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冷酷社長に「辞めます」といったら溺愛が始まりました 天才実業家は秘書のカノジョなしでは生きていけない 1

第一話

 松岡鈴音(まつおかすずね)の朝が始まるのは、まだ夜も明けきらぬ五時半だ。
「んー……っ」
 目を覚ますと、そのままベッドの上で軽くストレッチをする。寝ている間に固まってしまった身体をほぐし、温めるために。
 ほんの五分ほどでもゆっくり手足を伸ばしていると、つま先がじんわりと熱を帯びてくるのが気持ちいい。このストレッチの具合で、その日の体調もなんとなくわかるようになってきた。
 日が昇るのが早い時期は、すぐにカーテンを開ける。朝日を浴びながら身体を伸ばすと心が洗われるようで気持ちがいい。
 最後にぐっと両腕を伸ばしてベッドから降りる。
 就職と同時に住み始めた1DKのマンションが鈴音の城だ。多少築年数は古めだが、家賃の割に広いし東向きで明るく風の通る角部屋で気に入っている。
 ベッドからまっすぐキッチンへ向かうと、冷蔵庫で浸水させていたお米を土鍋に移し、火にかける。平日の朝はご飯と決めている。
 ささやかなこだわりとしてお米は炊飯器ではなく、土鍋で炊いている。最近は雑穀米の気分だ。
 冷蔵庫から米と一緒に取り出した、昨晩汲み置きしておいた水を鉄瓶で沸かす。
 以前セレクトショップでひと目惚れして購入した鉄瓶は、シンプルでモダンなデザインのもの。つまみが木製だから熱さを防いでくれるし、鉄瓶の縁にひっかけることができるようにもなっていて、実用性の高さも気に入っている。
 鉄瓶と土鍋を沸かしている間に、朝の身支度だ。
 化粧水をパッティングしながらお肌の調子を確認する。最近睡眠が足りていないから荒れ気味だけれど、今朝の感じは悪くない。昨日の夜じっくりとリンパマッサージをしたおかげか輪郭がすっきりしているように見えた。
 鏡には二十八歳の鈴音の素顔が映っている。顎下で切りそろえたボブヘアは、艶重視のブラウン。目尻が上向きなせいか、少し勝気に見える瞳、ころんとした鼻、薄い唇。特別美人ではない。
 でもまあ、悪くもない。
 自分のことは、自分が一番認めてあげるべきだと思っている。とはいえ、ストレートに自分をほめることはなかなか難しい。せめてとこうして鏡を見るたびに、なるべくポジティブな言葉を口にすることにしていた。言葉には力があるから。
 ひと通りのお手入れが終わる頃。ちょうどよく鉄瓶からはしゅんしゅんと勢いよく湯気が噴き出ているし、土鍋も沸騰している。
 炊きあがりまであと少し。朝のひと息を入れるタイミングだ。
「あちち……」
 土鍋の火を弱くしたあと、白湯を入れたマグを持って、ベランダに続く掃き出し窓を開ける。マグはお気に入りの益子焼きのもの。陶器が手に吸い付く感覚がとてもいい。
 天気予報を見る前に空の色と風を感じるのが好きだ。風の温度、空気の匂い、一度として同じ景色のない空は見ていて飽きない。
 湯気のたつマグを高く掲げ、写真を撮る。これも日課だ。
 空を眺めながら白湯を飲んでいると、身体がじんわりと温かくなってくる。
 エンジンがかかってきた証拠だ。
 この白湯を飲む時間はスイッチを切り替える大事な儀式だった。
 白湯で身体を温めていると、タイマーの音が聞こえた。
「おっと、ご飯ご飯」
 土鍋の火を消して、もう一度タイマーをかける。今度は十分。
 蒸らしている間に、お弁当のおかずと朝食作りだ。これまではのんびりモードだったが、ここからは十分という時間を意識して、手早く動く。
 鉄瓶のお湯を小鍋に移し、玉子を茹でる。
 朝食は基本的にご飯、納豆、玉子、味噌汁と決めている。だから、何も考えずに手が動く。
