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冴えない同僚くんが絶倫&最高カレシになりました 3

第三話

 

それは微々たるものかもしれないが、ほんの少し、顔を上げたぐらいの前進だった。
(よし、これも終わりっと)
 会社のデスクでデータの送信を終えたののかは、ひとつ息を吐く。
 自席を立ってフロアを出ると、少し先の角を曲がりかけるころに「あれ、江口さんは?」という声が聞こえてくる。それを聞かなかったふりをして目の前のトイレへ駆け込んだ。
 用もないのに入ったトイレの洗面台に両手をつき、ののかはがっくりとうなだれる。
(ああああ、頼まれてたデータ作成そういえばまだだったぁあああ)
 心の中で盛大に叫び終えたあと、気持ちを切り替えるようにして顔を上げた。今まで重く感じていたのが嘘みたいに軽く感じるのは、きっと髪をばっさり切ったからだろう。
 丸みのあるボブを揺らし、ののかは鏡の中の自分を見つめる。
「まだまだだ」
 トイレに誰もいないのをいいことに、ののかは自分に挑むように言い、トイレを出た。
 ――あの日、夢のような一夜からもう六日が経つ。
 ののかはほんの少し、自分の心に耳を傾けられるようになった――気がする。
 それはアンのおかげか、アンと過ごした時間のおかげかはわからない。
 だが。
『たまには、自分のために生きたっていい』
 彼からもらった言葉は、ののかの中で生きていた。
 ホテルをチェックアウトしたあと、心の赴くままヘアサロンに入った。見た目を変えたぐらいでは何も変わらないとわかっているからこそ、人にお膳立てされたままでは変わったつもりになると思い、自ら行動した。そこで運よく相性のいい美容師に担当してもらい、店を出たあとは驚くほど気持ちもリフレッシュしていた。
 自宅へ帰ってからは、窓を全開にして風通しをよくし、見るに堪えない荒れ果てた部屋を掃除。鬱屈とした気持ちが多少なりとも晴れた。
 そのおかげか、週明けにプロジェクトから外されても心が折れることはなかった。
 むしろ山積みになっていた自分の仕事が少し減ってよかったと思うぐらいだ。ずっとののかに雑用を押し付けていた同僚はプロジェクトに残っているため、そのプロジェクト内の雑用をののかに言いつけてくることもなくなった。
 余計な煩わしさがない分、自分の仕事を立て直すのに最適な環境になっていた。
 それでも雑用を押し付けられることはあるが、以前よりも量は少ない。まだまだ断れるような自分にはなれないが、気持ちを切り替えていく努力を今も続けている。
 ののかは今、自分のために生きようとしていた。
(――アンさんって、何者だったんだろ)
 トイレから出て、休憩スペースまで移動したののかは、自動販売機の取り出し口から紅茶のペットボトルを取り出し、そんなことを思う。
 何もかも、謎だった。
 目が覚めてもまだ彼がいるとは思っていなかったから、それはいい。だが、身支度を整えてフロントへ行くと、すでに支払いがなされていた。調べてみたら、軽々と一泊できるグレードのホテルではなかった。
 落ち着いたころ、クリーニングに出した彼のワイシャツを返そうと、彼の写真サイトにアクセスしたが404エラーでサイト自体が消滅していた。
 茉依にも連絡してみたのだが、アンとのやりとりはすべてSNS上でのメッセージだったらしく、彼のアカウントがなくなってしまった以上、連絡のとりようがないと言われた。
 今、ののかの手元にあるアンの手がかりは、彼が置いていったワイシャツだけとなる。
 まるで、シンデレラのガラスの靴だ。
 小さく息を吐き、ののかは紅茶のペットボトルのキャップを開けた。そこへ、近づいてくる足音とともに話し声が聞こえてくる。
「お疲れ、何飲む?」
「コーヒーかなー」
 男がふたり、狭い休憩スペースまでやってきた。
 ののかは小さく会釈をして、自動販売機からそっと離れる。
 社員証の他にゲストカードを首からぶら下げているところを見ると、どうやら本社の社員らしい。というのもこのビルは、主にホテル事業を展開している日向(ひなた)グループの持ちビルで、ここに入っているテナントはほとんどがその子会社だ。
 ののかの勤めている会社もそのひとつ。
 そのせいか本社の人間がときどき顔を出すことがあるのだが、それが見てわかるように本社の社員証を携帯するようになっているらしい。聞くところによると本社か外部かを見極めるためだというが、気にしているのは出世したい社員や部長以上の役職クラスで、ののかみたいな普通の社員には興味のないことだった。
