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今夜は君を帰さない モテすぎ医師の一途な独占欲に甘く囚われて 1

第一話

 

 目の前が暗くなると同時に、足元にぽかりと穴が開いた。あっと思う間もなく、真っ逆さまに落ちていく。落ちて、落ちて、落ちて。どこまでいくのか。いつ、底に叩きつけられるのか。
「……っ!」
 果てしなく落ちていく錯覚の末、梶原美晴(かじわらみはる)は覚醒した。ここのところ目覚めの直前に見る夢は、いつも奈落に放り出されて、終わる。
「はぁ……最悪」
 全身にじっとりと汗が滲み、なんとも言えぬ不安だけが残る覚醒は、一日の始まりだというのにちっとも爽やかになってくれない。それどころか連日悪夢での目覚めが続いているせいで、きちんと寝た気がしない。鈍く痛む頭とどことなく重い身体にはまだ疲労がへばりついていた。
「うぅ……」
 なんとかしたいところだが、すでにアロマやリカバリーウェア、ホットアイマスクなど快眠のための努力はし尽くしている。無意識下のことを簡単にどうこうできるならば苦労はない。
 ため息を吐きながら枕元のスマホを確認すれば、目覚ましのアラームが鳴るまであと二十分もあった。もう少し眠れる。しかし二度寝する気にはなれず美晴は起き上がった。
 カーテンを開ければ、窓の向こうは青空が広がっている。快晴だ。
「あぁ……いい天気」
 よかった、とほっと息を吐く。これで天気が悪ければ余計に気分が塞いでいたかもしれない。何事も始まりが大事だ。スタートで躓くと後々まで響いてしまう。
「睡眠時間はちゃんと確保してるんだけどなぁ……」
 洗顔を済ませ化粧水を頬にはたきながら美晴はひとりごちる。
 しっかり寝たはずなのに、鏡に映る顔は眼の下に隈が目立ち、頬もむくんでいるように感じる。気休めとわかっているけれど、乳液を塗りつつぐいぐいと頬を引き上げた。
「にーっ」
 まるで写真を撮る時のように美晴は鏡に向かってにこりと笑顔を作った。表情を動かすと、少しマシになった気がする。
 とびきりの美人ではない。どちらかといえば、年齢よりも下に見られがちな幼い顔立ち。しかし美晴は自分のぱっちりとした二重や大きな唇を割と気に入っていた。
「よし、今日はパン屋さん寄っちゃお!」
 早起きした分、時間には余裕がある。久しぶりに美味しいベーカリーのパンでモーニングといこう。
「何食べようかな、クロワッサンサンドもいいし、うーんクロックムッシュも捨てがたい」
 大好きなパンのことを考え始めるとようやく気持ちが上向いてくる。
 美晴は大きく伸びをして、身支度に取りかかった。

 しかし始まりが悪い日は、何もかもうまくいかないものなのかもしれない。
「せっかく買ったのになぁ……」
 足の跡がくっきりついた袋を見て、美晴はため息を吐く。
 満員の電車から降りる時、運悪く他の客とぶつかってしまい、その拍子にベーカリーの袋を取り落としてしまったのだ。さらに間の悪いことに落とした袋を違う客に蹴飛ばされた結果、お昼用にと奮発して買った中身は絶望的だ。
「今日本当に厄日だぁ……」
 何しろ出がけにスマホを落として画面にはヒビが入るし、少しテンションを上げようとつけてきたお気に入りのイヤーカフも蹴飛ばされた袋を追いかけている間にどこかに行ってしまった。
 本当に、踏んだり蹴ったりとはまさにこのことである。職場につく頃には、起き抜けに頑張って上向かせた気持ちもまた下向きに逆戻りだ。
 それでも仕事は待ってくれない。
 美晴の勤め先は首都圏を中心に多数の事業を展開する医療法人である。その中核施設である総合病院に美晴は作業療法士として勤務していた。
 作業療法士とは、リハビリの専門家だ。
 患者が病気や怪我によって低下した基本的動作能力機能の回復、さらに実践的な動作を用いて具体的な行動能力を開発したり獲得に努める。心身への機能回復ならびに社会的適応能力の回復を目指すのが特徴と言えよう。
 医師と相談しながら、患者ひとりひとりに合わせたプログラムを作成し、様々な作業を通じて訓練、指導を行い、患者が日常生活をスムーズに送れるようにしていく。
 美晴は専門学校で資格を取り、この職に就いて五年。そろそろ中堅に足を踏み入れたところだ。
 勤め先であるリハビリテーション科は、作業療法士、理学療法士、言語聴覚士の総数が百を超える大所帯である。当然、業務量は多く、毎日忙しい。
(なんか仕事してないのに疲れちゃったなぁ)
 憂鬱な気持ちが先行するのは、今日が「自分が主役ではない日」だからというわけではない。ここのところ出勤するたびに同じ状態に陥っている気がする。
(なんでこんなにやる気出ないんだろう)
 仕事自体が嫌なわけではない。ただ、小さな不幸があってもなくても、なぜか近頃毎日がひどく億劫なのだ。
(でも今日が終われば、明日、明後日は久しぶりの連休だ!)