 今朝は、定番の半熟玉子。ベストは沸騰したお湯に、冷蔵庫から出したての冷たい玉子を七分半。
 お弁当は、茶色、緑、黄色や赤、橙色のおかずをそれぞれ詰めるのがマイルール。今日は赤パプリカのおかか和え、スナップエンドウのナムル、豚こま肉の梅しそ焼き。お弁当のおかずは休日に下ごしらえしてあるので、ほとんど火を通すだけで完成だ。
 三品を作り終えて保冷剤を下に敷いたところでタイマーが鳴った。
「よしっ!」
 タイマーより早く作り終えると、ちょっとした達成感がある。
 炊きたてのご飯を曲げわっぱのお弁当箱とお茶碗によそい、朝食をひとり用のダイニングテーブルに並べる。手早くそれぞれの画像を撮るのも慣れたもの。
「いただきます」
 ひとりだけでもご飯を食べる時、挨拶は欠かさない。
 エッグスタンドにのせた半熟の玉子をスプーンで食べるのは最高に美味しい。塩だけでもいけるし、出汁醤油を垂らしてもいいし、納豆と混ぜて食べる時もある。
 今朝のお味噌汁は揚げナスと豆腐。ナスのとろっとした食感がたまらない。
 どれもいつも同じでいつも美味しい。
 逆に飽きることがないものに落ち着いたとも言える。
 使っている食器──茶碗もお椀も納豆を入れたそば猪口も、ひとつひとつ全部気に入って買いそろえたものだから、使うたびに楽しくなる。
 最後にまとめて片付けだ。洗った食器は必ずふきんで拭いて棚に戻し、シンクやワークトップも同じように拭きあげる。
 何事もきちんとしていなければ気のすまない性分だ。
 時間も手順も自分が決めた通りに進むのが一番落ち着くし安心する。
 朝のルーティンにこだわるのも、好きというのもあるが、何より心の平穏を保つのに必要だから。
 全てが綺麗に片付いたキッチンで、改めてコーヒーを淹れようとした、その時。
 ダイニングテーブルに置き去りにしていたスマホが、震えて不快な音をたてた──。
「嘘でしょ?」
 ぎぎぎと音を立てるようなぎこちなさで、鈴音は背後にあるスマホを振り返る。
 こんな時間に届く知らせなど、碌なものではない。というか、送ってくる人などひとりしか思い浮かばない。
 しかしわかっていても、確認しないわけにはいかない。……何度か気づかなかったり意図的に無視したことがあるが、その方がよっほど大変なことになってしまった。
 スマホを手にとった鈴音は、そろそろと薄目でプッシュ通知を見る。
 はたしてメッセージの差出人は、鈴音の予想通りの相手だった。
『十時のミーティング用資料、添付したユーザーログを反映した新バージョンに差し替えておくように。グラフ構成も変更すること』
「うわーこれ本気!?」
 容赦のない指示に鈴音は頭を抱える。
 送り主は簡単に言うが、この資料は先日残業までして作成したものだ。九時の始業から作り直したら、十時からのミーテングには絶対に間に合わない。
「あーもう!」
 残念ながらいい感じの朝はここまでだ。コーヒーを淹れている時間などない。鈴音は大急ぎで弁当を詰め、最低限の身支度を整え部屋を飛び出した。


「わっ、とっとっ、ひゃあぁっ!」
 ぐらり、と身体が傾いで鈴音は慌てて手すりにしがみつく。二段飛ばしで階段を駆け下りようとしたらバランスを崩してしまったのだ。
 なんとか転がり落ちるのは堪えたが、そのかわり手に持っていたランチトートが犠牲になり転がっていく。
「あぁ……」
(せっかく綺麗にできたのに)
 ため息を吐きながら階段を降り、トートバッグを拾い上げる。しっかりハンカチで結んであるので、弁当の中身が飛び出したりはしていない。ただ、弁当箱の中は悲惨なことになっているだろう。
 今日の始まりは本当に最高だったのに。
 どうしてこんなことになっているのか。
(そんなの、社長のせいですけど!)
