極道、拾いました 若頭は彼女に本能の愛を刻みつけたい 2
「……は、はい?」
いったい、なんの冗談を言っているのだろう。思わず情けない声が漏れた。
でも、私を見下ろす一条さんの表情は真剣そのものだ。
「だから、抱かせてくれと頼んでいるだろう」
「ちょっ、待ってください! どうしてそうなるんですか?」
「話せば長くなる。説明は後だ」
伏し目がちに私を見下ろす一条さんの瞳には確かな欲情が滾っていた。
一条さんはごくりと唾を飲み込んだ。男らしい喉仏が上下したのを合図に彼の顔が近付いてくる。
どうしてこうなったのか理解するのに時間がかかった。私は抵抗することもできず、ギュッと目を瞑って身を固くすることしかできない。
それから数秒後、「……くそっ」という声に目を開けると、一条さんが必死になにかを耐えるように奥歯を噛みしめていた。
「……ほら、早く起き上がれ」
一条さんは腕を引っ張って私を起き上がらせた後、怪我はないかとぶっきら棒に尋ねた。
「はい。一条さんが庇ってくれたので……」
私は胡坐をかいて座る一条さんからほんの少し距離を取って頷いた。
大怪我をしている相手とはいえ「抱かせてくれ」と迫られたのだからさすがに警戒する。
それに気付いた一条さんは数秒間宙に視線を漂わせた後、噛みしめるように謝った。
「……怖がらせて悪かった」
先程までの興奮した表情と一転し、今はすっかり冷静さを取り戻した様子だ。
一条さんは反省したように膝の上で両手の指を組んで、わずかに俯く。
こんな風な態度を見せられてこれ以上責めることはできない。私は謝罪を受け入れることにした。
「いえ、ちゃんと踏みとどまってくれたので……。でも、どうして突然あんなことを?」
急にスイッチが入ったように『抱かせてくれ』と迫ってきた理由が気になり、立ち入ったことと思いながらも尋ねる。
すると、一条さんはおずおずと顔を持ち上げて、意を決したような物々しい表情を浮かべた。
いったい何を言われるんだろうかと、緊張して息を飲む。重たい空気を切り裂くように、一条さんが低い声で言った。
「実は、EDなんだ」
「へ?」
ふいに放たれた聞き馴染のない言葉に思わず間抜けな声が漏れた。頭がフリーズしてパチパチと瞬きを繰り返す。
「EDとは勃起不全のことだ。実は数年前からEDに悩まされている」
一条さんは切羽詰まった様子で続ける。
「そ、その言葉は知っていますけど……。一条さんがですか? えっ、でも……」
私の視線は一条さんのズボンの中央部分に向けられた。濃いグレーのズボンのファスナーの辺りは、今もまだパンパンに張り詰めて膨らんでいるように見える。
私にそういう経験はないけれど、一応大人だし人並みに知識はある。一条さんの下半身が反応しているのは、一目瞭然だった。それに先程膝に触れたあの不思議な感触……。
「信じられないかもしれないが、こんな風に勃起したのは数年ぶりだ。正直、自分でも驚いている」
「す、数年ぶりですか……?」
男性の体のことはあまり詳しくないけれど、きっと由々しき事態に違いない。
数十分前に出会った人ととんでもない会話をしているという自覚はある。
けれど、深刻そうな事態に私は正座をしたままスッと背筋を伸ばして、真剣に話に耳を傾ける。
「ああ。病院へ通ってEDが治るということは全て試したが、効果はなかった」
眉間に皺を寄せて自身の下半身へ視線を落とす。いまだに膨らみは収まっていない。それを見た一条さんは、どことなく誇らしげで嬉しそうだった。
「で、ですが今は……あのっ、なんて言ったらいいのか分かりませんが……お元気ですよね?」
「ああ、元気すぎるほど元気だ」
「だとしたら、自分でも気付かぬ間にEDを克服していたのかもしれませんよ!」
余計なことかと思いながらも、明るく言う。一条さんは険しい表情のまま首を横に振った。
