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すべては君のために 年下御曹司社長は鉄仮面女子をどうしても振り向かせたい 2

第二章

 その日、詠子は契約書のチェック作業に集中していた。
 キーボードを叩く指の動きは無駄がなく、周囲の喧騒に左右されることはない。だが、ふと背後からざわめきが起き、法務部の空気が一変した。明らかな異変に、詠子は手を止めてゆっくりと振り返る。
 そこには、こちらへ向かって歩いてくるひときわ目立つ男性の姿があった。背が高く、姿勢はまっすぐで、自信に満ち溢れた迷いのない足取り。どこかで見たことがある気がするのに、なぜか名前が出てこない。
 彼は詠子と目が合うとうっすら笑みを浮かべる。そして目の前までやってくるなり形の良い唇をゆっくりと開いた。
「久慈さん、お久しぶりです」
 名前を呼ばれた途端、過去の記憶と一気に結びつく。
 ──鷹梁聖央。五年前、インターンで担当したあの学生。
 詠子は素早く席を立ち、軽く頭を下げた。
「ご無沙汰しております」
 表情こそ変わらないが、胸の奥で鼓動が速まるのを自覚する。
 目の前の聖央は、インターン時代の面影を残しつつも、完全に別人のようだった。
 オーダーメイドらしいダークネイビーのスーツは身体にぴたりと沿い、控えめな光沢が生地の上質さを物語っている。きちんと整えられた黒髪は額のラインをすっきり見せ、洗練された雰囲気を漂わせていた。
 五年前の、どこか世間知らずで頼りなさを感じさせた四つ年下の青年はそこにはいない。
 代わりに立っているのは、国際企業の経営者として場数を踏んだ大人の男──落ち着きと自信を纏った鷹梁聖央だった。
「こちらには、どういったご用件でお越しになったのでしょうか」
 詠子が努めて平静を装いながら問いかけると、聖央は軽く頷いて答えた。
「黎真マレーシアで近々、大規模な組織変更を考えています。その手続きのために帰国しました」
「……なるほど」
 黎真テックの海外子会社を対象とした再編──それは単なる人事異動ではない。事業の方向性そのものを変える可能性がある、大きな決断だった。
(これは大仕事になるわね……)
 思わず心の中で溜息をついてしまった。
 組織変更には当然メリットがある。意思決定を現地で迅速に行えるようになれば、マレーシア市場での競争力を高められるし、人材を適材適所に配置することで事業成長も期待できる。
 だが一方で、社員の動揺や混乱は避けられないだろう。聖央のように若い社長のもとで改革を進めるなら、なおさら周囲の反発や摩擦が起きる可能性も高い。
(新社長就任を印象付ける作戦だろうけど、想像以上に責任は重いでしょうね)
 それだけの覚悟で臨むということなのだろう。
 詠子は感心すると同時に親会社の法務部としてどんな影響が出るか、つい考えを巡らせてしまった。
「あぁ、ちょうどよかった」
 その声に再び法務部がざわめきと緊張に包まれる。扉の方へ目を遣ると、数人の社員を引き連れて専務である聖央の父・鷹梁忠臣がこちらへ歩いてきた。
「久慈さん、黎真マレーシアの各種手続きについて君にサポートを頼みたいと思ってね」
 まさか専務にまで名前を知られているとは思わず、詠子は言葉を失った。
 突然の指名に周囲の社員に驚きが走る。だが、すぐに納得したように頷き合った。
「順当な人選だよね。法務なら一番頼りになるしな」
「まあ、あの人なら間違いないでしょ」
「たしかに。仕事は他の誰よりも正確で速いからね」
 小声で交わされるやり取りに、詠子は内心で深い溜息をつく。
 現時点で詠子と同じ業務を担当している社員は女性しかいない。その中から見目が良い次期社長候補のサポートを任せられる人員を選ぶとすると、必然的に指名せざるを得なかったのだろう。
(要するに、『鉄仮面』であれば変な気を起こす心配はないと思われているんでしょうね)
 どこか釈然としない納得を胸の奥に押し込めつつ静かに問いかけた。
「専務、念のための確認ですが、法務部長はこの件を把握していますでしょうか」
 いくら経営層の人間とはいえ、社員の職務を勝手に割り振る権限はない──その点だけは譲らなかった。
 唐突にもほどがある指名にもかかわらず、詠子の声色は落ち着いている。眼差しは一切の妥協を許さない鋭さを帯びていた。
 専務は、そんな詠子の視線を悠然と受け止め、口元に穏やかな笑みを浮かべる。
