振っても、律翔は満足しないと思った。それくらいの予想はできる。
 ──天気の話なんて、どうやっても盛り上がらない。ああ、ビジネス的な取っ掛かりしか思いつかない自分が憎い。もっとこう、気の利いたネタはないわけ?
 グルグル一人で考えても正解は見つからない。そうこうしている間に、車はとある商業施設へ到着した。
「最上階にある店へ行こう。寿司は嫌いじゃないよね?」
「好きですけど──あの、恥ずかしながら手持ちがあまりなくて」
 ただでさえ『高級』の部類に入るデパートで、最上階にテナントを構えている寿司屋が気軽に入れない店なのは紗季だって知っていた。
 自腹では行こうとも思わない。仕事柄予約を入れることはあっても、自らが客としてなんて、気後れした。
「君に支払えなんて言うつもりはないよ。それにランチはリーズナブルだから安心して」
 苦笑した律翔に連れられ、暖簾をくぐる。業務中なら堂々としていられるのに、プライベートでは途端に挙動不審にならざるを得ない。
 自分が浮いて感じられ、気もそぞろになる。カウンターで職人に目の前で握ってもらうのは、回る寿司以外で初めてだった。
 しかもメニューを見れば、コースは軽く一万を超えている。出せなくはなくても、昼食にと考えると勇気がいる価格だった。
 ──普段の昼は、極力節約しているのに……!
 更に律翔が「お任せで」と言ったものだから、紗季は度肝を抜かれた。
 つまり時価。意識が遠退きかけ気が気じゃない。
 こんな調子では味を楽しむことなどできない──と思ったものの、結論から言えばとても美味しかった。
 どれもこれも今まで紗季が食べてきたものとは別物。蕩ける──なんて陳腐な形容をしたくはないが、正にそれがピッタリな極上の脂が口の中に広がる。
 小鉢も手が込んでおり、自分ではとても調理できない手間暇がかかっていた。椀物もどんな出汁を使っているのか、衝撃的に美味。
 おかげで思い切り堪能したのだが、食べ終わるや否や紗季は別の心配で頭が一杯になった。
 ──この後、セックスするんだよね?
 朝入浴したのが、そのつもりで準備万端整えるためだったようだ。取って置きのバスボムを使ったからか、肌は今でもほんのりいい香りを放っている。
 それが気恥ずかしい。まるでやる気満々。
 いつ「ホテルへ行こう」と言われるかドキドキしていると、そのままデパート内を見て回ることになった。
 服や雑貨、書店など。目的はなく、面白い商品や珍しいものを二人で見て、何気ない会話を交わす。
 うっかり楽しんだ紗季は、その度に気を引き締めなくてはならなかった。
 ──あれ? 想像と違う。
 これでは本当に普通のデートだ。交際経験の少ない紗季には一般的に大人の男女が休日どう過ごすのか断言できないが、少なくとも『契約恋人』でしかない二人にはそぐわない気がする。
 即物的ではなく、心の交流を積み重ねている気もして──それが嫌でないことに誰より戸惑ってもいた。そしてふと、考えずにはいられない。
 ──一つボタンを掛け違っていたら、まるで別物の未来があったんだ。私は今夜伯父さんの言いつけ通りに盛信興業の社長に媚を売って──
 想像すると吐き気を催した。
 一度その役割を受け入れれば、次はもっとハードルが低くなる。『金のために平気で身体を売る女』のレッテルを貼られると、まともに扱ってくれなくなる人間は腐るほどいた。
 それも、紗季を利用し遣い潰す気の伯父ならば、言わずもがなだ。
 そうならずに済んだのは、やはり律翔のおかげだった。その点は感謝したい。
 しかもこう言っては何だが、父親よりも年配の悪評塗れで脂ぎった男より、律翔に身を任せる方が遥かにマシである。比べるのもおこがましい。
 少なくとも、職場での振る舞いや能力的な面で尊敬はしている。遊んでいる様子もないので、おかしな病気も持っていないだろう。
 得体の知れない怖さはあっても、二人の男を比較すれば、どちらが魅力的なのかは歴然だった。
 ──身体を使わなくてはならないなら、相手は美門社長の方がいい。
 これは自分で決めたこと。故に紗季は今更後悔なんてしていなかった。
 ──でも私はどんな事情があったにせよ、犯罪者だ。美門社長を裏切り、アイレックスに勤める人たちが被害に遭うのを承知の上で、保身のために伯父さんの命令に従った。そんな人間が救われた心地に浸るなんて、許されるの? まるで大事にされているみたいな扱いは、相応しくない。
 さりげなく周囲に目をやれば、仲睦まじげに手を繋ぐカップルも多い。そういう人々に混じっていると、自分たちがどう見られているのか、不安になった。
 ──これが正解? 表向き付き合っているなら、変ではない? でも会社には私たちの関係は秘密だ。それならあまり外で会うのは、よくないんじゃ……ううん。伯父さんの関係者になら、むしろ見られたほうがいい?
