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秘書は夜、暴かれる 社長と淫靡な愛人契約 1

第一話


『お前の役目を忘れるな』
 明かりを消したオフィスの中、メッセージを表示するスマホの画面だけがひどく明るく感じられた。
 実際には窓から入る外の光が消灯後のフロアを照らしていて、さほど暗くはないのだが──端末の場違いな明るさが禍々しいまでに紗季(さき)の瞳を射る。
 いっそ痛みを覚えるほど。
 無意識に目を細めてしまったのも、仕方あるまい。
 見たくない、という嫌悪感を飼い慣らせないでいると画面は暗転した。
 届いたメッセージの本文を改めて確認しなくてはならないことは分かっている。
 されどどうせ書かれた内容は見るまでもなく明白だった。
 ──『早く報告しろ』か。それとも『お母さんの治療にかかった先月の金額』かな。
 どちらにしても紗季を急かすため、もしくは叱責するためなのは確実である。『お前たち親子にいくら投資したと思っている』と憤慨する伯父の顔が脳裏に浮かび、嘆息せずにいられない。
 紗季は重く感じる身体を引き摺り、極力音を立てないよう社長専用のPCの前に腰を下ろした。
 IT系ベンチャー企業、アイレックスは今年で十二年目。
 創業者の美門律翔(みかどりっしょう)が大学三年生で起業し、今では株式上場するまでに成長している。
 規模でいえばまだ中小企業ではあるものの、既に業界内では無視できない存在になりつつある。
 業績は右肩上がりに伸び続けており、当初は『無謀な若造の挑戦』と冷笑していた者たちも律翔の手腕を認めざるを得ないだろう。
 優秀な経営者、成功した青年実業家として経済界で話題になるのは珍しくない。先日もとある雑誌で『未来を担う期待の人材』という特集が組まれていた。
 ──当の本人は、仕事の時間が削られるってかなり不本意だったみたいだけど……
 会社の宣伝にもなるからと紗季が必死に説得し、どうにかとりつけた取材だった。
 だが彼は相当渋々だったにも拘らず、いざ当日には穏やかな笑みを欠かすことなく、如何にも紳士的に対応したのは流石である。
 インタビュアーもカメラマンも、律翔のあまりの秀麗さに、最後は頬を染めていた。ちなみにカメラマンは壮年の男性だったのだが。
 やると決めたら、完璧に。
 理想通りの辣腕経営者として振る舞ってくれた。紗季の目からは、律翔の双眸の奥が冷ややかなのは明らかでも、第三者の目には物腰柔らかな優しい人物として映ったに違いない。成長過程にある企業にとって、イメージ戦略は大切である。
 温厚で品がいい、理知的な青年。
 難関校を首席で卒業しつつも、それを鼻にかけない謙虚な性格。それでいて時に大胆な経営方針。
 おそらく件の雑誌が発売されれば、才気溢れる美貌の社長という名声が更に上がるのは間違いなかった。
 美門律翔は、能力だけでなく外見も極上なのである。十人擦れ違えば全員が振り返らずにいられないほどの。
 そのため、どうにかしてお近づきになりたいと目論む女性は後を絶たない。
 だからこそ、紗季が今の立場を築けたとも言えた。
 ──秘書に配属された女性社員が軒並み一方的な痴情の縺れを引き起こして、全員クビになったからこそ、私が潜り込める隙ができたんだもの。
 そうでなければ、いくら能力や仕事ぶりを認められても、入社後僅か一年で紗季が社長秘書に抜擢されることはあるまい。
 運が良かったのか、運命の悪戯か、それとも皮肉な巡り合わせなのか──それは誰の視点かによると、紗季は苦笑した。
 ──私にとっては、ラッキーだった……はず。
 中途入社し、営業部に配属されたただの一社員のままであったなら、伯父の命令をはぐらかし決定的な犯罪には手を出さず、上手く逃げ続けることもできたのに──という台詞は、強引に呑み込んだ。
 ゴチャゴチャ考えても仕方ない。
 もはや自分に選べる道はないのだ。やるかやらないかだけ。しかもそれによって得られる対価が母を救うとなったら──『やらない』結論は端からなかった。
 仮に、今から紗季が行うことが、懲役刑を言い渡されても不思議はない重罪であっても。