 今度こそ落とすものか。鈴音はランチトートの持ち手をしっかり握り、また駆け出した。
 社長のサポート業務全般、それが鈴音の仕事である。
 世間一般的にいうと社長秘書が最も近いだろう。言い換えるとずいぶん優雅なポジションに見えるが、実際は……。
(……ただの便利屋よね)
 時間外の無茶ぶりにイライラしつつも、鈴音は駆け込んだ会社のパソコンに向かう。電車に乗っている時間も無駄にはせずデータの確認に励んだのであとは形にするだけだ。
「つーかこのデータが更新されたの夜中じゃん……。寝てよもぉー! 時間外労働するな!」
 悪態でなんとか気持ちを奮い立たせながら必死でキーボードをたたく。とにかく早くしなければ。……あの人が、来てしまう。
 そして始業時間ぴったりに、社長室の扉が開いた。
(きたっ!)
 鈴音はすかさず立ち上がり、足音を響かせて入室してきた男に頭を下げる。
「おはようございます。綾瀬(あやせ)社長」
 現れたのはこの会社──株式会社カルトゥアの代表取締役社長、綾瀬祥真(しょうま)だ。
 鈴音の勤め先である株式会社カルトゥアは、AIによるパーソナルライフアシストアプリの開発、運営をしている会社である。
 社名は“Cultivate(育てる)” “Future(未来)” “Culture(文化)”を掛け合わせた造語で、「人間の暮らしそのものを“育てる文化”として再設計する」ことをミッションとする、ライフスタイル革新系のIT企業だ。今業界では最も勢いのある企業であると言われている。
 そんなこの会社をたったひとりで築き上げたのが、綾瀬である。業界内外から注目されている、三十二歳の若き天才実業家。
 彼を見た時、人はまずその恵まれた体格に驚くだろう。百八十を軽く超えた身体はスーツを着ていてもわかるくらいたくましい。
 けれどそこに暑苦しさを感じないのは、その切れ長の瞳のせいかもしれない。決して派手な顔立ちではない。しかし眼差しは深く、感情を読み取らせないように抑え込んだその目元には、研ぎ澄まされた集中力と、どこか近づきがたい鋭さがある。
 形のよい眉は表情を動かすたびに、その存在感が浮かび上がる。すっと通った鼻筋と、輪郭のはっきりした頬のライン。横顔には無駄な装飾が一切なく、まるで彫刻のように凜としている。
 彼の顔には、威圧も、優しさも、色気もある。どれも極端ではないのに圧倒的だ。俳優やモデルならば、その眼差しひとつでさぞかし多くの人の心をつかみ翻弄しただろう。
 実際、今だって経済紙やニュースサイト以外の媒体、いわゆるファッション誌や女性向けの媒体からの取材依頼がひっきりなしだ。
(顔だけはいいんだよね、顔だけは!)
「松岡。資料は?」
「……今お送りします」
 顔をひきつらせた鈴音からの挨拶に応えることもなく、綾瀬はまっすぐ自分のデスクに向かっていく。さっさとパーテーションで区切られた先へ行ってしまった綾瀬の姿を見て、特大のため息が出た。
(あなた一体何時に指示出したか忘れたのかな!? 七時前ですよ!? それで九時に出来てるの控えめに言って奇跡ですけど!? ていうかおはようくらい言いなさいよ!)
