冷酷社長に「辞めます」といったら溺愛が始まりました 天才実業家は秘書のカノジョなしでは生きていけない 2
なんとか十時のミーティングまでに資料の修正を終えたものの、その修正をしている間にも社長から次から次へと新たな指示が飛んで来る。
残業しないためには必死になるしかなく、いつも時間はあっという間に過ぎてしまう。
とはいえ、綾瀬のサポートをしているこの五年、嫌なことばかりだったわけではない。
仕事の処理能力は格段に向上したし、社長のサポートという立場から様々なプロジェクトに関わることが出来た。
鈴音の原動力の一番はお金だが、綾瀬の側にいるからこそ得られる経験もまた、鈴音にとって成長とやりがいに繋がっている。
(もう少しだけでいいから、人のこと思いやってくれればなぁ)
性格は綾瀬の唯一といっていいマイナスポイントだ。もしもそれが解消されたら人手不足に悩むことはなくなるだろう。
しかし普通の人間にとって他人を強制的に変えることはできないし、その権利もない。変えられるのは、自分だけだ。
(でも……社長がもし思いやりがあって優しかったら……それはそれで問題かも)
あの顔で性格もよいときたら、もう女性からのアプローチが嵐のように襲ってきそうだ。なにしろ中身最悪のこれまでですら、過去にストーカーまがいの付きまといに遭ったり、強引に迫られたりしているらしいと聞いている。
(これ以上の面倒はさすがにごめんだわ)
ある意味見慣れている鈴音とて場合によっては新鮮にドキドキしてしまうのだ。罪作りなのは外側だけにしてほしい。
「もうお昼かぁ」
正午少し前、鈴音はデスクで集中を解いた。
そろそろ綾瀬の昼食の手配をしなければいけない。
他の役員たちとは違い、綾瀬はカフェテリアで社員たちに交じって食事をすることはなく、予定が無ければ基本社長室に食事を取り寄せている。
「今日はどこの料理かな」
綾瀬はなかなかグルメな男だ。取り寄せる品は質素倹約をモットーとする鈴音でも知っている有名店のものばかり。だというのにコーヒーにだけはまったくこだわりがなかったのが逆に謎である。
「お、きた」
とりあえず自分の弁当を用意していると、いつものようにチャットが飛んできた。送り主は、当然のように綾瀬だ。件名も前置きもなく、一行だけ。
『外に出る』
「えぇ……嘘でしょ」
思わず嫌な声で呟いてしまったのは、この時間に外出を告げるということは、ついてこいという意味だからだ。
時折、こうして気まぐれにランチに付き合わされることがある。
しかもここ最近、妙に頻度が多くなっていた。
(テイクアウトに飽きたのかな。でも人を巻き込まないでほしいんですが!)
当然奢りだし綾瀬が連れていってくれる店は高級店ばかりだ。だがどんな美味しいご飯でもまったく会話の弾まない相手と食べたら台無しである。
階段落ちでシェイクしてしまった自作の弁当の方がずっと食べた気になる。
『お誘いいただき恐縮ですが、私は弁当を持参しておりますので、ご遠慮いたします』
すかさず断りをいれる。こういう返事を遅らせると綾瀬の機嫌はあからさまに悪くなってしまうことはもう学習済みだった。
しかし返信が届く前に目の前の扉が開く。
「……っ!?」
現れた綾瀬に絶対零度の眼差しでねめつけられる。まるでNOという選択肢など存在しないかのような圧力を感じ、鈴音は思わずすくみあがる。
「ミーティングも兼ねている。参加しろ」
「……承知しました」
鈴音はため息を押し殺し弁当箱を再び仕舞いこんだ。
連れていかれた先は、綾瀬が仕事でよく利用する高級ホテルのスイートルームだった。
話の内容や相手によって、飲食店の個室よりもホテルの部屋で食事をすることは珍しくないのだが。
(なんでふたりきりでホテルランチなの!?)
