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冴えない同僚くんが絶倫&最高カレシになりました 2

第二話

 

 陽が落ちかけ、藍色と橙色が入り混じっている空の下、ののかはアンに手を引かれる。
 夜へと向かっていく夕暮れどきにも関わらず、アンとの道のりは日向を歩いているようなあたたかさを感じた。こうしているのが普通で、当たり前であるかのような自然さに、つないだ手に思わず力を込める。
「さっきは」
「ん?」
 アンの、どこか優しい声が先を促すように返す。
 その声に応えるように、ののかは俯き気味の顔を上げた。
「私の気持ちを言う機会を与えてくれて、ありがとうございます。アンさんが改めて聞いてくださらなかったら、私はきっと何も言わないままでした」
 言いながら自分が情けなくなり、苦笑が浮かぶ。隣を歩く彼に顔を見られることがないとわかっているのもあって、素直な気持ちが表情に出たのかもしれない。
「私、断るのが苦手で」
 ぽつり、こぼした心の声は、夕暮れの雑踏に紛れるようにして落ちた。
「なんていうか、話しかけられやすいオーラというか雰囲気でも出てるんですかね。外出すると、募金のお願いや道を尋ねられたりすることがあるんです。それぐらいならまだいいんですけど、街頭アンケートの類は時間だけがとられるので本当に嫌で。でもこれを断ったら目の前のおねえさんが困ったりするかもしれないと思うと……」
小さく息を吐いてから、また誤解させるようなことを言っているかもしれないと我に返り、ののかは慌ててアンを見上げた。
「言い方が悪くてごめんなさい。決してこのデートが断れないとか、そういうことを言ってるわけじゃないので、誤解しないでください……! そうじゃなくて……」
 ああ、どうしよう。何が言いたいのかまとまらない。
 しかし絡み合った思考と自分の感情を言葉にしていくのは今しかないような気がして、ののかは話すことをやめなかった。衝動にも似た感情に促されるように、浮かんだ言葉をぽつりぽつりと口にしていく。そうしなければ、いけないような気がして。
「断れない自分が嫌で、自分の気持ちを相手に伝えたいと思うんですけど……、あるとき黙ってるほうが楽だってことに気づいちゃったんですよね。にこにこ笑って、相手の言うとおりにしたら波風立たずにトラブルもなく終えられるじゃないですか。……ああ、だからって、私の気持ちを言わなくていい理由にはならないんですけども……」
 だめだ。
 とうとう何が言いたいのかわからなくなった。
 さっきまで溢れていたはずの言葉が出てこない。早く早くと必死に探してみても見つからず、焦りばかりが募っていくところで、つないだ彼の手に力がこもった。
「ゆっくりでいい」
 大丈夫と伝えるような静かな声に、ののかは自然とアンを見上げていた。横断歩道が青になったことを告げる鳥の鳴き声が少し遠くから聞こえる中、アンは口を開く。
「ちゃんと待ってるから」
 どこに向かっているのかもわからないまま歩く道のりで、ついさっき出会った人に手を引かれているというのに、どうして不安にならないのかわかった気がした。今日何度目かの揺らぐ視界。ののかは唇を引き結び、小さく息を吐き出した。
(大丈夫)
 そう自分を勇気づけたら、不思議と言いたい言葉が浮かんできた。
「私、嫌いな自分から変わりたかったんだと思います」
 今まで声に出していないだけで、誰にも話していないだけで、心の奥底でずっと燻っていた自分への気持ちが初めて言葉になった。ゆっくりと顔を上げた先、いつの間にビル群から抜けていたのか、視界が開ける。
 夜に向かう瑠璃色の空に、ビルや街灯の明かりが浮かび上がる幻想的な時間帯。
 そこにあるのは空の瑠璃色と街灯のやわらかな橙色や白。昼間に見える世界よりもぐっと色彩が少なくなっているというのに、色合いのコントラストがとても美しい景色だった。
 思わず駆け出して広場のようなところへ行くと、そこは東京駅のほぼ真正面。
 東京駅を利用することはあっても、駅の外に出る機会はほとんどない。
 テレビで見かける東京のシンボルでもある東京駅を前に、ののかは言葉が出なかった。ただ佇んでいることしかできないののかだったが、背後から「目線こっちー!」という声がかすかに届き、振り返る。
「……ッ」
 そこには、真っ白なウエディングドレスを着た花嫁と、タキシードを着た花婿がいた。
 写真の前撮りだろうか。ののかの位置からではふたりの後ろ姿しか見えないが、通りを挟んで反対側にいるふたりの雰囲気はとても楽しそうだった。
 思わず、見ているののかの顔が綻んでしまうほどに。
 額を付け合わせて微笑み合う仲睦まじい花嫁と花婿を見ていたら、この素敵な光景を誰かと共有したくなって隣を見上げた。が、そこにいるはずの人はいない。
 しかも、話の途中ではなかっただろうか。
 そう思うと自分の勝手な行動に血の気が引いていく。慌てて周囲を見回したら、少し離れたところでアンが小さく手を振るのが見えた。ののかは急いで彼のところに走った。
「す、すみません……!」