 美晴の勤務先は回復期のリハビリテーションを提供しており、基本的に三百六十五日休みなくリハビリが行われている。そのため、勤務はシフト制で、基本休日は毎度変わる。土日の休みがないわけではないが、かなりの争奪戦だ。
 普段土日休みは家族のいる人に譲ることが多い美晴にとって、明日からの連休は本当に久しぶりのカレンダー通りの休日だった。
 連休を励みに今日を乗り切るしかない。
「梶原さんおはよう。明日から連休だったよね」
「はい。おはようございます」
 下ろしていた髪をまとめ、のそのそと更衣室で医療用スクラブに着替えていると、先輩が声をかけてくる。
「じゃあ週明けの勉強会で発表する症例レポート、今日中にお願いね」
「あっ!」
 リハビリテーション科では月に一度勉強会が開催されている。美晴は次の勉強会で発表することになっていたのだが、完全に失念していた。
「その顔、すっかり忘れていたって感じね。声かけてよかったわ」
 先輩は次の勉強会の取りまとめ役だから、わざわざ確認してくれたのだろう。
「すみません、今日中には必ず!」
「よろしくねー」
 苦笑しながら去っていく先輩を見送ると、またため息が出てしまう。
「なんか最近ほんと駄目だぁ……」
 美晴は自分の不甲斐なさにがっくりと肩を落とす。勉強会も業務のうちなので、勤務時間中に書いても問題はない。だが残念なことに連休前ということで他の仕事ですでに目一杯だ。つまり、残業確定、である。
(なんか仕事の段取り下手になっている、かも)
 転職したのは二年前で、新しい職場にはとっくに慣れたはずだ。それなのにやらなければいけない仕事を取り零してしまっている。
(いけない。ちゃんと目の前の仕事に向き合わなきゃ)
 ぱん、と両頬を叩き美晴は気合を入れる。憂鬱な金曜日はまだ始まったばかりだ。

「なんかいつも同じ動きばっかりでさぁ。これ本当に効いてるの?」
「えっ」
 不機嫌さを隠しもせずそう言い放ったのは、美晴が担当している五十代の男性患者だ。先月脳卒中で倒れ、その後遺症で右腕と右足に麻痺が残った。今は日常生活動作の改善を目指してリハビリを開始したところである。
 男性患者は苛立ちも露わに声を荒らげる。
「俺もっと早く動けるようになりたいんだよ。それなのに代わり映えしないのんきなリハビリばっかりじゃいつまで経ってもよくならないじゃないか!」
 怒鳴りつけているのと変わらない強い口調で詰め寄られ、美晴は咄嗟にどうすればいいかわからず固まってしまう。
「俺みたいに脳の血管が破れて倒れたらすぐリハビリしなきゃよくならないんだろう!? だったらもっと効果のあるリハビリさせてくれよ!」
 明るい陽の光が差し込む広いリハビリルームに大声が響く。
 この患者は容体が安定し、リハビリを始めたばかりだ。今はようやく自力で起き上がり座ることができるようになったところで、負荷の大きい動作を行うにはまだ早い。
 だが気が急くのは専門家として理解できる。誰だって突然病魔に襲われ、思うように身体が動かなくなれば苛立つし早くよくなりたいと願うものだ。
 患者の回復ペースを考慮し、安全に進めていくために段階的なアプローチを取っていたが、ぶつけられた苛立ちが美晴の心をえぐる。
「田中(たなか)さん、お気持ちはわかりますが……」
「アンタに何がわかるってんだ! 俺はもっとできるはずだ!」
 美晴の発した言葉が癇に障ったのか、患者が突如激高する。
(このままじゃまずい!)
