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すべては君のために 年下御曹司社長は鉄仮面女子をどうしても振り向かせたい 3

第三章

 日曜の午後、詠子は高校時代からの友人・新見琴子のマンションを訪ねた。
 リビングに入ると、五歳になる琴子の息子・悠真がブロックを積み上げて遊んでいる。ふと顔を上げた瞬間、ぱっと笑顔を見せて走ってくる。
「よーこちゃんだっ!」
「悠真、また背が伸びたねぇ。ほんと、お兄さんになってきた」
「そうだよ、ぼくもう赤ちゃんじゃないもん!」
 詠子は膝を折り、両腕を広げて悠真をぎゅっと抱きしめた。小さな身体が嬉しそうに詠子の腕の中で弾んでいる。高めの体温がじんわりと伝わり、疲れを癒してくれる。
 この友人宅で過ごす時間だけは「鉄仮面」と呼ばれる自分を意識せずにいられる、心から安らげるひとときだった。
 そんな二人の様子を、キッチンで紅茶を淹れながら琴子が優しい眼差しで見守っている。
「ほんと、悠真は詠子が大好きだねぇ」
「私も悠真が大好きだよ。二番目のお母さんだと勝手に思ってるから」
「実際そうでしょ。もし私に何かあった時、単身赴任でいない旦那より、あんたに悠真を任せた方が絶対に安心だもん」
 琴子が少し照れたように笑いながら言うと、詠子は肩をすくめて微笑み返す。言われたことはすべて事実だが、いざ口にされるとくすぐったくなってしまった。
 悠真のブロック遊びを見守りながら、詠子は散々迷った末に口を開く。
「……あのさ、ちょっと相談してもいい?」
「なに? 詠子が相談だなんて珍しいじゃない」
 向かいの椅子に座った琴子は手に持っていたマグカップをテーブルに置き、聞く姿勢を取る。詠子は少し視線を落とし、深く息を吐きながら言葉を探していた。しばしの沈黙の後、意を決したように口を開く。
「黎真テックの子会社で黎真マレーシアってあるでしょ?」
「グループ企業だよね。えっ……まさか転勤!?」
 琴子は眉を跳ね上げ、強めの口調で問いかける。唐突な切り出し方に驚いたらしい。詠子は小さく首を振ると、手を組んで膝の上に置き、少しずつ説明を続ける。
「違う違う。そこの新社長に黎真テックの専務の息子が就くんだけど……あ、鷹梁聖央って人なんだけどね。実は私、五年前にインターンとして彼を指導したことがあるの」
「……うん、それで?」
「すごく優秀な学生で、入社してこなかったから人事も残念がってた。だけど後になってマレーシアの方に入社してたってわかったんだ」
「へぇぇ! わざわざ海外の子会社に? それはびっくりだね」
「うん……」
 琴子は目を丸くし、背もたれに身を預けながら感心したように呟いた。その反応に詠子は頷きながらもどこか複雑な表情を浮かべる。
「今、その人が日本に一時帰国していて、同じプロジェクトに参画してるんだけど……」
 琴子は何度も瞬きしてからマグカップを手に取り、紅茶を一口飲んだ。若き社長の就任、創業者一族、そして詠子との接点。想像以上の話の大きさに、理解が追いついていない様子だった。
「えーと……つまり、その彼となんかあったって話?」
 琴子のストレートな指摘が図星すぎて、返す言葉がすぐに見つからない。詠子は頬を赤らめ、唇を噛みながら視線を逸らした。
「思わせぶりなことを言われて……手に、キスされた」
「……はぁああ!? ちょっと待ってなにそれ! 玉の輿の大チャンスじゃん!!」
 琴子は叫ぶように声を上げ、両手で頬を挟んでからぐっと身を乗り出してきた。詠子はその勢いに押されて後ずさり、慌てて否定する。
「ち、違うから。ただの……社交辞令というか、そんな感じの意味なんだと思う」
 咄嗟に出てきた言い訳は、我ながら意味不明だと情けなくなる。
 琴子はじっと詠子の顔を見つめ、しばらく沈黙してから大袈裟な溜息をついた。その眼差しには呆れと心配が入り混じっている。