 気を抜いたら口から飛び出しそうになる文句を鈴音は必死で飲み込む。
「……はぁ」
 もう一度特大のため息を落として、鈴音は出来たばかりのミーティング資料を共有フォルダに移動させ、席を立った。
 社長に朝の一杯を淹れるためだ。
 給湯室でミネラルウォーターをケトルに入れ、IHコンロにかける。綾瀬は社員用のコーヒーサーバーやインスタントだと飲んでくれない。だからわざわざ一杯ずつ淹れなければならないのだ。しかも、豆の状態から。
(ひとにやってもらうなら、まずは感謝してほしいわ)
 言葉は人間関係の潤滑油である。たとえ思ってもいないことでも、人を傷つける嘘でない限り、それでうまくいくならいいと鈴音は思う派だ。
「松岡、おはよう」
「おはようございます、長谷川(はせがわ)主任」
 心を無にして豆を挽いていると、上司である長谷川が顔をのぞかせた。
「うーん、今朝は何があったのかな?」
 どうやらどこからか鈴音が早朝会社に駆け込んできたことを聞いたらしい。
「……社長から七時前にミーティング資料を修正しろときまして」
「うわー相変わらずの無茶ぶりだ。大丈夫だった?」
「一応、修正は間に合いました」
「資料って残業して作ってたアレだろ? よく間に合ったね」
「これで資料が出来てないって言ったら地獄の『なぜなぜ』攻撃ですから」
「ははっ、違いない」
 全ての事情を知っている長谷川が愉快そうに笑う。
 世間からもてはやされる天才実業家の素顔は、すべてが自分基準だ。
 自分が出来ることは誰もが当然できる前提で、できなければ心底わからないという顔で「なぜできないのか説明しろ。どうすればできるようになるのか考えろ」と彼の満足いく答えが出せるまでずっと詰問される。
 決して人格否定などはしない。しかし個人の能力をまったく考慮しないその問いかけは一歩間違えば完全なパワハラである。
 野球でバッターボックスに立つ者全員ホームランを打てたら苦労はしない。
 それでもみんな必死で頑張って塁に出ているのだ。誰もが天才と同じ考えや行動ができるわけではないのだから。
 凡人には凡人なりのペースがある。それを綾瀬は人を使う立場であるにもかかわらず理解してくれない。
「松岡が社長の無茶ぶりを一手に引き受けてくれるおかげで助かるわ」
「長谷川主任、いつでも代わってもらって構いませんが?」
 長谷川は現在五人いる綾瀬直属のサポートメンバーのまとめ役だ。鈴音の業務を引き受けてもらってもなんら問題ない。しかし長谷川は肩をすくめて首を振る。
「遠慮しとくよ。あの社長の面倒これ以上見なきゃならんのはさすがに勘弁」
「私も勘弁なんですけど」
 社員の中には、不可能を可能にしてしまうその剛腕や、整った容姿に心酔している者もいる。
 しかし最も近くで振り回されている鈴音をはじめ、サポートメンバーからすれば綾瀬は極めて面倒な上司でしかない。
「でもその分手当出てるだろう?」
 綾瀬の業務量は他の役員に比べて桁違いに多い。そのためサポートメンバーはどうしても必要になるのだが、何しろ彼の性格からまったく長続きしない。
 無茶ぶりと激辛対応、さらに悪気はゼロだが氷点下の駄目出しにくわえて繰り出される「なぜなぜ」攻撃に耐えられる者がいないのだ。
 そんな中鈴音は新卒で入社して以来、ずっと綾瀬に食らいついている唯一の存在だ。
 しかし鈴音は人より優秀なわけではない。鈴音が必死で仕事をしているのには、理由がある。
「給料が高くなかったら、やりませんよこんなの」
 そう、綾瀬のサポートメンバーはとにかく給料がいいのだ。人が逃げるごとに手当を上げ続けた結果そうなってしまったらしい。ちなみに通称「社長手当」と呼ばれている。
「それに長谷川主任だってもらってるじゃないですか」
 鈴音が唇を尖らせると、長谷川は苦笑する。
「でも俺らの中では松岡が一番でしょ」
「それは、まあ否定しませんけど」
 社長手当は定額ではない。業務量に応じて増える。それを判断しているのは社長である綾瀬本人だ。
 綾瀬は凡人の気持ちがわからないある種のモンスターだが、仕事に対しては公明正大である。やりがい搾取のようなことも絶対にしない。