 駆け寄るなり謝るののかに、アンはそれに対して何を言うでもなく、手にしたコンデジ――コンパクトデジタルカメラを差し出してきた。見てというような様子に、いいのかなと思いながらも、ののかは画面を覗き込む。
「ののかさんの心が動いた瞬間」
 まるでそれがこの写真のタイトルだとでも言わんばかりに、アンは言った。
 そこに映っていたのは、駆け出していくののかの躍動感溢れる背中。
 まるで、広大な草原に駆け出す子どものように自由な背中が、衝動に突き動かされた瞬間が、見事に切り取られていた。
「……これ、本当に私……ですか?」
 確認するように顔を上げると、アンは穏やかな表情を浮かべた。
「そうだよ。勝手に撮って悪いと思ったけど、走り出したののかさんを見たら追いかけるよりもカメラを構えてた。久々に撮りたいって思わせる一瞬だった……、ありがとね」
 まさか自分の行動に感謝されるとは思わず、ののかは戸惑いをあらわにする。
「私はただ自分勝手な行動をしただけで……」
 不快にさせこそすれ、感謝されるようなことはしていない。
「それがよかったんだよ」
「……え?」
「ののかさんの心が動いたから、俺の心も動いた。さっきも言ったけど、久々だったんだ。撮りたいって気持ち」
 そう言いながら、アンの手はコンデジを嬉しそうに撫でていた。
「本当は、撮りたかったんですか?」
 ふと出てきた言葉に、アンの動きが一瞬止まる。
 余計なことでも言っただろうかと不安が過ぎるののかの前で、アンは今初めて気づいたように答えた。
「……そうみたいだ」
 困ったようにはにかんだアンを見て、ののかの胸が小さな音を立てる。もしかしたら、彼もののかと同じなのかもしれない。そう思ったら、勝手に口が動いていた。
「言ったほうがいいです」
「え?」
「自分にとって大切だと思ったことは、ちゃんと言葉にしたほうがいいです」
「……」
「私もさっきそうでした。アンさんが待っててくれるって言ってくれたから、私は私の本当の気持ちがわかったんです。言葉にしてはっきりと自覚することができたんです。いつも思ってばかりじゃだめだって……さっき口にして初めてわかりました」
 どうしてこんなにも必死な気持ちになるのだろう。
 相手は数時間前に出会ったばかりの人だというのに、なぜか「今」だと心が訴える。
「私、自分の気持ちは言わなくてもいいと思ってました。聞かれないのなら、言わなくてもいいって……。でも、久しぶりに自分の気持ちを言葉にしたら、私だけは私の心を無視しちゃいけないんだって……、誰に訊かれなくても、私だけは私の心を大事にしないといけないって……」
 わかっていても、今までできなかった。
 今こうして言葉にして初めて、それがとても大切なことだったのだと気づく。
「……それを教えてくれたのは、アンさんです。アンさんのおかげで、私は私の気持ちを言葉にすることができました。変わりたいと思う私の心を、見つけることができました。私が、私自身を大事にしていなかったんだと……、教えてもらいました」
 ずっと、私(ののか)は私(ののか)の心をないがしろにしてきた。
 ずっと、自分がどうしたいのかわからなかった。
 ずっと、自分が悪いと思うことで自分の心を見てこなかった。
「ありがとうございます、気づかせてくれて」
 感謝を込めて深々と頭を下げる。
 きっとこんなことを言われても困るだろうな。そう思っていても、頭を下げることはやめられなかった。変わりたいと思っていた自分を思い出すことができたのなら、あとは変わるだけだ。ののかは勢いよく顔を上げ、アンの腕を掴む。
「だから、アンさんも自分の心を無視しないでください」
「……」
「したいと思ったことを、やろうと思ったことを言葉にしないと、いつか忘れてしまいます。その気持ちすらなかったことになってしまいます。撮るのが好きなら好きだと、そう言うべきです」
 きょとんとするアンを見つめ、ののかはほがらかに笑った。
「この写真を見て、写真を撮るのが好きってアンさんの気持ちが伝わってきましたよ」
 どうしてそんなこともわからないのだろう。だが、自分に迷子になっているときは、何が好きで、何が嫌いだったのかすらわからなくなるものだ。迷って迷って、入り口もわからなければ出口もわからない。迷う期間が長ければ長いほど、見えていたはずの出口が突然見えなくなる。
 自分の心に尋ねるという簡単な行為すら、忘れてしまう。
 だからもしアンもそれを忘れているのなら、思い出してほしかった。
 掴んだ腕から手を放し、ののかはそっとコンデジに触れた。
「私、アンさんが撮った写真を見たのはこれが初めてですけど、もっと見たいです」
 そう伝えると、彼の瞳が一瞬揺れたのがわかった。
「……まいったな」
 苦笑交じりにつぶやいた一言に、どこかで聞いたような妙な既視感を覚える。しかしそれよりも、アンの憂いを帯びたような表情に視線が奪われた。
「これじゃ本末転倒だ」
 今度は、ののかがきょとんとする番だった。
 小首を傾げるののかに、アンは口元を緩ませる。
「言ってなかったけど、今日俺はキミの友達に頼まれて、ののかさんを撮りに来たんだ」
「私を……?」
