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極道、拾いました 若頭は彼女に本能の愛を刻みつけたい 3

第三話

 

「こ、こちらの席へどうぞ」
 ひとまず奥の空いている席に一条さんを案内する。水の入ったグラスを運ぶと、彼は「ホットコーヒー。ブラックで」と平然と告げた。
「かしこまりました」
 動揺しながらも注文を受けてカウンターへ向かう。上田さんが用意してくれた熱々のコーヒーを彼の席に運ぶ。ちょうど一条さんの隣のテーブルにはお客さんがいない。私はそっと声を掛けた。
「一条さん、傷はもう大丈夫なんですか?」
 立ち振る舞いも自然で、とても昨日大怪我を負って高熱を出していたようには見えない。
「全然大丈夫じゃない。熱は下がったが、傷の痛みは昨日よりもひどい」
 サラッと答えながらも聞き捨てならない一条さんの言葉に、スッと顔から血の気が引く。
 素人の私の応急処置のせいで、傷をさらに悪化させてしまった可能性もあるからだ。 
「組専属の医師に診てもらったが、傷はそこそこ深かったらしい。お前が応急処置をしてくれていなかったら、大事になっていたかもしれない。助かった」
 その言葉に心から安堵する。
「よかった……。お医者さんに診てもらえたなら一安心です。昨日、一条さんが帰ってからずっと心配だったので」
「……心配? お前が俺を?」
 一条さんは私の言葉の意味が分からないというように、わずかに目を細める。
「はい。痛みはまだあるようですが、昨日よりも元気そうなお顔が見れてホッとしました」
 心からの気持ちを言葉にして伝えると、一条さんと目が合った。何気なく微笑みかけると、一条さんは眉を寄せて少し困ったような表情を浮かべる。
「そういえば、今日はどうしてここに?」
「また会いに行くと言っただろう」
「そうですけど……。まさかそれで、ここへ……?」
 確かに昨日『また会いに行く』とは言われたけど、まさか翌日現れるなんて考えてもいなかった。正直に言えば、ただの口約束だし、果たされることはないだろうとすら思っていた。
「そんなに驚くことではないだろう。約束したんだから、当たり前のことだ。それより、お前の方は大丈夫か? あれから誰も家に来なかったか?」
 真剣な表情で返す一条さんに私はポカンッとする。 
 先程、傷の痛みは昨日よりひどいと言っていた。まだ傷が癒えていないにもかかわらず、律儀に約束を守る一条さんに驚く。
 極道の世界を私はよく知らないけれど、一般人の私のような人間にも義理と人情をきっちりと重んじるようだ。 
「――美沙?」
 ぼんやりしている私の顔を下から覗き込みながら、一条さんは唐突に名前を呼んだ。低く響く落ち着いた声色に心臓が跳ねた。
「どうした。またなにかあったのか?」
 探るような目を向ける一条さんに慌てて笑みを返す。
「あ、いえ、大丈夫です。では、ごゆっくりお過ごしください」
 一条さんに突然名前で呼ばれて動揺したなんて言えっこない。私は一条さんに背中を向けてトレイを手に、逃げるようにカウンターへ戻った。
 カウンターに入ると、待ってましたとばかりに小峰さんが声を掛けてきた。
「ねえねえ、奥の席の男性、ものすっごいイケメンねっ!」
 鼻息を荒くするイケメン好きの小峰さんは、すぐに一条さんをロックオンしたようだ。
お店にやってきたお客さんの中にイケメンを見つけると大喜びの小峰さんだけど、今日の興奮度はいつにも増して高かった。
 仕立ての良いダークネイビーのスーツを身にまとった一条さんはとても極道の人間には見えない。その姿は、怜悧で仕事のできるエリートビジネスマンだ。
「あぁ……、そうですね」