ふたりきりならそれこそいつものように社長室の方が圧倒的に楽だ。
鈴音がそんなことを思ってしまったのは、このホテルが都内でも屈指の格式を誇る高級ホテルの代表格だからである。海外要人の宿泊実績もある、本物の上質を提供する場所。
その最上階に位置するスイートルームは、二〇〇平方メートルを超える広さで、リビング・ダイニング・ベッドルームがゆったりと分かれ、まるで高級マンションのような造りになっている。
落ち着いた色味で統一された内装の部屋から見下ろせるのは、都内を一望できるパノラマビュー。家具はすべて海外製のオーダーメイドで、イタリア製のレザーソファ、クリスタルのシャンデリア、木目の美しいマホガニーのテーブルが配置されていた。最高にラグジュアリーな空間である。
テーブルには白いクロスがかけられ、そこに置かれた器は優雅な意匠の陶磁器。カトラリーは磨き込まれた銀で揃えられており、いかにも「特別な食事」であることを示していた。
ランチはフレンチのコース仕立て。前菜には彩り豊かな季節野菜のテリーヌ、魚料理は瀬戸内産スズキのポワレ、メインは和牛フィレ肉のグリル、赤ワインソース添え。パンはホテル内のブーランジェリーで焼かれたものが数種類、温かいままサーブされた。
「美味いか?」
「はい、とても」
確かに美味しい。鈴音ひとりなら絶対に選ばない料理で、味も香りも、文句のつけようがないけれど。
(食べた気がしない……)
どんなに風味豊かな前菜も、柔らかくてジューシーなフィレ肉も、焼きたてのパンもちゃんと味わえた感じがしない。ずっと綾瀬の冷たい視線が終始こちらに向けられているおかげで、とにかく落ち着かないのだ。
(はぁ……悠長にご飯食べてる暇あったら仕事させてほしい)
ミーティングだと言って連れ出した割に、そもそもふたりきり。さらに資料もノートパソコンも持ち込まれていない。
(いい加減こっちが嫌がってるって気づいてくれればいいんだけど……無理か)
それが出来る人間であれば、そもそも周囲から人が逃げ出したりはしないだろう。
彼をよく知る長谷川曰く、このランチは綾瀬の気遣い、詫びの気持ち、らしい。
確かに前日無茶ぶりされたり、早朝対応させられたりすると、今日のように急に食事に連れ出されることが多い気がする。
もちろんそうではない時もあるのだが、その代わり有名パティスリーの当日賞味期限のホールケーキや実用性ゼロのどでかい花束が届いたりするのだ。
(ホントそういうのいいから! 気持ちはお給料でいただければいいから!)
粛々と料理を口に運びながら、鈴音は心の中で叫ぶ。下手すぎる気遣いは正直ありがた迷惑だ。
服や自分のための食事に関して問題なくむしろセンスがあるのに、贈り物やこうして人を誘った時だけ壊滅的なのは、まさに人と関わるのが下手すぎるとしか言いようがない。
なんとかコース料理を食べ終わると、最後にホテルオリジナルブレンドのコーヒーが運ばれてくる。
(やっぱりこの香りが落ち着くな)
ご飯は食べた気がしなくても、コーヒーは別だ。丁寧に淹れられた一杯はなによりのごちそうである。
(うん、美味しい)
こうばしい香りと共に舌に広がる心地のいい苦味、そしてすっきりとした酸味が味気ない食事の印象を塗り替えてくれる。さすが一流ホテルのオリジナルブレンドだ。
しかし鈴音が美味しいコーヒーに浸っていると、綾瀬が薄く笑いながら唐突に呟く。
「……コーヒーは、君の方が上だな」
「えっ、あっ、う、あ、りがとう、ございます」
唐突すぎる褒め言葉と笑顔に面食らった鈴音はなんとか返事を絞り出す。
まったく忖度などしない綾瀬の褒め言葉は全部本物だ。
(いや急に褒めてくるの反則だよ……)
朝の「悪くない」には慣れたけれど、今のような不意打ちにはまったく慣れていない。
