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冷酷社長に「辞めます」といったら溺愛が始まりました 天才実業家は秘書のカノジョなしでは生きていけない 3

第三話

 手配された送迎の車に乗り込むと、綾瀬はわかりやすく笑みを消した。まるでスイッチをオフにするかのように変わった表情を見て、いつものことだが感心してしまう。
(社長でもやっぱりパーティモードは疲れるのね)
 しかし頬杖をつきながら窓の外へ視線を投げる綾瀬に、くたびれた様子は一切感じられない。夜のネオンが彼の横顔を淡く照らすたび、その輪郭が浮かび上がって、また闇に溶ける。それはまるで映画のワンシーンのように決まっていた。
(カッコいい人は何をしててもカッコいいってことか)
 終わりを意識したことで、鈴音は久しぶりに客観的な目で綾瀬を見ることができた気がした。
(本当に、顔はいいんだよね、顔は)
 綾瀬は、悪い人間ではない。ただ、鈴音は自分を物のように扱う人間の側にいるのはしんどいし、お金ではもう堪えられなくなった。ただそれだけの話だ。
 それなのになぜか、胸の奥が痛い。
「お疲れさまでした。本日の業務はこれで終了となります。直帰なさいますか」
「いや、社に戻る」
「承知いたしました」
 夜も更けた東京の街は、まだ賑やかに輝いている。しかし車窓ひとつ隔てただけで、ずいぶん遠いもののように思えてくる。
 車の中は静かだった。聞こえるのは、タイヤが路面を滑る低い音と、時折車体が揺れるリズムだけ。
「それで、明日の予定ですが……」
「今日のドレス、よく似合っていた」
「えっ……?」
 タブレットを操作する鈴音の言葉を遮って発せられた唐突な綾瀬のひと言に、一瞬耳を疑う。
(今、褒めた!?)
 驚いて顔を向けると、彼はまだ外を見ていた。そのまま照れも冗談も含まない、いつもの淡々とした調子で続ける。
「君はいつも安っぽい服を着ているが、もう少しよいものを着るべきだ」
「……ありがとうございます。今後の参考にさせていただきます」
(ですよねぇ)
 綾瀬が褒めたのは鈴音ではなく彼が選んだドレスだ。真正面から鈴音の服は貶されたが、通勤服が安物なのは本当のことなのであまり怒りは湧いてこない。むしろどこか清々しい気持ちになってくるのだから不思議なものだ。
(何を期待したんだろう、私)
 綾瀬から、褒められたかったのだろうか。
 それとも、認められたかったのだろうか。
 もうどちらでもいいやと鈴音は考えることを放棄した。
 答えの出ない問いにかかずらっているのは、時間と労力の無駄遣いだ──と思って鈴音は苦笑する。
(いつの間にか社長に影響されてたみたい)
 本来の鈴音は、時間と労力の無駄遣いと呼ばれるようなことが好きだ。
 なんでも手に入る世の中で、わざわざひと手間をかけて暮らし、それを楽しむことこそ鈴音のやりたいことである。
「社長」
「なんだ」
 だから終わりの言葉はすんなりと口から出てきてくれた。
「今月末で、辞めさせていただきます」
 短く、まっすぐな鈴音の言葉に、綾瀬の手がぴくりと膝の上で動いた。
「なぜ?」
 間髪を容れずに理由を問われ鈴音は驚いてしまう。
「理由が必要ですか?」
 これまで他の社員たちが逃げて行った際、理由を問うどころか「そうか」以上の反応はなかったのに。
「ああ、必要だ。なぜ辞める?」
 こちらを見もしないくせに理由だけ問われる意味が分からず、鈴音は戸惑う。まるで仕事のようではないか。
(まあ、一応それなりの愛着というか、便利には思ってくれてたってことかな)
 多少なりとも無くしたら惜しいと感じたのなら、少しだけ胸がすく。綾瀬からすれば全然足りてないだろうけれど、鈴音は精一杯頑張ってきたのだから。
「ずっと夢だったことを実現したいと思いまして」
「初耳だ」
「ええ、今初めて言いました」
「それで、夢とは?」
(あ、追及してくるんだ)
 どうやら「夢の実現」は綾瀬からすると理由として納得できるものではなかったらしい。