 とはいえ、本社の人間が話していることを耳にするのはあまりよくないと思い、ののかが休憩スペースから出たところで、自販機に立っているふたりが話し出す。
「今さら人事評価の見直しなんて言われても、こっちにできるのは面接ぐらいだっつーの」
「しょうがないだろ。副社長から直々にお願いされた案件だっていうんだから」
 不可抗力にも、少しだけ聞こえてしまった。
 本社でもいろいろあるのが伝わってきて、思わず苦笑が漏れる。本社だろうと子会社だろうと、どこも苦労をするのは同じなのかもしれない。その種類が違うだけで。
 そんなことを考えながら、ののかはフロアの自席に戻る。
 椅子に座ってパソコンのロックを外し、さあ仕事をしようと思ったところで名前を呼ばれた。振り返ったののかのそばに近づいてきたのは、先週まで同じプロジェクトにいた同僚・飯野(いいの)だった。
「今夜の飲み会の件なんだけど、部長が会議の都合で一時間ぐらい後ろにずれそうなんだよね。江口さん、予定とか大丈夫?」
「あ、はい」
 というか、今の今まですっかり忘れていた。
(いつもならしないことをしてみようと思って、飲み会に参加したんだった……)
 しかも、流れでそのまま参加する返事をしてしまった。帰るなら今だったのに。遅くなるなら帰りたいという気持ちがちょっと出て、顔に出たかと思ったが、飯野はちょうど手元のメモに何かを書き込んでいて、不幸中の幸いかののかのことを見ていなかった。
「江口さんはおっけーっと。はー、ありがとー」
 顔を上げた飯野は笑みを浮かべた。
「今最終確認してるところだったから、助かったよ。時間とらせてごめんね!」
「いえ、取りまとめありがとうございます」
「ふふ、ありがと」
 ののかに笑顔で会釈をしたあと、飯野はくるりと背中を向ける。
 あ、これは。――そう思った瞬間、それはやってきた。
「のの」
 一瞬心臓が大きく跳ねたが、心構えをしていたおかげか口を引き結んで耐えることができた。
「はらさん」
 続けられた言葉に小さく息を吐く。
「は、……参加されませんでしたね、失礼しました」
 事務的に言ってその場を離れた飯野は、フロアに戻ってきた社員に駆け寄っていった。急な時間変更で確認を取るのも大変だなと思いながら、ののかはちらりと隣を見る。
 少し長い前髪が眼鏡にかかっているせいか、相変わらず表情はわからなかった。姿勢よくディスプレイを前にした彼は、いつものように静かにプログラミングをしていた。
 彼こそが、ののかの背中を押してくれた他部署の同僚・SEの野々原(ののはら)だ。
 彼は得体が知れない――と、冴えないもっさりとした外見といまいち表情が見えない様子が近寄りがたいのか、社内で交流を図る人間はいなかった。だが、腕はいいらしい。大きなプロジェクトには必ずと言っていいほど抜擢される。ののかが少し前まで参加していたプロジェクトにももちろんいて、開発のメインに携わっていた。
 共通の話題ができても会話は一向に増えることなく、背中を押してくれたときでさえ、メッセンジャーソフト経由だった。
 だが、彼は知らない。
 誰よりも近くにいるののかだけが、彼を意識していることを。
(入社してから随分経つけど、そこそこ慣れた気は……する)
 視線をディスプレイに戻して、そんなことを思う。
 ののかの周囲にいる友人や家族の中には、ののかのことを「のの」と呼ぶ人もいる。そのせいか、彼が名字を呼ばれるたび、条件反射で返事をしてしまいそうになる。つまり社内で唯一、ののかだけが彼を意識していると言っても過言ではなかった。
 だからといって、特別仲良くしたいというわけでもない。
 ただ――。
(感謝だけは、伝えたいな)
 自分の背中を押してくれたことへの感謝は、ののかにしか伝えられないことだ。
 ののかは気持ちを切り替えるように小さく息を吐いてから、残りの仕事に取り掛かった。飲み会があるのを思い出したのもあって、逆に時間まで集中することができたのだろう。思ったよりもタスクをこなすことができた。
 今日の自分は、よくがんばったのでは。
 今までにない満足感で自席を立ったののかだったが、すぐに同僚からいつものように雑用を押し付けられ、現実はそう甘くないのだと受け入れる。飲み会へ向かう同僚の背中を横目に、ののかは雑用をこなしてから、すでに始まっている飲み会へ向かった――のだが。
(どうしてこんなことに)
 周囲に言われるまま腰を下ろした先は、野々原の隣。
 しかも、彼が席を譲ってくれたおかげで、彼がテーブルの端になった。
 会社でも飲み会でも隣というのは、ある意味縁があるのだろうか。それとも、誰も彼の隣に座りたがらなかっただけなのだろうか。
(というか、不参加だったはずじゃ……?)
