冴えない同僚くんが絶倫&最高カレシになりました 1
ああもう、どうしてこんなことに。
江口(えぐち)ののかは、走りながら自分がまた嫌になっていた。
(すぐ終わるって言葉は、絶対にすぐ終わらないってわかってたはずなのに……!)
今日もまた断れない性格が災いして、大事な友人との待ち合わせに遅れそうになっている。いつもなら待ち合わせの十分前には到着しているのだが、今日は久々に友人に会うからと、途中下車して買い物をしたのがよくなかった。買い物自体はいい。友人に似合うとても素敵なグロスに出会えたから後悔はしていない――が、問題はそのあとだ。
『今なら、カードをお持ちの方はポイントが五倍になります』
その言葉に心が揺らいだ自分が悪かった。
店舗が発行しているポイントカードだと思っていたののかは「すぐ終わりますから」という店員の言葉にのったが最後、百貨店のカウンターに移動させられていた。
あ、これはやばい。
その予感は見事に的中。物腰やわらかな男性からカウンター越しに出されたタブレットには「クレジットカードご入会手続き」という文言が表示されていた。
ポイントカードを作るつもりが、クレジットカードの入会手続きに変わっていたことに気づく。ののかが慌てて時間がないと伝えるも「すぐに終わりますから」と言われてしまい、はっきり断ることができず、促されるままにクレジットカードの申請を終えていた。
すべてを終えて百貨店を出たときには、約束の時間の五分前だった。
現在位置から待ち合わせ場所までは距離がある。一瞬、タクシーが頭をよぎったが、電車のほうが早いと判断し、最寄りの駅まで走ったのだった。おかげで、ホームに滑り込んできた電車にすんでのところで乗ることができた。
ほっとしたのも束の間、電車に揺られていたら今度は気分が悪くなってきた。
運動不足の身体に鞭打ち、全速力で走った反動かもしれない。ののかは、これ以上悪化しないでほしいと祈る気持ちで深く息を吐く。
そこへ胸の下ぐらいまで伸びたおさげが目に入った。
(最後に美容院に行ったの、いつだっけ……)
伸びっぱなしの長い黒髪は、よく見ると切れ毛や枝毛まみれで手入れもままならないのが見て取れる。少し前までもう少しましだった気がするのだが、毛先の痛みは、行かなかった期間が長いことを示していた。
(最近、妙に絡まるとは思ってたけど……、そっか、見ないふりしてただけか)
邪魔にならないよう三編みにさえしておけばいいと思っていた。
服装だってそうだ。着ているコートの下は体型を隠す地味なベージュのニットワンピース。おしゃれでもなんでもない、よくある大量生産型だが、着心地がとても良くて気に入っている。だから今日着ることを選んだ。しかし、ここにきてようやく車両に乗っている人に目を向けると、その選択すら間違っていたのかもしれないと不安が襲う。
週末の地下鉄。
それも銀座線だ。浅草や上野、渋谷にも行ける路線なだけにさまざまな年代の人が乗車している。個性的な格好をしている若者もいれば、豪華な毛皮を羽織っているマダムもいて、自分がみすぼらしく思えてきた。機能的であれば自分の見た目に無頓着でもどうにかなると思っていたのだが、さすがにこれはよくないのでは、と思い始める。
(こんなんだから『外でデートするのはやめよ』って言われちゃうんだ)
思い出さないようにしていたことが頭をよぎり、胸が一瞬で苦しくなった。ののかは首を横に振って気持ちを切り替えると、すぐにコートのポケットからスマートフォンを取り出した。
メッセージアプリをタップし、待ち合わせ相手の茉依(まい)にメッセージを打つ。
『ごめん、ちょっと遅れる!』
すぐに既読がつき、返事がきた。
『ぜんぜんいーよー! それより、誰かに声かけられて困ったらすぐ電話するんだよ』
きっとこの世で彼女ぐらいだろう、ののかが待ち合わせに遅れた理由がわかるのは。
茉依とは高校からの付き合いで、気づいたら仲良くなっていた。元気があって、面倒見もよくて、いつも自分の気持ちをしまい込んでしまうののかに茉依だけが気づいてくれる。
今日遊びに誘ってくれたのも、休日に自宅に引きこもっているののかのことを心配してのことだろう。彼女だけは、その理由を知っている。
だから、今週の月曜に
『次の土曜日、午後から夜まで空けておいて』
と、アプリ経由でメッセージをもらったときはピンときた。と、同時に心配をかけさせてしまって申し訳ないとも思った。