「どこかの一流企業の御曹司かしらねっ。それか、俳優さん? スタイルも良いしモデルの可能性もあるわね! 目の保養にありがたい存在だわぁ」
 何気なく一条さんの方へ目を向ける。彼は優雅にソーサーとカップを持ち上げて、フーフーッとしばらく冷ましてから、そっと口を付けた。
 瞬間、「あちっ」と言うみたいにカップから口を離す。どうやら極度の猫舌のようだ。表情は変わらないものの、どことなく可愛らしい姿に親近感を覚えて、同じ猫舌の私は自然と口元が緩んだ。
 そんな彼に、少し離れた場所にいる女性客がうっとりとしたような熱視線を送っていた。
 存在感のある一条さんは、どこにいてもひと際人の目を引く。
 とはいえ、一条さんは他人の目など一切気にしていない。コーヒーカップをソーサーへ置くと、真っすぐこちらを見つめる。バチッと目が合ってしまった私は慌てて目を逸らす。 
「ねえ、あのイケメン、ずっと美沙ちゃんのこと見てるわよ~! そういえば、さっきあの人と何かおしゃべりしてなかった?」
 小峰さんがコソコソと私に耳打ちする。
「あぁ、それは……」
 小峰さんに聞かれてなんて答えようかと考えを巡らせていると、そばにいた上田さんが口を挟んだ。
「もしかして、美沙ちゃんの彼氏だったりするの?」
 その言葉に私は目を白黒させる。
「ち、違いますよ……。ちょっとした知り合いっていうだけです」
 一条さんを昨日出会ったばかりのヤクザだと紹介するわけにはいかず、私は言葉を濁して曖昧に微笑んだ。

 昼休憩の時間になった。テーブルと椅子しかない簡易休憩所の椅子に腰かけて、持ってきたお気に入りの曲げわっぱのお弁当箱を広げる。今日の献立は、休みの日に作り置きしたデミグラスハンバーグと卵焼き、人参しりしりだ。隙間には茹でたブロッコリーとミニトマトを詰め込んだ。施設を出て一人暮らしを始めてからは、日々の節約のために昼食は毎度手作りだ。
「いただきます」
 パチンッと手を合わせてから遅めの昼食を食べていた時、スマホにメッセージが届いた。
【仕事は何時に終わるんだ。迎えに行く】
 それは、一条さんからだった。いったい何事かと私は首を傾げる。
 あのあと、一条さんは三十分ほど店に滞在した。その短時間の間に、友人同士で来店した派手な女性客になにやら声を掛けられていた。いわゆる逆ナンというやつだろう。
 どちらも文句の付けどころのない美人で、スタイルも抜群だった。
 けれど、一条さんは面倒臭そうに顔をしかめて女性たちをシッシッと手で追い払うような仕草を見せた。それでも挫けず何度か話しかけるも女性たちは一条さんに無視され続けた。結局、まるでなびかない一条さんに、女性たちは恥ずかしそうに顔を赤らめてそそくさと店を出て行ったのだった。
【今日はご来店ありがとうございました。迎えは大丈夫です】
 店の売り上げに貢献してくれたことに感謝しつつも、迎えの件はやんわりと断ると、すぐにメッセージの横に既読マークがついた。
 すると、間髪を容れずに今度は電話がかかってきた。何事かと通話ボタンを押してスマホを耳に当てる。
「……もしもし」
『で、今日は何時に終わるんだ。車で迎えに行く』
 低い声が鼓膜を震わせる。
「いえ、それは申し訳ないです。迎えはいりませんので……」
『だから、時間。さっさと言え』
 口調はぶっきら棒ながら、言葉に威圧感はない。けれど、私が答えるまでは絶対に電話を切らせないという強い決意を感じさせる。たとえここで切ったとしても、折り返してくる予感がする。
 私は心の中で溜息を吐き、時間を告げた。
「今日は十九時までです……」
『分かった。じゃあ、十九時に店の裏手にある駐車場で待ってる』
 一方的に告げると、ブツッと電話が切れた。
「な、なんて強引な人なの……」
 私は唖然としながら呟いた。

 全ての仕事を終えた私は、身支度を整えて上田さんに挨拶を済ませてから店を出た。