 PCの起動ボタンを押してから、立ち上がるまでの時間が果てしなく長く感じる。
 いっそ都合よく何らかのトラブルが起こらないか、夢想せずにはいられなかった。しかし現実はそううまくいかない。
 しばらくするとログイン画面が表示され、紗季はか細く息を吐いた。
 震える指先で、事前に入手していたパスワードを入力する。ここまでは大した労力も苦労もない。
 もとより社長専用パソコンの電源を入れて準備するところまでは、これまでに何度か経験があったためだ。
 ──もっとも、それは美門社長の指示で必要なファイルを確認するためだったけれど。
 問題はこの先。
 社内ネットワークに接続し、閲覧制限がかけられた情報にアクセスすること。
 内容の重要度に比例して、セキュリティは厳しくなる。当然、秘書如きでは許されない領域もあるのだ。
 ──誰がいつアクセスしたのか履歴は残る。でも改竄ではなくネットワークに侵入しただけなら、わざわざ調べられる可能性は低い。今日は少し覗くだけ……
 今夜、オフィスには誰も残っていない。
 律翔は単独で出張中。いつもなら紗季は同行を求められるのだが、今回は珍しく別行動を命じられていた。
 おそらく会食の相手が大学時代の同期でもあるからなのだろう。気楽な雰囲気の中で仕事の話を進めたいとのことで、紗季は本日社内でスケジュール管理やデータ作成に精を出していた。
 近頃多忙を理由に後回しにしていた書類整理が捗ったのは幸いだ。
 一年前より格段に楽になってきたとはいえ、やらなければならない仕事は無尽蔵にある。
 安定した大会社と違って、成長過程にあるベンチャー企業は『秘書』が担う職務も多岐にわたっていた。
 その上あわよくば律翔と──の下心を抱える者のせいで万年人材不足のため、紗季の業務は膨大なのだ。
 ──おかげでごく自然に残業できたともいえるかな……
 モニターの明るさが罪悪感を掻き立てる。葛藤を捻じ伏せ、紗季は敢えて思考を放棄した。
 頭を空にして、マウスを操作する。早速メインシステムへアクセスするパスワードを求められ、途轍もなく喉が渇いた。
 もう、引き返せない。
 メモも取らずに覚えたアルファベットと数字の羅列をキーボードで打ち込む。エンターキーを押した瞬間、心臓が縮み上がった。
 目的の画面が表示されるまで、僅か数秒。それでも判決を待つ罪人の気分で、紗季は呼吸を忘れていた。
 事実、自分は紛れもなく罪を犯している。
 企業スパイ──そう呼ばれ法に触れる行為に手を染めた。自らの意思で。他に道はなかったとしても、選んだのは紗季自身だ。誰かに多大なる迷惑がかかるとしても、立ち止まる気はなかった。
 まして言い訳する気はなく、強く奥歯を噛み締める。
 相変わらず、壊れそうなくらい心臓は大暴れしていた。
 ──急がなくちゃ。長居するのは得策じゃない。
 映し出された画面をスマホで撮影する。本当はUSBメモリに吸い出したかったが、リスクは少ないほどいい。
 シャッター音すら耳障りな静寂の中、紗季は素早く何枚もの画像をスマホに収めた。
 ──キリのいいところで今夜は引き揚げよう。時間がなかったって伯父さんには報告して……ひとまずはこれで日数を稼げるはず。
 これまでよりも重要な、何らかの結果を渡さない限り伯父は満足しないに決まっていた。下手をしたら、母の治療費を出し渋ることも考えられる。
 そんな最悪の事態を招かないためにも、ある程度餌は必要だ。
 端的に言えば、自分を信頼してくれる律翔を裏切り、会社の機密を売ることになっても。
 せめて致命的なダメージをアイレックスに負わせる情報は避けようなどと偽善を掲げつつ、紗季は乱れる息を殺した。
 ──あともう少し……これくらいあれば、しばらく伯父さんも納得するかな……──ごめんなさい。
 パシャッと機械的な音が暗闇に響く。
 自分がどんどん汚い生き物に変容してゆく錯覚に陥りながら、紗季は余計な不安を振り払った。
 罪悪感を抱くことすら、贅沢だ。
 悲劇のヒロインぶるのは卑怯でもある。全ては己の望んだ結果。
 母のために倫理も正義もとうの昔に擲ったと紗季は自身に言い聞かせた。
 ──そうだ。私はお母さんのためならどんなことだってできる。お金さえあれば必ず治療できるはずなんだから……!