 胸中で首を傾げるののかだったが、考えてもわからないことはそのままにしておくことに限る。そう気持ちを切り替えて、まずはウーロン茶を頼んだ。
 途中参加で、しかも会社の飲み会という場に来たのも初めてということもあり、すでに出来上がったこの場に入っていけるわけもなく、ののかは目の前に出された料理を眺める。
(お腹空いた)
 食べたいものを取り皿にとっている間にウーロン茶がきた。あとは食べるだけだと箸を取ろうとしたところで隣の皿が目に入る。
「よかったら取りましょうか?」
 空になっている取り皿が気になり、位置的にも取りづらいだろうなと思い声をかけると、野々原は一瞬驚いた様子を見せてから、もごもごと口を動かした。
「……ポテトサラダを」
 盛り上がっている周囲の笑い声が一瞬でも遅かったら、彼の声は聞こえていなかっただろう。ののかは野々原の取り皿に残りのポテトサラダを全部入れた。他のテーブルにも同じものがあり、まだ量もある。なにより次の料理が運ばれてきたこともあって、皿を空けるタイミングがよかった。
「どうぞ」
 彼は小さく頭を下げて「ありがとう」と返事をしてくれた。
 ののかは周囲からときどき上がる笑い声を聞きながら、食事にありつくことにした。
 居酒屋メシというか、おつまみとでも言うべきか。こんなにたくさんのものを少しずつ食べるのが珍しくて、ついつい箸が進む。元カレと付き合っているときは、いつ彼からの『お願い』が来るのかわからないせいで、会社の飲み会もすべて断っていた。元カレに予定がある夜とかに茉依と食事することもあったが、お酒を飲むときはもっぱら宅飲みだったせいか、居酒屋に来る機会はなかった。
(あ、これおいしい。……これも、これもだ)
 もちもちのいももちの中に明太子が入っていて、食感だけでなく驚きもある。ジャーマンポテトはウィンナーがおいしいのか、マスタードが利いていてなかなかいい。からあげは外はカリッと中は肉汁溢れてジューシーに揚がっていた。
 うまうまと飲んで食べてを繰り返し、少しずつおいしいもので胃が満たされていく。
 なんて幸せなんだろうと思いながら、ののかは未使用の取り皿においしかったものをのせ、それを野々原の前に置いた。突然目の前に食べ物を置かれ、さすがに驚いたのか、野々原が顔を上げる。
「じゃがいも、お好きなのかと思って。差し出がましいとは思いましたが、よかったら」
「……ありがとうございます」
「いえ。……ささやかすぎるほどささやかなお礼なので」
「え?」
「あ、だからといってこれで終わりってわけじゃありませんから! ちゃんとしたお礼も考えてるんで!」
「なんの話ですか?」
 慌てるののかに、野々原の冷静な声がかかる。
 はた、と動きを止めたののかは、相変わらず表情が見えない野々原に向き直り、小さく頭を下げた。
「この間、といっても結構前なんですけど、野々原さんの言葉で個人的に背中を押してもらいまして。そのお礼です」
「……」
「あ、でも私が勝手に恩を感じているだけなので、お礼が迷惑だったら言ってください」
 勢いよく顔を上げて不安に顔を曇らせるののかに、野々原は眼鏡の奥で目を瞬かせる。ほんの少し彼の表情が見えた気がして、思わずじっと見つめてしまった。
「…………お礼が迷惑な人っているの?」
 言われて逡巡したののかは、はっきりときっぱり告げる。
「少なくとも私は迷惑じゃないですね!」
「……」
「……」
「………………ふはッ」
 無言で互いに見つめ合うこと数秒。もしかしたら一分は経っていたのかもしれない。時計を見ていないからわからなかったが、ののかの謎の自信満々な返答に野々原は笑った。
 それも、堪えきれずに。
 しかも笑いが止まらないのか、口元を片手で覆い、肩を震わせてくつくつ笑っている。いつも少し長い前髪と眼鏡に邪魔をされてばかりで、こんなにも感情をあらわにした野々原を見たのは初めてだった。
 だから、気づかなかったのだ。
 ののかの他にも彼が笑っている姿を見ていることに。
 それに野々原が最初に気づいたのか、我に返った彼はいつものような無表情で傍らにある鞄の中に手を突っ込んだ。ののかがどうしたのだろうかと思っている間に、財布から取り出したお金をテーブルの上に置かれる。
「お金、幹事の方に渡してください」
「え?」
「それがお礼でいいですから」
「そういうわけには……!」
「おつり、いらないんで」
 必要なことだけ言うと、野々原は掘りごたつから立ち上がった。そして「帰ります、お疲れさまでした」と周囲に聞こえる程度の挨拶をして、靴を履いて帰っていく。野々原から預かったお金を手に、ののかは呆然と見送ることしかできなかった。
 何か気に障るようなことをしたのだろうか。
 そんなことを考えながら身体の向きを変えると、他の人たちが「野々原って笑うんだな」と野々原の話題を口にする。もしかしたら、ののかのせいで彼の居心地を悪くしてしまったのかもしれない。そう思うと居ても立ってもいられなくなり、ののかは財布からお金を出していた。そこへ。