 静かに頷いて答えたアンはののかの手をつかみ、駅前広場を歩いていく。街路樹のほうまでやってくると、そこをぐるりと囲うようにある石でできたベンチに座らせてくれた。
「でも俺はプロじゃない。撮った写真を配布素材としてサイトにアップしてた、趣味の人」
 ののかが座ったのを確認してから、アンが隣に腰を下ろす。
「……してたってことは、今はもうサイトは閉鎖されてるんですか?」
「いや、開店休業中。社会人になってから趣味に割ける時間がだいぶ減ってね、新作も上げてない。それにSNSが普及した最近じゃ、個人運営の素材サイトなんて化石みたいなものだからね」
「確かに……。サーバを借りて個人のサイトをゼロから作る人なんて、今どき少ないですよね。小説やイラストをあげるのだって投稿サイトがありますから……」
「詳しいね」
「あ、私ウェブデザイナーなんです。それに学生時代、ウェブ小説にもはまってまして……。投稿サイトだけでは飽き足りず、いろいろとネットの海で読み漁っておりました」
「じゃあ、どこかで俺の作った素材を見ているかもだ」
「ですね。……でも、社会人になってからはなかなか時間がとれなくて」
「俺も一緒。仕事が忙しくなったらカメラに触れる機会が激減してね。おかげで、毎年サーバの更新時期に閉鎖するか悩むのが恒例になってた。でも、二週間ぐらい前にここ数年音沙汰のなかったメールフォームからおもしろいメールが届いてね」
 アンは口元に笑みを浮かべながら続けた。
「『悪い魔法使いよりもわっるーいモラハラ男にかけられた友達の呪いを、アンさんの写真で解いてください』っていう内容だった」
 いかにも茉依が言いそうなことだと思うと、笑ってしまう。
「思わずオズの魔法使いが浮かんだよね」
「私もです」
「それで気になって、彼女の話を聞くことにしたんだ。昔は気が向いたらモデルの募集もしてたんだけど、被写体が女性の場合、あとあと面倒になることが多くて断ってたんだ。でも今回は自分からの応募じゃなくて、なにより友達からの依頼っていうのがおもしろくて純粋に興味を持った」
 ののかがアンの立場だったら、同じことをするだろう。
 そんなメールをもらって興味を持たないわけがない。その友達が自分だとわかっていても、話の先が聞きたくてうんうんと頷いていた。
「準備が必要なものだけは決めておいて、あとは当日、ののかさんが来る前に詰めようってことで待ち合わせたんだけど……、俺を見た瞬間、彼女なんて言ったと思う?」
 答えを求めるようにののかを見たアンが、それはそれは嬉しそうに笑った。ののかがわからないと首を横に振った次の瞬間、アンは穏やかに続けた。
「こんなイケメンだなんて聞いてない!」
 不思議だ。
 声はアンそのものなのに、茉依の声で勝手に脳内再生される。しかも茉依が確実に叫んでいたのを想像して、なぜか複雑な気持ちになった。
「ハンドルネームとサイトの写真を見て、俺を女だと勘違いしてたみたいでね。でも彼女『それならそれで好都合』って言って、さっさとののかさんの話を始めたよ」
「私のですか?」
 うん、と小さく頷いたアンが、写真を撮られている花嫁と花婿のほうをぼんやり眺めた。
「初めて会ったときのこと、ふたりで一緒に同級生の結婚式の二次会に参加したときのこととか。……ののかさんがとても素敵な女性なんだって伝えてくれた」
 茉依に直接言われるよりも、関係のない第三者から自分のことを聞かされるというのは、なんともくすぐったい。ののかは気恥ずかしさで、思わず顔を覆ってしまった。
「私は、友達に心配かけるただの迷惑女です」
「そんな言い方したら、友達が悲しむ」
 穏やかな声で、やんわりとたしなめられる。ののかはゆっくりと顔から手を放した。
「彼女、言ってたよ」
『今の友達、ののかっていうんですけど、ののかは、自分の嫌なところばかりを見つけて、自分にこう……矢印を向けることで何も見ないようにしてるんじゃないかって感じるんです。彼女にはいいところがたくさん、たくさんたくさんあるのに、あのモラハラ彼氏のせいで本当の自分が見えない呪いにでもかけられたみたいで……。だからアンさんに、ののかの本当の姿を撮ってほしいんです。その写真を見て、彼女がどう思うのかはわからないけど、アンさんの写真ならののかの心を動かせると思ったからメールしたんです』
「そう言った彼女はとても真剣だった」
 アンの穏やかな口調で語られる茉依は、ののかの知ってる茉依であって、茉依ではないような気がした。あたたかな紅茶を飲んだときのように、胸がじんわりあたたかくなる。
「まあ、最後の最後に人の心を動かす写真を撮ってくれって言われたときは、あまりにも俺を買いかぶりすぎていて、この話受けるんじゃなかったって後悔したけどね」
 楽しげなアンの声を聞きながら、ののかは申し訳なくなる。言ったのは茉依だが、それを言わせた原因はののかにある。いたたまれない気持ちに包まれる中、アンは穏やかな声で続けた。
「おもしろくて素敵な友達だ」
「……私にはもったいない、最高の友達です。ときどき突拍子もないことをしますけど」
「少し羨ましいな。気心の知れた友人が近くにいるって」