コーヒー好きの鈴音は知り合いや友達にコーヒーを振る舞う機会は多い。
けれど綾瀬はある意味鈴音がコーヒーを好きになるまで育てた相手だ。
そんな彼に有名ホテルのレストランで出されたものよりも美味しいと言ってもらえるのは、照れくさいけれど嬉しかった。
先ほどまでのもやもやした気持ちが一変、なんでも許してしまいそうな気分になってくるのだから我ながら単純だと思う。
「今夜のパーティだが」
「はい」
(あ、一応仕事の話する気あったんだ)
コーヒーを飲み終わった綾瀬が話を始めて、鈴音は姿勢を正した。
今夜パーティを開くのは、スマート都市開発向けの総合プラットフォームを提供する大企業で、かなり大口の取引先だ。
個人向けのサービスを提供しているカルトゥアと都市管理AIを連携させる構想があり、今は関係構築に努めている段階だ。
「ああ。業界内でも影響力のある会長の肝煎りで、国際案件を扱う大手企業の幹部が多数出席するはずだ」
今いるホテルに引けを取らぬ高級ホテルで行われるそのパーティの参加者は三百人を超えるはずである。
「はい、すでに主要な企業はリストアップ済みです」
鈴音の答えに満足したのか綾瀬が頷く。
「相手はこちらの技術に強い関心を持っている。今日の立ち回り次第では、有利な状況で正式な交渉に進めるだろう。松岡、君も参加するように」
「はい。元よりお供することになっていたと思いますが」
社外との対応は基本長谷川の仕事であったが、手掛ける仕事の範囲が広がるにつれ鈴音が対応することも増えていた。今回のパーティもそうだ。
しかし綾瀬の鋭い視線が鈴音の姿を確かめるように走る。
「その格好でか?」
鈴音は黙って自分の身なりを見下ろす。
朝、綾瀬に急き立てられたおかげで、最低限の化粧と適当な紺色のワンピースだ。髪もまとめただけで、アクセサリーのひとつもつけていない。
(社長が無茶ぶりしなかったら、もう少しちゃんとしてましたけどね!)
社会人なので反論はきっちり心の中でだけだ。
「ご心配には及びません。会社に着替えを用意してあります」
こんなこともあろうかと、会社には常にスーツ一式置いてある。今着ているワンピースでは公の場には相応しくないが、スーツであれば問題ない。
「駄目だ」
「えっ」
「わが社の代表として出席するのだぞ? 野暮ったいスーツなんぞ論外だ。これから服を選ぶ」
「そんな時間はありません」
「十四時半までだ」
そう言い放つなり綾瀬は席を立つ。
(えっ? 午後は確か社内で作業だったはずだけど)
鈴音は慌ててスマホのスケジュールアプリをチェックする。鈴音が把握していた通り、綾瀬のスケジュールは昼食後十四時半まで社内案件の確認となっていた。
「仕事は」
「問題ない」
どうやら午前中に全て終わらせてしまったらしい。
「社長、私はスーツで参ります」
綾瀬の選ぶパーティに相応しい服なんて着たら大変なことになる。鈴音は慌てて声を上げたが、もう遅い。
「行くぞ」
扉の前で振り返った綾瀬が、眉間にしわを寄せ言い放つ。
「……わかりました」
ため息をつく余裕も与えられない。鈴音は渋々立ち上がった。
しかし綾瀬が向かったのは外ではなくスイートルーム内の別の部屋。
「あ……」
本来はベッドルームなのだろう場所は即席のセレクトショップに早変わりしていた。人の出入りがあるのには気づいていたが、コース料理の給仕のためだとばかり思っていた。
(最初からそのつもりでホテルの食事にしたんだろうな)
どうせなら後出しではなく先に言ってほしかったと思うのはワガママだろうか。
そこからはもう綾瀬の独壇場だった。
「これは……ラインが美しくない。こちらは首元が空きすぎる」