「でもさぁ、わざわざ私に相談してくるんだから、社交辞令じゃないかもってちょっとは思ってるんでしょ?」
 核心を突かれた詠子は言葉を失った。琴子の問いかけが胸に突き刺さり、口元に手を当てながら呟く。
「……そう、なのかな」
 長い沈黙が落ちた部屋の中で、悠真の「よーこちゃーん!」という無邪気な声が響く。詠子は顔を上げ、慌てて笑顔を作って「なぁに?」と返した。
「よーこちゃん、これ見てー!」
「わぁ、格好いい車だね。タイヤが大きいトラックも作れる?」
「モンスタートラックね! できるよー」
 リクエストを受けた悠真がブロックを組み合わせはじめるのを見届けた後、詠子はふっと小さく溜息をついた。その横顔を琴子が何か言いたそうに見つめている。
「昔さ、『イメージと違う』って言われたって話、覚えてる?」
 詠子がぽつりと呟くと、琴子は視線を落とし、静かに頷いた。
「あー……うん。そのせいで付き合っても長続きしないって、悩んでたよね」
 幾度となく真剣に相談したことがあったので記憶に残っていたらしい。
 もう思い出す必要はないと思っていた苦い過去が胸をよぎり、気持ちが一気に沈んでいった。
 あれは高校二年生の秋、隣のクラスの同級生から何の前触れもなく「付き合ってほしい」と告白された。
 彼は誰に対しても気さくに接する人気者だった。とはいえ、一年の時も別のクラスだったのであまり話したことがない。だからどうして自分を好いてくれたのかがわからず、詠子は戸惑った。
 だが、あまりにも熱心にアプローチされ、物は試しと付き合ってみることにしたのだ。
 付き合い始めたばかりの頃はとても楽しく、交際は順調だった。
 今思えば彼はアプローチが実った達成感に浸っていて、詠子は生まれて初めてできた「恋人」という存在に浮かれていただけなのだろう。
 だから、過ごす時間を重ねるにつれて微妙な空気が二人の間に漂うようになり、やがてその溝は修復されることなく急激に広がっていった。
 交際開始から約半年が経ち、いよいよ別れを意識しはじめたある日、彼から「話がある」と呼び出された。そこで彼は申し訳なさそうな顔をしながら言った。
『なんか……イメージと違ったんだ。詠子ってもっと頼りがいがあって、俺を引っ張っていってくれるタイプだと思ってた』
 それは、幾重にもオブラートに包まれた非難。詠子は何も言い返せず、別れを了承するより他なかった。
 その夜、琴子に電話をかけると、彼女は要領を得ない話を辛抱強く聞いてくれた。
『は? なにそれ。勝手にイメージ押し付けといて勝手に失望したってこと? 意味わかんないんだけど!』
 事情を把握した琴子は電話口で怒り狂い、友人たちも同じように憤ってくれた。
 詠子は背が高く、はっきりした顔立ちのせいでしばしば「女王様キャラ」だと思われがちだ。実際は少し歳の離れた兄と姉にあれこれ世話を焼いてもらってきた影響で、どちらかといえば末っ子気質の人に甘えたい性格をしている。
 だから親しくなると驚かれることも多いのだが、それまでは特に問題になるようなことがなかった。
『詠子は詠子のままでいいって』
『そんなやつ、別れて正解!』
 詠子の性格を知る友人たちは相手の思い込みを責め、詠子自身に一切の非はないと断言してくれたのは救いだった。
 けれど、胸に残された傷は簡単に消えなかった。
(強そうな見た目の私は……『甘えたい』と思っちゃ駄目なんだ)
 大学に進学してからも言い寄ってくるのは初めての恋人と同じく、詠子に強さや牽引力を求めるタイプばかり。
 彼らの期待に合わせて振る舞おうと無理を重ねてしまい、限界が訪れて最終的には破局してしまう。
 そんな外見と内面のずれが、詠子を恋愛から遠ざけていた。
「……彼が知ってるのは『仕事ができて頼りになる私』でしかないんだよね。本当の姿を知ったら、きっと幻滅する」