 苦笑交じりにつぶやくアンの横顔が、どこか寂しそうだった。だがそれは一瞬で、ほんの少し見せた彼の隙だったらしい。次の瞬間、アンは石材のベンチから立ち上がっていた。
「それで」
 不自然に言葉を区切ったアンが、ののかにゆっくり視線を向ける。
「ののかさんは、どうしたい?」
 心臓が、ちいさく音を立てた。
 心が、動く。
 まるでこうしたかったとでも伝えるように、身体が勝手に動いていた。
「撮ってほしいです」
 ののかは石材ベンチから立ち上がり、アンのコートをしっかり掴む。
「私を――」
 その直後、頬に冷たいものが当たるや否や、生暖かい風とともに雨が降り出す。
 突然泣き出した赤ん坊のような雨に、周囲にいる人たちは慌ただしい様子で屋根のあるほうへと走っていき、ののかもアンに手を引かれて広場を駆け抜けていく。さっきまで写真を撮っていた花嫁と花婿もふたり手をつないで、ののかたちとは逆方向のビルへ向かっていった。それを横目に、たまたま道を走っていたタクシーをアンが捕まえてくれ、ののかを後部座席に押し込み、自身も乗り込んだ。
「渋谷……じゃなくて、アンソレイエホテルまで」
 運転席に目的地を伝えると、運転手は暖房を少し上げてから車を出してくれた。
「災難だったねー」
 きっと、この雨のことを言っているのだろう。
 同情が含まれる気遣わしげな声に、アンが「はい」と返事をして続けた。
「すみません、シート濡らしちゃって」
「いいっていいって」
 そのとき視界の端で空が光り、追って雷が轟く。
 突然の大きな音に、ののかは驚いて肩を震わせた。すると、肩にあたたかなものが羽織られる。隣を見たら、アンはチェスターコートを着ていなかった。羽織られた上着が彼のものであると知り、不思議と安心感に包まれる。
「驟雨に春雷か」
「お、おにいさん難しい言葉知ってるね」
「たまたまこの間読んだ本に書いてあって――」
 運転手と話しているアンが、ののかの手を優しく覆った。
 少し冷えたアンの手のひらが、互いの体温で少しずつあたたかくなっていく。それがなんとなく嬉しい。しばらく運転手と話をしていた間に、タクシーは目的地へ着いた。
 アンがカードで支払いをすませてくれ、タクシーから降りた。
「こっち」
 彼に手を掴まれ、きっちりと制服を着たドアマンを通り過ぎるようにしてホテルの中に足を踏み入れる。すると、やわらかな色合いの照明と、色とりどりの豪奢な花が出迎えてくれた。ホテル内に流れる穏やかな空気と高級感溢れるエントランスを見て、すぐにかなりいいホテルだとわかる。
 気後れして内心ビビリあがるののかをよそに、アンはぴかぴかに磨き上げられた大理石の床を迷いなく歩き、カウンターを通り過ぎてエレベーターに乗り込んだ。ののかは、慣れた手つきでエレベーターを操作するアンをただ黙って見つめることしかできなかった。
 そうして到着したのは、ずらりと並ぶ部屋の階。
 手を引かれるまま長い廊下を歩き、突き当りの部屋の前で彼が足を止めた。
「どうぞ」
 カードキーで施錠を解除したアンが、促すようにドアを開ける。
「……お邪魔、します」
 流されるままホテルの一室まで来てしまったが、本当にこれでよかったのだろうか。
 ほんの少し不安がよぎりながらも、中を窺うように入っていく。歩を進めた先、レースのカーテン越しにすっかり夜になった東京の夜景が出迎えてくれた。思わず窓辺に駆け出しそうになったが、すぐに後ろから両肩を掴まれ、くるりと半回転させられる。
 目の前にはトイレ、左手側には洗面台、右手側にはガラス戸とガラスで仕切られた浴室が見える。
 あれ、と思ったときにはそこへ押し込まれていた。
「まずは冷えた身体をあたためようか。あ、荷物は俺が預かるね」
「え、あの」
「俺はやることがあるから、ごゆっくり」
 ののかが振り返ったときには、ちょうど引き戸を閉められたあとだった。
 あっという間の出来事に、目を瞬かせることしかできずにいると、身体が寒さを訴えて震える。その拍子に羽織っていたチェスターコートが落ち、慌ててそれを拾い上げると広い洗面台の上に置いた。
 ふと顔を上げた先にある大きな鏡に映った自分の姿を見て、思わず声が漏れ出る。
「……えぇ」
 雨を含んで身体にまとわりついている白のニットから、うっすらと下着が透けていた。
 どうやら見た目よりも薄い生地だったらしい。ぐっしょりと濡れた髪の毛からも水滴が滴っていた。突然のゲリラ豪雨に見舞われた自分を鏡越しで確認し、ののかはおとなしく服を脱いでいく。
(最悪……)
 すっかり濡れていた下着に頭を悩ませながらも、ののかはガラス戸を開けて浴室へ入った。お湯になるまで待ってから浴びたシャワーは、冷えたののかの身体をじんわりとあたためてくれた。
 大きめのシャワーヘッドだからだろうか、全身が包まれているような感覚にほっとする。自分の家で浴びるシャワーと違い、しっかり身体があたたまって気持ちよかった。
「はー……、生き返る」
 いつまでもこうしていたい。――が、下着まで濡れていたことを考えると、アンの体調が気がかりだ。ののかは身体をあたためるのをそこそこに、ささっとシャワーを終えた。