「レッド・アイ、お持ちしましたー」
 店員が飲み物を持ってきたが、周囲は首を横に振る。誰も頼んでいないというジェスチャーを見ながら、ののかはさっきまで野々原のいた席を見た。店員が持っているものと同じ赤い飲み物が少しグラスに残っている。たぶん、彼が頼んだものだろう。
「えーと……」
 困り果てている店員に向かって、ののかが手を上げた。
「はい! はい、ここです!」
 ほっとした様子の店員から飲み物を受け取り、それを見下ろす。
 赤い。そして、若干しゅわしゅわしている。得体の知れない飲み物を前に逃げ腰になるののかだったが、早く野々原を追いかけなければと、それを一気に飲み干した。
 炭酸が入っているのか、口当たりがしゅわしゅわしている。味はトマトジュースに苦味が混ざったようなものだった。アルコールが得意ではないののかでも喉越しはよく、飲みやすいのがよかったらしい。空になったグラスをテーブルに置き、自分の荷物を持って飯野のところへお金を渡しに行った。
「あの、これさっき帰った野々原さんの分です。それからこれは私の分なんですけど……、飲んだ分ってどうしたら……」
「あ、飲み放題だから大丈夫だよー」
 お酒が入り、すっかり機嫌がよくなっている飯野が明るい声で言う。それを聞きながら、ののかは、あれと首を捻る。野々原が頼んだものでも、飲んだのがののかであればその分を払えばいいと思っていたのだが、どうやら決まった金額だったらしい。
「会費の話先にしておけばよかったね、ごめんごめん。とりあえずお金いただくね。金額決まってるからちょっと待ってね」
 にこにこしながら飯野は財布を取り出し、おつりを渡してくれた。
「これは、野々原さんに返しておいてね」
 受け取った金額はそこまで高額ではないとはいえ、おつりはおつりだ。
 これも含めて返さなければいけないと思い、ののかはみんなにぺこりと頭を下げる。
「すみません、お先に失礼します」
「はいはーい、またねー」
 飯野の少しろれつの回っていないへろへろな声に見送られ、ののかは靴を履いて居酒屋の外へ出た。そして近くの歩道まで行くと、人の流れを見つめる。
(どっちに行ったかな……)
 金曜日の、それも渋谷の夜ともなれば、飲みに出る人が多い。
 それなりに夜も更けた時間帯ということもあって、歩道には居酒屋のキャッチらしき店員をちらほら見かけ、人も駅に向かう流れとこれから飲みに行く流れのふたつがある。加えて渋谷には地下鉄もあることから、帰る方向を定めることはできない。
 ののかはひとまずJRの駅に向かう人の流れに乗ることにした。
(帰るって言ってたから、たぶん駅に向かったと思うんだけど)
 スーツの男性を見かけては、小走りで顔を確認し、すぐにその場を離れる。それを何回か繰り返した。横断歩道で赤信号になっているときは人の間を縫って野々原を探した――のだが、駅を目の前にしても彼らしき人物は見つからない。
(これ渡ったらハチ公口だっけ? 最近都市開発してて、よくわからないんだよね)
 だから、できれば駅に入る前に捕まえたかった。
 今の赤信号で見つからないということは、彼はもうすでに駅の改札を通っているのかもしれない。諦めにも近い気持ちになったところで、ののかの視界がぐらりと揺れる。
 あ、しまった。
 一気飲みした慣れないアルコールが、先程の小走りという名の運動でまわったらしい。
 少し足元がふらつき、気分が悪くなってきた。これはまずい。というか、よくない。
 ののかは大きく深呼吸をして、激しくなってきた鼓動を鎮めようとする。近くの商業施設のガラスに手をつき、息を吐く。
 信号が、青になった。
 一斉に駅に向かって歩き出す人の波が歪んで見える。
 今、自分がどこに立っているのかも怪しくなってきた。地面が揺れてないだけまだましだと自分を励まし、ののかは呼吸を整える。
(……うん、大丈夫。……大丈夫、大丈夫……)
 吐くまでではない。
 このまま少し休んでいれば大丈夫だ。
 帰れないかもしれないという不安を必死に押し殺し、これ以上気分が悪くならないことを祈りながら深く息を吐いた。
 すると。
「大丈夫ですか……?」
 気づくと商業施設のガラスを背に座り込んでいたらしい。
 俯いていたののかは顔を上げ、声をかけてくれた人を見上げる。少し広い額に汗が浮かぶ中年の男性だった。彼は心配そうにののかの顔を覗き込んでくる。
「気分が悪いんでしたら、少し休みますか?」
 本当はあまりしゃべりたくなかったのだが、相手の優しさに「放っておいてください」とは言えなかった。
「大丈夫です。今、休んでいるので」
「でも、横になれるところのほうがいいんじゃないですか。私、いいところ知ってます」
「大丈夫です」
「私を助けると思って、一緒に来てください」
 どうしたらそうなるのだろう。
(あれ、私断ったよね……?)