 琴子は真剣な表情で詠子の言葉を受け止め、すぐには答えを返さなかった。代わりにそっと肩に手を置き、柔らかな声で囁く。
「でもさ、そんな重要な立場の人が軽率に誘惑してくるとは思えないよ。頭ごなしに拒否しないで少しだけ向き合ってみたら?」
 詠子は小さく頷きつつも、どこか自嘲気味な笑みを浮かべる。
「でも……年上の私を選ぶ理由なんて、他に思いつかないんだよね。しかも、インターンの時、私は彼にすごく厳しいことを言ったんだ。そんな相手に好意を抱くなんて……ありえない」
 そう言いながらも、胸の奥で淡い期待が芽生えていることに薄々気付いている。けれど、その気持ちを認める勇気がどうしても出せないでいた。
 琴子はそんな詠子の揺れ動く心情を察したのか、ふっと笑って話題を切り替えるように悠真を呼ぶ。
「悠真、よーこちゃんにハグしてあげて!」
「いいよー!!」
 悠真は笑顔で駆け寄り、詠子の腰にしがみついた。予想外の行動に詠子は一瞬驚いたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべ、ぎゅっと抱きしめ返す。
「悠真、ありがとね。よーこちゃん、元気出たよ」
 悠真はきゃっきゃと声を上げ、嬉しそうに笑う。その無邪気さに詠子の胸はじんわりと温かくなり、つい本音が零れた。
「今すぐ二十年くらい歳を取ってくれたら、迷わず悠真と結婚するんだけどなぁ」
「ちょっとやめてよ! 変なこと言わないのっ!!」
 琴子が笑いながらたしなめると、三人の間に明るい笑い声が広がった。
 けれど、その穏やかな時間の裏で、詠子の胸にはまだ答えの出ない感情が静かに渦を巻いていた。


「それでは、これで失礼いたします」
 打ち合わせが終わると詠子は椅子から素早く立ち上がり、短い挨拶を残して会議室を出ていった。
 先週、車内で見せたわずかな動揺の気配など、最初から存在しなかったかのような冷淡な態度。背筋を伸ばして廊下を歩き去る詠子の背中を見送りながら、聖央はふっと小さく息を吐いた。
(やはり、あの程度のアプローチでは揺らがないか……)
 最初から効くとは思っていなかった。あれは「始まり」に過ぎない。そう簡単に彼女の壁を崩せるなら、ここまで想い続けたりはしなかった。
 そう自分に言い聞かせると、五年前の記憶が自然と蘇ってくる。

******

 大学三年の夏、鷹梁聖央は父に命じられ、半ば強制的に黎真テックのインターンに参加させられた。
 黎真グループの創業者一族として「次期社長候補」と噂されていたが、当時の聖央には継ぐ気などさらさらなかった。むしろ面倒な権力争いに巻き込まれるのを避けるため、いずれは海外で起業しようと考えていたほどだ。
 それでも「経験の一つだ」と言われてしまえば逆らうことはできなかった。
 当初は課題をそつなくこなし、無難に二週間を終えるつもりでいた。
 適当にやり過ごす中、法務部の社員である久慈詠子──社内で密かに「鉄仮面」とあだ名されている彼女から鋭い視線が向けられていることに気付く。無表情で冷たく見えるが、課題に関する指導は的確で、内心では一目置いていた。
 だがある日、詠子から突然メールで呼び出された時、聖央は警戒を高めると同時に失望を抱く。
(やっぱり、こうなるのか……)
 聖央は幼い頃から周囲の女性に言い寄られてきた。
 整った顔立ちと鷹梁の姓を持って生まれたせいで、母親世代の大人の女性からも同年代の女子からも、特別な存在であるかのように扱われてきた。
 好意を寄せられるたびに聖央本人は困惑したし、早々に「出自や外見を理由に近付いてくる人間とは距離を置く」と決めていた。
 だから詠子からの呼び出しを受けた時も、どうせ指導社員という立場を使って近付こうとしてくるのだろう、と内心で溜息をつきながら会議室へ向かったのだ。
 しかし扉の向こう側に足を踏み入れた瞬間、その予想はあっさり裏切られた。