 周囲の患者や同僚たちからの視線を感じ、美晴は慌てて説明を続ける。
「で、ですが何事にも順序というものがあります。今は身体の使い方を少しずつ覚えていく段階なので、まずはゆっくりした動きから始めるのが大事なんです。急に負荷をかけすぎると、かえって負担になって……」
「そんな風にちんたらやってたら治るもんも治らないだろうが!」
 美晴の説明を遮って患者は不満をまくし立てる。
 病気や事故で身体を損った時、魔法のように一瞬で元に戻る方法などない。地道な努力を積んでいくしかないのだ。
「ダラダラやってたらいつまで経っても仕事に戻れんだろう! もっとちゃんとやってくれ!」
「そ、そんな……」
 患者の辛い気持ちに寄り添いたいという思いはある。しかし美晴にできることは患者にとって適切なリハビリプランを作成し、側で励まし導くことだけ。
 怒声に身がすくんだ今、突きつけられた苛立ちにどう対応すべきなのかわからない。
「まあまあ、田中さん、落ち着いて」
 やりとりを見かねた主任が割って入ってくる。
「リハビリには段階がありますから。ひとつひとつ着実にクリアしていきましょう、ね? 梶原さんも少し説明足りなかったね」
 リハビリに入る前、当然家族も交えてしっかり説明はしている。こちらから強要することは何もできないのだから。
 しかし主任からそういうことにしておけと目配せされ、この場を収めるために美晴は素直に頭を下げた。
「……申し訳ありません。私の説明が足りていませんでした」
「そうそう、田中さんの気持ちは梶原さんもちゃんとわかっていますから、もう少し一緒に頑張ってみませんか?」
「あんたがそう言うなら……」
 四十を越えた男性の主任に言われた途端、患者はふんと鼻を鳴らしながらも渋々矛を収める。
「言われた通りやってはみるがね。だがもっと頼りになる人に担当してほしいよ、俺は」
 患者の最後の言葉が頭を下げたままの美晴の心に深く突き刺さった。
 リハビリが終わり患者を病棟まで送り届けた後、美晴はよろよろとスタッフステーションに戻る。今日のやりとりをきちんと記録しておかなければならなかったからだ。
 理不尽に怒鳴られることも、不機嫌をぶつけられるのもよくある話だ。先ほどのようなケースも初めてではない。壮年の男性患者の場合、年下の女性スタッフを軽視する傾向がある。だから男性の主任がわざわざ間に入ってくれたのだ。別に、珍しいことではない。
 けれどなぜか今日は、心に刺さったままの言葉が抜けてくれない。
「……はぁ……」
 大きなため息が出て、カルテを記入する手が止まる。
(『もっと頼りになる人』って……キツイなぁ……)
 年齢よりも幼く見える顔立ちから親しみやすいとは言われるが、それは裏を返せば侮られやすいということでもある。
「梶原さん、大丈夫?」
「あ、はい」
 助け舟を出してくれた主任の気遣いに、美晴は慌てて頭を下げた。
「先ほどはありがとうございました」
「さっきは災難だったね。……田中さん、ああいうタイプだとわかっていたら、違う人担当にしたのに」
「いえ、私が田中さんの気持ちをちゃんと汲みとれていなかったから……」
 ひとつずつ確実にできることを増やしていくのがいいと思っていたが、実際患者が求めていたのはスピードだ。
 主任はカルテを覗き込むと、うーんと唸る。
「少し慎重に進めすぎてたかもしれないけれど、リハビリの方向性はドクターとも相談して決めてるんだし、梶原さんひとりで背負い込むことじゃないよ」
「でも、もっと頼りになる人がいいって、言われてしまって」
 美晴の言葉に主任が苦笑する。
「患者さんの気持ちに寄り添うのはもちろんとても大事だよ。でも担当としてリードすることも必要だと思う。不満をそのまま受け止めるだけではなく、プロとして『これが最適』だと言わなきゃいけない時もある。さっきの梶原さんに足りなかったのはそこかな」
「そう、ですね……。本当に私、全然できてなくて……」
 自分よりもはるかに長いキャリアを持つ主任の言葉は重い。落ち込んだ様子の美晴を見て、主任は苦笑する。
「まあまあ、そんなに気負わなくていいって。ひとつひとつ誠実にやっていくしかないし。頑張ろう」