「もちろんだよ。社長と法務部長、それから君の直属の上司である大浦課長にもすでに話は通してある。みんな快諾してくれたよ」
「……承知しました」
 詠子は短く返すと、専務は軽く頷き、続けて言った。
「具体的な仕事内容や開始時期については、明日中に正式に連絡する。今日はまず顔合わせだけと思ってね」
 その言葉を最後に、専務は聖央と共に法務部のオフィスを後にした。
 二人の背中が扉の向こう側に消えるまで詠子は無言で見送った後、ゆっくりと振り返って自席に戻る。
 パソコンに向かい、何事もなかったかのように手元の契約書に視線を落とす。
 その動じない姿勢に、周囲の社員が感嘆の溜息を漏らした。
「さすが久慈さん、落ち着いてるなぁ」
「普通なら絶対に動揺するよ。専務とマレーシアの新社長を前にして、あんな冷静でいられるなんてすごすぎる……」
 小声で交わされる称賛の声が耳に届いているものの、詠子は応じることなく黙々と手を動かし続けた。
 しかし、胸の内は穏やかではない。突然の事態に頭の中では警報が鳴りっぱなしで、様々な感情が渦を巻いていた。
(専務直々に指名されてマレーシアの組織変更のサポート……。あまりにも荷が重い)
 とはいえ、決まった以上は受け入れるしかないだろう。
 今は目の前の仕事を一つでも多く片付けること。それだけが最優先事項だ。詠子は静かに息を吸って呼吸を整え、契約書の文面に意識を集中させた。
 そして間もなく、明日のミーティングへの招集がスケジュールのポップアップで画面に表示された。
 専務が言っていた通り、法務部長から正式に詠子の組織変更プロジェクト参画が部内に周知される。さらに翌朝、定例ミーティングで課長の大浦からも改めて説明された。
「久慈さん。黎真マレーシアの組織変更プロジェクト、主に法務面でのサポートをお願いしたいとの依頼です。大変だろうけどよろしく頼むよ」
 大浦の言葉に詠子は頷き、「承知しました」とだけ返した。声色には一切の迷いを滲ませず、粛々と受け止める。だが、これから訪れる膨大な業務量を想像すると、ずっしりと胃が重くなってきた。
 ミーティングを終えてデスクに戻ると、背後から穏やかな声がかかった。
「久慈さん、ちょっといいですか」
「はい」
 返事をしながら振り返ると、そこには企業内弁護士の西原崇史が立っていた。
 四十代半ばの彼は落ち着いた物腰で、部内では頼れる兄貴分のような存在だ。
 差し出された分厚いファイルに目を落とすと、「黎真マレーシア関連・法務資料」とラベルが貼られている。
「マレーシアの組織変更については情報量が多いですからね。まずはここを押さえておくと全体像が掴みやすいはずです。もし判断に迷うことがあれば、遠慮せずいつでも相談してください」
 淡々とした口調だが、その声には柔らかな響きがあった。資料の厚みに気圧されながらも、詠子は胸の奥でじんわりと温かいものを感じる。
「ありがとうございます。助かります」
「いえいえ。……久慈さんは真面目だから、つい頑張りすぎるでしょう。だけど、こういう大規模プロジェクトは一人で抱え込むと危ない。ちゃんと周りを使ってくださいね」
 口調こそ穏やかだが、その言葉には経験に裏打ちされた重みがあった。法務部で何年も海外案件を担当してきた彼だからこそ、余計なことを言わずに必要なアドバイスだけをくれる。
 詠子は「承知しました」と頷き、預かった資料を胸に抱える。
 西原はにこりと微笑んで席に戻っていく。その背を見送ってから詠子は受け取ったファイルをサイドテーブルのキャビネットに仕舞い、当座の仕事を片付けるべく猛然と手を動かし始めた。

 翌週、黎真マレーシアの組織変更に関するプロジェクトミーティングが開催された。会議室には、各部門の主要メンバーがずらりと顔を揃えている。
 黎真マレーシアからは社長に就任する鷹梁聖央と最高財務責任者が参加している。
 そして、親会社である黎真テック側からは法務部の他に経営企画の副本部長とグローバルHR部長、サプライチェーンと海外事業本部のマレーシア担当を務める課長というメンバーが一堂に会していた。
 これだけ幹部クラスが集まると、会議室の空気は自然と張りつめたものになる。詠子も姿勢を正し、手元の資料を見つめながら静かに深呼吸を繰り返していた。
 会議が始まると聖央がゆっくりと立ち上がり、全員に視線を向ける。