 廊下に面したブラインドはきちんと開け放たれ、距離を大きく空けた位置に座るように指示される。部屋に漂うのは誰かを誘惑する空気ではなく、あくまで真剣な話をするための緊張感だけだった。
 そして詠子は、冷ややかな眼差しと共にきっぱりと告げた。 
『これは私見なので気を悪くされたのであれば申し訳ありません。ここまで様子を見させていただきましたが、高橋さんからは課題に取り組む意欲がまったく感じられませんでした』
 あまりのストレートな物言いに聖央は呆気にとられる。
 だが詠子は、そんな反応などお構いなしに畳みかけてきた。
『研修内容に不足を感じているのであれば、インターンを辞退するという選択肢もあります。その場合でも高橋さんに不利になるようなことはしません。こちらからできる限りのフォローをするとお約束します』
 辞退を勧めているものの、ただ単に切り棄てるのではない。その言葉が本当に聖央を案じた上で発されているものだと、不思議とすぐに理解できた。
(……俺は、随分と失礼なことをしていたんだな)
 どうせ入社しないのだからと手を抜いても構わないと思っていた。だが、その態度は他のインターン生の士気を下げるだけでなく、指導社員の大事な時間を奪っていたことに今更になって気付き、深く反省した。
 そこからは全力で課題に取り組むようになり、インターンは成功裏に終わった。
 そして、期間終了間際のある日──。
 人影まばらな休憩室の前を通りかかった時、聖央は見知った背中を偶然見つけた。
 窓際には白いブラインドが下ろされ、わずかな隙間から午後の陽光が柔らかく差し込み、静かな室内に淡い陰影を落としている。
 詠子は窓際のテーブルに腰掛け、手にしたスマホの画面をじっと見つめていた。
 次の瞬間、目元がふっと緩み、丁寧に口紅が引かれた唇がゆるやかな弧を描く。
 ──笑っている。
 それは、ほんの一瞬の出来事。
 社内で「鉄仮面」と恐れられている彼女からは到底想像もつかない表情。柔らかで優しげな笑顔が目に映った途端、呼吸が止まり心臓が大きく跳ね上がった。
(……誰からの連絡なんだ?)
 不意に嫌な想像が頭をよぎる。
 もしかして、詠子のスマホに届いたのは恋人からのメッセージの可能性は捨てきれない。
 先ほどの笑みはその男を想って浮かべたものなのかもしれない──そう考えた瞬間、胸がざわりと波立ち、息苦しさすら覚える。
 それは自分でも理解できない、初めての感情だった。
 これまで多くの女性から向けられてきた好意とは常に距離を置き、煩わしいとしか思わなかった。なのに今は、こちらへ意識を向けてくれないことに強い苛立ちを覚えてしまう。
 詠子はすぐに表情を引き締め、まるでその笑顔が幻だったかのようにいつもの無表情の仮面を被る。聖央は安堵と同時に、複雑な感情を抱えたまま立ち尽くした。
(あの笑顔を、俺にだけ向けさせたい)
 生まれて初めて、心から欲しいものを見つけてしまった。
 しかもそれは突発的な衝動ではなく、胸の奥深くまで根を下ろしてしまった感情だった。
 だが、聖央は単なる学生に過ぎない。彼女とは年齢差もあり、指導社員とインターン生という関係。このままでは到底相手にされないことなど火を見るよりも明らかだった。
 だからこそ、目の前に立ちはだかる壁をすべて乗り越え、詠子の隣に並び立てる存在になると決意する。
 黎真テックの社長の座など興味のなかった聖央が、黎真マレーシアの社長のポジションを望んだ理由は、間違いなくこの時に芽生えた想いだった。

 詠子は朝の光が柔らかく差し込む法務部のオフィスで、書類を揃えながら深く息を吐いた。
 長年の友人から「もう少し向き合ってみたら?」とアドバイスされたものの、どう振る舞えばいいのかまるで見当がつかない。
 結局、頼れるのはこれまでの自分──つまり、「鉄仮面」を維持することだった。