「いや、きっと克服はしていない。それに、こんな風に下半身が反応するのはお前だけだ」
「私だけ……ですか?」
「そうだ。さっきお前を押し倒したとき、今まで感じたことがないぐらいの興奮を覚えた。例えるなら、体中の血が煮えたぎっていくようなそんな感覚だ。俺の細胞の全てがお前を求めていた」
「それは、一条さんの熱が高いからではないでしょうか?」
いたって真剣な一条さんには申し訳ないけれど、傷を負い熱は三十八度を超えている。
平然とした顔をしているものの、相当な痛みもあることだろう。私に医学的知識はないけれど、考えられることといえば脳内にアドレナリンが出て、そのせいで……。
「違う。このくらいの熱、大したことはない」
一条さんはすぐさま否定した後、「少し話を聞いてくれ」とポツリポツリと自身のことを話し始めた。
「俺もお前と同じく親がいない。母子家庭で育ったが、母親が夜逃げした後はずっと荒んだ生活を送っていた」
同じく両親がいない身とはいえ、一条さんの生い立ちはあまりにも壮絶だった。
中学時代に唯一の家族である母親が借金を残して夜逃げし、毎日のように取り立てが家までやってきたらしい。まだ中学生だったにもかかわらず、一条さんは自分の居場所も家族もお金もすべてを失った。
つらい現実から逃げるように喧嘩を繰り返す日々の中、一条さんはひょんなことから柾木組の組長に腕っぷしを見込まれて拾われたのだという。
「それから俺は、組のためにすべてを捧げて生きてきた。今は柾木組の若頭だ」
「若頭……?」
首を傾げる。言葉自体は知っていても、どういう意味なのかは分からない。
「知らなくて当然だ」
一条さんはふっとわずかな笑みを見せた。ずっと固い表情を浮かべていた一条さんがふいに見せた微笑みに心臓がトクンッと鳴る。
一条さんって、強面で冷たい印象を受けるけどこんな風に優しく笑うんだ……。
「堅気のお前にはよくわからないと思うが、まあ簡単にいえば、組長に次ぐ地位だ」
「それは、すごいですね」
「別にすごいことはない」
褒める私に一条さんは、得意げになることも顔色を変えることもなく淡々としている。
「じゃあ、一条さんは柾木組の次期組長っていうことですか?」
「普通なら、な。でも、俺は柾木組長と血の繋がりがない。そのせいで、面倒な跡目争いに巻き込まれている」
別世界の話ながら、一条さんの置かれた立場を考えると胸が痛む。もしかしたら、脇腹の怪我も跡目争いに関係があるのかもしれない。
「実は、数年前に組長が病気を患い、今も体調が思わしくないんだ。そのせいで今後も組内部の争いが激化するはずだ」
「そんな……」
「俺の失脚を狙って、弱みを握って足を掬おうと躍起になっている人間は大勢いる。そんな奴らにEDで跡取りも作れない無能な男だと知られたら、俺はもう組にはいられない。そうなったら、おしまいだ」
一条さんは膝の上の拳をぐっと固く握りしめた。
「ずっと夢見ていた組長の座まであと一歩なんだ。組長になれば確固たる居場所ができる」
彼の気持ちはじゅうぶん理解できた。私も両親を事故で亡くしてから施設に入るまでの間、ずっと心細かった。住む家はもちろん、心の拠り所がないことがなによりも怖くて、毎日不安で押しつぶされてしまいそうだった。
身寄りのなかった一条さんは、柾木組長に拾われたことで、ようやく組の中に自分の居場所を見つけたのだろう。けれど、手に入れたはずの居場所を奪われそうになっているのだ。
「……頼む。俺のED克服に力を貸してくれ。俺のEDを治せるのは美沙、お前しかいない」
唐突に名前を呼ばれてドキッとする。
「力を貸すというのは……いったいどうやってですか?」
「俺のセックスの相手になってくれ」
一条さんは覚悟を決めたように真っすぐ私を見つめて、淀みのない口調で言いきった。
私が一条さんのセックスの相手を……?