「今回の組織変更は黎真マレーシアの事業基盤を強化し、現地市場での競争力を高めるために必要なプロセスです」
 落ち着いた声と明瞭な言葉で語り始める。その眼差しは揺らぐことはなく、端整な顔立ちは自信に満ちていた。インターン時代のあどけなさはもうどこにもない。
「財務構造の見直し、人材配置の最適化、そして新規事業の立ち上げを柱とします。特に人事部とサプライチェーンマジメント部門には大幅な業務再編が必要です。現地法務については、久慈さんと本社法務部にサポートいただく形になります」
 堂々としたプレゼンテーションに、会議室内の空気が変わる。説明は理路整然としており、誰もが納得せざるを得ない内容だった。
(この若さで、こんなふうに大勢の前で平然と語れるなんて……すごいな)
 胸の奥が熱くなっていくのを感じながらも、決して表情には出さない。
 詠子はすぐに気持ちを切り替え、手元の資料に視線を落とした。
 まず最初に取りかかるべきは、マレーシア現地法における組織変更に関するコンプライアンスの確認。その次に、クロスボーダーで発生する税務処理のリスク洗い出し。さらに、労務関連の契約書も一から精査する必要があるだろう。
(最初の山場は現地法の適用範囲の整理ね。ここを誤ると、すべての計画が崩れる可能性がある……)
 ペンを握る手に自然と力が籠る。気付けばもう、胸の高鳴りはすっかり消えていた。
 全体ミーティングが終わり、参加者たちが続々と退出していく中、詠子が会議資料をまとめていると背後から静かな声がかかった。
「久慈さん、少しお時間をいただけますか」
 振り返ると聖央が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。五年前のインターン生だった頃の面影はたしかにあるのに、今の彼はすっかり落ち着いた大人の男性に見える。
 整えられた髪は艶やかで、ライトグレーのスーツが長身に完璧に馴染んでいる。その姿は堂々としていてつい見惚れそうになるが、詠子は気を引き締めて立ち上がった。
「わかりました。空いている会議室を確認します」
 二人で小さめの会議室へ移動して向かい合って座ると、聖央はまず丁寧に頭を下げた。
「改めまして、今回のサポートを引き受けてくださってありがとうございます」
 言葉は簡潔だが、そこに込められた感謝が伝わってくる。詠子は背筋を正し、いつも通りの淡々とした声で応じた。
「私の職務ですから、精一杯務めさせていただきます」
 そう返してから詠子は今日のために事前にまとめておいた資料をすっと差し出した。
 プロジェクト全体のスケジュールや関連法務のリスク、マレーシア現地で想定される課題まで盛り込んだ、かなりの分量の資料だった。
 聖央は資料に目を通すと、驚いたように小さく息を吐き、そして顔を上げる。
「……今日、ちょうどこの内容をお願いしようと思っていたんです。助かりました。本当に、さすがですね」
 柔らかな笑みと共に向けられた称賛に、詠子の胸はわずかに熱を帯びる。しかしその感情を表に出すことはせず、むしろいつもより無愛想に返した。
「私を褒めたところで、なにも出ませんよ」
 表情を変えずに投げたその言葉に聖央はふっと目を細める。軽く身を乗り出すと真剣な声音で告げた。
「本気でそう思っていますよ」
 一瞬で空気が変わった。
 その低く落ち着いた声は、五年前の頼りなげなインターン生のものではない。成熟した大人の男性としての余裕と自信が滲んでいた。視線を受け止めたまま、詠子の心臓は鼓動を速める。
 だが、それでも顔には出さない。鉄仮面を崩さず、あくまで平静を装う。
「……そうですか。それでしたら、ありがたく受け取っておきます」
 努めて淡々と答えると、聖央は満足げに頷いた。
 詠子は高鳴る鼓動を抑えようと、深く息を吸い込み、視線を資料へ落とすことでなんとか気持ちを落ち着かせる。さりげなく机の下に隠した指先はわずかに震えていた。
「早速確認させてください」
「はい。お願いします」
 テーブルの上には分厚い法務関連資料とプロジェクト計画書が広げられ、詠子はペンを手にしてページをめくりながら粛々と内容を確認していた。
「この契約条項ですが、現地の労働法との整合性を取るために再調整が必要です。こちらの案で進めるとリスクが最小限に抑えられるはずです」