 もしかして自分が酔っているせいで、ののかの意図が伝わっていないだけなのだろうか。
 だとしても、残念ながら今のののかの思考力は低下している。酒が入り正常な判断力が失われている状態で、さらに気分の悪さと戦っているのもあって、しゃべるのでさえ億劫になっていた。
 だから、中年男性に手首を掴まれたことにも反応できなかった。
「何する……」
「いいから、私を助けると思って……。さあ、行きましょう」
「行きません」
「私を助けてくださいよ」
 今、はっきりと断ったはずだ。それなのに、男はののかを強引に立ち上がらせようと掴む手に力を込める。かすかな痛みとともに、ののかの本能が警鐘を鳴らす。途端に不快感で鳥肌が立った。
「いや……ッ」
 手を振りほどこうにも身体に思うように力が入らない。
 よく顔が見えない男のニヤついた口元だけが目に入り、目を閉じて顔を逸らした。
 その瞬間。
「い……ッ」
 うめくような声とともに男の手が離れる。
 自由になった腕を胸に引き寄せ、ののかが顔を上げると――。
「嫌がってるだろ」
 不機嫌な声が降ってきた。
 男の手首を掴む手がののかの頭上にあり、その腕を辿って見た先にいたのは野々原だった。通り過ぎる人の目に触れないよう、ののかの前に立ち、男の手首を掴んでいる。男はさらに汗を吹き出させながら、何度も「すみません」と謝っていた。
「江口さん、どうします? 通報することもできますけど」
「ひぇッ」
「……いいです」
「でも」
「今、気分が悪くてそれどころじゃなくて……」
 ゆっくりと言うののかの様子を見て、ただ事じゃないと思ったのかもしれない。野々原はあっさり男の手を放して、その場にしゃがみ込んだ。
「そういうことは早く言ってください」
「すみませ……」
「あー、話すのもしんどそうですね。気づけなくて申し訳ない」
 ののかとの受け答えでいろいろと察したのだろう。
 野々原はトレンチコートを脱ぎ、それでののかの足を覆ってから座ったままの体勢で抱き上げた。
「野々原……さ……」
「最後にこれだけ教えてください。行き先は病院のほうがいい?」
 ののかはゆっくりと、小さく首を横に振って答えた。
「わかりました」
 歩き出した野々原の歩調は、ののかに負担を与えないよう気遣いに満ちていた。しばらくふわふわした感覚に身を任せていると、どこかに押し込まれる。
「すみません、今から言う住所に――」
 ああ、タクシーに乗ったのか。
 そんなことを考えている間に、車が走り出す。
 目をつむり、ののかは完全に野々原に身体を預けていた。
「あ」
「吐く?」
「ええ!?」
 思い出したような声を出したののかに冷静な声で対応したのは野々原で、次いでタクシーの運転手が不安と驚きがないまぜになったような声を出す。ののかは小さく首を横に振った。
「大丈夫です」
 明らかにタクシーの運転手がほっとしたのが空気から伝わり、ののかは続ける。
「さっきのおじさん」
「はい」
「大丈夫でしょうか」
「うん?」
「助けてって、言ったんです。私に。だから……」
 気持ち悪さで短く区切って言うののかに、丁寧に返事をしていた野々原の空気が一変する。
「何言ってるんですか?」
「え?」
「さっきの見知らぬおっさんを心配するよりも、あなたはまず自分のことを優先してください」
「でも」
 本当に困っていたら。――そう思うののかの心を覗いたように、野々原は言った。
「本当に困ってたら、他に助けを求めてますよ」
「ああ……、そっか」
 ののかでなくてもいいのなら。
 誰かに助けを求められるのなら。
 確かに、心配するだけ無駄というものだ。
「……そう、ですね」
 本当に困っていたらどうしようかと心配していた気持ちが、野々原のおかげですぅっと溶けていく。野々原のおかげで、気持ちと体調が落ち着いてきたのか、安堵とともにやってきたのは、ほんの小さな誇らしい気持ち。
「……私……、ちゃんと嫌って……言えた」
 それは、誰に言うでもなく、誰も聞くでもない状況だからこそ、こうして言葉にできたのかもしれない。
 ののかは服越しに伝わる野々原の穏やかな鼓動に導かれるようにして、意識を手放した。


 目が覚めたとき、ののかは薄暗いところにいた。
(……寝てた)
 どれぐらいの間、眠っていたのだろう。
 ぼんやりした頭で上半身を起こすと、まだ酔いが残っているのか身体はけだるい。だが、思いの外気分はすっきりしている。めまいもなければ気持ち悪さもなくてほっとした。
(今、何時だろ)
 目線より少し上、天井まで伸びた窓を見上げたら外は暗い。
 耳を澄ましてみても車の通る音も聞こえない。静かな夜だった。
「起きた?」