動揺してごくりと唾を飲み込む。あまりに唐突な出来事に頭が混乱して、思考がうまく働いてくれない。
「タダでとは言わない。もちろん、金ならいくらでも払う」
漆黒の瞳が私を捕らえて離さない。一条さんはただならぬ気迫で私に頼み込んだ。
これもなにかの縁だ。一条さんが置かれている状況は理解できるし、私にできることならばなんとか力を貸してあげたいと思う。けれど、セックスの相手になるなんて頼みを受け入れることはできない。ましてや、私にはそういう経験が一切ないのだ。
「そ、そんなこと……私にはできません。それに、そういう行為はお互いのことを知って、気持ちが通じ合ってからでないと」
私の言葉に一条さんはやれやれと小さく息を吐く。
「初めてのわけでもないだろうし、もったいぶって初心な振りとはずいぶん交渉上手だな」
「そ、そんな! 違います。ただ私は……」
初めては好きな人と心に固く決めていた。だけど、私が処女だと一条さんは知らないし、この場でそんな恥ずかしいことを言う気もなかった。
「だったら、何が不満なんだ? 俺がお前に返せるものは金しかない。もし欲しい物があるならそれでもいい。とにかく、望みを全て言ってみろ」
「お金も欲しい物もありません。とにかく、私には一条さんの相手は絶対に務まりません」
一条さんは不服気に腕を組んだ。
「お前はおかしな女だな。俺となら金を払ってでもしたい女は山ほどいるんだ」
「ええ、ですから私ではなく、他の女性を当たってください」
固い表情でキッパリお断りする私に一条さんが悔しさを滲ませるように奥歯をギリギリと噛みしめた。
互いの間に重苦しい沈黙が流れる。自宅のアパートとはいえ、見ず知らずの男性に性行為を求められているというのに、私は意外にも落ち着き払っていた。
一条さんの口調はぶっきら棒で高圧的だ。しかも、顔は整っているとはいえ強面。身長だって高いし、体は細身に見えて筋肉質。脇腹に大怪我をしているが、屈強な彼にかかれば私をこの場で無理やり押し倒すことはたやすいだろう。
けれど、不思議と彼が私を傷付けるようなことはしないだろうという確信があった。
その証拠に、一条さんは眉間に深い皺を寄せて、何やら難しそうな表情を浮かべて考え込んでいる。
すると、彼はなにかに気が付いたようにハッと顔を持ち上げた。その瞳がギラリと妖しく光る。
「お互いのことを知って、気持ちが通じ合えばお前を抱けるんだな?」
「え?」
「さっき自分が言ったんだろう? もう忘れたのか」
「確かに言いましたけど……。でも、私と一条さんの気持ちが通じ合うことなんて……」
――絶対にありえない。
言いかけた瞬間、玄関の方から物音がした。
「なんだ?」
一条さんが玄関の方へ目を向ける。それはガチャガチャッと外側からドアノブを回す音だった。
そのことに気付いた瞬間、全身の毛が逆立った。扉の外側には、執拗にドアノブを回す得体の知れない誰かがいる。
「ひっ……」
短い悲鳴を上げた私は、全身を恐怖でガタガタと震わせた。顔がみるみるうちに青ざめていき、呼吸が荒くなる。
「おい、どうした。大丈夫か?」
異変に気付いた一条さんが何事かと尋ねる。
目に薄っすらと涙が浮かぶ。私は縋るような気持ちで一条さんに目を向けた。
でも、喉の奥に言葉が張り付いたみたいに、うまく言葉にならない。
「どうしよう……」
腕を体の前でかきよせて声を震わせる。そんな私の姿を一瞥すると、一条さんは弾かれたように立ち上がり、玄関扉の前まで歩み寄ってなんの迷いもなく扉を開けた。
「一足遅かったみたいだ。誰もいなかった」
左右に視線を振って扉の外を確認した後、部屋に戻って来た一条さんは私の前にドスンッと腰を下ろして悔しそうに言った。
「見てきてもらえて助かりました。ありがとうございます」
ホッと胸を撫で下ろす。平静を装ってお礼を言うも、顔は固く強張っていた。
まさか、ストーカーがうちにまでやってきたんだろうか……。
家を知られないように細心の注意を払っていたけれど、自衛するのは限界だったということだろうか。
いや、でもまだストーカーだと決まったわけではない。
「誰が来たのか心当たりはあるのか。ずいぶん怯えているな」
一条さんがジッと訝しげに私を見つめた。答えを求めるような視線に私は困ったように笑った。
「いえ、誰だかわかりません」
「今までにもこういうことがあったのか?」
「それは……初めてです。あのっ、失礼だったら本当にすみません。今のって一条さんを傷付けた相手ではありませんか? うちのアパートにやってきたことに気付いて追いかけてきたとか」
一条さんはヤクザだし、我が家へ招き入れたことを知って、追手がやってきたのかもしれない。はたまた、近隣住人が酔っぱらって自分の家だと間違ったと考えることもできる。