綾瀬はスタッフを従えて用意されたドレスを一枚ずつ吟味していく。
それを着る鈴音はというとすっかり蚊帳の外で、仕方なく窓の外を眺めていた。
(仕事させてほしいなぁ……)
今こうしてぼんやりしている間にも、本日の仕事はどんどん溜まっていく。夜はパーティがある分明日以降に持ち越しになり残業となるのは目に見えていた。
元々持ち物はじっくり吟味して買う性分だ。必要だと言われても好みではない物を買うこと自体あまり気が進まない。
「社長、私は黒でいいですよ。無難だし」
「若い君が着る色じゃない」
即答され鈴音はうわあと首を引っ込める。
「君には華やかなほうがいい。周囲に埋没するようなものはだめだ」
(社長に比べたら誰だって地味な顔ですけど)
正直も過ぎると切れ味が強すぎる。だが残念なことにこんな言い方は日常茶飯事だ。
「……せめて青系統でお願いします」
あまり赤みの強い色は似合わない自覚があるのでひとつだけ注文をつける。着るのは鈴音なのだからこれくらいは許されるだろう。
「ふむ、青か」
そう言うと綾瀬は藍色のドレスを手に取り、鏡の前で軽く広げてみせた。
「これなんかはどうだ?」
シンプルなデザインだが生地に光沢があり、ほどよい煌めきを感じる。だがあまりにも飾り気がない。
「ちょっと地味すぎません?」
「いや君が着たらきっと映える」
(結局地味な顔には地味な服が似合うってこと?)
「そうですか」
一瞬喉まで出かかった言葉を飲み込むと、綾瀬は「とにかく着てみろ」とドレスを押し付けてくる。
「わかりました」
しぶしぶ受け取ると、控えていたスタッフが衝立で区切られた場所へ導いてくれた。試着スペースまで用意されていることに感心するが、個室のように壁があるわけではないからなんとなく落ち着かない。
「どうだ?」
「まだです」
待ちきれないとばかりに衝立ごしにかけられた声はどこか嬉しそうだ。
(選ぶの好きなんだろうな)
何気なく思いつき、ひとり納得する。
男の人が女の人の服を選ぶ機会なんてそう多くはない。ましてや親しく付き合っている相手ではなく会社の部下など普通はあり得ないだろう。
(そういえば社長って相手いるのかな。見たことないけど)
綾瀬に請われるままプライベートの世話までしているが、これまで異性の親しい相手を見かけたことはない。
(ていうか、上司の彼女なんて見たくないや)
一瞬過ったもやもやした感情は深堀りしてもよいことはなさそうだ。
「あ……」
着替えて鏡の前に立つと、見慣れた自分の印象がまるきり変わっていた。
背筋がすっと伸びて見えるのは、身体のラインが綺麗に出ているからだ。それでいて張りのある生地のおかげで気になる体形は目立っていない。
ハンガーにかけられた状態では地味に見えたデザインも、身に着けてみればデコルテを控えめに露出させる絶妙なカットが美しく、上品ながらも女性らしい柔らかさが引き立って見えた。
(えっ、なにこれ)
まるで誂えたかのように身体にも好みにも合いすぎていて鈴音は驚く。
「おい、まだか?」
「すみません、お待たせしました」
催促の声をかけられ、鈴音は慌てて衝立から出た。
「どう、でしょうか……?」
お伺いを立てると、しかめ面で腕組みをした綾瀬は「ふむ、悪くない」と呟く。
(よかった、これで比較的早めに終わるかも)
なんてひそかに胸を撫で降ろした鈴音の前に、今度は箱が運ばれてくる。当然、ひとつではない。
「次は靴だ」
「いえ、靴はあるもので十分……」
「ドレスに合わない」
「左様でございますか……」
箱には色とりどりの靴が並んでいる。ここまで来たら逃げられない。ため息と共に鈴音は諦めて大量の靴と向き合った。