正直、外出する気分ではなかったのだが、彼女から『遅くなったけど誕生日プレゼント渡したいの』『一生のお願いだから!』『後悔はさせない』『着替えだけ持ってきてくれたらいいから』『ちな、場所は銀座ね』と、矢継ぎ早にメッセージがくるものだから、思わず笑ってしまった。
(……あのとき、たぶん久しぶりに笑った気がする)
茉依が誘ってくれなければ、たぶん今日も自宅で引きこもっていただろう。そんな茉依に感謝を伝えたくてプレゼントを買っていたというのに、まさかこんなことになるとは思いもよらなかった。
自分の不甲斐なさにため息がこぼれ出そうになったところで、電車が停まる。しばらくして自動ドアが開き、ののかは電車を降りて足早に改札へ向かった。慣れない駅で迷子にならないよう、案内図を見ながら待ち合わせ場所のライオン像へどうにか辿り着く。
「茉依、遅れてごめん!」
声をかけると、スマートフォンを見ていた茉依が顔を上げ、ののかを見た。花が開くような笑顔に迎えられたと思った途端、ぎゅっと抱きしめられる。
「わーん、ののー、ののかー久しぶりー!」
「……ごめんね、茉依」
「なーに言ってんの、遅刻ぐらい平気だよ。気にしない、気にしない」
そう言って腕をほどいた茉依が、ののかににっこりと微笑む。
「むしろ、急に予定空けてって言った私に付き合ってくれてありがとうだよ」
その笑顔を見ているだけで、なぜか泣きたくなった。今すぐにでも話を聞いてもらいたいと思った次の瞬間、茉依はののかからライオン像の影になっているところへ視線を向けた。
「アンさーん、来ました!」
他にも誰かいるのだろうか。
不思議に思いながらも茉依に手を引かれて行くと、そこにいたのはひとりの男だった。
すらりと伸びた手足、つややかな黒髪に端麗な顔立ちをした男は、息を呑むほど美しかった。黒のチェスターコートを身にまとい、グレーのワッフルニット、首元から覗くシャツの襟の白さが清潔感を伝えてくる。
ただただ見つめることしかできないでいるののかに、茉依は満面の笑みでとんでもないことを言い放った。
「ののか、こちらアンさん。で、私からの誕生日プレゼント」
一瞬、何を言われたのかわからず、時間が止まる。
「アンさん、彼女がさっき話していた友達です」
ののかが呆然としているのをいいことに、茉依はアンと呼ぶ男に話を続けた。
「ほらののか、ぼーっとしてないで自己紹介!」
「え? あ、江口ののかです」
突然、話を振られるまま自己紹介したののかに、アンは会釈をするだけで何も言わなかった。ますます状況が飲み込めず困惑する。せめてもう少し説明がほしい。そう思って茉依を見ると、彼女は嬉しそうにののかをアンへ差し出した。正確には両肩を掴んでアンのほうへ引き渡した、という表現が正しいのだが――そういうことではない。
「今日はすべてアンさんにお任せしますので、この子のことをよろしくお願いします」
何がどうなっているのか、まったくわからない。
「わかりました」
そして、それをすんなり受け入れる彼も彼だ。
このままでは、とんでもないことになる気がする。そう思った瞬間、この間茉依に『いっそホストとか、レンタル彼氏とかで遊んでみるのもひとつだよ』と言われた記憶が蘇った。
誕生日プレゼントと称されたのだ、もしかしたら彼はホストやレンタル彼氏の類かもしれない。そう考えが至ったののかが慌てて振り返るも、時既に遅し。
「うっそ、あんたたちもう家の前にいるの!?」
当の本人は、かかってきた電話に出ていた。
「来るのは明日って……、え、待って待って、お姉ちゃん今銀座で――」
たぶん相手は妹だ。随分前に結婚して、小さな子どもがいる。きっと今日は子どもを連れて茉依の家にでも遊びに来たのだろう。一旦電話を切った茉依が、申し訳なさ全開でののかを見た。
嫌な予感しかしない。
「ごめん、急用というか、妹襲来というか……」
「いいよいいよ。あとは大丈夫だからもう行って」
そもそも、ののかが遅刻さえしなければ、もう少し時間があった。それをだめにしたのは他でもないののか自身だ。だからののかが気にしないでほしいと伝えると、茉依は一瞬躊躇したが、すぐに切り替えるようにしてののかの両肩を掴んだ。
「また時間とる」
「うん」
「そのときに改めて今日のこと聞くから」
「んん?」
「楽しくデートしてきてね! じゃ!」
最後にとてもいい笑顔を残し、茉依は嵐のように去っていった。
(デートって、なに……?)