「田舎でカフェをやりたいんです」
 鈴音の夢、それは田舎でスローライフを送りながらカフェを経営することだ。
「はぁ? 本気か?」
 あからさまに鼻で笑われる。しかし腹は立たなかった。そういう反応が来るだろうとわかっていたから誰にも話さずに来たのだ。
 若い女がカフェをやりたいなんて、いかにもふわふわした夢物語にしか聞こえないだろう。特に、綾瀬のようなタイプの人間にとっては。
「本気ですよ」
「俺が聞いていなかっただけか? 長谷川は知っていたのか?」
「いえ、社長だけでなく会社の方にはどなたにも話していません」
 ここでなぜ長谷川の名が出て来るのかわからないが、綾瀬だけでなく基本的に同僚にも一切話していない。
 夢だったと表現したが、鈴音にとってカフェを開業することは、いつか叶うといいなという希望ではなく明確な「目標」だった。
 目標を達成するためには、どうすればいいか。計画を練り、粛々と決めたことを実行していくだけだ。それを教えてくれたのは他でもない綾瀬である。
「明日には退職書類を提出します。引き継ぎの後は有休消化に入りますから、よろしくお願いします」
「……もう、決めたのか」
「はい」
 綾瀬の声が、かすかに震えているように聞こえた。けれど鈴音は前を見たままはっきりと頷く。
 沈黙が後部座席の空気の温度を下げていくのが肌でわかった。しかし退職を願い出たことに後悔はない。
 なにしろもうやりたいことと正反対の生活をする気力が尽きてしまった。一番の原動力であったはずのお金ですら引き留められないほどに。
 静寂に包まれた車はやがて社屋の前に辿り着く。鈴音はいつものように先に降り、あとから降りてくる綾瀬を待った。
(寒い)
 夜風に二の腕を撫でられ、ふとそちらに気を取られたその時。眩い光が視界を裂いた。
 反射的に光の方へ視線を向けた瞬間、それはもう目の前まで迫っていた。
(えっ)
「危ない!」
「きゃぁっ!」
 力強い腕に引っ張られ視界が回転する。歩道に倒れ伏した直後、ブレーキ音とタイヤが軋む音、続いてドンと硬いもの同士がぶつかったような音が響いた。
(な、何が起きたの?)
 すべてが瞬く間の出来事で、今自分の身に何が起きたのか鈴音はとっさに理解できなかった。
「大丈夫ですか!?」
 誰かが叫ぶ声で、鈴音は我に返る。見れば先ほどまで乗っていた車に乗用車が突っ込んでいた。後部座席部分がぐしゃりとつぶれている様を見て血の気が引く。
(そうだ、倒れたのにどこも痛くない)
「大丈夫、です……っ!?」
 立ち上がろうとしたその時、たくましい腕に己が抱えられていたことに鈴音は気づいた。
「しゃ、社長!?」
 鈴音を守るようにしっかりと抱きかかえた綾瀬の額からは、血がひと筋流れ、こめかみを伝っていた。
「社長! 大丈夫ですか!? 社長っ!」
 呼びかけても返事はない。
「しっかりしてくださいっ!!」
 通りかかった人たちが慌てたように救急車を呼ぶのを遠く聞きながら、鈴音は綾瀬に呼びかけ続けた。


 深夜の病院の廊下は半ば照明も落とされ、しんと静まり返っている。鈴音は救急外来の処置室の前にある待合椅子に座り、綾瀬を待っていた。
(大丈夫、だよね……)
 祈るような心地で鈴音は閉ざされたままの処置室の扉を見る。
 綾瀬と鈴音が乗っていた車はスピードを出しすぎてコントロールを失った車に衝突された。運転手も怪我をしており、車を降りるのが少しでも遅かったらと思うとぞっとする。
 鈴音が奇跡的に無傷だったのは、綾瀬が身を挺してかばってくれたからだ。
 頭を強く打ち出血していた綾瀬は、救急車で搬送されている間も意識を失ったままだった。
(もし、このまま目覚めなかったら……)
 静かな病院では思考を遮るものはない。そのせいかどんどん悪い想像ばかりが湧き上がってくる。先ほど見た、目を閉じたままの綾瀬の顔が頭から離れない。
(私のせいだ)
 綾瀬だけだったら、きっとうまくかわせたはずだ。それなのに鈴音をかばったことで余計な怪我を負わせてしまった。車が向かってきているのをこの目でちゃんと見たのに、何もできなかった自分が情けなくて申し訳なくて……胸が痛い。