「はい、頑張ります」
 口ではそう言えたが、主任が去ってしまうと美晴はデスクに突っ伏してため息を吐いた。
(……頑張り方、わかんなくなってきちゃった)
 それでもなんとかカルテを記入し、立ち上がる。落ち込んだからといって仕事は待ってくれない。次の患者を迎えに美晴は病棟に向かう。しかしその足取りは重かった。

 通常よりもやや多い業務と、忘れていた勉強会用のレポートをなんとか書き終えると、当然だが終業時間はとっくに過ぎてしまっていた。
「疲れた……」
 画面が割れたスマホを見ると、美晴の口から弱音が溢れた。どこかへ消えたイヤーカフ、台無しになってしまったパン、患者とのもめ事、忘れていたレポート……。
 最悪の寝覚めから始まった今日を形作る事柄ひとつひとつは、小さい。けれどとにかく色々重なりすぎた。
「なんか、このまま帰りたくないな……」
 この落ち込んだ気持ちのまませっかくの連休を迎えたくない。どこかで気分転換をしたい。
 そんなことを考えながら、美晴はふらふらと歩きだした。
 何しろ週末だ。駅周辺の繁華街は賑わっている。けれど人の多い通りだからか、ひとりで入るには賑やかすぎる店ばかり。普段なら大抵の飲食店にはひとりでも入れるのに、今日はなぜか尻込みしてしまう。
 残業に入る前、小腹塞ぎ用としてストックしてあるシリアルバーを食べたので、そこまで空腹ではないこともあり、どうも気が乗らない。
(でも何か美味しいもの……あ)
 迷っていると、ふと細い路地の前に置かれた小さなスタンド看板が目に留まった。月と星のモチーフが描かれた看板はほどよくおしゃれで品がいい。
(よさそう、だけど……)
 店名と並んで書かれた「BAR」の文字に戸惑ってしまう。それはもう二十八歳だというのに、酒のみを楽しむ店に入ったことがなかったからだ。
 普段同僚と仕事帰りに食事に行くことはあっても、飲むのは歓迎会や忘年会などの特別な時だけ。大人数の集まりではバーのように少人数で楽しむ店は選択肢に入らない。そのためこれまでまったく縁がなかったのである。
 酒は嫌いではない。ただ美晴はひとりで店に行くほど飲兵衛ではない。飲みたいと思った時でも家で缶チューハイを数本飲めば満足してしまう。
(でもバーならひとりでいけるかも)
 今の気分を変えるために、いつもとは違うことをしてみるのはアリだ。思い直した美晴は看板の控えめな導きを頼りに路地へと足を踏み入れた。
 スタンド看板にあったものと同じモチーフが刻まれた扉を開くと、落ち着いたジャズの音色が美晴を出迎える。カウンターの背後には色とりどりのボトルが並び、間接照明の柔らかな光が店内を照らしていた。
 カウンター席には数人の客が静かにグラスを傾けており、奥のテーブル席ではカップルが密やかに語り合っている。いかにもこなれた大人の雰囲気に、慣れていない美晴は一瞬怯んでしまう。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
 店主は三十代だろうか。美晴の中にある「バーの店主」のイメージよりもだいぶ若かった。店主の笑顔に気を取り直し、促されるままカウンターの端の席にそっと腰を下ろす。
「ご来店ありがとうございます」
 席につくと、優雅な手つきでメニューが差し出される。
(うわぁ……こんなにたくさんあるんだ)
 リキュールごとにずらりとカクテルの名前が並んでいる。しかし知識のない美晴は名前からその味を想像することが難しい。
「ええ、と……ジントニックで」
 とりあえずぱっと頭に浮かんだカクテルを注文する。ジントニックは以前居酒屋で飲んだことがある数少ないカクテルで、美晴がおおよその味がわかるのはこれとカシスオレンジくらいだった。
「かしこまりました」
 店主は静かに頭を下げると、すぐさまカクテルを作り出す。
「……ふぅ」
 知らず緊張していたのか、美晴の口から小さなため息が漏れた。
(でも、第一段階は突破かな)
 そう思うと緊張よりも好奇心の方が強くなってくる。