 駐車場には何台かの車があり、その中で一番目立つ場所にピカピカに磨き上げられている海外製の黒い高級乗用車が駐まっていた。
 辺りは薄暗いながらも、それがすぐに一条さんの乗っているであろう車だとわかってしまった。
 恐る恐る運転席の方へ近付いていくと、彼の視線が私の姿を捕らえた。
「乗れ」
 運転席に座る一条さんは身を乗り出して助手席の扉を開けて私を招き入れた。
「お、お邪魔します」
「そう固くなるな。男の車に乗るのが初めてなわけではないだろう」
 緊張気味に頭を下げる私を、一条さんはフンッと呆れたように鼻で笑う。
 大人になってからプライベートで男性の車に二人きりで乗るのは初めてだった。
 とはいえ、もちろん言い返すことはせず、車に傷をつけないように細心の注意を払いながら乗り込む。
 車のボディ同様に、車内の内装も黒で統一されていた。座り心地の良い革張りのシートは、上質なソファを彷彿とさせる。ハンドル横の大きなパネルやあちこちの内装からも高級車仕様であることがうかがえた。
 車内はかすかに煙草の匂いがする。その匂いで、一条さんとふたりきりなのだと改めて実感する。
 なんだか急に不安が込み上げてきた。今さらながら、安易に車に乗り込んでしまったことを後悔する。
 そもそも、いったいなんのために私を迎えに来たんだろう。
 一条さんが私と会う目的は自身のED克服のためだろう。彼は昨夜、私にセックスの相手になってくれと頼み込んできたのだ。昨日は渋々諦めてくれたけれど、今日もそうとは限らない。
 このままホテルへ連れて行かれて強引に関係を迫られたりしてもおかしくはない。
 けれど、そうだとしたらどうして店に顔を出したんだろう。
 店の中には防犯カメラもある。もしも今日、私の身に危険が及べば、警察に通報すると考えるはずだ。そうなったら、店の防犯カメラからすぐに一条さんの身元が特定される。 そんなリスクを冒してまで、店にノコノコやってきたりするだろうか。 
 すると突然、一条さんの腕が私の前に伸びてきた。思わずビクッと体を震わせる。
 それに気付きながらも一条さんは表情を変えず、黙って助手席のベルトを引っ張り出した。
「そう怯えるな。ただベルトをするだけだ」
「ありがとうございます……」
 ベルトを締めてくれた一条さんにお礼を言うと、彼はすぐに私の方から腕を引いてハンドルを握り、車を走らせた。
 光一珈琲から自宅アパートまではさほど遠くない。ましてや車ともなればあっという間に着いてしまうだろう。
「お前はずいぶん働き者なんだな」
 真っすぐ前を向いたまま言う一条さんに首を傾げる。
「え?」
「短い時間だったが、今日のお前の仕事ぶりを見ていてそう感じた。気も利くし、愛想も良い。アルバイトにしておくには惜しい人材だ」
 一条さんの言葉にふふっと微笑む。
「そう言ってもらえて嬉しいです。でも、前の会社が倒産した後、たくさんの会社を受けたんですがどこにも採用してもらえなくて、今のお店で働き始めたんです」
 私は光一珈琲で働き始めた経緯を一条さんに掻い摘まんで話した。
「それはお前の問題じゃなく、タイミングと採用担当に見る目がなかっただけだ。気にしなくていい」
 私の存在を肯定するような一条さんの言葉に、胸の中がポッと温かくなる。
 ちらりと一条さんに目をやる。その横顔からはなんの感情も読み取れない。でも、私は一条さんの言葉になんだか救われた思いだった。
 すると、大通りを進む私たちの乗る車の前に強引なスポーツカーがウインカーも点けずに無理やり割り込んできた。
「キャッ!」
 衝突寸前になり思わず短い悲鳴を上げる。一条さんは急ブレーキをかけながら、冷静に私を守るように自身の腕を伸ばしてグッと私の体を押さえた。
