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今夜は君を帰さない モテすぎ医師の一途な独占欲に甘く囚われて 2

第二話

 

「あ、いえ……勝手に見て、ごめんなさい」
「ふふ、視線って意外と伝わっちゃいますね」
 そう言うと、男性はビールのグラスを軽く掲げた。
「クラフトビール、飲んだことあります?」
「いえ……ないです。なんとなく、難しそうで」
「これ、『前略、好みは俺が決める』っていうんです。ちょっと変な名前ですよね」
「はい、横で聞いていて、気になって。……盗み聞きしてすみません」
「隣なら嫌でも聞こえちゃいますから」
 男性は明るく笑って続ける。
「味も気になりません? セゾンタイプで、柚子と山椒入り。面白い味ですよ」
「セゾン?」
「ああ、ベルギー南部で昔から飲まれていたビールのスタイルのこと。口当たりが軽くて飲みやすいのが特徴かな」
「へぇ、ベルギーなんですね」
 ビールというと美晴はドイツのイメージが強い。近年日本でも盛り上がっているオクトーバーフェストのせいかもしれない。美晴も同僚と以前一度行ったことがあった。
「よかったら、試してみます?」
「えっ!?」
「もちろん、まだ口をつけてないから大丈夫ですよ」
「でも、私が先に飲んじゃったら……」
「僕はもう何度も飲んだことあるんで」
 美晴が躊躇したのは一番美味しいであろうひと口目を貰ってしまうことではない。しかし男性はまったく気にしないのか、笑顔で美晴にグラスを差し出してくる。
 好きなものを自慢するような得意げな笑顔につられ、美晴はグラスを受け取る。
「……じゃあ、いただきます」
 そっとひと口飲むと、最初に柚子の風が舌をくすぐりふわりと抜けていく。軽やかでありながら印象的な香りのあと、ぴりっとした山椒の刺激が舌に残る。喉を滑る炭酸は強すぎず爽やかさだけを感じさせた。
「わぁ……、思ってたのと全然違いました」
 これまでビールだと思っていたものとは印象が違いすぎてびっくりしてしまう。
「すごく、複雑な味。でも飲みやすくて、美味しいです」
「でしょ? 人によっては苦手って言うけど、僕はこういうの結構好きで。あなたも同じでよかった」
「なんか……個性的だけど、クセになるかも」
「うん、そういう味好きな人って、ちょっと変わり者って言われがちなんですけど」
「じゃあ私も、そのうち変わり者側に仲間入りですね」
「仲間が増えるのは大歓迎ですよ!」
 男性のおどけた言い方に美晴は思わず笑ってしまう。
「うふふ、ごめんなさい、なんだかおかしくなっちゃって、ふふふっ」
 笑っている自分に驚いて、さらに笑えて来る。それで少し肩の力が抜けたような気がした。
 笑いの発作が収まると、美晴は滲んだ涙を拭いながら頭を下げた。
「すみません、みっともないところをお見せしてしまって」
「いえ、全然。お酒は楽しく飲むのが一番ですから」
 男性はにこりと笑い、残り少なくなったグラスを掲げてみせる。どうやら美晴は自分が思っていたよりも長いこと笑っていたらしい。
「今日ちょっと……仕事でミスしちゃって、落ち込んでいたんです。でも、今笑わせてもらって……気持ちがだいぶすっきりしました。ありがとうございます」
「僕はビールをひと口シェアしただけです。感謝されるほどのことは何も。でもすっきりしたのなら、よかった」
 男性はそう言うとビールグラスを傾け、残りをひと息に飲み干してしまう。動く喉仏と男らしい顎のラインに、美晴の胸が騒いだ。先ほどまで彼に対して身構えていたのに。話をしてほんの少し距離が近づいたからだろうか。
「そうだ、よければもう少し僕にお付き合いいただけませんか?」
「えっ?」
「ほら、ビールって美味しいけどすぐお腹いっぱいになっちゃうんで。ふたりでシェアすれば色々飲めるでしょう?」
 意図が掴めず首を傾げた美晴に男性は微笑みながら説明を付け足す。