 すっかり仕事モードに切り替わった詠子は、声色も抑揚もほとんど変わらない。先ほどまで一瞬だけ動揺を見せた胸の高鳴りは、完全に封じ込めていた。ペン先で該当部分を指し示す指はわずかも震えず、「鉄仮面」と呼ばれる所以を如実に物語っている。
 聖央は資料に目を落とし、顎に手を当ててしばらく考え込む。
「なるほど……現地法でのリスク回避を最優先に、ですね。では、この条件を満たす別案を現地の法務にも検討させます」
 低く落ち着いた声が狭い空間に響く。視線を交わし、必要最小限の言葉で正確に意思を確認し合う二人の姿は、無駄な装飾を一切許さないプロフェッショナルそのものだった。
 その時、偶然通りかかった女性社員二人が、少し距離を置いた廊下で立ち止まり、会議室の中を覗き込む。
「ねぇ見て……あの二人、すごい雰囲気じゃない?」
「ほんとだ。淡々としているのに、意思疎通が完璧って感じ」
 一人が小さく肩をすくめ、声を潜めて続けた。
「なんか……一周回ってお似合いかも」
「いやいや、ないない」ともう一人は慌てて首を振るが、視線はなぜか再び会議室へ戻る。
 当然ながら、その会話は防音仕様のガラスに遮られて、詠子と聖央には一切届いていない。
 二人はただ黙々と資料をめくり、要点を的確に抽出していく。
「では、この章は一度私の方で現地側とすり合わせた上で、週明けに報告します」
「承知しました。必要な法務チェック項目はこちらで先に準備しておきます」
 交わされる会話は極めて事務的だが、集中し切った空気は外界を遮断するかのようで、スペースの中は熱を帯びた空気に包まれていた。

 その日、詠子の姿は都心の五つ星ホテルのバンケットルームにあった。
 黎真グループが主催する「国際戦略セミナー」と銘打たれたこの会は、海外子会社の経営陣や本社支援部門のキーマンが一堂に会する、年に一度の重要なイベントである。そこへ聖央と共に出席している。
 午前中の講演と分科会を終え、夕方からは立食形式の懇親会へと移行していた。
 今日の詠子は黒のパンツスーツに白のブラウスといういつものスタイルで、会場の片隅に控えていた。アクセサリーも控えめでシンプルな服装にもかかわらず、凜とした佇まいには目を引くものがある。
 同行している黎真マレーシアの新社長となる鷹梁聖央もまた、群を抜いて目立っていた。ダークグレーのスリーピースに身を包み、背筋を伸ばして人々と言葉を交わす姿は、まさに若きエグゼクティブそのものだった。
 今日の詠子の役目は聖央の秘書である。
 本来の秘書が別件で同行していないので、各国から集まった参加者の中で、特に聖央が今後の協力関係を築きたいと考えている企業の重役や顧問弁護士たちと、会話がスムーズに進むよう橋渡しをすること。
 事前に相手の関心分野や性格傾向を細かく洗い出し、話題の取捨選択や接点の整理を行っていた。
「久慈さんのお陰で、とても自然に会話ができました」
 小声でそう耳打ちした聖央に、詠子は「そう言っていただけて何よりです」といつもの平坦な口調で返す。だがその実、わずかに高鳴る胸の鼓動を抑えきれずにいた。
(はぁ……長い一日がやっと終わる)
 数時間に及ぶ立ち話と社交的な空気に疲労を感じつつも、最後まで役目を全うした達成感に満ちている。詠子は懇親会がお開きになると、帰り支度を素早く整えた。
 ホテルのエントランスには各方面への送迎車やタクシーを待つ人々の列ができている。詠子は会場前の喧騒から少し離れ、建物の脇に設けられた通用口の近くに立っていた。
 ひんやりとした夜風が火照った肌に心地いい。今日はパーティー仕様のヒールが高いパンプスで数時間立ちっぱなしだったせいで、つま先にじんわりとした痛みがあった。
 けれど、いつものことだと気にも留めず、スマートフォンの交通アプリで最寄り駅へのルートを確認していた。
「久慈さん」
 不意に後ろから名を呼ばれて振り返ると、そこには聖央が立っていた。夜の街灯に照らされて、その整った顔立ちがなお一層くっきりと映えている。
 エントランスで黎真ヨーロッパの幹部に呼び止められたので、話が長引くだろうと踏んで離れたのだが、どうやら見込み違いだったらしい。
 わざわざ探させてしまったことを申し訳なく思いつつ近付いていくと、聖央の視線が手に持っているものへと注がれているのに気付いた。
「今から電車でお帰りですか?」
「はい。タクシーも混んでいそうなので」