「――大丈夫か?」
「はい」
 素早く私に視線を向けて怪我がないと分かると、一条さんは「危ねぇな」と押し殺した低い声で呟いた。この声には怒りがこもり、全身から恐ろしいオーラを放っている。
 割り込んだ車はさらに前の車を威嚇するようにクラクションを鳴らして煽っている。
 きちんと車間距離を取っていなければ、追突してしまいかねない危険な運転だ。
 ふいに両親の事故の記憶が蘇りそうになり、心臓がドクドクと不快な音を立てた。
「ふざけた運転しやがって」
 なおも蛇行しながら煽り運転を続けるスポーツカーと一定の距離を保ちながら一条さんが吐き捨てる。
 どうしよう……。
 一条さんはヤクザだ。このままでは怒り狂って前の車の運転手とトラブルになる可能性がある。そうなったら私ひとりでは力のありそうな彼を止める自信はない。
 それに、もしそんなことにでもなって一条さんの傷が悪化してしまったら……。
 前方の信号機が赤になり、煽っていた車が停止線の前で車を停めた。その後ろに続くように一条さんも車を停める。このまま降りて行ってしまったらどうしようかと不安になり、私は縋るような目を一条さんに向けた。
「一条さん、あのっ……」
「なんだ、その顔。お前は本当に分かりやすい奴だな」
 先程まで相手を殺しかねないほどの殺気を放っていた一条さんは、私と目が合うなりフッと笑顔を浮かべた。その笑顔の破壊力は想像以上で、体から一気に力が抜けていく。
「な、なんで笑ってるんですか?」
「俺が前の車の奴に文句をつけに行くって思ってたんだろ?」
「どうしてそれを……?」
 私の考えは、一条さんに完全に見透かされていたようだ。
「今はひとりじゃないからな。お前が乗っている時にそんなことはしない」
 至極冷静に言い、一条さんは再びハンドルに手をかける。
「一条さん……」
「お前を守ってやるって言ったのに、こんなことで危険に曝すか。それに、天国にいるお前の両親にも顔向けできないだろ」 
 前の車は信号が青に変わるや否や、そのまま逃げるように左へ曲がり走り去っていった。私はその様子をぼんやり眺めた。
 考えてみれば、ここまでくる道中も一条さんは常に安全運転を心がけているように見えた。
 ヤクザは運転が荒そうだという勝手な思い込みと偏見の目を向けてしまったことを心から反省する。それと同時に私のことを気遣ってくれた一条さんの優しさに、ほんの少しだけ胸がキュッと締め付けられた。
 それからすぐにアパートの前に到着した。一条さんはハザードランプを焚き、辺りに視線を走らせて不審者がいないことを確認してくれた。
「今日はありがとうございました」
 一条さんにお礼を言い助手席のドアに手を掛けた時、このままでいいのかと思い至る。
わざわざ車で店まで迎えに来てもらって送り届けてもらったのに、そのまま帰ってもらうのは心苦しい。お茶の一杯でも出すべきだろうか。
「あの……よかったらうちでお茶でも飲んでいきますか?」
 私が誘うとは思っていなかったのか、一条さんは意外そうな表情を浮かべた。
「まだ仕事が残ってるから会社へ戻る」
「えっ……まさか、お仕事の途中なのに抜けてきてくれたんですか?」
 私を送迎するためにわざわざそんなことまで……。
「俺が勝手にやってることだ。お前が気にする必要はない」
 ぶっきら棒に返す一条さんに改めてお礼を言い、私は車から降りた。
「もしまたストーカーが来たらすぐ俺に電話しろ。いいな?」
「分かりました」
「じゃあな。戸締りしっかりしろよ」
 短く告げて一条さんの乗る車は走り去っていく。
 結局私が心配していたことは起こらず、一条さんは本当に私を家まで送り届けて帰っていった。車が見えなくなるところまで見送った私は、一条さんの不器用な優しさにほっこりとした気持ちになった。