恐怖から逃れるように尋ねると、一条さんは「ありえない」ときっぱり否定した。
「組関係の連中であんな風にやってきたことを知らせるバカはいない。俺を本気でやる気なら、あんな回りくどいことはしない」
「そうですよね……」
小さく息を吐く。
「なにか事情があるようだな」
彼の目が早く答えろと訴えかけてくる。勘の鋭い一条さんは私の異変に気付いているし、このままなんでもないと言い張っても、聞き出すまで決して諦めない気がする。
「実は……」
私は少し前からのストーカー被害を一条さんに話した。その間、一条さんは静かに私の話に耳を傾けてくれた。
「警察には?」
私は小さく首を振る。
「なぜだ」
険しい表情ながらもその口調から私の身を案じてくれているのが伝わってくる。
「見られていたり追いかけられたりするのも、自分の気のせいかなと思っていたんです」
「気のせいなわけがないだろう。さっきだって家まできてあんな風に自分の存在を示すようなことをしてきたんだぞ。今日はすぐに帰ったが、これからエスカレートしていったら危険だ」
一条さんの言うことはもっともだった。最初は視線を感じるだけだったのに、帰宅後に後をつけられるようになって、ついには家までやってきた。
今日は偶然にも一条さんが一緒にいたが、今後もしも一人でいるときに同じことをされたら……。
胸の中に不安が込み上げて、顔が固く強張り、手のひらが小刻みに震えた。
「――分かった」
そう言って、一条さんが真っすぐ私に目を向けた。
「今日の礼に、俺がお前の身の安全を守ってやろう」
「そ、そんな! お礼なんていりません!」
「スマホを貸せ。もしまたストーカーが接触してきたら俺を呼べ。すぐに駆け付ける」
一条さんは有無を言わさずに互いの連絡先交換を済ませた後、どこかへ連絡を入れてスッと立ち上がり帰り支度を始めた。
まだ半乾きのスーツと血で染まったワイシャツに袖を通している一条さんに慌てて念を押す。
「あのっ、本当にお礼はいりません。見返りを求めて一条さんを助けたわけではないので」
それに、私は家へ招き入れて軽く傷の手当てをしただけだ。
「バカ言うな。極道の世界は、義理と人情を重んじる決まりがあるんだ。お前には恩があるし、礼をするのは当たり前のことだ」
身支度を整えた一条さんは「さっき迎えを呼んだ。世話になったな」と告げて、ズンズンと大股で玄関まで歩いていく。
「じゃあな、また会いに行く」
いまだに熱が高いのだろう。首筋には汗が浮かんでいるというのに、一条さんはどこか清々しそうに言って出て行く。
玄関に出た一条さんは煙草に火をつけたのか、紫煙がふわりと夜空に舞い上がる。
「あのっ、お大事に!」
去っていく背中にそう告げると、一条さんは煙草を咥えたまま振り返った。
「早く風呂入れよ、風邪ひくぞ」
流し目でほんのわずかに微笑んだ彼の横顔の美しさに目を奪われ、自然と心臓がドクンドクンッと震えた。
『また会いに行く』と言っていたけれど、きっともう二度と会うことはないだろう。嵐のように去っていった一条さんの大きな背中を私はぼんやりと見送った。
翌日。私は朝からアルバイト先である光一珈琲にいた。
店内はコーヒーの香ばしい匂いで溢れている。
フロアの椅子は数席残してお客さんで埋まっていた。朝早く来店するお客さんの大半は、出勤前のサラリーマンや登校前の学生で、目覚めのコーヒーを注文する。奥の席では、ご近所に住む高齢のご夫婦がゆったりとコーヒーを楽しんでいた。
店内には耳障りの良いジャズミュージックが流れ、落ち着いた雰囲気を醸し出している。
私はカウンターで上田さんが淹れたコーヒーを受け取り、トレイにのせた。
「一番テーブルにお願い」
「分かりました」
オーナーの傍らの流しでは、パートの小峰さんがせっせとお皿洗いをしていた。
バリスタと調理師の免許を持つオーナーが調理担当で、パートの小峰さんがお皿洗いなどの裏方をこなし、私が接客と会計をする。
白磁のカップからは、コーヒーの香ばしい匂いが立ち上っている。
「お待たせしました」
お客様にコーヒーを運び終えた時だった。
入り口のドアにつけられたベルがカランコロンと鳴った。
「いらっしゃいませ」
笑顔を向けた先にいたのは、背の高い男性だった。
その男性が店に足を踏み入れた瞬間、周りを圧倒させるほどの存在感に空気がわずかに変わった。センターパートの少し癖のある黒髪を綺麗に撫でつけた男性。端整という言葉がぴったりな顔立ちで、切れ長の目は男の色気を感じさせる。
男性が視線を左右に動かした時、バチッと目が合う。
私は唖然としたままその場に立ち尽くす。その男性は間違いなく、一条さんだった。
どうして彼がここに……? いったいなんのために?