夜、鈴音は綾瀬と共に取引先のパーティに参加していた。もちろん、パートナーとしてではなく、あくまで部下としてだ。なので鈴音は常に綾瀬の斜め後ろ、一歩下がった位置に控えるように心掛ける。
そんな鈴音を藍色のシンプルなドレスが美しく引き立てていた。控えめに開かれた首回りには細いパールのネックレスが光っている。手元にはビジューが煌めくシルバーのクラッチバッグ。足元は細かいグリッターが上品なパンプス。緩く巻いた髪は顔にかからぬようにサイドをねじってとめた巻き下ろしのハーフアップにしてある。
これらは全て綾瀬の見立てだ。
結局あの後靴と鞄、さらにアクセサリーまで押し付けられ、すべてが終わる頃には疲労困憊状態だった。ただ選ばれたものを身に着けて確認しただけなのに、なぜこうも疲れてしまうのか。
対する綾瀬は自分の思う通りのものが選べたおかげかひどく満足げであった。
メイクやヘアスタイルにまでしっかり口を出してきたあたり、徹底していると思う。
そして彼のすごいところは、ちゃんと設定した時間内にタスクを終わらせるというところだ。
服飾品の選定とヘアメイクの手配が終わったのが十四時二十分。次の仕事には余裕で間に合わせてしまった。
(ホント、服の趣味はちゃんとしてるんだよね)
鈴音は目の前にいる綾瀬の背をしみじみと眺める。
ラグジュアリーな高級ホテルの大広間。笑いさざめく人々の中、場に相応しく装った綾瀬の姿はひときわ輝いていた。
まとっているのは、艶を抑えたダークネイビーのスリーピーススーツ。一見シンプルで控えめだが、仕立ては明らかに一流だとわかるもの。イタリア製のウール地がわずかに身体の動きに沿って揺れ、立体的な肩回りと細身のウエストラインが彼のバランスのいい体格を際立たせている。
装飾品は薄型のシルバーフレームに黒革のストラップという、シンプルな腕時計のみ。
髪は耳を少し覗かせるようにサイドを軽く流し、前髪は額の左に自然に流している。その絶妙なアレンジは綾瀬の整った顔立ちをより強調している。
表情は、いつもの冷静さを保ったまま。けれどその瞳には、場を読む鋭さと、自信と実力を兼ね備えた者だけが持つ余裕が浮かんでいた。
彼が誰かに挨拶するたび、相手はわずかに背筋を正す。
紹介の場でも、綾瀬は自ら前に出ることはしない。ただ、黙ってそこに立っているだけで絵になる男は、すべての視線を自然と集めてしまう。
それが、綾瀬祥真という男だった。
(人の気持ちがわからない人なのに、こんなに人を惹きつけるんだもんなぁ)
凡人は敵うわけがない、と鈴音は心の中で白旗を上げる。
そうでなければ、綾瀬がいかに優秀だろうと、会社を大企業と渡り合えるようになるまで育て上げることはできなかったであろう。
三百人を超える参加者は、各界の名士や企業幹部、政府関係者まで含まれており、会場の空気は一種の緊張感と期待に包まれている。
そんな中、綾瀬は常に落ち着いた態度で人々に対応しながらも、視線や手の動きひとつで鈴音に指示を送ってくるから、一切気を抜けない。
「これはこれは、カルトゥアの綾瀬さんじゃありませんか。新しいシステム、先日展示会で拝見しましたよ」
「それは恐縮です。今期の都市設計コンペに関しては、御社の生活データモデルが導入される予定と耳にしましたが……」
(いつも思うけど、別人よね)
社長としての綾瀬は如才なく振る舞えるし会話も問題ない。
(会社だとあんなに酷いのは、まあ人を下に見てるからなんだろうけど)
綾瀬は実際あの会社の経営者で、鈴音は従業員なのだから、下に見られるのは当然で、なんらおかしなことはない。
微笑みを浮かべたまま綾瀬のやや後ろに寄り添っていると、どこからともなく視線を感じた。あまり気持ちのいい類のものではないとすぐに察する。
(……だからスーツの方がよかったのに)