 自分の無力さに打ちひしがれながら、鈴音は膝の上でバッグを抱え込む。
 そこへばたばたと場違いな足音が近づいてきた。
「松岡!」
「あ……」
 名を呼ばれ我に返った鈴音はふらふらと立ち上がった。
「すみません、長谷川主任。こんな時間に」
 連絡を受けた長谷川が駆けつけてくれたのだ。
「事故に遭った人間がそんなこと気にしなくていい。怪我は?」
「私は大丈夫です。ただ、その」
 かたかたと細かく震える手を鈴音はぎゅっと握りしめる。
「社長が頭を打って、まだ、意識が戻らなくて……」
「そうか……」
 長谷川が疲れたようなため息を吐く。
「あの、社長のご家族には」
 スタッフとして鈴音は綾瀬の生活までサポートしていたが、本当の意味で彼のプライベートはさすがに知らない。だから長谷川に連絡を入れたのだ。
 しかし長谷川は首を横に振る。
「社長の両親は揃って海外にいて、兄弟はいない。一応連絡は入れたが戻ってくるにはだいぶ時間がかかるそうだ」
「他にはどなたかいらっしゃらないんですか!?」
「申し訳ないが……ご両親以外の連絡先は俺もわからない」
「そんな……」
(大変な時に誰も側にいてくれないなんて)
 鈴音も家族と離れて暮らしているが、事故で意識がないと知らせがあったら絶対にすぐ駆けつけてくれるだろう。
 綾瀬の場合物理的に離れているのだから仕方がないとはわかっているが、親族がいない状況にまた胸が痛む。
 心配で居ても立っても居られない、そんな心地で鈴音が再び処置室の方に視線を向けた、その時。ずっと閉じていた扉ががらりと開いた。
「綾瀬さんの付き添いの方ですよね。目を覚まされましたよ」
「本当ですか!? 怪我の具合は!?」
「怪我も大したことはありません。このままお帰り頂いて結構です」
「よかった……」
 しかし喜びで顔を輝かせた鈴音とは対照的に、スタッフはなぜか困ったような表情で続ける。
「医師からお話がありますから」
「え?」
 本人に会う前に医師から説明がある理由がわからず、鈴音は長谷川と顔を見合わせた。

 病院のベッドで身を起こしている綾瀬の頭には物々しいガーゼが当てられていた。その顔色は蒼白だ。
「社長……」
 呼びかければまだ少し焦点が定まらないような視線で、鈴音と長谷川を見る。視線が合っても、そこにいつもの鋭さも、冷やかさもない。
「……君たち、は?」
 ぼんやりとした声色で、弱々しく綾瀬が問いかけてくる。
(嘘だ、こんなのあり得ない)
 まるでドラマや映画でしか観たことのないシチュエーション。
 けれどここは病院で、鈴音は実際彼と一緒に事故に遭っているのだ。
 どこか夢の中のような、現実感がなく、ふわふわと足元がおぼつかない、そんな感覚に陥り、鈴音は黙り込む。
 何も言えない鈴音の前に一歩進み出た長谷川は、微笑みながら答えた。
「長谷川です。こっちは松岡。……覚えていらっしゃいますか?」
 長谷川が問い返すと、綾瀬は数度瞬きをした後、小さく首を振った。
「申し訳ない。……何も、わからない」
 彼は目を眇め、困惑したように天井を見上げた。静寂が、処置室に満ちていく。
「社長……本当に記憶が……」
 不安そうに眉を下げたその姿に、自信に満ち溢れたあの綾瀬の影はどこにも見当たらなかった。

 医師による診断結果は「頭部外傷による記憶障害の疑い」であった。
 ただ事故の直後記憶が混濁し、自分の名前や日付を言えなくなることは、珍しい症状ではないらしい。多くの場合は時間が経てば徐々に記憶は戻るという。
 検査の結果異常は見当たらず、頭部の怪我も入院が必要なものではないと診断が下されれば、救急外来での治療は終わりだった。
 三人で無言のまま病院を出る。
「社長は俺が家まで送るから、松岡は帰ってもいいよ」
 長谷川はスマホで車を手配しながら言う。すでに真夜中を過ぎた街は病院と同じように静まり返っている。