 自分で決めたタイムリミットになり、素早く後片付けをする。
 パソコンはシャットダウンし、デスクの上をいつも通りの配置に戻した。存外神経質なところがある律翔は、少しでもキーボードの角度が違うと眉を顰めるのだ。
 別にそれで不機嫌になるほどではないが、欠片でも違和感を持たれるのは危険である。
 今はまだ紗季に疑いを向けられては困ると思い、気を引き締めた。
 ──大丈夫。あからさまな証拠は残っていない。あとは明日、何でもない顔をして美門社長と普段通りに接すればいい。
 痛いくらいに鼓動が荒ぶる。呼吸も苦しくて、眩暈がした。
 戦慄く指先でスマホをしまい、紗季は逸る気持ちを宥めすかして立ち上がる。気分はすっかり逃亡犯だ。
 物音を立てないように気遣いつつ、走り出したい衝動に抗った。
 ──余計なことを考えちゃ駄目。とにかく今夜はもう帰ろう。
 足元が覚束ないのは、払拭できない良心の呵責があるから。息を凝らしたまま紗季が鞄を掴み腰を上げた時。
「──ふぅん。怪しいとは思っていましたが、実際現実を目の当たりにするとショックなものですね」
 この一年で聞き慣れた声が紗季の足を止めさせた。
 もっと言えば、動けない。
 中途半端な体勢で、顔を上げることすら憚られた。何故なら、その人物が誰なのか確かめるまでもなかったせいだ。
 秘書として仕えているのは僅か一年。さほど長い期間ではない。それでも激務の中、濃厚な時間を共に過ごした自負はある。いわば戦友。
 アイレックス秘書課では、仕事よりも律翔を誘惑するのにかまけ人が定着しないため、本来秘書業務には入らない仕事も負担しなくてはならなかった。
 故に通常の会社より紗季に求められることは多く、遣り甲斐があるががむしゃらに頑張ってきた記憶が大きい。
 おそらく一般的な社長と秘書の関係より、距離が近いだろう。
 そんな一年だったものだから、声の主が誰かなど改めて確認するまでもなかったのだ。
「……美門社長……」
 この場にいるはずがない人。今頃は出張先で仕事相手でもある友人と会食を終え、旧交を深めるために酒でも飲んでいると思っていたのに。
 彼のスケジュールを完璧に管理把握している紗季は、信じられない光景に愕然とした。
 薄闇の中でシルエットが強調されるせいか、律翔のスタイルの良さがこれでもかと見て取れる。
 長い脚、引き締まり均整の取れた体型。顔の小ささまでも。
 ただし表情は影になって窺えない。それなのに彼が醸し出す圧に、紗季の身体が強張った。
 ──どうにかして、ごまかさないと……!
 最悪だ。一番バレてはならない人に見つかってしまった。消灯後の社内でコソコソ社長のPCを弄ったことについて、どんな言い訳なら納得してもらえるのか。
 現状はどう見ても、疚しい行為でしかない。
 最大限好意的に解釈したところで、上司の指示がないなら秘書の業務を逸脱しているのは間違いなかった。
 ──それだけじゃない。アクセス履歴を調べられたら終わりだ。
 本来なら紗季に権限がない情報を覗き見ることすら違法行為なのだから。
 もしも自分が警察へ突き出されたら、伯父は絶対に無関係を主張するだろう。
 先ほどのメッセージの履歴だって、決定的な遣り取りは残されていない。どうとでも解釈できる曖昧な言葉を、伯父はいつも選んでいた。常に慎重で用意周到なのである。決して自身は火の粉を被らぬよう、この件でも万全の策を立てていると思われた。
 ──私が捕まったら──
 想像するだけで背筋が凍る。伯父はあっさり母を見捨てる。利用価値がないものへ金を使うはずがなく、紗季に全ての罪を擦り付けるはずだ。
 おそらく証拠も捏造される。
 ──でも、私が決して口を割らずに一人で罪を被れば、交換条件で母の治療費を今後も出してもらえる可能性がある。温情ではなく報酬として。
 むしろそれしか、自分の生きる活路はない気がした。
 一瞬の間に紗季はそこまで考え、必死に頭を回転させる。
 最善策は、この場をどうにか切り抜けること。できないなら、自らが進んで全部の罪を背負う。