実はパーティ用に服を買い与えられたのはこれが初めてではない。以前にも同じことを注意されて服を押し付けられている。それなのに鈴音がスーツにこだわったのは理由があった。
「素敵な方とご一緒されていらっしゃるじゃありませんか。ご紹介いただけないのですか?」
名刺を交換していると、鈴音に視線を向けながらそんなことを言われることがある。すると綾瀬は涼しい顔でこう答えるのだ。
「ああ、これは部下です」
「おやてっきりパートナーかと。失礼、今時こういうのはよくありませんね」
「いえ、どうぞお気になさらず」
長谷川に代わって綾瀬と共に公の場に出ると、私的な間柄なのではと探りが入るのである。
会社で綾瀬の後始末に翻弄しているとつい忘れてしまいがちになるが、彼は地位も名誉も金もある、誰もが一目置く人間だ。綾瀬と公私にわたって仲良くなりたいと思っている人間はそれこそ山ほどいるのだ。
いかにもなスーツ姿ならば見ただけで部下だとすぐにわかる。しかし今日のようにドレスアップしていたら紛らわしいことこの上ない。
綾瀬が鈴音にドレスを押し付けるのは、この紛らわしさを利用するためであった。
「綾瀬さんほどの方でしたら、うちの所属にもお目にかけたい者が何人かおります。お仕事の方は優秀な部下さんに任せられても……プライベートまでは、なかなかそうもいかないでしょう?」
そう密やかに声をかけてきたのは、とある芸能事務所の社長だった。グラスを片手に軽口をたたいている様を装っていたが、その目にはわかりやすい欲が見える。
こんな風に女性を紹介すると申し出られることも、珍しくはない。
「はは、今は仕事が恋人というやつですよ」
綾瀬はそう笑いながら答えると、軽く肩をすくめた。
そのまま、さりげなく鈴音の肩に手を回す。あくまで自然な動きで。
しかしその場で談笑していた者は「なるほど」と納得したように笑い、話題は自然に別のものに流れていく。
言葉ではあくまでも「部下」だとしながらも、ただの部下には見せない親しさを態度でにじませる。見る者が見ればそういう関係にしか映らないだろう。
(またかぁ……)
交流会や親睦会ならいざしらず、商談に準じた話も交わされるような集まりだというのに、綾瀬への私的な詮索は止まない。
だからこそ形だけでもめかしこんだ女性を連れて歩いている必要があるのだ。防波堤であり、都合よく使える飾りとして。
(女避けが必要なのは、わかるけど)
一方的に好意を寄せられるだけでも大変なのに、ハニートラップまがいの誘いまであるのだ。自衛するのは当然のことだと思う。
──だが鈴音はそれを命じられたわけではない。ただ、ドレスを着て参加しろと押し付けられただけだ。
(人扱いされてないんだよね、結局)
会社では使い勝手のいい手足のあるAI、そして社外では便利な防波堤。
だから上等なドレスにも華やかな空間にも心は浮き立たない。むしろ、自分の居場所はここではないという、疎外感だけが増してくる。
(……もう、いいかも)
そう何気なく思った瞬間、静かに心の中で何かが溢れたような感覚があった。これまで表面張力でなんとか堪えてきたものが、器から溢れ、零れていく。
お金のため、夢のため。そう自分に言い聞かせてきたけれど、かなり疲れていたのかもしれない。
並みの人間であれば数か月で音を上げてしまうことを、五年も続けてきたのだから、ある意味当然ではあった。
(潮時って、こういうことなんだ)
唐突に悟った鈴音は、そっと半歩下がり綾瀬と距離を取る。
「どうした」
すると目ざとく離れたことに気付いた綾瀬が振り返った。
「いいえ、なにも」
鈴音は問いかけに笑顔で応えた。
綾瀬に知らせることなど、この場ではなにもない。ただ、鈴音に限界が訪れたというだけなのだから。