 綾瀬はというと、まだ事態が飲み込めていないのだろう。不安げな表情のまま長谷川と鈴音の様子を窺っていた。その頼りなさげな雰囲気が普段の綾瀬とは違い過ぎるせいか、見ていられなかった。
(どうして、こんなことに)
 綾瀬は上司としてはよい相手ではなかった。しかし憎んだり嫌ったりしてはいない。突如彼の身に降りかかった不幸に、鈴音の胸は痛む。まして、自分をかばってくれたある意味恩人なのだ。
「いえ、私が送ります。ご家族が待っていると思いますし、長谷川さんは早く帰ってください」
「いや松岡だって事故に遭って大変だったんだから」
「そのかわり、長谷川さんは仕事の調整の方をお願いします」
 多くの事業は社員たちの手で動いているが、カルトゥアは間違いなく綾瀬という天才の力で大きくなってきた会社だ。その綾瀬がこうなってしまった今、業務の調整は急務である。
 鈴音としてはより大変な方を押し付けただけなのだが、長谷川は軽く「そのくらい当然だよ」と請け負ってくれた。
 もっとも、わざわざ鈴音が言わずとも長谷川はやったであろう。それくらいでなければ、綾瀬のサポート役は務まらない。
「じゃあ頼むな。ああ、とりあえず松岡と社長は明日休みにしておくから」
「えっ。社長はともかく私は大丈夫ですけど」
 綾瀬と違い、鈴音は無傷だ。しかし長谷川は苦笑し首を振る。
「今はある意味興奮状態だからな。わからないだけだ。落ち着いたら痛みが出て来る可能性はある。まずは休みなさい。これからのことは追って連絡するから」
「……よろしくお願いします」
 長谷川に見送られ、再びふたりで車に乗り込む。そこまでは、なんともなかった。
「……っ」
 しかし車が走り出すと、鈴音の脳裏に数時間前の事故が蘇ってくる。衝撃と驚き、そして血を流す綾瀬の姿──。
「大丈夫、ですか?」
「えっ」
 隣から気遣う言葉が聞こえて、鈴音は我に返る。
「車、しんどいでしょう。……降りましょうか?」
「いえ、でも歩いて帰れる距離じゃないですから」
 終電はとっくに終わっている。歩いて帰ったら朝になってしまうだろう。
「社長こそ、大丈夫ですか?」
「俺はほら、覚えていませんから」
 鈴音の苦笑しながら、綾瀬は頬をかいてみせる。
(本当に、記憶がないんだ……)
 同じ顔なのに、まるきり違い過ぎる表情を見て、鈴音はしみじみと思い知る。敬語もそうだが、なにより鈴音の知る綾瀬は人の不安や恐れに寄り添ってくれるような人間ではない。
「それより、松岡さん? こんな遅くまで付き合わせてしまって申し訳ありません」
「いえ、仕事ですから」
 鈴音の言葉に綾瀬はさらに苦笑を深める。
「俺は松岡さんをこき使うのが当たり前だったのでしょうか」
「私は社長のサポートが仕事でしたから。ええと、秘書的な感じと言えばいいでしょうか」
「そう、なんですね。……全然覚えていません」
 綾瀬はぽつりと呟くように言うと、ふと窓の外に視線を投げた。
「俺の家に向かっているんですよね。でも、まったく見覚えがない」
 すでに車は綾瀬の家に近づいていた。周囲は馴染んだ風景のはずだ。しかし今の綾瀬には見知らぬものでしかない。
 それがどれほど心細いか。想像しただけでまた鈴音の胸が痛んだ。
「私は社長の仕事については全て把握していますし、生活についてもお世話させていただいていましたから、何でも聞いてください」
「そんなことまでお任せしていたんですね。……俺、そんなに偉かったのか」
「弊社の社長ですから」
 あえて軽い口調で言うと、綾瀬も少し微笑んでくれた。
「……その社長っていうの、やめてもらえませんか」
「どうして、ですか?」
 唐突な申し出に鈴音は戸惑う。
「なんか……違和感があって。できれば名前で呼んでほしいです。……俺、自分の名前も、憶えていないから」
(記憶をなくすって、自分の全てを失うってこと、なんだ)
 鈴音には想像もできない喪失感と今、綾瀬は戦っている。それを思うと少しでも協力してやりたくなった。
「……わかりました。これからは綾瀬さん、とお呼びしますね」
 咎められたら記憶が戻った後謝ればいい。なにより元々辞めるつもりだったのだから、別に構いはしないと鈴音は開き直る。