 決意したなら、引き返さない。
 紗季は吐きそうになるのを堪え、殊更ゆっくり背筋を伸ばした。

 

 紗季は出社するなりメールのチェックをし、律翔に見せる必要があるものだけをピックアップした。中には熱心にアポイントを求めてくる相手先もあり、詳しく調べるのも忘れない。
 急な予定変更にも、優先順位を考えて対応していく。会場や手土産の手配も抜かりなく予約し、合間に他部署からの問い合わせに答え、調整し、更には時間を見て律翔のためにコーヒーを淹れた。
 エチオピア産のライトロースト。酸味とフルーティさを重視している。砂糖とミルクはなし。ただし朝食を抜きがちな彼のため、ナッツを少々添える。
 特に口煩く言われたことはないけれど、律翔はコーヒーに関する拘りが強い。豆の鮮度や産地は勿論、焙煎度や抽出方法まで。
 紗季に面と向かって『こうしろ』と要求してきたことはなかったが、口をつけた際の反応で明らかだった。
 律翔は基本的に淡い笑みを湛えているものの、紗季はそれが仮面であると見抜いている。
 穏やかな顔の下に、なかなか冷徹な本性を隠し持っているのを、何故他の社員は気づかないのか。
 案外容赦ない決断を度々下しているのが、柔らかな物腰のおかげで上手く糊塗されるらしい。色恋にうつつを抜かせば、即切り捨てられるのも当然である。
 つまり紗季にとっては『決して油断してはならない男』だ。
 故にいつも気を引き締めているのだが、美味しいコーヒーを提供した時、彼の口元に浮かぶ笑みは本物だと感じていた。
 実際、紗季以外の他の誰かが淹れたコーヒーを飲むと、欠片も表情が動かない。
 仏頂面や無表情ではなくても、微笑みが変化することはなかった。
 だが注意深く観察している紗季には差が歴然で、試行錯誤した結果、今の形に落ち着いたのだ。
 薫り高いコーヒーを注いだカップとナッツを盛った小皿をトレイに載せ、タイミングを見て彼のもとに運ぶ。それが朝のルーティンだった。
 ──本日はご機嫌がよさそう。
 アイレックスでは、いわゆる『社長室』と呼ばれる部屋はない。
 広々としたフロアをパーテーションで区切ることもなく、大きな窓の傍に彼の席は設けられていた。これは創業当時からのスタイルらしい。
 前職は昔ながらの会社に勤めていた紗季にとって、観葉植物や棚のみで区切られた重役席は衝撃だ。
 アイレックスの年商と上場企業であることを考えれば、各々の個室があっても不思議はないのに、何とも風通しのいいことである。
 ──一応財務や人事部は別室で、特別会議室や応接間もあるから、プライバシーや機密は守られている。……その分、私の『本当の目的』を果たす難易度が上がっているとも言える。
 紗季が営業としてアイレックスに採用されたのは、二年前。そして去年、異例の抜擢で社長秘書へ異動になった。
 前任者がクビになり、色々な資格を持ち言語に堪能で真面目に働く紗季に白羽の矢が立ったそうだ。しかも律翔の美貌に惑わされない点が評価されたのだとか。
 給与が上がると聞いて、紗季は迷わず受け入れた。──と、おそらく周囲は思っているに違いない。
『これで美門社長に近づける』とほくそ笑んでいた事実は、誰にも悟られてはならなかった。
「ありがとう」
 紗季が邪魔にならないようデスクの隅にコーヒーを置けば、彼はパソコンのモニターから顔を上げ、微笑んだ。
 今日も朝から隙なく髪は整えられ、三十三歳という年齢の割に肌が瑞々しい。それでいて落ち着き払った雰囲気は、成熟した魅力を備えていた。
 ──眩しいくらいの美形だ。こんな笑顔を毎日向けられたら、勘違いしてしまう女性が続出するのも納得かも。
「本日のスケジュールはこちらです。変更点にはマーカーを引いてあります。クラウドにも上げてありますので、ご覧ください」
 ネット上の共有ファイルだけでなく、一覧が見やすいよう念のため紙に出力もしてある。
 紗季が書類を差し出すと、律翔が小さく頷いた。
「急で申し訳ありませんが、近日中に移動時間を含め一時間ほど予定を空けられますか? 友人が新規の店をオープンしたので、顔を出したいと思っています」