 だからこそ、社員たちから畏れられはしているものの、嫌われてはいないのだ。
 現在のサポートメンバーの中で一番手当がついているのは間違いなく鈴音だろう。
 今淹れているコーヒーだって、仕事以外のことになると途端に言語化をやめる社長から根気強く好みを聞き取って用意したものだ。
「だって私仕事以外のこともしてますからね」
 コーヒーを淹れるようになってからの鈴音は、業務に関することだけではなく、今や綾瀬のプライベートでの買い物や家事代行サービスの依頼まで肩代わりしている。
「それがホントすごいよ。俺には絶対無理だわ」
「もらった分は働きますってだけです」
 当然その分の働きも手当で支給されているのでその点について文句はない。
「逆にそろそろ社長の面倒みるのが楽しくなってきたんじゃない?」
「全然!」
 長谷川のからかいに鈴音はあり得ないとばかりに手を振る。
「社長はどうでもいいことを私に丸投げしてるだけですから。仕事自体にはやりがいもありますけど、社長のプライベートなことなんて本当にどうでもいいです」
 優秀な綾瀬は当然身の回りのこともできる。だがそれをするのは自分自身でなくてもいいから鈴音にやらせているだけだ。仕事以外に己のリソースを割きたくないというある意味清々しいほどの割り切りでしかない。
 鈴音の扱いだって特別でもなんでもなく、AIアシスタントとなんらかわりはないのだ。ただ、手足がついていて便利という感じだろう。
「仕事だから残業はある程度仕方ないですけど、早朝対応は本当に止めてほしいです」
「それ俺も社長にお願いしてるんだけどなぁ。あの通りだから……。松岡が対応してくれてかなり助かってるよ」
 たいていの社員が数か月で音を上げてしまうので、サポートメンバーは本当に長続きしない。
 鈴音より長くサポート業務に就いている長谷川は綾瀬の大学の後輩で、その性格を若い頃から知っている人間である。だからなんとか続いているのだ。
 しかしそんな長谷川でも結婚して子供が生まれた時、この働き方は続かないからと一度異動している。だが結果他のメンバーだけではまったく仕事が回らず、拝み倒されて出戻ってきたという過去があった。
 それだけ、綾瀬の側で働ける人間は貴重なのだ。
 そんな中新卒で入社し、サポートメンバーとして配属になってから、鈴音はずっと社長の世話を焼き続けている。なので鈴音は自分がかなり重用されている自覚はちゃんとあった。
(でも誰にも憧れたりしてもらえないけど!)
「いつも申し訳ない」
「わかってますよ。お子さんいらっしゃるなら朝は厳しいですよね」
 いくら上役とはいえ、子供を保育園に預けてからでなければ動けない長谷川に時間外労働を押し付けるのはさすがにできない。
「せめてもう少し社長の人当たりがよくなるといいんですけど」
 すると長谷川は肩をすくめてみせた。
「昔はあそこまでじゃなかったんだよなぁ」
「そうなんですか!?」
 てっきり昔から傍若無人なのかと思っていた。若いころのほうが謙虚だったのだろうか。
「あの人、会社作ってからはエネルギーを仕事に全振りしちゃってるから。他のことに気を遣えないんだと思うよ」
「それだって限度ってものがありますよ!」
 苦笑した長谷川に鈴音が思わず頬を膨らませる。
「まあまあ、今日早朝出勤した分も時間外労働ちゃんとつけといてな」
「当然です!」
「はは、その意気だ」
 長谷川は笑うと、手早く自分のコーヒーを用意し始める。とはいえ、コーヒーサーバーを使えばボタンひとつだ。
 その横で鈴音は沸いたケトルからお湯を注いでフィルターの湯通しをする。豆をドリッパーにセットする前のこだわり。
(このひと手間で味が変わるんだよね)
 丁寧な暮らしを愛する鈴音にとって、コーヒーを淹れるという作業自体は楽しいものである。だからついついあれこれ工夫してしまう。
 湯通しに使ったお湯はカップに入れて温める用にも使うので無駄はない。
 その後挽いた豆をフィルターにセットし、お湯をひと回し。豆全体がお湯を含んでふくふくと膨らむのを待ち、ゆっくりとお湯を注いでいく。
 この時たちのぼるコーヒーの香りが鈴音は大好きだった。