 ふかふかのバスタオルで身体を拭き、バスローブを着てから濡れた下着ともども腕に抱え、ドライヤーを手に引き戸を開ける。なんとなく誰かの話し声が届き、ののかは何も考えずにそっと顔を出した。
 声のするほうを見ると、アンがドア越しに何かを受け取っている。
 隙間から見えたのは、キラキラとしたラメがついた美しい指先。女性だろうか、綺麗に整えられ、ネイルで彩られたその指先がアンの頬をするりと撫でていった。
「じゃあね」
 大人びた、落ち着きのある声を最後に、彼女は去っていった。
 ドアを閉めたアンが小さく息を吐いたのを見て、ののかは思わず声をかけていた。
「大丈夫ですか?」
 ののかに気づいていたのか、気づいていなかったのかはわからないが、アンはなんでもない様子で「大丈夫」だと言った。
「身体、ちゃんとあたたまった?」
「はい。すみません、先に使わせてもらって……。あ、アンさんもすぐいってください。身体冷えてると思うので」
「そうする」
 ののかは、近づいてくるアンと入れ違うように洗面所から出たのだが、その際に彼から白いショップバッグを突き出される。
「これ、着替え」
「だ、大丈夫ですよ。ほら、ドライヤーもありますし!」
「乾くまでどれだけ時間がかかると思ってんの。いいから受け取って」
 これ以上問答することでアンに風邪を引かせるわけにもいかないと思い、ののかは彼からショップバッグを受け取った。
「それから写真のことだけど」
 話の途中で雨が降ってきたことを思い出し、ののかははっとする。
「さっき渡した名刺のサイトを見て、それでも撮ってもらいたいと思ったら白いワンピースを着て待ってて。話の続きはそのとき聞かせてもらうから。でももし気が変わったら、俺が戻る前にこの部屋から出ていって」
 そう言って引き戸に手をかけてから、何かを思い出したようにアンが顔を出した。
「ののかさんも早く髪の毛乾かしなね」
 最後にそれだけ言い、洗面所の引き戸は閉められる。
 相変わらず、彼は言いたいことだけを言う。
 そう思うと、なぜか笑えてくるのだから不思議だ。ののかは緩む口元をそのままに、部屋の奥へ行こうと雨にけぶる東京の夜景に向かって歩く。そこで初めてこの部屋がL字に広くなっていることを知った。
「……ひっろ」
 とても広い右手奥には、今にも駆け出して無邪気に飛び乗ってしまいたい衝動に駆られる大きなダブルベッドがあり、その手前には壁際にテレビ、その向かいにソファがある。
 そこにさっきまでアンが座っていたのだろう。
 ソファ前のテーブルにはコンデジと一緒に一眼レフのカメラが置いてあった。ののかがソファへ近づくと、脇にある自分の荷物が目に入る。鞄と濡れた着ていた服が入っているショップバッグ。ののかはソファに腰を下ろし、まずは荷物の確認を始めた。
(スマホは……、あー、よかった、大丈夫そう。じゃあ服は……、そこまでではないけど、やっぱり濡れてるかー)
 あれだけの土砂降りだ、そんな気はしていた。
 ののかは苦笑しながらも、水を含んで少しふやけたアンの名刺とスマートフォンをテーブルに置き、濡れた服を干そうとショップバッグを持って部屋の奥へ向かった。
 ベッドそばにある壁面のクローゼットを開け、アンのチェスターコートをハンガーにかける。それからショップバックから色気も何もないベージュのニットワンピースとコートをかけ、腕に持っている服をハンガーにかけていく。
「よし、とりあえずはこれで」
 ドライヤーで乾かすのは、先に自分の髪を乾かしてからだ。
 ののかはソファに置いたままのドライヤーを手にして近くのドレッサーに座ると、ドライヤーで髪の毛を乾かし始める。伸びに伸びた髪の毛を乾かすのは億劫だ。傷んだ毛先が絡まって地味に痛いし、時間もかかる。アンがどれだけシャワーを浴びているかわからないが、ある程度乾かしたところでドライヤーを止めた。
 多少水分を含んでいても、そのうち乾く。
 ののかは使い終わったドライヤーを持ってソファまで戻り、テーブルに置いた名刺を手にして裏返す。そこに表示されたQRコードをスマートフォンで読み取ると、ウェブサイトが表示された。
 写真素材サイト『誰かの色』。
 見た瞬間、鳥肌が立った。
 そこに掲載されていたのは、肌の露出が多めで、きわどい格好をした女性たち。
 裸の胸を自分の手で押さえ、あえて胸の丸みを見せるようなアングルで撮ったものや、薔薇の花びらが浮かぶバスタブから白い腕や足を出したものなど、アイドルやグラビアの写真集で使われるような、どこかで見た構図ばかり。だが、不思議といやらしさは感じられない。顔が見えないせいだからだろうか。それとも、撮る人間が目の前にいる被写体の本質を写し出そうとしているからだろうか。
 人の目を惹きつける美しさが、そこにはあった。
 女性が羨む女性が、そこにいた。
「……」
 ただ写真を見ているだけだというのに、衝動のような欲求が湧き上がってくる。
 いつもの自分だったら、絶対に思わないことだ。
 だが裏を返せば、それだけの衝動を引き起こすほどの力が、この写真にはあるということなのだろう。女性がこんなにも美しさを秘めているのだということを、彼の写真が教えてくれた。