 待っている時間を考えるとさっさと電車に乗ってしまった方が早く帰れるだろう。それに安上がりだ。詠子が頷くと聖央はわずかに眉根を寄せた。
「でしたら、送らせてください」
「いえ、それは……」
「今日の功労者を満員電車で帰すわけにはいきません」
 それは静かで、有無を言わせぬ声音だった。冗談めいた口調だが本気であることが伝わってくる。詠子は口を開きかけたが、断り文句が出なかった。
(その言い方は……ずるい)
 わずかに視線を逸らしながら心の中で呟く。反論の余地はある。いくらサポート役とはいえ、聖央と一緒にいる時間は必要最低限にしなければあらぬ憶測を生む危険があるし、社用車で送ってもらうとなれば職権乱用と捉えられかねない。
 けれど──聖央の言葉には自然と従いたくなるだけの熱があった。
 その迷いを伏せた視線から読み取ったのか、聖央がさらに一歩、距離を詰めてくる。
「お願いです。私に礼をさせてください」
「……わかりました。では、お言葉に甘えます」
 固辞するのはむしろ失礼にあたるだろう。詠子は観念し、密かに溜息をつく。
 その言葉に聖央の表情がふっと柔らぐ。「こちらへ」と案内された細い路地に控えていた黒塗りの車の扉が開かれ、後部座席に乗り込んだ。
 滑るように発進した車内は、先ほどまでの喧騒が嘘のような静けさが満ちていた。
(残念ながら、まだ気を抜くわけにはいかなそうね……)
 隣に座る聖央の気配がいつになく近く、濃く感じられ、動揺を抑えるためにそう言い聞かせる。
 車は都心のホテルを出て、首都高へと滑り込んだ。車内には会話の邪魔にならない程度のボリュームでクラシックの旋律が流れている。
 会話や視線、計算ずくの立ち振る舞いが必要な懇親会だった。車窓に映し出されたビル群の灯を眺めていると、知らず知らずのうちに肩から力が抜けていってしまう。
 隣に座る聖央が、柔らかな声で切り出した。
「完璧なアシストでした。久慈さんには本当に感謝しています」
 その言葉は穏やかだったが、どこか深く静かな感情が滲んでいるように感じられたのは気のせいだろうか。
 詠子はわずかに目を伏せ、口元を引き結ぶ。
「……私は課せられた役目を果たしただけです」
 平坦な声で答えたつもりだった。けれど、胸にじんわりと嬉しさが広がっているのを自覚していた。それを悟られまいとするあまり、つい冷たい物言いになってしまうのが自分らしい、と心の中で苦笑する。
 助手席の背もたれ越しに、都市のネオンが二人の横顔を交互に照らしていく。聖央は窓の外を一瞥したのち、再び詠子に視線を戻した。
「これからも、こういった会合に何度か出席する予定です。その時も、ぜひ同伴していただきたい」
 詠子は「承知しました」と言いかけ、口を噤む。それでもよかったのだが、自分の立場を明確にしておく必要があると感じた。
「私でよければ、いくらでも女避けになります」
 今日の懇親会で聖央を見つめる熱っぽい眼差しと、その隣に陣取った詠子へ向けられる殺意に近い視線を何度感じただろう。
 自嘲混じりの言葉ではあるが、それは紛うことなき事実。なのにそう返した瞬間、聖央の眼差しが剣呑な光を帯びる。背筋にぞくりとしたものが這うような気配に、詠子は咄嗟に身を強張らせた。
「私としては、このまま貴女を連れて帰りたいくらいなのですが」
 静かで、よく通る低い声。窓の外の喧騒とは隔絶された車内にその言葉だけが深く沈んで響き、詠子は反射的に聖央を見上げた。
「……どういう意味ですか?」
 問う声が微かに震えている。けれどそれに気付いたのは詠子自身だけかもしれない。
 聖央の横顔は相変わらず穏やかだった。ただ、その瞳には言葉よりも強い意思が宿っている。
「言葉通りの意味です」
 自宅に? それとも──マレーシアに?
 あるいはそのどちらも含んでいるのだろうか。詠子の中で疑問が交錯し、行き場を失った熱が鼓動の速さとなって表れた。
(落ち着いて。私はただのサポート役)
 自分に言い聞かせるように呼吸を整えようとしたその時、聖央の手がそっと詠子の手に重ねられた。
 柔らかく、しかしたしかな圧で指先が包まれ、ゆっくりと手の甲へと唇が触れる。
 次の瞬間──心臓が大きく跳ねた。
 すべての音が遠のいて、世界が静止したように感じられる。けれどその刹那、聖央は何も言わず手を離し、視線を前へ戻した。
 詠子もまた、車窓に視線を向ける。
 夜の街並みが胸に残った余熱を冷ましてくれることを願い、ただひたすら見つめていた。