 誰に目撃されているか油断できないと考え、紗季はさりげなく律翔から距離を取った。
 更に一歩下がる。
 これなら、万が一他人に見咎められても、『社長の用事に同行した秘書』の言い訳ができる。それでいて交際していると知っている者からしたら、特別な間柄に見えなくもない。そんな絶妙の距離感だった。
「……何のつもり」
 だが何かが律翔の不興を買ったのか、彼の表情も声も急に硬くなった。
 それまで柔らかく自然だった微笑みが鋭さを帯びる。
 ごく僅かな変化は、紗季でなくては見落としたかもしれない。けれど『気のせい』とは断じられない苛立ちが律翔から滲み出ていた。
「あの、諸々この方がいいかと思いまして」
「……へぇ」
 聞いたこともない低い声音で返事をされ、仕事中にミスした時よりも冷汗が止まらなくなる。
 紗季は、自分が何か間違いを犯したのは理解できても、いったい何を誤ったのかまでは見当がつかなかった。
「あの、ランチ美味しかったですし、今日は楽しかったです。ありがとうございました」
「まるでさっさと解散したいと言わんばかりだ」
 礼の意味もあり感謝を告げたのだが、逆効果だったようだ。
 ますます彼の機嫌が降下し、周囲の温度まで下がった感覚がある。
 冷ややかな目で見つめられ、紗季はもうどうすればいいのか分からなくなった。
「私に気を遣っていただかなくて、大丈夫です。その──ちゃんと覚悟は固めてきましたので……!」
「覚悟?」
 律翔は経営者として判断を誤ったことはない。しかし紗季がされた提案は見方によっては危ういものだ。一歩間違えればセクハラやパワハラ。または脅迫。
 だからこそ冷静になった彼は、一応恋人らしき仮初の関係を構築しようとしているのかもしれないと思い至り、紗季は言い募った。
「余計なことはしないでください。私も助かる部分があるので、律翔さんの提案に乗ったんです。こんなに気遣っていただかなくても、全て言われた通りにしますよ。ごっこ遊びで時間やお金を無駄遣いしないでください」
 焦るあまり、きつい物言いになる。すると如実に律翔の瞳が昏く翳った。
「……なるほど。じゃあ、お望み通りに」
 嫌な笑い方をした彼は、以降黙り込んだ。それまでは賑やかではなくとも楽しい時間を過ごせていたのに、途端に気まずい空気になる。
 とてもこちらから話しかけられる雰囲気ではない。
 前を歩く律翔に置いて行かれないよう紗季が小走りになると、振り返った彼から手を取られた。
「……っ」
 やや強引に引っ張られ、縺れそうになる足を懸命に前へ繰り出す。駐車場まで戻っても、律翔は無言のまま。
 仕事中なら、沈黙の時間はちっとも気にならないし、何なら彼が考え事をしているのを邪魔しないよう、紗季は自分の存在感を消している。だが今は物音を立てるのが憚られた。
 身じろげば、よくない結果を招きそう。
 どこでやらかしたのか紗季が考えている間に、到着したのは立派なホテルだった。
 とはいえ、いわゆるラブホではなく、富裕層御用達のラグジュアリーなホテルだ。
「え、あの?」
「家に帰る時間が惜しい時に宿泊するため、年間契約をしてある」
 端的に答えられたが、それは紗季も知らなかった。おそらく経費計上していないのだろう。
 しかし問題はそこではない。ビジネスホテルならまだしも、律翔が如何にもハイクラスなホテルを定宿にしているのは、衝撃だった。
 それも、泊まるかどうか分からないのに一年中押さえているとは質素倹約を心掛けるこちらの感覚からすると、あり得ないの一言だった。
 戸惑っている間にグイグイ手を引っ張られ、エレベーターに乗り込む。まだチェックインが始まらない中途半端な時間帯のせいか、ロビーを抜ければ他の客は見当たらなかった。
 そのまま廊下を突き進んで、一つの扉の前に到着する。