 彼の写真を見終えたののかは、静かに目を閉じ、小さく息を吐く。
 そして目を開けると、心の赴くままに行動した。


「――そう。これがののかさんの答え」
 シャワーを浴び終え、洗いざらしの髪の毛から雫を滴らせたアンが、すべてを受け入れるように言った。白いワイシャツに黒いチノパン姿で戻ってきた彼がかすかに笑う。
「じゃあ、話の続きを聞かせてくれる?」
 アンから手渡されたショップバッグに入っていたのは、白いワンピースだけだった。
 それを身につけ、その瞬間を待っていたののかはソファから立ち上がる。
「私を教えてください。今の私を知りたいんです、アンさんの写真で」
 そうじゃないと変われない気がするから。
 顔を上げると、自然と表情が引き締まったのがわかる。それを見たからなのか、それともアンのカメラマンとしてのスイッチが入ったからなのか、彼の表情も真剣になった。
「基本的に顔が写っているものと、本人の許可がないものはサイトに載せない。全データはののかさんにあげるけど、許可を得てサイトに載せるもの以外はデータも削除する」
 近づいてきたアンは首にかけたタオルをテーブルに置き、代わりに一眼レフのカメラを手にした。
「だから、安心して撮られてください」
 カメラから顔を上げ、ののかを見たアンは穏やかに微笑む。
 それは被写体を不安にさせないための笑顔なのか、彼の本当の笑顔なのかはわからない。だが、見ているののかの心は静かに、それでいてはっきりと高鳴った。ほんの少し鼓動が速くなったのを感じながらも、ののかは小さく息を吐く。
「じゃあ、始めようか」
 アンがカメラを構えたこの瞬間から、ののかはただの被写体になった。
 とはいえ――どうしたらいいのかわからない。
「とりあえず、適当に動いてみて」
 ののかの戸惑いが、ファインダー越しに伝わったのだろうか。
 ののかが頼りなさげにアンを見ると、彼は優しい声でこう続けた。
「変わりたいって言ったときと同じだよ。今のののかさんは自由だ」
 ああ、そうだ。
 あのときの自分は、自由だった気がする。
 そう思うと、自然と足が前に出た。
 いつの間にカメラを構えていたのか、彼は何も言わずにシャッターを切った。その音に、これでいいと言われた気がして、ののかは身体を動かすことにした。
 目的もなく目標もなければ、そこに思考もない。
 ただここに、心があるだけ。
 頭の中が空っぽになっていくと、不思議と心が動き始める。
 そういえば、この部屋からは東京タワーが見えた。――思考とほぼ同時に身体が動く。
 ベッドそばの窓辺に駆け寄って手をつき、雨でけぶる東京の夜景を眺めた。赤と白だけではない明かりが雨粒を通して暗闇に浮かぶのがとても綺麗で、思わず感嘆の息が漏れる。
 すると今度は、背後にある大きなベッドが窓に映った。
 ののかはくるりと振り返り、思いきってそこへその身を投げた。
 跳ねる身体をそのままに、楽しさが湧き上がる。
(どうしよう、楽しい)
 久々にやってきた感情に、表情が追いつくようだ。
「いいね、そのままごろごろ転がってみようか」
 アンの声に動かされるようにして、ののかはベッドの上で転がった。ベッドから落ちない程度にごろごろするだけで、何がおもしろいというわけではないのに自然と声を出して笑っていた。
「めっちゃ気持ちいいですよ……! アンさんも一緒にどうです?」
 うつ伏せになったののかは、思わずカメラを構える彼を誘っていた。
「俺は遠慮しとく。撮ってるほうが楽しいから」
 その声がはずんでいるように聞こえて、ののかも嬉しい気持ちになる。
「ですよね。すっごく楽しそう」
 自然と笑みが溢れたところで、シャッターを切られた。
「ののかさんは、急に表情が硬くなった」
 カメラ越しに笑われたのがわかり、ののかは曖昧に笑う。
「正面から撮られるのがくすぐったいっていうか……、気恥ずかしいというか」
「視界に入ると意識するから、ないものだと思って」
 とはいえ一度気になってしまったものは、やはり気になる。
「……むずかしいです」
「じゃあ、さっきみたいに見なければいい」
 簡単なことだと伝えるアンに促されるように、ののかはベッドに顔を伏せた。気持ちを切り替えようと息を吐き、顔を上げずにころりと転がる。
 仰向けになって見えたのは、天井だ。
 だが、カメラを向けられる状況は変わらない。
 それに気づき、思わず心の声が漏れた。
「そっか。視界が変わっても、私自身が変わらなかったら意味がないんだ」
 思うように変われない自分へのジレンマがそうさせたのか、突然やってきた倦怠感で動けなくなる。ののかは抗うことなく、ただ天井を見上げていた。
 そこへ――やわらかな風のような声が届く。
「そんなことないよ」
 ののかの心を丁寧に拾い上げるようにして、彼は言う。
「気持ちが変わる」
「……」
「それは表情に直結して、仕草に出る。本人は微々たるものだと思うかもしれないけど、カメラを通すと違う印象を与えたりもする」
 穏やかなアンの声が、寄り添うように続けた。
「その人の心の在り方で、人は知らない間に変わっていることもあるんだと俺は思うよ」