「ああ、なるほど」
 カウンターに置かれたクラフトビールの瓶はおそらく三百ミリリットル程度で、さして大きくはない。けれどひとりで何本も飲むのは確かに大変そうだ。
「私でよければ」
(もう二杯飲んでるけど……いいよね)
 ほどよく酔いが回り始めたせいか、軽く承諾の言葉を出してしまう。他のクラフトビールにも興味があったし……何よりも男性の纏う楽しそうな雰囲気が心地よかったから。
「ええと、お名前、お伺いしても? 僕は、松田(まつだ)といいます」
「梶原です」
「よし、梶原さん次は、『焙煎カカオと焙じ茶ブラウン』どうです?」
「それさっき聞いていて、すごく気になっていたんです」
「おお、さすが女性人気高いなぁ」
「味の想像がつくからかも。さっき話されていたビールの名称からだと他は全然想像できないじゃないですか」
「ああ、確かに『前略、好みは俺が決める』じゃなんの味かさっぱりわからないね」
 ははは、と松田は快活に笑う。
(思い切って飲みに来てよかった)
 美晴が求めていたのは美味しいお酒でのひと時の慰めだった。それなのにこんな素敵な出会いもついてくるなんて。
 もちろんこの店の中だけの関係だとわかっている。けれど人となんの気負いも先入観もなく話せるのは久しぶりで、本当に楽しかった。
「わ、カカオの風味すごいですね」
「これも割と変わり種だけど、うん、美味しい」
「すごく落ち着く味」
「わかる。そこはやっぱり焙じ茶のおかげかな」
 ひとつのお酒を分け合い、ただ笑い合っていると、ふたりの間に柔らかな空気が生まれる。初めて会ったはずなのに不思議な懐かしさもあった。
 松田の声は落ち着いていて、音楽やざわめきの中でも不思議と美晴にちゃんと届く。
(初対面なのに)
 会ったばかりの異性に感じるには少しだけ近すぎる感覚に美晴は戸惑いながらも、それを楽しんでもいた。
 しかし楽しい時間というのはあっという間に過ぎてしまうものだ。気づいた時にはふたりで四本もクラフトビールを空けていた。
 お腹が満たされる頃には美晴の緊張はすっかりなくなり、それどころか以前からの親しい友達のように笑い合っていた。
「おいくらでしたか?」
「ここでは……」
 美晴がお手洗いから戻ってくると、すでに会計は済まされていた。
 財布を手に問いかけると、先に店を出るように仕草で示される。確かにここでお金のやりとりをするのはスマートではない。
 扉を潜ると、外は少し冷たい風が吹いていた。しかし火照った頬にはちょうどいい。深呼吸すると、美味しいお酒と楽しい時間の余韻が、胸のあたりにじんわりと残っているのが感じられた。
「えっとお金……」
「いいですよ」
 美晴が改めて財布を出すと、やんわりと制される。
「ここは僕にご馳走させてください」
「えっ!? そんな、いいんですか?」
「お付き合いしてほしいとお願いしたのは僕の方ですから」
 そして松田はさっと両手をジャケットのポケットに突っ込んでしまう。受け取る気はないというあからさまな意思表示。ここまでされると美晴も引っ込むしかない。
「……ありがとうございます。ご馳走様でした」
 美晴が小さく頭を下げると、松田は満足げにニコッと笑った。
 自然に、連れ立って歩きだす。
 あのカウンターに座っていた時は途切れることなく話していたのに、店を出た途端、会話がぱたりと止まってしまった。けれどそれを気まずいとは感じなかった。わざわざ話さなくてもどこか繋がっている。そんな不思議な感覚。
(松田さんも同じだといいな)
 彼のおかげで、美晴の最低の一日の終わりは最高の夜になったのだから。
 路地から大通りに出たところで、松田がふと足を止めたので美晴も立ち止まる。
「仕事のミス、忘れられました?」
「えっ? ……今松田さんに言われるまで、すっかり忘れていました」
 本当に、松田といる間は欠片も思い出さなかった。あんなに落ち込んでいたのに。