「ご友人は井澤フードのご子息ですね? それでしたら新宿なので、明日お時間を作れます」
 打てば響く勢いで紗季が答えれば、彼は至極感心した様子で瞠目した。
「まだ相手が誰かも場所も言っていないのに、よく分かりましたね」
「僭越ながら、社長の交友関係は存じております。その中でも特に懇意にされているのが井澤様ですから。きっとご挨拶に伺いたいとおっしゃると思い、調整できるスケジュールを事前に組んでおりました」
 事も無げに紗季が返すと周囲の社員から感嘆の息が漏れ聞こえた。
「──流石、藤野(ふじの)さんね。抜かりないわ」
「美門社長が重宝するのも当然だよなぁ……俺たちにはとても務まらないよ」
 手放しの賞賛を背中に受け、聞こえないふりをした。ここで謙遜するのもわざとらしいし、『ありがとうございます』と余裕で受け流すのもそぐわない。
 社内での紗季の評価は大半が好意的でも、中にはまだ『新参者のくせに』『美門社長に媚を売っている』と噂する者も多少はいるのだ。
 行動を誤って余計な敵を作るよりも、適度な距離感を保つ方が得策だった。
 ──その方が、いざアイレックスを裏切った時に、心が痛まないで済む。
「藤野さんが纏めてくれた資料、とても見やすいです。いつもありがとうございます」
「私の仕事ですから、毎回お礼なんて言っていただかなくて大丈夫ですよ」
「何かしてもらったら、感謝するのは人として当然です。それでは本日もどうぞよろしくお願いいたします」
「はい。失礼いたします」
 もはや何度繰り返されたか不明な遣り取りを今日もして、紗季は自身の席へ戻った。
 傍から二人の会話を聞いていたら、和やかな朝の風景に過ぎなかったと思う。
 秘書を労うボスと、有能な部下だ。
 しかし至近距離で目を合わせざるを得ない紗季には、毎回肝が冷える時間でもあった。
 ──緊張した。傍に仕えて一年経っても、未だに慣れないな。あの底が知れない瞳に、心の中を覗き込まれそうで怖い。
 こちらの被害妄想だろうか。
 疚しいからこそ疑心暗鬼になっているのは否定できない。
 腹に一物ある紗季は、今日も気を引き締めずにはいられなかった。
 ──一年、か……
 律翔の片腕とも言える立場を得て、それなりに信頼を勝ち取った自信はある。彼の懐に入り込むため、相応の努力もした。
 当初は秘書経験のない紗季を不安視する者も少なくなかったけれど、今では社内で『欠かせない存在』たる地位を築けている。
 重役からは『絶対辞めないでね』と冗談めかして言われる始末。あくまでも笑い話の態をしていたが、目が本気だった。
 とにかく現在、紗季はアイレックスにおいて不可欠な社員になりつつある。
 それなのに、未だ律翔からは注意深く観察され度々試されている気がした。気のせいと割り切るには、ふとした拍子にこちらへ向けられる視線が鋭いのだ。
 とはいえ、紗季が気づいて振り返ると、毎回にこやかに微笑み返され、真偽のほどは定かではないが。
 ──駄目、弱気になるな。やっとここまで辿り着いたんじゃない。私は充分美門社長の信用を得ているはず。だいぶ社内のことも把握できたし、そろそろ言い訳は通じない。行動に移さなくちゃ。
 でないと伯父の忍耐力も限界になりかけている。
 二年前紗季が伯父の命令を受けアイレックスに転職した当初から『情報を流せ』とせっつかれていたものの、最近は催促が頻繁になっていた。
 ──これまでは時期尚早だとか、まだ内部に食い込みきれていないと言って先延ばしにしてきたけど……社長秘書になったからには、それなりの成果を上げないと、説得力がない。
 紗季は表には一切出さず、心の中で嘆息した。
 頭に浮かぶのは、長期療養中の母。
 病気が発覚したのは、二年半前。父は紗季が就職した直後に亡くなっており、決して安くない医療費に母子の生活はたちまち窮地に立たされた。
 両親は家族に結婚を反対され駆け落ちで一緒になったため、頼れる親族はいやしない。