 打ち合わせの席で詠子は無意識のうちに何度も聖央の様子を窺ってしまう。相変わらず淡々とした表情で、感情を読ませないのは昔から変わらない。
 だが──気のせいかもしれないが、詠子に目を向ける頻度が少しだけ高いような気がした。
 それは本当に彼が見ているからなのか、それとも詠子が過剰に意識しているからなのか、考えれば考えるほどわからなくなっていく。
(だめね……冷静にならなきゃ)
 何度自分に言い聞かせても、胸のざわめきは完全には消えてくれなかった。
 昼過ぎに確認が必要な資料があり、詠子は聖央が臨時オフィスとして使っている会議室へ向かった。
 廊下を進むと、ちょうど扉が開いて聖央が出てくる。声をかけようと一歩踏み出した瞬間、向こう側から弾むような声が飛んできた。
「鷹梁くん!」
 可愛らしい声のした方向へ視線を移すと、そこには神園彩葉が立っていた。広報部に所属する彼女は、かつて聖央と同じインターン仲間だった女性社員だ。
 若々しく、丸い瞳と柔らかな笑顔が印象的な彩葉が頬を上気させながら駆け寄ってくる。
「やっと会えた! 本社に来てるって聞いたから探してたの!!」
 嬉しくて堪らない、といった様子の声が廊下に響く。
 詠子は思わず足を止め、その光景を食い入るように見つめてしまった。彼女の無邪気な笑顔と聖央の落ち着いた姿が対照的で、胸の奥底から説明のつかないざらついた感情が湧き上がる。
「神園さん、お久しぶりです」
 一方の聖央は、穏やかな声ながらも淡々とした態度で応じた。
 昔の仲間に再会したはずなのに、そこに親しげな雰囲気はほとんどなく、あくまでもビジネスライクな一線を引いた口調だ。
 だが、彩葉はそんな温度差などまるで気にしていないようで、目を輝かせながら言葉を続けた。
「今度ね、インターンのみんなで集まって食事しようって話してるの。鷹梁くんも参加しない?」
 通りかかった社員たちがちらりと視線を向け、小さな声で囁き合う。彼らの視線は好奇心に満ちていて、話題の中心が聖央と彩葉であることは明らかだった。
「ねぇ、あの二人って知り合いなんだ」
「同じインターンだったんでしょ? すごい偶然だね」
 廊下にひそひそとした声が重なり、嫌でも耳に入ってくる。詠子がそっと視線を逸らすと、胸に小さな痛みを覚えた。
 きっと、自分の中で勝手に意識を高めてしまっていただけなのだろう。
 若々しい二人を眺めていると、浮ついていた心がすうっと冷えていくのをはっきりと感じた。
(……なに考えてるんだろう、私)
 冷静を装って歩き出したものの、指先がほんの少しだけ震えていることに気付き、書類を持つ手に力を籠める。冷静さを取り戻した詠子は胸に小さな痛みを抱えたまま、意を決してまっすぐ二人のもとへ歩み寄った。
 ヒールの音が廊下に響くたび、周囲の視線が自然と集まってくるのを感じる。距離が縮まると、聖央がこちらに気付き、ほんのわずかに目を細めた。その視線は柔らかく、打ち合わせで見せる冷ややかなものとは違って見えた。
「お話し中に申し訳ありません。急ぎで確認していただきたいことがありまして……」
 できるだけ平静を装い、淡々とした口調で声をかける。彩葉の視線がこちらに移ったことに気付き、詠子は無表情のまま軽く会釈すると手元の書類を聖央に差し出した。
 聖央はそれを受け取って内容に目を走らせると、少しだけ考え込むように眉間に皺を寄せる。
「この条項については、現地法人の法務とすり合わせてから判断した方がいいですね。久慈さん、現地のリーガル担当と連絡を取って、確認結果を今日中に共有してもらえますか?」
「承知しました。すぐに対応します」
 詠子は短く返事をし、用が済んだとばかりに立ち去ろうと身を翻した。
 だが、その瞬間、低く穏やかな声が背後から呼び止める。
「あぁ、久慈さん」
 足を止めて振り向くと、聖央は資料を手にしたまま追うように近付いてきた。先ほどよりも近い距離に鼓動が乱れたのを感じながらも、無表情を崩さないよう努める。