 それから数日後の午前中。私はビシッとスーツを着こなす黒髪のショートヘアの女性客の元へ歩み寄った。
「アイスコーヒー、お待たせしました」
「ありがとう~! ここのコーヒー、ホント絶品なんだよねっ!」
 学生時代からの親友である佐倉優香がにっこりと笑う。長いまつ毛はクルンッと上を向き、形の良い唇には上品な赤い口紅な引かれている。昔から校内で知らない人はいないほど抜群の美人だったけれど、大人になった優香の美貌はさらに磨き上げられて、キラキラと輝いている。
 身に着けているゴールドのピアスとネックレスもオシャレで優香に良く似合っていた。
「優香はこれから仕事?」
「そうそう。大好きな親友の顔を拝んでコーヒーを飲んで一息ついたところで、大型契約を取るべく、取引先を訪問する予定」
『大好きな親友』だと恥ずかしがる様子もなく自然に言う優香に胸が温かくなる。
「優香ならきっと大丈夫だよ。頑張ってね。応援してるよ」
「ありがとっ。って偉そうなこと言ってるけど、私は先輩の補佐するだけなんだけどね」
 白い歯を見せて笑った優香につられて私まで笑顔になる。
 優香は大学を卒業後、大手化粧品メーカーに就職し、営業担当の仕事に就いた。忙しい日々の合間、月に二、三度のペースでこうやってあれこれ理由を付けて店に顔を出してくれる。
 互いの休みが合えば、どちらからともなく誘い合って一緒に買い物をしたり食事をする。私にとって心を許せる、かけがえのない大切な親友だ。
「――おい」
 すると、入り口の方のテーブルから男性の声がした。優香に目で行くねと合図を送ってから声のした方へ視線を送る。
 入り口近くの席には、こちらを鋭く睨み付ける六十代ほどの男性が座っていた。短髪の男性は胸の前で腕を組み、苛立つように落ち着きなく足を揺らす。その男性に、見覚えがあった。
「お待たせいたしました」
 すぐさま男性客の元へ行くと、男性は眉間に皺を寄せて空のカップとソーサーを指差した。
「髪の毛が入ってたぞ。どうしてくれるんだ!」
 男性の指摘通りカップの底には短い髪の毛が一本貼り付いている。私はハッとしてすぐに謝罪した。
「大変申し訳ありません」
「おいおい、これで二回目だぞ!? テーブルも汚かったし、この店の衛生管理はいったいどうなってんだよ!」
「ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした」
「謝られて済めば、警察なんていらないんだよ!」
 再度頭を下げて謝るも、男性は大声を上げてテーブルをバンッと手のひらで叩いた。
 店内はシンッと静まり返り、ピリッとした空気が漂う。すると、カウンターにいた上田さんが騒ぎに気付いてこちらに駆け寄って来た。
「美沙ちゃん、どうしたの?」
「実は、お客様のカップに髪の毛が……」
「あぁ……」
 上田さんは空のカップを見た後、口元を歪めた。上田さんが考えていることが手に取るように分かる。男性客は先月もカップに小さな虫が入っていたと大騒ぎした。その時は、料金を返金し、代わりのドリンクをサービスすることで事なきを得た。
「我々は異物混入には細心の注意を払っています。それが二度も続くとはとても考えられません。なにかお心当たりがあるのでは?」
「ふざけるなよ。なんだ、その言い草は。まさか……俺が入れたとでも言いたいのか!?」
 棘のある上田さんの言葉に、男性の怒りが爆発する。勢いよく椅子から立ち上がり顔を真っ赤にして唾を飛ばす男性は、今にも上田さんに掴みかかりそうなほど興奮していた。
「お代は結構ですので、このままお引き取りください。それか、防犯カメラで確認しますか?」
 普段は温厚な上田さんでもさすがに黙ってはいられなかったようだ。強気の姿勢を崩さず言い返す。