残されたののかの疑問に唯一答えられる人間は、もう人混みに紛れて見えない。
どうしたものか。
そう思うのも束の間、突然後ろから腕を掴まれる。そのまま勢い任せに引き寄せられ、ののかの小さな身体は横から大きなぬくもりに包まれていた。視界の端で勢いよく駆け抜ける大柄の男が見え、腕を掴んでくれた人が助けてくれたのだとわかった。
ゆっくり顔を上げるののかに、彼――アンは低く、穏やかな声で問いかけてきた。
「大丈夫ですか?」
心臓が、かすかに音を立てる。
美しい男を見たのも、美しい男から声をかけられることも初めてだからか、どんな顔をしたらいいのかわからない。
「……はい。ありがとうございました」
「転んで怪我でもされたら面倒なんで」
それはそのとおりなのだが、あまりそうはっきり言うのもいかがなものか。
さっきまでの甘い胸の鼓動などどこへやら、すぐにすんとなったののかをそのままに、アンは離した手をコートのポケットに突っ込んだ。そして、じっとののかを見て何も言わずに歩き出す。
「え、ちょ、ちょっと」
思わず声をかけると、アンは足を止めてちらりとののかを見た。が、すぐにまた背中を向ける。ますます困惑が極まっていくのを感じながらも、彼の背中が離れていくのを見ていたら後を追いかけるしかなかった。
仮にも友人からの誕生日プレゼントだ。このままというわけにもいかない。
茉依の厚意を無駄にするわけにもいかず、ののかはアンに着いていった。
するとしばらくして、彼は足を止めた。
何かあるのだろうかとそばに近寄ると、今度は名刺を差し出される。
「はい」
手渡されたそれは、手触りのいい上質な紙でできていた。
真っ白いそれには『誰かの色』というサイト名だけが凹凸加工され、彼の名前と写真素材サイトの文字だけが黒で印字されている。シンプルな中にこそ浮かび上がるおしゃれなセンスを垣間見て、もっと眺めていたいと思った。
(ん? 写真サイト……?)
なんだか、思っていたような展開とは違う気がする。
もしかしたら、ホストでもレンタル彼氏でもないのだろうか。だとしたら、彼は一体何者なのだろう。
「あの」
「これ持ってここに入って」
ののかが浮かんだ疑問を投げかける前に言われてしまった。
「終わるころに迎えにくる」
状況が呑み込めないののかをよそに、アンは言うだけ言って去っていく。すぐに呼び止めようとしたのだが、この指示も誕生日プレゼントの一環だとすると、素直に従っておいたほうがいいような気がして、声をかけるのをやめた。
(とにかく、ここに入ったらいいんだ……よね)
ちらりと見上げたおしゃれな外観の店は、見るからに高級そうな雰囲気だ。
みすぼらしい格好をしている自覚があるだけに尻込みするが、ののかは勇気を振り絞って足を踏み出した。いい香りに包まれた店内は、想像どおりのおしゃれ空間だった。服だけでなく調度品も素敵なものばかりで目移りしてしまう。そこへ声をかけてくれたのは、とても綺麗な女性だった。
にこやかな挨拶に応えるように、ののかは手にした名刺を店員に差し出した。
「これを見せればいいと言われたんですが……」
それを見た店員は、ののかを安心させるような優しい微笑みを浮かべる。
「お話は伺っております。どうぞこちらへ」
どんな話を聞いているのかわからないが、先程のアンが関わっているのは本当らしい。
ひとまず状況に身を任せ、ののかは店員に壁一面鏡張りの一室に案内される。
毛足の長い真っ白なサークルラグ、そのそばに座り心地の良さそうなソファがあり、サイドテーブルには個包装になっている焼き菓子が皿にのっていた。服がかけられたハンガーラックもあるのだが、店内と違い、そこまで服の種類はない。あとは、こちらに向けるように箱の上にいろいろなタイプの靴が置かれている。
(はえー……)
いまだかつて自分の人生でこんな部屋に通されたこともなければ、こんな扱いをされたこともなくて感想というよりも、変な鳴き声が胸中で漏れた。
店員に促され、ソファに腰を下ろす。すると、彼女はラグの上に片膝をついてほんの少し見上げてきた。
「本日は、当店にお越しいただきありがとうございます。よろしければお飲み物をお持ちいたしますので、こちらからお選びください」
そう言ってポケットから差し出したのは、いくつかの飲み物が書かれている紙だった。ののかはざっとそれに目を通して、遠慮がちに飲み物を伝える。
「アールグレイのホットをお願いします」