「明日の食事会ですが、先方の都合で時間が変更になりました。予定より一時間早まります」
「十八時開始に変更ですね。承知しました」
 一礼しようとしたその時、彩葉がタイミングを見計らったように会話へ割って入ってきた。
「あっ、それじゃあ来週以降がいいかな? 鷹梁くんの都合はどう?」
 詠子の胸に言い知れぬざわめきが走る。
 いくらインターン仲間とはいえ、聖央はもうすぐ黎真マレーシアの社長になる人物だ。彩葉の気やすい物言いがどうしても癇に障る。しかし、口に出せば僻みにしか聞こえかねないことは重々承知していた。
「それでは失礼します」
 わずかな逡巡の後、結局詠子は咎めることなく、普段通りの淡々とした様子で軽く一礼する。
 踵を返して廊下を足早に歩き出した。離れつつある背後で聖央が彩葉に向けて落ち着いた声で告げる。
「申し訳ありませんが、当面は予定が詰まっているので参加できそうにありません」
 その言葉を聞いた瞬間、詠子の中にふっと安堵が広がっていく。
 彩葉の誘いを断った──それだけのことなのに、どうしてこんなにもほっとしているのか自分でもわからなかった。
 無表情で歩き続ける詠子は、その答えを見つけられないまま静かに息を吐いた。
 そして翌日──。
 料亭での食事会は穏やかな空気で滞りなく終了した。
 木製の引き戸を抜けると夜風がひんやりと頬を撫でていく。
 外には黒塗りの車が数台並び、街灯に照らされた舗道には参加者たちの影が長く伸びていた。
「お疲れ様でした。私はこちらで失礼します」
 予想より遅くなってしまったのは、それだけ話が盛り上がった証拠だ。達成感から来る心地いい疲労を覚えながら詠子は軽く会釈をし、そのまま駅に向かおうと歩き出した。
 だが、数歩進んだところで背後から落ち着いた声が追いかけてくる。
「久慈さん、送らせてください」
 振り返ると、黒塗りの社用車の扉が開かれていた。運転席には黎真の専属ドライバーが控えており、後部座席の横に立つ聖央が淡く微笑んでいる。
「……お気遣い感謝します。ですが、電車の方が早く着きますので」
 やんわりと、そして可能な限り丁重に辞退したつもりだった。なのに聖央は微かに目を細め、開いた扉を手で示してくる。
「ここから駅までは距離がありますから」
 穏やかな声だというのに有無を言わせない迫力がある。それに周囲の視線もあり、これ以上抵抗するのは逆に目立つと悟り、観念した詠子は「失礼します」と告げてから後部座席に乗り込んだ。
 車内は高級レザーの香りがほのかに漂っている。静まり返った空間で、徐々に高まりつつある鼓動が聞こえてしまうのではないかと心配になってきた。
「……本当に気を使わないでください」
 景色が流れはじめた窓の外を見つめたまま、努めて淡々と告げると、隣に座った聖央が静かな声で答えた。
「ここ最近、久慈さんとゆっくり話す時間がなかったので」
 その声音は本心を探らせない響きを帯びていた。
 これは社交辞令──冷静さを取り戻した思考が容赦なく事実を教えてくれる。
(そんなリップサービス、私には必要ないのに……)
 そう自分に言い聞かせながらも、車窓に流れる街灯の明かりがやけに滲んで見えた。意を決し、詠子は膝の上で両手を組んで姿勢を正した。
「業務は滞りなく進めるとお約束します。ですので、もし仕事を円滑に進めるためにああいったことを仰ったのでしたら、撤回していただいて結構です」
 声は落ち着いていたが、内心では激しく脈打つ鼓動が自分にしか聞こえないことを祈るばかりだった。
「それなら撤回します」と返されるだろうと覚悟していたが、聖央からの返事はなかなか返ってこなかった。
 ふと横を向くと、シートの陰から覗く彼の横顔が街灯の光に浮かび上がる。そのまままっすぐに見返された瞬間、車内の空気が重く張りつめた。