「ならよかった。一緒にいる相手に笑ってもらえると、なんだか嬉しくなりますね」
「全部松田さんのおかげです」
 本当に松田といたらずっと笑っていた。こんな風に笑ったのはいつぶりだろう。仕事の疲れも、自らの不甲斐なさへの苛立ちもどこかへ行ってしまった。
(でも、ここでお別れ、かな)
 名残惜しいが、自分たちは今この時限りの関係だ。楽しい時間をくれた彼に感謝して、家に帰ろう。
「じゃあ……」
「待って」
 別れを切り出そうとした美晴の言葉を松田は遮る。美晴が目を瞬かせると、松田は視線を合わせるわけでもなく、さらりと言った。
「もしまだ時間があれば……その、もう少しお話し、しませんか?」
 さりげない口調ではあったけれど、その誘いは彼もまた美晴と同じように、名残惜しいと思ってくれているという紛れもない証拠だった。
 その言葉はお酒と楽しい時間で温まった胸の奥にすっと自然に入ってきた。断る理由など、見つからない。
「……はい」
 美晴は頬を染め、こくりと小さく頷いた。
 大通りを駅へ向かってふたりで歩きだす。先ほどと違うのは、成り行きじゃないことだ。それを自覚すると、なんだかひどく落ち着かないというか、くすぐったい気持ちになる。
 道路に目をやった松田は、通りかかったタクシーを止める。
「よければ、うちで。……すぐ近くですから」
 二度目の誘いは、少しだけぶっきらぼうだった。本当に近いのなら、このまま歩いていけばいい。そうではなくタクシーを選んだのは、逃がしたくないということなのだろう。
 この誘いの意図がわからぬほど、世間知らずではない。明らかに求められていることに、美晴の心が騒ぐ。
(どうしよう)
 楽しい気持ちを延長させ、このまま朝までどこかで話していたいという気持ちと、話すだけではわからない松田を知りたいと思う気持ちが美晴の中で揺れる。
「どうぞ」
 松田はタクシーの開いたドアの横に立ち、美晴を促す。その表情には先ほどまでは感じなかったかすかな緊張が見えて……美晴はそれを嬉しいと感じてしまった。
(私、こうなることを望んでいたのかもしれない)
 もしかしたら、店を出て名残惜しいと思ったあの時から。
 だから美晴は小さく頷いて乗り込んだ。
 車内は不思議と静かだった。年配の運転手は目的地の確認をしただけで特に何も話さず、後部座席に取り付けられたモニターに広告が流れるだけ。
「……っ」
 車がゆっくり大きく曲がる。遠心力に引っ張られて美晴の身体がわずかに傾く。隣に座る松田と肘がほんの少しだけ、触れた。
 ぶつかったというよりかすっただけ。それなのに美晴の身体は、まるで凍りついたように固まってしまった。
 さっきまで、バーで隣に座って、松田の顔を何度もまっすぐに見つめて、会話も交わした。その時は平気だったのに。
 肩が、肘が、指先が、意識していないふりをしていた距離感に、急に触れてしまった。
(こういう時、どうすればいいんだろう)
 心臓がどくどくとうるさい。
 隣の気配は動かないし、松田は何も言わない。反応もしない。しかしその沈黙が逆に美晴の中のざわめきを増幅させる。
(落ち着け、私)
 なんとか平静を装い、美晴は呼吸を整えようとする。けれど、かすかに触れた場所が、まるで傷を負ったみたいに、熱い。
 松田と話して、笑って、楽しい時間を共にして……彼は美晴にとってまったくの見知らぬ人ではなくて、互いに少しだけわかり合えた人になった。それなのに今、思考がまったく追いつかない。
 これは酔いだけのせいじゃない。距離がないことを肌で感じたせいだ。
(今からこんな調子でいて、彼の家についたら私、どうなってしまうんだろう)
 それを想像すると、触れた部分だけでなく全身が熱くなるのを美晴は感じ、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。