「かしこまりました。ミルクかレモンはおつけしますか?」
「じゃあ、ミルクで」
それに会釈で店員が応えた直後、ドア前に控えていたもうひとりの店員が「ただいまお持ちします」と言って出ていった。いつの間に控えていたのだろうかとぼんやりドアを眺めているののかの意識を戻したのは、目の前で傅いている店員だった。
「それでは始めましょうか」
ののかがきょとんとして店員に視線を戻すと、彼女はにっこりと微笑んだ。それから立ち上がり、ハンガーラックにかけられている洋服を取り出し、別のハンガーの根元にかけて服の組み合わせを見せてくれた。
「本日のお召し物は、アンさまからのご依頼で僭越ながらわたくしどもがご用意させていただきました。女性らしさを引き立たせるために、襟ぐりをスクエア型にして――」
それは、袖口がふんわりとしている白のニットと、贅沢に布を使ったレモン色のハイウエストスカートだった。続けて店員が服の説明をしてくれるのだが、この状況では正直頭に入ってこない。とにかくののかのことを考えて選んでくれたということしかわからず、にこにこするだけで精一杯だった。
「飲み物もお持ちしましたので、わたくしどもは一度、下がらせていただきます」
ぼんやりしていたののかのそば、ソファ脇のサイドテーブルに紅茶のカップが置かれ、店員がドアへ向かう。服の説明をしてくれた彼女もまたドア付近でののかに振り返った。
「またお声がけいたしますので、それまではこちらでゆっくりお着替えください。何か気になることがあればドア前に控えておりますから、なんなりとお申し付けくださいね」
そうにっこりと微笑んだ彼女は、トレイを持っているもうひとりの店員と出ていった。ののかが小さく会釈をしたのち、ドアの閉まる小さな音が届く。
あっという間の出来事だった。
「はぁ……」
さっきまであった緊張が、ため息とともにこぼれ落ちた。
ひとまず落ち着こうと、ののかはサイドテーブルに名刺を置く。それからティーカップに少しあたためられたミルクを入れ、ティースプーンで混ぜてからカップに口をつけた。フルーティーな紅茶の香りが鼻から抜け、優しいミルクが口の中に残る。
ようやく落ち着きを取り戻したののかは、小さく息を吐いた。
(あの人、何者なんだろ)
名刺を見せただけでVIP待遇を受けているのだ、少なくともただものではない。
店員も「アンさまからのご依頼で」と言っていた。写真サイトを運営している人間が、こんな高級店で顔が利くというのもおかしい。茉依の紹介だから大丈夫だとは思うが、なんとなく不安だ。
そんなことを考えながらカップをソーサーに戻したののかは、ちらりとテーブルに置いた名刺を見る。
「……写真」
どんな写真を撮っているのだろう。
WEBデザイナーという職業柄、彼の撮る写真や写真サイトが個人的に気になった。が、ドア前に控えている店員や自分の支度をどこかで待っているアンがいると思うと、今ここで写真サイトを見るのは躊躇われた。むくむくと湧き上がる興味を抑えつけ、ののかは名刺から視線を逸らして立ち上がった。
そして、まずはと目の前にある服を挑むように見つめる。
店員が用意してくれた洋服の色は白にレモン色、絶対に自分では選ばない色だ。白は膨張色でまず着ない、明るい色は人目につくからまず選ばない。それでもここは騙されたと思って、着ている服を脱ぎ捨てた。用意されたニットを着てスカートを履き、腰の脇についた幅広の布を巻きつけるようにして右斜め前でリボン結びをして顔を上げる。
「…………すごい」
鏡の中に映る自分が、自分ではないような感動を覚えた。
身長が小さいわりに大きな胸が、そこまで強調されていない。バランスの悪い身体だと思っていたシルエットも、ハイウエストにすることで綺麗なAラインになっている。心持ちすっきりとした腰回りに、隠すところと見せるところの塩梅がちょうどよく出ているように見えた。
鏡の前で身体を揺らすと、ボリュームたっぷりのスカートがふわりと揺れ、いつもなら選ばない色味だというのに、なぜかののかの身体にしっくりきた。自然と背筋がすっと伸びる。
まるで魔法にでもかけられた気分だった。
そこへ、タイミングよくノックの音が響く。
「いかがでしょうか」
ドア越しに声をかけられ、ののかは慌てて返事をした。
「終わりました」
「中に入ってもよろしいですか?」
「どうぞ」
丁寧な問いかけに、ののかもしっかり答える。