特に母は実の親と折り合いが悪く、絶縁したそうだ。病床でも、絶対に連絡してくれるなと何度も言われた。きっと助けてくれるどころか、紗季の負担になるからと。
 そんな中、看病と仕事で疲弊した紗季は、唯一生前の父から連絡先を聞いていた伯父へ恥を忍んで電話したのだ。
 どうか自分たち親子を助けてほしいと。
 初めは門前払いも甚だしかった。そもそも詐欺だと疑われたのかもしれない。
 伯父からしたら、何年も前に失踪した弟は亡くなり、その妻が病気で、娘を名乗る女が接触してきたら、警戒して当然だろう。
 しかも父の実家はかなりの資産家で、伯父が継いでいた。金の無心に来たと蔑まれても仕方あるまい。
 だが紗季としても他に頼れる当てがなく、必死だった。
 何と罵られても母を助けてほしい一心で幾度も足を運び、ようやく話を聞いてもらえた時には涙が溢れたほどだ。
 残念ながらそれは親族との再会に感動したのではなく、救いの糸が垂らされたという勘違いの安堵からだったのだが。
 勘違い──今は糸を掴んだのが正解だったのかどうか、正直なところ断言できない。
 治療費を援助してもらう対価として紗季に要求されたのは、伯父が役員を務める会社の脅威になりつつあるアイレックスへのスパイ行為だった。
 社員として内部に入り込み、機密を持ち出す。または、身体を使って上層部から情報を得ろと命じられた。
 男性との交際経験が乏しい紗季に後者は難しい。それ以前に異性に媚を売る性格でもない。甘えることすら苦手な紗季が、ハニートラップを成功させられるとは思えなかった。
 となると選べる道は一つだけ。
 社内に潜入し、重要な情報にアクセスするしかない。
 そこで紗季は前職の経験を活かし、営業として転職を果たした。この時点では、まだ伯父の命令を遂行するのは随分先だと安心していたのは否めない。
 中途採用かつただの一社員が会社の中枢に触れられる機会はほとんどないからだ。
 いずれ人事や財務に関わるか、人脈を広げて情報通になるのを想定していたが──幸か不幸か僅か一年で紗季は美門社長の専属秘書に抜擢されたのである。
 言い換えれば、これで言い訳が難しくなった。この上ないチャンスと呼ぶのは抵抗があっても、実際目的を達成しやすくなったのは事実である。
 伯父も同じ考えなのか、昨夜は母の治療費が嵩んでいると告げられた。
 同時に、結果を出さなければ援助を打ち切ると匂わされ、必ず相応の成果を出すと紗季は伯父に首を垂れ懇願したのだ。
 ──せっかく新しく投与された薬の効果が出てきたんだもの。無認可で目が飛び出るほど高価でも、続けてほしい。
 母の命は金には代えられない。たとえ伯父の目的が紗季を雁字搦めにして思いのまま操ることであっても、逆らうなんて発想はなかった。
 ──近いうちに伯父さんが喜ぶ情報を手に入れなくては……
 いつも通りの仕事をこなしつつ、紗季は頭の中で冷ややかな策略を企てた。
 アイレックスはセキュリティが高い。
 強引にシステムへ侵入しようとすれば、早い段階で捕まる可能性が高かった。だいたい紗季はハッカーレベルの高度な技術や知識は持ち合わせていない。
 となると現実的な手は、機密にアクセスするためのパスワードを入手するのが最短だと思われた。
 問題は『それをどうやって』なのだが──
 ──神様が私に味方してくれた? いや、むしろ悪魔の誘惑かな……でもこの奇跡を無駄にするわけにはいかない。
 昨日、偶然律翔のパスワードが手に入った。
 たまたま視界に捉えたのだが、今思い返しても幻覚や妄想だったのか疑っている。普段の彼なら、紗季が背後にいるにも拘らずパスワードを入力するようなミスを犯さないからだ。
 慎重な律翔にしては珍しい。しかしそれだけ紗季を信用している証拠でもある。警戒心が薄れ、完全に気を許したのかもしれない。
 ならばタイミング的には今しかなかった。
 ──躊躇うなって、背中を押されているのかも。
 秘かに彼のスケジュールを思い浮かべ、熟考する。好機を最大限活用するため、紗季は三日後に予定されている律翔の出張を利用しようと心を決めた。