「お前、この店のオーナーだろう!? よくも客を疑うようなことが言えるな!」
 このままでは他のお客様の迷惑になってしまう。
「あのっ」
 なんとか仲裁しようとした時、店の扉が開いた。こんなタイミングでお客さんが来店するなんて、間が悪すぎる。今日に限って小峰さんはお子さんの用事で一時間遅れて出勤する予定になっていて、店には私と上田さんしかいない。
「いっ、いらっしゃいませ」
 なんとかしなければと強張った笑顔を向けた先にいたのは、一条さんだった。
 彼は店内に入ってすぐ、場の異変に気が付いたようだ。冷静な表情で男性客と上田さんに視線を走らせる。
「俺は客だぞ!? 自分たちがカップに髪の毛を入れたくせに、俺のせいにする気か!」
「ですが、こんな短期間に二度も異物混入など考えられません!」
 上田さんまでもが興奮し、冷静さを失っている。
「そんなの知るか! この女が運んできた時に入ったんだ! お前、今すぐ土下座して謝れ!」
 男性客は頑なに折れない上田さんから私へ、怒りの矛先を変えた。私を指差しながら大声で詰め寄ってくる。
 男性に怒鳴りつけられた私が恐怖で動けずにいると、スッと私を庇うように一条さんが私と男性の間に割り込んだ。
「言い返せない相手に一方的に怒鳴り散らしてみっともない奴だ」
「なんだお前は! 部外者は黙ってろ!」
 すると、一条さんはスーツのポケットからスマホを取り出して男性の前に掲げた。
「そうだな。部外者の俺は警察に通報するぐらいしかできないしな」
「こっ、これぐらいのことで警察だと?」
 先程まで強気だった男性からはわずかな焦りを感じる。そんな男性に一条さんはたたみかける。
「さっき土下座を強要したな。俺を含めてお前の発言をこの場にいた人間はみんな聞いているんだ。警察に証言されたら、強要罪で話を聞かれるかもしれないな」
「なっ……」
「他の店でもこんなことしてるんじゃないよな? もしそうなら大事に――」
「やっ、やめろ。分かった、今日は帰ってやる!」
 そそくさと帰り支度を始める男性客を横目に、一条さんが上田さんに目を向けた。
「この調子ではどうやら今日が初めてではないようですが、このまま帰しても?」
「ええ……。恐らくもう来ないでしょうから」
 小走りで店を出て行く男性客に、上田さんは汚い物を見るような嫌悪感丸出しの瞳を向けて頷いた。
「分かりました。もしお困りでしたら弁護士を紹介しますので連絡を」
「ありがとうございます」
 高価そうな黒い革の名刺入れから取り出した名刺をスマートに上田さんに差し出す一条さん。その姿は誰の目から見てもヤクザではなく、仕事のできるエリートサラリーマンにしか見えないだろう。
 店内は男性が去りようやく落ち着きを取り戻した。私は一条さんを優香の隣の空席に案内した。
「一条さん、ありがとうございました」
 小さく頭を下げてお礼を言うと、一条さんは私を案じるような目を向けた。
「お前は大丈夫か?」
「はい、おかげさまで」
 もしも一条さんが助けに入ってくれていなければ、今頃どうなっていたか分からない。
「ねえ、美沙。お知り合いなの? ちょっと紹介してよ」
 すると、隣のテーブルで私たちの会話に聞き耳を立てていた優香が話しかけてきた。
 一条さんはすぐに名刺を取り出して「一条です」と優香と名刺交換をした。
「はじめまして。私は美沙の親友の佐倉優香です。……ん? 一条さんって天空技建設の社長さんなんですか!?」
 優香が驚いたような声を上げた。
 私は優香の名刺入れの上に置かれた一条さんの名刺に目を落とした。
 白地のシンプルな名刺には『天空技建設 代表取締役社長 一条漣也』と記されている。
 一条さんの素性を知っている私は驚いて目を見開く。
 ヤクザなのに社長さんってどういうことなの?