ドアを開けて入ってきたのは、ここへ通してくれた店員だった。彼女はののかをひと目見て、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「お似合いです」
その言葉に、嘘は感じられなかった。
思わずののかの顔も同じように綻んだ。
近くまでやってきた店員が「失礼します」と言って、ののかのニットやスカート、リボンの部分を微調整してくれた。
「これからヘアセットをさせていただきますね」
「……そこまでしてくれるんですか?」
「はい。お客さまの頭の先からつま先まで、誠心誠意全力で対応するのが私の仕事ですから」
その確かな自信が窺える笑顔を、ののかはひどく羨ましいと思った。
自分も彼女のように仕事ができたらどんなに、と心が鉛のように重くなっていく。しかし、すぐに声をかけられ、己の闇に囚われずにすんだ。店員に促されてソファへ座ると、彼女は流れるようにヘアセットをし、メイクまでなおしてくれた。
「――三つ編みを活かして、解いたあと少しコテでウエーブをかけてみました。このままでも素敵なのですが、重めの印象を与えがちになります。サイドの髪を少しピンでとめて、タッセル付きのイヤリングをおつけしました。お客さまは肌が白くて綺麗でいらっしゃるので、グロスの色などは少し濃いお色に」
やはり説明がうまく頭に入らないが、よく見えるようにと彼女が手渡してくれた鏡を覗き込んで、ののかは思わず息を呑んだ。
鏡の中には、今まで見たことのない自分がいた。
「どこか気になるところなどございましたら、なんでもおっしゃってください」
「あ、いえ、気になるところなんてありません。むしろすごいと思って……」
言葉が出なかった。
鏡を手にぼんやりするののかに、彼女は「ありがとうございます」と言ってから立ち上がった。ハンガーラックのほうへ行き、戻ってきたときには靴が目の前に用意されていた。
「今後のご予定に合わせて、こちらのお履物をお選びください」
ののかは鏡をソファに置き、さまざまな靴を見る。ヒールがあるものとないもの、それからブーツ。どの靴も、この服装に似合いそうだった。しかし、アンからはこのあとの予定を聞かされていない。どうしたものかと思いながらも、とりあえず歩きやすそうなショートブーツを選んだ。ブーツの履き心地が問題ないことを確認し終えると、店員がショップ袋を手にやってきた。
「これで以上となります」
店員ににこやかに言われ、ののかは目を瞬かせた。
「あの支払いは……」
ののかの戸惑いがちの声に、彼女は笑顔で応えるだけで何も言わなかった。その様子から、すでに代金が支払われていることに気づく。
(もしかして茉依? それとも――)
あの人、なのだろうか。
アンと呼ばれる綺麗な男が脳裏に浮かぶ。しかし考えたところで答えは出ないと思い直し、ののかは店員の後をついてフィッティングルームから出たのだった。
「こちらに、着ていたお召し物をまとめておきました」
最後にショップ袋を手渡してくれ、彼女はにこやかに続ける。
「また機会がありましたら、お越しください」
そう言って綺麗に頭を下げる彼女に「何から何までありがとうございました」と感謝を述べ、ののかは店を出た。
高かった陽は傾き、空はすっかりやわらかなオレンジ色になっている。
「ののかさん」
名前を呼ばれて声がするほうへ身体を向けると、そこにいたのはアンだった。
彼は周囲の視線を気にすることなく、ののかに向かって歩いてきた。静かに、ただ歩を進める彼のチェスターコートが揺れるだけで、こんなにも画になるとは。
そして、彼は気づいているのだろうか。
すれ違うすれ違う女性たちの視線をかっさらい、わざわざ振り返ってまでその顔を見られていることに。
(……顔がいいってすごい)
今までのことがあまりにも衝撃的ですっかり忘れていたが、この正体不明の男は容姿が整っている。それもかなり。
「……どうかした?」
「いえ。あ、それよりも、ありがとうございました」
目の前に来たアンにお礼を伝えるも、彼はぴんときていない様子で小首を傾げた。それを見て主語が抜けていたことに気づき、ののかは慌てて付け加える。
「この服です」
すると、視線を服に移したアンは、再びののかの目を見て口元を緩ませた。
「似合ってる」
思ったとおりだ、と言わんばかりの笑みに、悔しいかな心臓がかすかに跳ね上がった。
(これだから顔のいい男は……!)