「ありがとう。きっと記憶が無くなる前の俺は、鈴音さんを信頼していたんでしょうね」
「えっ?」
 思いもよらぬ綾瀬の言葉に、鈴音は思わず身体ごと彼の方を向いてしまう。驚く鈴音に綾瀬は笑顔で続けた。
「松岡さんの声、安心するから。以前もこんな風に助けてくれていたのかなと思いまして」
「……そう、ですね」
(助けるというか、便利に使われていただけだと思うけど)
 けれど綾瀬がこれまで見たこともない顔で笑うものだから……鈴音は何も言えなかった。

 ほどなくして車は綾瀬の自宅に辿り着いた。彼の家はその社会的地位に相応しい都心のプレミアムタワーレジデンスだ。
 白銀のファサードとフラットな外壁。曲線を極力排した直線美が特徴の外観は、どこか企業の本社ビルを思わせた。建物全体がまるで「感情を排除したデザイン」そのもののようで、都心の喧騒とは無縁の、無機質な静けさが周囲に漂っている。
(いつ来ても誰か住んでいるって感じがしないんだよね)
 その規模からすれば驚くほど戸数は少なく、エレベーターは居住階に直通のプライベート仕様。カードキーをタッチすれば、各フロアにある専有ホールへと繋がる。そのせいか誰かが暮らしている、という気配がまるでない。 
 ここに住む住人達が一番に望んでいるのは私生活を外に晒さずに済むことだから。
「では私はこちらで……」
「待ってください」
 いつものようにマンションの前で彼を降ろし別れようとすると、慌てた様子で引き留められる。
「……俺の家、何階の何号室、でしょうか」
「あ、そ、そうですよね!」
 記憶がないのだからわかるわけがない。
 鈴音は迷ったものの一度車を帰し、綾瀬と共にマンションへと入った。
 エントランスにはコンシェルジュカウンターがあり、ホテルライクなサービス体制が整っている。だが、さすがに住人である綾瀬が自分の住んでいる部屋を尋ねるわけにはいかない。
 当然だが綾瀬はエレベーターの使い方どころか、部屋の鍵がなんなのかすらわからなかった。確かに鈴音がいなかったら彼は途方に暮れていたことだろう。
(私がちゃんとしなきゃ)
 今の綾瀬は、鈴音の知っている綾瀬ではない。改めて気を引き締める。
「ここが……俺の家、ですか?」
 家に入ってからも綾瀬の戸惑いは続いた。
「そうですよ。もう三年住まわれています」
 引っ越しを手配し実際に荷物の受け渡しをしたのは鈴音なので、この家のことはよく知っている。以前も相当立派な家に住んでいたが、この家はまさに桁違いだった。
 エレベーターを降り、専有ホールから玄関扉を開けると、まず現れるのは無駄のない玄関ホールだ。天然石が敷かれた床は磨きあげられ、正面に設置されたウォークインクローゼットには靴とアウターが整然と並んでいる。
 この家の特徴は玄関を挟んでプライベートスペースと来客も利用するパブリックスペースが分かれているところだ。
 扉を開けて右手にあるのが、マスターベッドルーム。専用のバスルームとウォークインクローゼットがついた完全独立仕様である。
 そして玄関を抜け、左手に進むと広がるのが、約六十畳のリビング・ダイニング。その広さだけでなく、高い天井が余白を生み、より贅沢な空間を演出している。
 さらに正面には床から天井までのハイサッシが並び、バルコニー越しに都心の見事な夜景を切り取っていた。
(初めて目にしたら、そりゃ戸惑うよね)
 この物件を手配したのは鈴音だが、家賃や管理費を見た時「こんなところに住んでいる人本当にいるんだ」とドン引きした。
 しかし社長のサポートという業務を長年していれば、こういった物件の必要性も理解できてしまう。
 契約書は机上で交わされる。今時ならオンラインでも問題はない。けれど「その契約を交わすかどうか」を決めるのは人だ。書類だけでは、画面越しや声だけでは測れないものがあり、経営者にはそれを読む力が求められる。
 相手の言外の要求を察し、こちらの要求を提示し、交渉する。これをするには対面で会うのが最も効果的である。