 声をかけられた方向――左へ顔を向けると、少し先にあるリビングだろうか、そこのソファから立ち上がる人物がいた。野々原だ。最後の記憶どおり、野々原の姿を見つけてののかは広いローベッドから足を出す。
「はい。……あの、ここ」
「俺の家」
 言いながら、野々原は奥にあるカウンターキッチンへ向かい、冷蔵庫から何かを取り出した。
(広い……)
 リビングの中央に座り心地の良さそうなソファが窓を背に横向きに置かれている。きっと向かいにテレビでもあるのだろう。ののかの位置からは見えないが、家具の配置を見てそう思った。
 間取り的にはワンルームになるのだろうか。
(おしゃれな部屋)
 そんなことをぼんやり考えていると、野々原が数段の階段を上がってきた。少し視線が高いと思っていたのだが、段差をつけることでベッドルームとの空間を分けている仕様らしい。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
 差し出された水のペットボトルを受け取り、フタを開けて口に含む。思ったより喉が渇いていたのか、そのまま半分ほど飲んでいた。ふぅ、と小さく息を吐いたののかの前で、野々原が階段に腰を下ろす。
「気分は?」
「まだ酔ってる感じはしますけど、だいぶいいです」
「でも江口さん、ずっとウーロン茶でしたよね?」
「実は、最後に飲んだのがお酒で……。急いでて一気飲みしたうえに走ったものだから酔いが一気に回っちゃいまして、ご迷惑おかけしました」
「だからあんなところで座り込んでたのか」
「はい……。なので、助かりました」
「いえ、あの状況は見過ごせなかったんで」
「ほんと、助かりました……。あの人、話が通じなくて……」
「それで?」
「え?」
「今急いでたって言ってたけど、うちにいて大丈夫? 予定があるなら送るけど」
「あ。そう、そうです」
 探し人に会えたことで安心していたせいか、すっかり忘れていた目的を思い出す。
「私、野々原さんに謝りたくて」
 彼は一瞬、ぴたりと動きを止めた。
「俺?」
「はい。私のせいで居心地を悪くさせてしまったので……」
 申し訳なさで落ちた視線の先、膝の上にのせた手に力がこもる。しかし、野々原の反応は思ったものと違っていた。
「確かに居心地は悪くなったけど、江口さんのせいじゃないよ」
 そっけなく聞こえる言葉に、どこか優しさが滲んでいる気がして、ののかは顔を上げる。
「あまり人に注目されるのが好きじゃないってだけだから」
「……それって、野々原さんが笑う原因を作った私のせいでは?」
「そうかもしれないけど、そうじゃないよ。そろそろ帰ろうと思っていたから、俺としてはちょうどよかったんだ。帰るきっかけをもらった」
「……そうですか」
「そうですね」
 野々原の優しい声が、小さく響く。
 ののかの心がなんとなく軽くなった。
「……よかった」
「それで俺を探してたの?」
「はい。あ、でも、飲み会のおつりも預かっていたので、それも渡したかったんです。すぐに追いかけたんですけど……そういえば、野々原さんはどうしてあそこに?」
 言いながら疑問に思ったことを問いかけると、野々原はののかから視線を逸らして虚空を見つめ、それから少しだけ俯いた。
「江口さんを追いかけてた」
 ため息交じりに言う野々原を前に、ののかはきょとんとする。
 言っていることはわかるのに、意味がわからなかった。
「実は店を出る前に電話がかかってきてね。店を出た近くで話してたんだ」
「え? でも私……」
「江口さん、歩道に向かって一直線だったから、俺のいるところからだと背中しか見えなかった」
 言われて記憶を手繰り寄せると、確かに店を出たあと歩道に向かった。店のほうは一切振り返っていない。はっとするののかに、野々原は口元をかすかに緩ませた。
「慌てた様子だったし、俺も電話に出てたから声をかけられなかったんだけど、切ったあと妙に気になってね」
「それで、追いかけてくれたんですか?」
「あ、でも途中で見失っちゃって、少しだけ声をかけるのが遅れた。……あんなことになるのなら、最初から江口さんに声をかけていればよかったと思う。申し訳ない」
「気にしないでください。……というか、すみません」
 ののかはローベッドを下りて冷たいフローリングに正座をして手をつき、しっかりと頭を下げる。
「さっきは助けていただき、ありがとうございました。それから、介抱してくださって、野々原さんの大事なベッドを貸してくださって重ねてありがとうございます!」
 遅くなったお礼を伝えきってから、勢いよく顔を上げた。
「このお礼は、また改めてさせていただきますので!」
 相変わらず表情の見えない野々原を見つめて言うと、ののかは帰るべく立ち上がり――、
(あれ?)