 彼のファインダーは、人の心が見えるのだろうか。
 ほんの少し、心が軽くなった。
 身体まで軽くなったのか。気づくと身体を起こし、窓を右手にベッドの上でアンに向き直っていた。さっきまで片膝をついていたはずの彼は立ち上がっていて、カメラのレンズはしっかりののかを捉えている。
 その瞬間を逃すまいと、まっすぐに。
 ののかは小さく息を吐き、カメラを見据えた。
「無理して見なくてもいいのに」
 アンの優しい声が、静かな部屋に響く。
 ののかは首を横に振った。
「たくさん、見ないふりをしてきましたから」
 そして、逃げてきた。――自分から。
「ののかさんは、自分に正直でいたいんだね」
 心の中を覗き込むようなアンの言葉に、ののかは苦笑を浮かべた。
「そうだったら、そうできたら、どんなによかったか……」
 アンは、黙ってシャッターを切った。
「私、さっきアンさんに、興奮していろいろ偉そうなこと言いましたけど、あれ全部受け売りなんです」
 かすかに頭を下げ、ののかは「ごめんなさい」と付け加える。
「会社の、他部署の人なんですけどね。その人に似たようなことを言われて……というか、社内用のメッセンジャーで伝えられて、それで私一念発起したんです」
 ちゃんと伝えようと、心に決めた。
「そのとき付き合っていた人は、初恋の人でした」
 相手は高校の同級生で、何年か前の同窓会で再会した。
『江口? うわ、マジかー、久しぶり』
 話しかけてきたのは、彼からだった。
 当時、彼はクラスの中心にいて、ののかは静かに眺めているだけで満足だった。その気持ちが恋だったのかどうかはわからない。だが、淡い、咲き初める桜のような想いだったと思う。それが同窓会マジックで突然思い出され、ののかの心は舞い上がった。
 気づくと連絡先を交換し、出かける回数が増え、彼に嫌いな自分を「優しいね」と言って受け入れてもらえたことが嬉しくて、どんどん好きになっていた。
 でも。
「付き合ってしばらくしたら、態度が急変して……」
 突然合鍵を渡されてから、彼の態度が一変した。
 こっちの予定もおかまいなしに呼びつけては、やれ掃除をしてほしいだの、やれじゃがいもが大量に実家から送られてきたからコロッケを作ってほしいだの言われ、断ろうものなら『おまえは何もできないんだから、俺のためにこれぐらいしろ』と大声で怒鳴り散らされる。そのあとで優しくなった彼が『俺も本当はひどいことを言いたくないんだ』と言って抱きしめたり、花束を抱えてうちにきたりして、彼にひどいことを言わせないためにももう二度と同じことをしないよう気をつけた。
「気づいたら、彼の言うことをなんでもきく家政婦みたいになっていました」
 今思えば、どうしてそんなことまで自分がしなければいけなかったのだろう、と疑問に思うことばかりだった。最初のうちは怒られるたびに、どうして怒られたのか理由を教えてほしいと言っていた。しかし『俺のことが好きじゃないからわからないんだ』と言われてしまえば、黙ることしかできなかった。
 彼が好きだから。
 彼と一緒にいるために、必要なのだと心を殺した。
 だから、何も見えなかった。
 見えないフリをした。
 洗面台に長い髪の毛が落ちていても、情事が終わったあとに『用事があるから早く帰って』と言われて部屋から追い出されても、何度となく怒鳴られても。
 今我慢したらきっと彼は愛してくれると、盲目的に、病的に信じていた。
「心のどこかではわかっていたんです。他に女がいるんだって。……でも怒らせてばかりの私には何も言えることがないし、私が悪いから彼は怒るのであって、私が彼の求めることができれば浮気しないんじゃないかって……、見当違いなことを考えてました」
 本当に、愚かだったと思う。
「そんなときでした。会社の人から『自分にとって大切だと思ったことは、ちゃんと言葉にしたほうがいい』って言ってもらったのは」
 何がきっかけかは覚えてないが、その日は珍しくその人とメッセージのやりとりが途切れなかった。
「私、その人とのやりとりで『このままじゃいけない』って思ったんです。それでその日、その足で勢い任せに彼の部屋に行きました」
 そこからまた、彼とふたりで始めるために。
 ののかは合鍵を使った。
「でも中に入ったら、彼は知らない女性とキスしてて」
 目の前で繰り広げられていたのは、いい大人が玄関先で性欲のままに互いを貪ろうとする寸前だった。彼のズボンは下着とともに下ろされ、片足を上げた彼女のそこへ入ろうとしている間抜けな格好をしているふたりを前に、ののかは――。
「気持ち悪いと思いました」
 カシャ。小さなシャッター音が届く。
 当時の気持ちが蘇り、自然と自嘲が浮かんでくる。
「あとはよくある話です。私はその場で彼に捨てられ、以来キスをしている人を見るだけで気持ち悪くなるようになりました。変ですよね。今まで自分もしていたことなのに」
 彼と見知らぬ女性が唾液を溢れさせるキスの現場を目の当たりにしたからなのかわからないが、気持ち悪いと思った感覚だけが、今でも心にへばりついている。
 キスシーンを見るたびに不快感に襲われた。