 そのためには場所も重要で、社長の自宅に招く、というのはかなり大きなポイントになるというわけだ。
 パーティが開かれる前提の造りなので、キッチンも特別仕様。最新型のビルトイン食洗器、スチームオーブンにワインセラーまで揃っている。パーティの時は専門の業者を通じてシェフを呼び、腕をふるってもらうのである。
 鈴音はそんな説明を挟みながら、部屋を案内する。客が家主を連れて歩くという構図になっているがこの状況では仕方がないだろう。
「なんか……ピンとこない」
 白とグレーを基調にした広々としたリビングを前に、綾瀬は呆然と呟く。
 壁にはアートも写真も飾られておらず、ガラスと金属を組み合わせたモダンな家具が規則正しく配置されている。無駄な装飾は一切なく、あるのは実用性と洗練された雰囲気だけ。これは、必要な時に必要な装飾を施すので、普段は何もいらないと綾瀬が判断したからだ。
 定期的なハウスクリーニングが入っていることもあり、ほこりひとつない。清潔というより、使っていないとさえ感じるほどだ。
 三十代の男性がひとりで暮らしているとは到底思えない。個性も温度も、何もない。まるでモデルルームのような無機質すぎるリビング。
 それがまた戸惑いを生んでいるのだろう。
「社長はこういう感じがお好きでしたから。いかにも優秀な方の部屋って雰囲気あると思うんですが」
 途方に暮れた顔をしている綾瀬がかわいそうで、なんとかフォローをいれる。すると綾瀬は少し興味を惹かれたように数度頷いた。
「松岡さんは、こういう部屋が好きなんですか?」
「私ですか? いえ、全然!」
(言っちゃった!)
 あまりにも意外過ぎる問いかけに、思わず本音で返してしまう。しかし綾瀬は気を悪くすることもなく重ねて問いかけてきた。
「ではどういう部屋がお好みなんですか?」
「私は……味があるというか、古民家、みたいな家が好きです。庭があって、土間があって、縁側があって、みたいな」
「それは確かに、こことは正反対ですね」
 綾瀬はふふっと柔らかく笑う。
(本当に、別人なんだ)
 あの綾瀬なら自分が選んだものを否定されたら、まず間違いなく理由を追及してくるだろうし、こんな風には笑わない。
 記憶ひとつで人格がまるきり変わってしまうのだ。
 それを改めて突き付けられ、居心地が悪くなる。目の前にいる相手は、鈴音の知る綾瀬ではない。
 鈴音が嫌だと思っていたのは正論で相手の言葉を封じ込めるモンスターのような綾瀬だ。
 今の優しく微笑む綾瀬では、ない。
「では、私はこれで……」
「あの! 俺って、どういう生活、してました? 家に帰れば何か思い出すかと思ったんですけど、今のところ全然何もわからなくて」
「焦らなくても大丈夫ですよ。今日のところは早めにお休みになった方がいいと思います」
 それでは、と玄関に向かおうとした鈴音を綾瀬はまた引き留める。
「待ってください! ええと、せっかく家に来てくれたんだから、何か飲み物でも」
「どうぞお構いなく。これも仕事ですから」
「帰らないで!」
「えっ」
 ぐっと身体を引き寄せられる。気づくと鈴音は綾瀬の腕に捕らえられていた。
(抱き締められ、てる?)
 あまりにも予想外のことに、まったく頭が回らない。社長が従業員を急に抱き締めるなんてセクハラ以外の何物でもない。普段なら遠慮なく突き飛ばしているだろう。
 けれど鈴音がそうできなかったのは……抱き締めてくる綾瀬の腕が、細かく震えていたからだ。
「頼むから……ひとりに、しないで」
「社長……」
 戸惑う鈴音に綾瀬は懇願する。
「俺は、社長じゃない。名前を、呼んで」
 そうだ、名前で呼ぶとさっき決めたばかりなのに。
 駆けつけてくれる親族もおらず、世話をしてくれたのは見知らぬ相手。まったく覚えのない自宅にひとりきり……この状況がどれほど心細いか、想像力を働かせなくともわかってしまって、鈴音は動けなくなる。

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