(急に呼び出されなければ家で淹れて来られたのにな)
 朝の至福の時間を台無しにされたことを思い出し、苛立ちが蘇ってくる。酷い時はもっと早くに呼び出されることも多い。今日はまだ弁当を作れただけましだった。
(朝の時間だけはなんとか確保したいんだけど)
 社長の無茶ぶりや回される仕事に日々追われている中で、鈴音にとって朝だけが癒しであり自分を保つ特別な時間だ。ある意味精神安定剤のようなもの。
 それも近頃頻繁に邪魔されているので地味に辛い。
「ま、あんまり社長甘やかすなよ?」
「え?」
 集中していたところ、横から思いもよらぬ言葉を投げかけられ、鈴音は目を瞬かせる。
「どこが甘やかしてるって言うんですか。こっちが振り回されてるのに」
 唇を尖らせて抗議した鈴音に、長谷川は苦笑しながら続けた。
「特別なのはコーヒーだけにしといてくれってこと」
 五年前、綾瀬の飲んでいたコーヒーはインスタントだった。それも、目一杯粉をぶち込んだどろどろのしろもの。彼にとってコーヒーとは苦みとカフェインで頭を働かせるためだけの飲み物だったのだ。
 そんな彼に健康に悪いからと止めるように進言し、好みを根気強く聞き出してその通りのコーヒーを淹れ、いっぱしのコーヒー通にまで育ててしまったのは鈴音である。
「おかげで松岡が休みの時大変なんだぞ」
「うっ、でも、でも! 許せなかったんです……あんな泥水みたいなコーヒー!」
「ま、好きだとつい力が入るのはわかるけどさ。ほどほどにな」
「……はい」
 この給湯室にある豆も、道具も、すべて鈴音が選んで揃えたものだ。代金は綾瀬持ちだからと普段使いではなくより上質なものを取り寄せた。そこに私情が全くなかったとはさすがに言えない。それを長谷川は知っているのだ。
「じゃあ、よろしく頼むわ」
 自分の分を手に去っていく長谷川を見送り、コーヒーが落ち切るのを待つ。
「別に甘やかしてないし。あんなコーヒー飲んでるの、無理だったってだけだし」
 誰に聞かせるでもなく鈴音は言い訳を呟く。
 鈴音はコーヒーを淹れるのも飲むのも好きだ。だからこそ泥水みたいなコーヒーを飲んでいる綾瀬が許せなかった。
 ただその結果、綾瀬から私生活に関わることまで業務で頼まれるようになり、余計な仕事を抱え込むことになってしまったのである。
(まさに、自業自得)
 はぁ、とため息を吐きながら、鈴音はスマホを取り出す。そこに鈴音のもうひとつの精神安定剤がある。
(いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん、ひゃくまん……)
 アプリを開き、口座の残高を数えていると、自然に口元が緩んでくる。忙しければ忙しいだけ、癒しの時間は無くなるが、残高は増えてくれる。
 この五年必死にモンスター社長に食らいついて来たのは、このため。
 鈴音には、叶えたい夢がある。そのためにはお金が必要だった。
「あともう少し……」
 もうすぐ目標金額が貯まる。それをこうして確認すれば、これから嫌な仕事が待っているとわかっていても、なんとかやっていける。
 この五年、毎日のように繰り返してきたこと。
「よし、がんばろ!」
 淹れ終えたコーヒーをカップに注ぎ、社長室に戻る。
「社長、コーヒーをお持ちしました」
「うむ」
 いつもの位置にカップを置くなり手が伸びてきて、綾瀬は流れるようにコーヒーをひと口飲む。この瞬間だけはいつも緊張してしまう。
「悪くない」
「ありがとうございます」
(よーし!)
 鈴音は思わず心の中でガッツポーズを決める。綾瀬の「悪くない」はほぼ最上級の褒め言葉だ。
(資料の修正もできたし、一日の滑り出しとしてはまずまずかな)
「松岡」
「は、はいっ!」
 気分よく去ろうとしたところ名を呼ばれ、びくんと身体が跳ねる。
「修正指示は入れてある」
「……はい」
 どうやら先ほどまで必死になって作り直した資料に合格点はもらえなかったらしい。
「うわ……はぁ」
 返ってきた資料を見れば、この短い間にどうやってと思うほど指摘が入っていた。
(甘やかして欲しいのはこっちだよ……)
 鈴音はため息を吐いて資料の修正に取り掛かった。