真正面から、それも誰もが振り向くイケメンに褒められたら誰だってときめく。
心臓がうるささを増していく中、ののかは必死に「いやいや、そうじゃない」と冷静を掴んで引き寄せた。それとほぼ同時に腕を捕まれ、ののかの心がまた乱される。
「とりあえず歩こうか」
そう言って歩き出したアンに、半ば引きずられるようにして歩く。
これではまるで捕獲された珍獣だ。
(……うぅ、視線が……、視線が痛いッ)
いつもなら向けられない視線がびしばしと突き刺さる。腕を掴まれているとはいえ、顔のいい男と銀座の街を歩くのが、こんなにも居心地が悪いとは思わなかった。
ののかはちらりとアンを見上げる。綺麗に整った横顔はまっすぐ前を見据えていた。不思議とそこに凛とした強さを感じ、真っ白な新雪のような人だとののかは思う。
すると、横断歩道の赤信号で、アンが足を止めた拍子に腕から手が離れた。
気づくとあれだけいた人がまばらになっている。混雑していた通りを抜けたのだろう、後ろを振り返ったらまだたくさん人がいた。
「……」
もしかして、歩きやすいところまで誘導してくれたのだろうか。
そんなことをぼんやり考えて前を向くと、信号が赤から青に変わっていたようだ。すぐ隣にいた人物は横断歩道を歩いていた。
その後ろ姿が、かつての記憶と重なった。
(どうしてこんなことで……)
一度も振り返らない背中はアンと似ても似つかないというのに、状況が似ているだけで、そのときの自分の気持ちを思い出してしまうものらしい。苦い気持ちが胸に広がっていくのを感じる中、横断歩道を渡りきったアンの背中がゆっくりと振り返った。
たった、それだけ。
たったそれだけのことで、ののかは次の瞬間その場から駆け出していた。
頭の中が空っぽで、何を考えていたというわけではない。
ただ、心の赴くままに身体が勝手に動いていた。青信号が点滅する中、アンの袖口を掴んだところで赤になったのだろう。背後を車が走り抜けていく音が聞こえた。息を整えながらののかがアンを見上げると、彼はきょとんとした様子で言った。
「置いていったりしないよ」
そうだ、この人は彼(、)じゃない。
ついていかなかったことで怒ったり、不機嫌になったりしない。だから――。
「だからそう、怯えなくていい」
心の中が見透かされたのかと思った。
もしかしたら顔に出ていたのかもしれない。だがそれでも、あまりにも胸の内を言い当てられたものだから、ののかの心が急激に緩む。ああ、そうか。そうだった。そうならなくていい関係に、無関係になったのだと、逆に現実を思い知らされた。
「……すみません」
「謝ることでもないから」
決して愛想がいいわけではないのだが、彼のそっけない態度が不思議と今のののかには居心地良かった。もう一度「すみません」と謝ったことを謝ったののかに、アンは何も言わずに歩き出した。その隣を歩くののかの手は、変わらずアンの袖口を掴んだままだ。
放しそびれた手の所在をどうすることもできずにいるののかだったが、何も言われないのをいいことにそのままにしていた。なんだか、この行為を許されているような気がして嬉しかったのかもしれない。
「アンさんって、銀座に詳しいんですか?」
気づいたら、ののかのほうから話しかけていた。
「ブラブラできる程度には」
「すごいですね。私、銀座ってテレビの街頭インタビューで見るぐらいで、来るのは初めてなんです。あ、さっきも待ち合わせ場所に行く途中で、毛皮を着たマダムを見てびっくりしました。毛皮だけでも物珍しいのに、それがハリウッドスター並にふわっふわのもっこもこだったんで」
「……それは俺も見たことがないな」
恐るべし、銀座。
真剣な表情で、そう小さく続けられたアンの一言に、ののかは思わず笑ってしまった。
「しまった、うっかり心の声が漏れた」
アンもアンでつられたように笑う。すると彼の雰囲気が一気に緩み、とてもやわらかくなった――気がする。気のせいかもしれないが、彼が笑ってくれたのが嬉しくて、ののかはまたアンに話しかけていた。