 目眩を覚えて足元がふらつく。
 身体が重力に逆らうことなく傾いでいく中、最後に見たのはかすかに前髪が上がった野々原の目だった。
 次の瞬間、世界は反転して暗転した。
「………………すみません」
 目を開けたくなかった。
 むしろ、この場から消えてなくなりたかった。
 酔っていたからとはいえ、自分のあまりにも間抜けな行動に合わせる顔がない。
「……」
 が、そういうわけにもいかず、ののかはそっと目を開ける。野々原の肩越しに先程まで見ていた天井があった。重なり合う身体から、どちらのものかはわからないが速くなる心臓の音が聞こえる。首筋にかかる彼の吐息に、ののかの肌がかすかにざわついた。
 ああ、これはよくない。
 久々にかかる男性の重みに懐かしい安堵を感じ、まだこうしていたいと女の本能がぬくもりを求める。男を知っている身体が、酔いも手伝ってか「欲しい」と渇望しているのがわかった。
「すみません、重いですよね」
 野々原の冷静な声で我に返ると、彼は身体を起こしてののかを見下ろす。
 少し長い前髪が浮いて、彼の目がしっかりと見えた。
 自然と伸びた手は彼の頬を覆い、感触を確かめるように親指の腹で目元をなぞる。
「……優しい目」
 普段隠されている彼の目を見ることができて嬉しかったのか、それともまだ酔っていたのか、口元が勝手に緩む。
「やっぱり野々原さんは優しい人なんですね」
「……それは、目だけで判断した結論ですか?」
 落ちてきた野々原の問いかけに、ののかはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、見た目は後付けです。私、野々原さんが優しい人だって知ってましたよ」
「……」
「優しくない人は、ただの隣の席にいる他部署の新人に『自分にとって大切だと思ったことは、ちゃんと言葉にしたほうがいい』なんて、寄り添ったりしませんから」
 そう、だから不思議だった。
「どうして野々原さんが優しいことを、会社のみなさんは知らないんでしょうか」
「……」
「野々原さんは、仕事だけしているAIじゃないのに。ちゃんと熱を持った人間なのに」
 言いながら、彼の頬をつまんでみる。
 やわらかな頬をほんの少し横に伸ばすだけで、人間味が出た。すると、野々原の手がののかのそれを覆い、やんわりと包み込む。つまんでいた指先から力が抜けた。
「酔っているんですか?」
「かもしれません」
 にへら、と笑ったののかに、彼は表情を変えなかった。
「俺も少なからず酔っているから、あまりそう煽られると、あなたに俺が男だということを教えたくなります」
 彼の瞳は真剣にののかを見つめ、掴んだ手のひらに唇を押し付けてきた。
 ののかと野々原のいる空間に漂う空気が、かすかに甘くなった――気がする。
 ほんの少し、体温が上がった。
 ののかも、野々原から目を逸らすことができなくなっていた。
「……私、野々原さんが男の人だってこと知ってます」
「だったら、どうして逃げないんですか」
 そんなの決まっている。
「逃げる必要がないからです」
 はにかんでから、しっかり、はっきりと自分の心を言葉にしたら思いの外すっきりした。考える間もなく、ののかの中では答えが出ていたのだと気づく。
「困ったことに私、野々原さんに触られるのが好きみたいです」
 さっきの見知らぬ中年男性に触られたあと、野々原に触られても平気だったのがその証拠だ。むしろ、気持ちよくて眠ってしまうぐらいには気に入っているらしい。
 それに彼の言っている意味がわからないほど、ののかだって子どもではない。
「だから今、私がこうしているのは自分のためでもあります」
 自分のために生きたっていい。
(こういうときに使う言葉じゃないって、アンさんには怒られちゃうかな)
 でも、たまには欲望のままに欲しいものを欲しいと思ってもいいのではないかと思った。
 今ののかは、いつもならしないことをしている最中だから。
 そう自分に言い訳して微笑むと、今までじっとしていた野々原がののかの手の甲にキスをした。恭しく、そっと触れた彼の唇が熱いのは気のせいではない。
「どうなっても知りませんよ」
 眼鏡越しに向けられた眼差しで、身体の奥が熱くなるのがわかった。
 衣擦れの音とともに降ってきた野々原は、ののかの首筋に顔を埋める。肌に触れたやわらかな唇の感触とその熱に、腰骨のあたりが疼いた。
「んッ」