 高層階の角部屋。おそらくスタンダードルームではない。スイートではないとしても、リーズナブルな部屋ではないのは確かだった。
 とっくに心は決めてきたのに、いざとなると尻込みする。開いた扉を前に立ち竦む紗季の背中が、やんわり押された。
 よろけたのか。自ら一歩踏み出したのか。
 自分でも判然としない。だが気づいた時にはもう、紗季の背後で扉が閉まった。自動で鍵のかかる音が微かに聞こえる。
 密室に二人きり。
 見知らぬ場所であることが、淫猥な生々しさを生む。
 震える脚を叱咤して室内へ進めば、そこはかなり広々としていた。やはり一般的な客室よりもランクが上だと思われる。調度品にも安っぽさは微塵もなかった。
 ──喉がヒリヒリする。
 口の中が緊張で渇いている。戦慄く膝は、力尽くで押さえ込んだ。
 欠片でも気を緩めると、全身が震えてしまいそう。もしくは血の気が引いて、貧血を起こしかねなかった。
 ──ううん。そういう繊細さがあったら、きっと私はここにいない。
 端から伯父に首を垂れなかったし、命令にだって従わなかった。当然、律翔に出会うこともなかったに違いない。泣き暮らし、何も行動しないまま存分に自分を憐れんで浸っていただけ。
 良くも悪くも無謀で恥知らず、勝ち気な面が紗季にあったからこそ、今の状況になっているのだ。
 怖気づく心を奮い立たせ、平気な振りを取り繕う。
 怯えていると思われたくない一心で、紗季は毅然とした態度を貫いた。
「私が先にシャワーを浴びた方がいいですか?」
 こちらへ向けられた律翔の流し目は、やはり内面を窺わせない。
 だがいつも以上に瞳の奥が冷ややかに感じられるのが、変化と言えばそうだった。
「必要ない。紗季は今朝浴びたのでは? 良い匂いがする」
 体臭を嗅がれた事実と、言外に『その気で準備してきた』と指摘されている気がして、紗季の頬が一気に熱を持った。
 だが慌てて『違う』と言っても、嘘っぽい。ましてや動揺しているのを悟られてしまう。もし彼の発言がそういった意図でなければ、こちらだけが意識していることになりかねなかった。
 ──弄ばれている気分。
 短い遣り取りで紗季の羞恥心を掻き立てる手法は、見事というより他にない。
 思い切り掌で転がされている心地がし、紗季は内心態勢を整えるのに精一杯だった。
 ──呑まれて堪るか。
 飼い主の手を噛む気はなくても、全面的に服従するのはプライドが許さなかった。律翔の機嫌を損ねない範囲内で、ささやかな反抗を企てたくなる。
 彼が紗季を揶揄い慌てふためく様が見たいなら、逆にこちらから積極的に迫ってやろうと考える程度には。
 負けん気を発揮し、目に力を籠める。真っすぐ律翔を見つめると、彼は余裕綽々の微笑で打ち返してきた。
 律翔の視線を独り占めにしているのを感じながら、垂らした髪をわざとらしく後ろに払う。
 普段無表情気味の頬を無理やり緩め、紗季は彼の肩へ自らの両手を置いた。
「どうしてほしいのか、教えてください」
 口調と淡い笑みだけは挑戦的に。実際は心臓が爆音を奏でていたし、声を震わさないよう喉に全力を注いでいた。
 無力な弱者なりに譲れないところはある。せめて己の中でだけでもプライドを保ちたい。そうでなくては伯父を見限り、律翔に寝返った意味が薄れた。
「悪くない。やっぱり君を選んで正解だった」
 完璧で品のいい笑顔とは程遠い笑みを浮かべ、彼が紗季の後頭部へ手を添わせてくる。引き寄せられる力に抗わず、深く唇が結ばれた。
「……っ」
 閉じた唇の狭間から、肉厚の舌が侵入してくる。よもやいきなり深い口づけをされるとは予測していなくて、つい紗季は肩を跳ね上げた。
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