「アンさんは、どんな用事で銀座に来るんですか?」
「……買い物? とか」
「すっご」
「さすがに毛皮マダムぐらい高価なものは買わないけどね」
毛皮マダムという言葉に思わず吹き出してしまった。
「ふ、ふふ……、毛皮マダム、思い出しちゃう……ッ」
「悪いけど、先にその話題出したの、ののかさんだからね」
「す、すみませ……ッ」
じわじわとやってくる笑いが腹筋にくる。
くつくつと喉の奥でひとしきり笑ってから、ののかは大きく息を吐いた。それから新しいことを発見した子どものようにアンを見上げる。
「どうしてこう笑いのツボって急にくるんですかね!」
「知らないよ」
その返答が、まるで漫才のツッコミのように思えて口元がむずむずした。
絶妙に笑いのツボを刺激されている気がして、アンから視線を逸らす。笑うまでには至らない中途半端さに、いっそのこと笑ってしまったほうがいいのではないか、それとも堪えるべきなのか、と思いを巡らせた。
「でも」
続けられたアンの声に引き寄せられるようにして、ののかはまた顔を上げる。
「笑いたいときに笑うのが、一番いい」
完璧な美しさを誇る横顔、その口元がやわらかく緩む。たったそれだけで冷たい印象を受ける彼の横顔が、一瞬にして血の通った人間のように見えた。
「そうですね。私もそう思います」
ああ、どうしよう。
(嬉しい)
誰かと外出するだけでも久しぶりだというのに、こんなにも穏やかな気持ちになれるなんて思わなかった。返答に困らなくていい、何を言っても受け止めてもらえる安心感で、自然と足取りが軽くなる。
「なんだかいいですね、こういうの」
「何が?」
「普通のデートしてるみたいで」
するっと出たデートという単語に、自分で言って動揺する。
「あ、茉依がデートって言っていたので、それを思い出したといいますか……!」
「今さら何言ってんの」
「え?」
「デートだよ」
さらりと自分の言葉を肯定され、あまつさえデートなのだと認識させられた。
その瞬間、ののかの足はぴたりと止まり、掴んでいた袖口も指の間から抜け出ていく。先を歩いていたアンが、すぐにののかがいないことに気づいたのか戻ってきた。嫌な顔など一切せず、物語のヒーローがヒロインを迎えにくるように、アンは呆然とするののかの前にやってきた。
「なし崩し的に始めちゃった俺にも非があるから改めて聞くけど」
かすかにかすれた低い声が、形の良い唇を動かす。
「俺が嫌だと思ったら、ちゃんと断って」
その瞬間、ののかは慌ててアンの袖口を掴んだ。
「嫌じゃないです」
そして気づいてしまった、彼にそれを言わせたのが自分の態度なのだということを。
「立ち止まったのは驚いたからで、決してアンさんが嫌だとか、デートしたくないというわけではなくて。むしろ私が悪いっていうか、なんの説明もなしにほいほいついて来た私の認識の甘さで……って、これは言い訳になるのでなしで! 私がちゃんと茉依に今日のことを聞くべきでした。ごめんなさい」
流されるまま、ここまできたのはののかの弱さだ。
茉依のためを思ってと、妙に空気を読んでいい子ちゃんになって見送ったのはいい。が、その結果、自分の態度でアンに不快な思いをさせてしまったらと思うと、申し訳ないやら自分が不甲斐ないやらで、複雑な気持ちになる。すると、顔を上げられずにいるののかの額に何かが当たった。
なんだろうかと見たらそれは指先で、ゆっくりと顔を上げさせられる。
見上げた先にいたアンは、
「まじめか」
と言って、ほがらかに笑った。
気にしていないと伝えるような笑顔に視界がわずかに揺れる。
「じゃあここから先はデートってことで」
言いながら、アンは袖口を掴むののかの指をほどき、流れるように手を握ってきた。あまりにもあっという間の出来事すぎて頭が追いつかない。しっかりと握り込まれた手。触れ合う手のひらから、互いの体温が伝わってきた。