 じっと射貫くように向けられた視線はこれまでの穏やかなものではない、そこに宿った熱に詠子は思わず息を呑んだ。
 頬が火照ってくるのを自覚しながらも、必死で無表情を装う。だが、抑え込もうとした鼓動の激しさはすでに限界を超えていた。
 ぎしり、と革張りの座席が小さく音を立てた。
 隣に座る聖央が身体をこちらへ向け、組んでいた長い脚を解いて身を乗り出してきた。詠子は急に縮まった距離に、無意識に背もたれへと身を預けた。
 低く静かな声が車内に響く。
「唐突なアプローチだったので困惑させているのはわかっています。ですが……俺は本気です」
 そのたった一言に空気が一変した。
 一人称が「私」から「俺」に変わった。これは「黎真マレーシアの次期社長」ではなく、プライベートの「鷹梁聖央」としての発言だと言いたいのだろう。
 仕事中は理路整然とした話しぶりをする彼から、こんな熱を孕んだ言葉を聞かされるなんて──完全に不意を突かれた。
 必死に動揺を悟られまいとするが、頬の内側にじわじわと熱が集まってくる。
「そんなことを、急に仰られても……」
 やっとの思いで声を絞り出す詠子を聖央がじっと見つめている。真正面から射貫かれるような視線に目を逸らしたいのに逸らせなかった。
「インターンの時、私は厳しいことしか言っていなかったと思いますけど」
 震えを帯びた声で問うと、聖央はふっと口元に笑みを浮かべた。
「ええ、たしかに厳しかったです。ですがそれで、自分がどれほど甘い考えを抱いていたのかを思い知りました」
 落ち着いた口調の中にどこか懐かしむような響きが混じっている。その言葉に詠子の脳裏にインターン期間中にあった出来事が浮かび上がった。
 他のインターン生が詠子に対して不満を漏らしている中、聖央だけは毅然とした口調で反論してくれた。
 あの時に感じた胸の温かさがじわじわと蘇ってくる。
「態度は冷淡ですけど、相手のために言いにくいことも指摘してくれる──そんな貴女の人柄に惹かれたんです」
 不意に告げられた言葉に息が止まる。
 冷たく映っていたはずの自分の言動を、聖央がそんなふうに受け取っていたなんて思いもしなかった。
 頬の熱がますます強くなっているから、きっともう隠しきれていないだろう。
 聖央はゆっくりと目を伏せ、小さく息を吐いた。
「本当は、黎真テックを継ぐつもりなんて、まったくありませんでした」
「……え?」
 思わず声を上げてしまった詠子へ視線を戻し、その瞳をとらえたまま、聖央は静かに続ける。
「俺は海外で鷹梁とは関係のない会社を興すつもりでした。でも──貴女にアプローチするには、それに見合う地位が必要だと思ったんです」
 そう告げた後、聖央は一瞬だけ視線を泳がせた。まるでその言葉の重さを己の中でたしかめているかのようだった。
 だがすぐにその目には揺るぎない決意が戻り、詠子をまっすぐに見据える。
「俺は、貴女が欲しくて……次期社長を目指すと決めたんです」
 その言葉が耳に落ちてきた瞬間、詠子の世界が音を立てて揺らいだ。
 頭では意味を理解しているはずなのに、心がまったく追いつかない。
 インターン時代に見てきた「高橋聖央」と、隣にいる男が重なり合わず、混乱の渦に放り込まれたような錯覚に陥った。
「……そんな、理由で?」
 かろうじて声を絞り出したが、それ以上は言葉にならなかった。
 こちらへ大きな手が差し伸べられる。反射的に身を引こうとしたが間に合わず、詠子の頬をそっと撫でた。
 指先が肌に触れた瞬間、鉄仮面の奥で必死に守っていたはずの心が、簡単に揺さぶられてしまう。

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ご愛読ありがとうございました!
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