「仕事も手につかなくなって、上司にプロジェクトから外されそうになって初めて、このままじゃだめだって血の気が引きました。でもだからって、どうやって自分を立て直したらいいのかわからなくて……、週末家に引きこもっていたら心配した茉依から連絡がきて、今日を迎えました」
自分のことだけに、話しながら情けなくなってくる。
 しかしそれでも、ののかは絶対にカメラから視線を逸らさなかった。
「私、最低なんです」
 つぶやいた一言が、静かな部屋に響く。
 自然と握りしめる手に力がこもった。
「自分じゃ変われなかったくせに、変わったことを後悔しました。背中を押してくれたその人のことを心の中で責めたんです。あなたのせいでこうなったんだって」
 心の底にたまった泥を掻き出すように言うと、自分への悪意が舞う。
 言葉にできない感情が胸のあたりでないまぜになり、苦しみに変化した。
「彼と別れることが正解だって頭のどこかでわかってました。でもまだ好きで、別れるほうが嫌で、今こうしていることが正解だってわかっているのに、……感謝こそすれ責めるなんて……。ほんと、自分が嫌で嫌でしょうがないです……」
 無機質なカメラのレンズが、まるで自分に見える。
「……でも」
 今日、変わりたい自分を思い出した。
 そして見つけたんだ。
「さっき、ウエディングフォトを撮ってるふたりを見ていいなって思いました」
 ののかの心が、そう教えてくれた。
 もともと、恋愛に興味がなかったわけではない。
 いつか自分も恋を知って誰かを好きになって、そうして結婚するものだと信じて疑わなかった。それがどこで間違ったのだろう。求められることが恋なのだと、そう錯覚していたことを、かつての自分が思い出させてくれた。
「私も、あんなふうに大事にされたかった」
 相槌を打つようなシャッター音。
 それを聞きながら、なぜか自分に向かって話しているような感覚になるのはどうしてだろう。そこにアンがいるというのに、自分と向き合っているような気がしてならない。フレーム越しに見られているだけで、裸にされるような感覚に陥る。
 自然と、彼に言いたかった気持ちを思い出していた。
「私あの日、私だけを愛してほしいって、ちゃんと大事にしてほしいって彼に言いたかったんです」
 あの日、伝えられなかった心の声を初めて言葉にする。胸につかえていた苦しみが完全に癒えるには時間がかかるかもしれない。だが、言葉にするだけで、過去を過去のこととして受け入れられるようになったのか、ほんの少し前を向く力になった。
「……ッ」
 ようやく自分と向き合えた気がする。
 でも、まだだ。
 ののかはワンピースの裾をぎゅっと握り、ことこととほんの少し早くなった鼓動をそのままに、ゆっくりと肩に手をかけた。右、左と順に肩からワンピースのストラップを落とし滑り落とす。
 あらわになった素肌は、裸の心のようにも思えた。
 自分の長い髪が胸元を覆っているおかげで、すべてを見られているわけではない。さすがに胸の形まで隠せなかったが、それでもいい。
 だってこれが――今の私(ののか)なのだから。
「本当(いま)の私を撮ってください」
 その気持ちに呼応するように、ゆっくりと顔を上げたののかはカメラを構えるアンを見た。
「わかった」
 その一際優しい声に、心が震える。
 どこか彼に抱きしめられたような感覚に、視界が一瞬でぼやけた。頬を伝うそれが次から次へと溢れだし、胸元にある髪や腰にたまったワンピースに染みを作る。
 まるで、雨のような涙だった。
「……いいよ」
「……」
「たまには、自分のために生きたっていい」
 じんわりと心に沁み入ってくる声に、ああそうか、とゆったり身を任せる。
 そのとき初めて、ののかは自分の声を聞いたような気がした。
(……私、泣きたかったんだ)
 気づくと、自分で自分のことを抱きしめていた。
 外の雨と同じで涙は止まらなかった。
「……ののかさんは、やっぱり涙が一番似合う」
 その声で顔を上げると、さっきまで写真を撮っていたアンが目の前に立っていた。見下ろしてくる彼の表情は、涙のせいでぼやけて見えない。すると、アンの大きな手が頬を覆い、指の腹で目元をなぞってくれた。視界がはっきりしたのも束の間、すぐに頭から布のようなものを被せられてしまい、きょとんとする。
「これで撮影は終わり」
 遮られた視界では何が起きているのかわからないが、アンに頭を撫でられているのだけはわかった。ただ優しくされている。それが涙を溢れさせる十分な理由だった。
「次は、当たり前のことを言わなくてもいい相手を好きになれるといいな」
 アンの優しい声と言葉に胸がいっぱいになる。とうとう顔を覆ったののかは、肩を震わせ、声を押し殺して泣き続けた。
 どれだけの間、そうしていたのだろう。
 ののかが目を覚ましたときには、ホテルの部屋でひとりだった。
(……シャツだったんだ)
 昨夜、ののかに被せられただろう彼のワイシャツを胸に抱いて眠っていたらしい。いつ眠ったのかすら覚えていないが、アンはののかを広いベッドに寝かせ、布団をかけてくれたようだ。
 朝日の差し込むホテルの部屋から眺めた東京の空は、快晴。
 一夜の夢が終わったことを、ののかに告げていた。