 普段隙間時間はスマホで埋めがちだ。けれどなぜか今は画面がバキバキになったスマホを取り出す気持ちにならないのは、カウンターの向こうで自分のお酒ができていく様子が見えるからかもしれない。
 迷いのない手がグラスに大きな氷を入れていく。
(あ、シェイカーは使わないんだ)
 店主は砂時計に似た形のメジャーカップでジンを量ると、静かにトニックウォーターをグラスに注ぐ。そして持ち手の長いバースプーンで撹拌するのではなく底から氷を持ち上げるようにして馴染ませる。
 最後にひと絞りしたライムが沈められたグラスが、美晴の前に差し出された。
「お待たせいたしました。ジントニックです」
「ありがとうございます」
 きん、と冷えたグラスを美晴は両手で持ち、ひと口飲む。
「うわ、美味し……!」
 ジン独特のボタニカルなフレーバー、そしてトニックウォーターの甘さとほろ苦さが絶妙だ。喉を滑り落ちていく爽快感のあと、すうっとライムが香る。
 以前居酒屋で飲んだものと同じカクテルのはずなのに、まったく印象が違う。
(作る人によって全然違うものなんだなぁ……)
 人によって違う。そう思った瞬間、今日担当した男性患者の顔が脳裏に蘇る。
(主任が担当していたら、田中さんは多分あそこまで怒らなかった)
 同じことを説明していても、男性の主任の言葉は届くのに美晴の言葉は届かない。
 結局、何を言うかではなく、誰が言うかなのだ。
 しかしそれではどんなに努力しても美晴は何もできないままということになる。
(辛いなぁ……)
 もう大人だ。努力は必ず報われるわけでないことくらい理解できている。自分ではどうにもならぬ理不尽に責められることも珍しい話じゃない。
 全てを飲み込んで諦めてしまえば、楽になれるのだろうか。そんな問いが頭を過る。
 実際、同僚の中にはなんでも受け流して正面から取り合わない人もいる。それはそれでひとつのやり方ではあった。
 それでも今こんなに心が痛いのは、美晴が目指すところはそうではないから、なのだろう。
 ――もっと頼りになる人に担当してほしい。
 男性患者の言葉が頭の中をぐるぐると回る。
(私がこんな童顔じゃなければ、女じゃなければ、認めてもらえたのかな)
 せっかく、美味しいお酒で気分転換をしに来たというのに、どんなに考えても結局自己否定に陥ってしまう。
(そもそも今の私に人から認めてもらえるほどの価値があるのかな。両親からですら見捨てられたのに)
 思考がどんどん悪い方へと走りだそうとしたその時。
「何かお作りしましょうか」
「えっ、あ……」
 店主から声をかけられ、気づくとグラスは空っぽだった。どうやら無意識のうちに飲み干してしまっていたらしい。美晴が自覚した途端身体をアルコールが巡り、頬が熱くなってくる。
「えぇと……同じものを」
「かしこまりました」
(ジントニックって、強いのかな)
 ライムの酸味とトニックウォーターの爽やかさでまったくわからない。少なくとも、普段口にしているアルコール度数三パーセントのジュースのようなチューハイと同程度、ではなさそうだ。
(でも、美味しいし)
 美晴は新しく差し出されたジントニックに口をつける。二杯目だからかお酒が喉を滑り落ちていくたびに、じわじわと酔いが回ってくる感覚があった。
(頭がふわふわしてきた。なんか気持ちいい……)
 今日みたいな夜は、少し頭が鈍い方がいい。ぼんやりとしていれば、嫌なことを考えなくて済むのだから。
 ちびちびと二杯目を飲んでいると、扉が開く音がした。新しい客がやってきたのだろう。
(週末だもんね)
 いつもはあまり意識しないカレンダーを思い出す。古い言い方をすれば今夜は花の金曜日だ。皆思い思いの夜を楽しんでいるのだろう。
(そうだ、明日は何をしよう)
 いつも休みは溜まった家事に追われている。しかし連休だから焦って家事をしなくてもいいのだ。
(久しぶりに博物館とか行こうかな)
 シフト制の勤務に慣れると、自然とひとりで過ごすことにも慣れてしまった。
 博物館や美術館巡りは、ひとりでも楽しめる手軽な趣味だ。地方出身の美晴からすると都内には驚くほど数多くの美術館や博物館があり、常にどこかで様々な展示会が開催されていて飽きることはない。