「ええ、一応」
一条さんが頷いた瞬間、優香の目がキラリと分かりやすく輝いた。
「え~、すごい! その若さで社長さんだなんて!」
「いえ、小さな会社ですから」 
 謙遜する一条さんを優香はうっとりと見つめた。
「私もこんなイケメン社長のもとで働けたら幸せなのに! ちなみにエステサロンとか経営している方にお知り合いっていませんか? いましたら、ぜひ弊社メーカーの――」
「優香、やめて」
「ははっ、冗談よぉ」
 ちゃっかり営業しようとしている優香を嗜めると、優香はおどけたように肩を竦めた。
 そして、一条さんににっこりと笑顔を浮かべた後、クイクイッと私に向かって手招きした。
 優香の方に顔を寄せると、「いい人ね」と耳打ちしてきた。
「え?」
 どういう意味なのか分からず首を傾る私を見てニヤリと笑う優香。
「これからも美沙と仲良くしてあげてくださいねっ!」
 優香は熱のこもった目で一条さんを見つめて、とびっきりの笑顔を向けたのだった。
 
 その日から二週間ほどが経ち、暦は七月に突入した。まだ梅雨明け前だというのに、毎日ジメジメとしたうだるような暑さが続いている。
 出会ってから今日まで、一条さんは毎朝欠かさず光一珈琲を訪れている。そして、私の仕事が終わる時間に車で私を迎えに来て、アパートまで送り届けてくれる。さらに忙しい日々の合間をぬってこまめにメッセージまで送ってくる。
【腹減った。昼食ったか?】
【もう食べました】
【なにを?】
【これです】
 休憩所のテーブルに広げたお弁当の写真を撮って送るとすぐに返事が届いた。
【すごいな。プロ並みの腕だ】
【簡単な物しか作れませんよ】
【簡単じゃないだろ。手が込んでる】
 大したことのないメッセージのやり取りをいつからか私は楽しく感じるようになっていた。
 この日も朝から一条さんが来店し、店の一番奥の席でノートパソコンを広げていた。
 今日は珍しくなにやら真剣な表情を浮かべてパソコン作業をしている。
 なにかを悩んでいるのか、時々難しい表情を浮かべてこめかみを押さえている。
 少し前に聞いた話では、一条さんが社長を務める天空技建設は柾木組のフロント企業らしい。他にも柾木組のかかわる事業は、不動産業やコンサル会社など多岐に亘るという。 ヤクザの仕事といえばオレオレ詐欺や違法薬物の売買などというイメージが強かったため、ちょっぴり拍子抜けしてしまった。
 柾木組の若頭でありながら天空技建設の社長も務める一条さんは、私が想像するよりもずっと多忙な生活を送っているのだろう。
 真面目な表情で真摯に仕事に打ち込む一条さんの姿につい目を奪われる。
 カッコいいな……。
 私は自然と心の中でそう呟いていた。
「美沙ちゃん、おはようっ! 今日も一条さん、来てるのね!」
 九時前になり小峰さんが店にやってきた。奥の席の一条さんを見やり、小峰さんはにんまり笑う。
「しかし、毎朝美沙ちゃんの顔を見にやってくるなんて一途な人ねぇ。あんなに良い男に言い寄られて羨ましいわぁ」
「それは違います」
 流しのそばに立ち、水滴のついたカップを拭きながら伏し目がちに否定する。
 私の生活の中に一条さんの存在はすっかり溶け込んでいて、大切なことを忘れかけていた。
 彼がこうやって店に通うのも、私を送迎してくれるのも全部自身のED克服のためなのだ。
 もしも私が一条さんに抱かれ、彼がEDを克服すればこうやって会いにくることもなくなる。
 私と一条さんは、ただそれだけの関係なのだ。
「……っ」
 そう考えると、ズキッ胸が痛んで切ない感情が込み上げてきた。ふと顔を持ちあがると、上田さんと目が合った。
「あっ……」
「どうしたの? なんだかぼんやりしていたけど」
 上田さんが不思議そうに尋ねる。
「仕事中にすみません……!」
 私は仕事に集中しようと、頭に浮かぶ思考を振り切った。

 

 

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