 思わず出た声に甘みが帯びているのに気づき、ののかは自分が感じているのだと理解する。途端に込み上げてきた羞恥で顔を横に向けると、彼の手がののかの指に絡みつくように重なった。そのままぎゅっと握り込まれてしまい、右手の自由を奪われる。
「ふぁ……ッ」
 漏れ出る声に反応するように、野々原はののかの肌にくちづけていく。肌を吸うその音が、ののかに安心を与えたのか。ゆっくりと、しかし着実にののかの身体から余計な力が抜けていった。
 衣擦れの音。
 肌に触れる熱い吐息。
 かすかに漏れ出る甘い声。
 触れられるところから生まれる疼く熱。
「ん……ッ、ん、ぁッ」
 ふわふわとした意識の中、ののかは野々原から与えられる快感だけを鋭敏に感じ取る。
 それは、とても簡単なことだった。――そう、野々原が教えているのかもしれない。
 ぬるま湯に浸かっているような気持ちよさを感じ始めたところで、野々原の唇が胸元に触れた。ふと視線を下げると、いつの間にかシャツワンピースのボタンが外され、胸元がはだけている。そこへくちづけながら、野々原がキャミソールをたくし上げ、ブラジャーのカップを引き下げた。ふるりと出たやわらかな胸、その頂きはつんと尖っていた。
 しかも、野々原の視線で舐めてくれと言わんばかりに硬くなる。
 あまりのはしたなさに、ののかは空いた片手で彼の目を覆っていた。
 だが、野々原はその行動を構うことなく、ぴんと勃った胸の先端を口の中に誘い込んだ。それもののかの目の前で。
「ッ、ぁあ……ッ」
 腰が高く跳ね上がった。
 口の中でちゅくちゅくと吸われ、たまらなく気持ちいい。
「ぁあッ、……あー……ッ、あ、やぁ、んんッ」
 胸を吸ういやらしい水音に混ざって甘い声が響き、快感が煽られる。
 ののかの身体はまるで自分のものではないように、野々原の愛撫に反応して勝手に動いた。しゃぶりつかれたら腰が跳ね、舌先でころころと転がされたら物欲しそうに腰が揺れる。与えられる快感の大きさによって声の甘さだけでなく、大きさまで変わった。
(何これ、何これぇ……ッ)
 声が止まらない。
 気持ちいいも、止まらなかった。
 ののかが快感に喘ぎ、身を捩る中、野々原は片手でネクタイを解き、性急にそれを引き抜くと邪魔だと言わんばかりに放る。それから、視界を遮っているはずなのに彼は胸の先端に吸い付きながらワイシャツのボタンを外していた。
 その姿は、見ていられないほどいやらしかった。
「ん、ん……ッ。あッ」
 さらに彼の手はののかの指を撫でたり、ぎゅっと握り込んできたりと丁寧に愛撫を重ねてくる。まるで大事なものでも扱うようなその手つきに、泣きそうになった。
 これはいけない。だめ。
 頭の奥で警鐘が鳴った途端、ちゅるるる、と胸の先端を吸い上げられ、背中が浮いた。
 これ以上の快感は毒だ。肌の奥に蓄積されていく快感が出口を求め彷徨い始める、まだ自分の意識が残っている間に、ののかは再びそこへ吸い付こうとする彼の額に手を当てた。
 ののかの思惑どおり、野々原の動きがぴたりと止まる。
「あ、ああああの」
「ん?」
 彼の熱っぽくかすれた声に、腰骨のあたりが甘く疼く。が、負けてはいけないと流されそうになる意識を留めて、ののかは告げた。
「ローションありますか!?」
 勢いよく言ったものだから、色気も何もない。
 さっきまでの甘い雰囲気といやらしい水音に包まれていた寝室に、変な空気が流れる。自分が作った状況とはいえ少々申し訳ない気持ちになったが、これから先に進むのならば準備は必要だ。
 それがどんなに恥ずかしいことであろうとも、自己申告は必要だと思った。
「そ、そろそろ挿れますよね。私濡れにくいんで、ローションとかあったりするとすごくありがたいといいますか……、あ、その前に野々原さんを気持ちよくしたいので、口と手だったら――」
 どっちが好きですか。
 言おうとしていた言葉の続きは、彼に手首を掴まれた拍子に喉の奥へと引っ込む。さらに野々原は、ののかの身体を引き寄せるようにして上半身を起こした。何が起きたのかわからず、彼の腕の中で目を瞬かせていると、野々原は静かにののかの後頭部を撫でる。
 よしよし、と。
「野々原……さん?」
 呆然と名前を呼ぶののかに、野々原は静かに言った。
「必要ない」
「え?」
「俺は(、、)、そんなつまらないセックスなんてしないから」
 しっかりとした声ではっきりと言われ、心臓が大きく高鳴る。

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