 何度も足を運んだお気に入りの体験型施設にするか、それとも静かに鑑賞できる美術館にするか。酔いでほどよく緩んだ頭で考えていると、隣の席に誰かが腰を下ろした。
 何気なく視線を向けると、座っていてもわかるその体格のよさに驚く。おそらく身長は百八十を超えているだろう。ダークグレーのジャケットにライトブルーのシャツというシンプルな装いが、均整のとれた身体を引き立たせている。
 センターラインで分けた黒髪からのぞく凛々しい太い眉に、幅の広い二重の眼は豊かなまつげで縁どられ、黒目がちな瞳には甘やかさと男らしい強さが見えた。すっと通った鼻筋、厚い唇に大きな口、そして角ばった顎のラインは美しく整っている。
 前髪は長いのに耳の周囲が短く整えられているのでさっぱりと清潔な印象だ。整っていながら精悍な顔と出で立ちは、人の目を奪うものだった。
(うわ、カッコイイ)
 美晴は気持ち隣から離れるように座り直した。顔のいい人を見ると、なんとなく身構えてしまう。
「今日、苦味は控えめで、モルトの余韻が残るやつ、何か入ってます?」
 男性は常連なのだろう。店主に親しげに話しかける。
「なら『狐森ブラックポーター』あたり、ロースト香り強めでドライな後味ですよ。あと、都花醸造の『独奏夜曲』もフルボディで、口当たりまろやかですね」
 店主がメニューを渡しながらすらすらとそらんじる。すると男性は数度頷いてみせた。
「狐森か。あそこ酵母の風味がちょっと独特だけど、ポーターは鉄板ですもんね。うん……でも今夜はモルティ寄りかな。ホップが前に出すぎるのは、ちょっと違うかも」
 受け取ったメニューをぱらぱらとめくりながら、男性が呟く。つられて美晴もメニューを開いた。
(えっと、コモリ、ブラックポーター? どんなカクテルなんだろう)
 今聞いたばかりの名称が気になったからだ。そんなカクテルがあるなら、ちょっと飲んでみたい。しかしカクテルの数が多く、なかなか見つからない。
「では浮流ブリューイングの『焙煎カカオと焙じ茶ブラウン』なんてどうです? アルコール控えめで香り重視。女性人気も結構ありますよ」
 店主の説明に男性は「ははっ」と声を上げて笑って続ける。
「カカオと焙じ茶? なんかカフェみたいだね。でも温度が上がった時の変化が面白そう。んーでもあとにとっておこうかな」
 男性の返しに店主は一拍考えると。新たな提案を口にする。
「なら『夜葬ダークスタウト』、試してみます? アルコール度数九パーセント、夜に飲むにはちょっと危険ですが」
「いやそれ飲むならラストでしょう。スターターには重すぎる」
 うーんと悩みながら男性はメニューを眺めている。
 しばしの逡巡ののち男性はぱっと笑顔になって言った。
「じゃあ、風穴ビールの『前略、好みは俺が決める』で」
「おお、いいですね」
(あ、カクテルじゃなくてビールなんだ)
 確かにメニューの中にあったクラフトビールのページには今耳にしたばかりの不思議な名前がずらりと並んでいた。名前と共に味の特徴がひと言添えられているものの、まったく想像ができない。何しろ男性がチョイスしたのは、柚子ピールと山椒を使ったビールだ。
(酸味があってぴりっとしてるビールってこと?)
 お酒は嫌いじゃないが、正直ビールはあまり得意ではない。苦くて炭酸がきついというイメージしかなく、飲み会でとりあえず最初に頼む時くらいしか口にしない。
 よく目にするあのビールとクラフトビールは何が違うのだろう。広告や店頭で見かけてもよくわからないから美晴は手に取ったこともなかった。
(焙煎カカオと焙じ茶のは美味しそう)
 コーヒーショップのメニューにありそうなクラフトビールとは一体どんな味なのだろう。興味をそそられ、隣に意識が引っ張られてしまう。
「お待たせしました」
 店主は男性の前に空の瓶を添えてビールを差し出した。好奇心を堪えられず視線だけ動かして泡立つ琥珀色のグラスを盗み見る。芳ばしい香りがふわりと鼻先をかすめた、その時。
「気になります?」
 不意に男性から声をかけられて、美晴はぱちぱちと目を瞬かせた。こっそり見ていたつもりだったが、気づかれていたらしい。