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極道、拾いました 若頭は彼女に本能の愛を刻みつけたい 1

第一話
 


「一条さんの女にしてください……」
 生活感のない広々とした寝室のベッドの上で、私は恥ずかしさを堪えて訴えた。
 男性経験はないけれど、初めては愛する人と心に固く決めていた。
 その言葉を合図に一条さんは私の唇を塞いだ。
「んっ……」
 唇の隙間から舌を差し込まれて、息継ぎする間も与えられずに口内を蹂躙されて、たまらず吐息を漏らす。
 私を見下ろす彼の瞳は滾っている。呼吸は熱く、私を強く求めてくれているのが伝わり、喜びに胸が打ち震える。
 彼の筋肉質な体には、胸から腕、それに背中にまで鮮やかな入れ墨が連なっている。
 一条さんは私とは違う世界で生きる人。分かっていても、圧倒的なその魅力に心を奪われてしまった。
「ずいぶん濡れやすいんだな。まだ胸しか触っていないのに、もうぐちゃぐちゃだぞ」
 低く色っぽい声で言われ、羞恥心を刺激される。
「やぁっ、そんなの……恥ずかしいっ……」
「恥ずかしがるな、まだ序の口だぞ。もっとお前を俺の手で感じさせたい。俺しか考えられないぐらいにな」
 独占欲を露わにした一条さんはさらなる快感を刻み込むように、私の弱い部分を徹底的に攻め立てた。私はもたらされる甘い刺激に腰をくねらせて喘ぐ。
「やぁ……そこっ……ダメっ……!」
 愛する人の手によって官能を植え付けられ、理性が溶かされていく。
 けれど、彼は私を愛してなどいない。彼が私を抱く理由は、他にあるのだ……。
「挿れるぞ」
 そしてついにその時がきた。彼の舌と指でたっぷり濡らされて蕩け切った蜜口に、熱い切っ先を当てがわれる。一条さんは腰にぐっと力を込めた。途端、猛々しく反り返った屹立が私のナカにメリメリと押し入ってくる。
「……っ」
 愛する人と繋がれる喜びを覚えるのと同時に、切なさが胸に込み上げた。

 

 


 六月。私、真白美沙の住む東京は先週梅雨入りしてから雨の日が続いている。
 この日も、職場のコーヒーショップの窓を大粒の雨が叩いていた。
 濡れた窓ガラスには白いシャツに店名の入ったベージュのエプロン姿の私が映っている。背中まである焦げ茶色の髪はゆるっと巻いて高めのポニーテールにし、シースルーバングの前髪はきちんとワックスで整えてある。
 雨は嫌いだ。今日のような雨の日、私は両親を同時に事故で亡くした。
 当時小三だった私には頼れる親戚はおらず天涯孤独の身。結局、高校を卒業するまで児童養護施設で育った。
「美沙ちゃん、おはよう。今日は一日雨みたいだね」
「おはようございます」
 オープンに備えてテーブルの消毒をしていると、店の奥からやってきたオーナーの上田さんがエプロンを巻きながら声を掛けてきた。エプロンの胸元には店長の名前からとった『光一珈琲』という店名がプリントされている。
 上田さんは店を入ってすぐの場所にあるレジへ向かう。ビニールで巻かれた小銭の棒金をガンガンッとテーブルの角で叩き、じれったそうにドロワーにお釣りを入れる。
 上田さんはいくつかの有名店で修行を積み、五年前に念願の光一珈琲を開いた。
 黒髪パーマに黒縁眼鏡の優しげな顔立ちの上田さん。身長は百七十センチほどだろうか。食べても太らない体質らしく、細身だ。身だしなみに気を配っているせいか、四十歳とは思えないほど若く見える。
 大通りに面し、二人掛けテーブルが六つとカウンターテーブルが五席ほどのこじんまりとしたこの店で、私は昨年からアルバイトとして働いている。
 高校を卒業してから三年間、私は小さな会社で事務員として働いていた。けれど、昨年突然会社が倒産し、私は職を失った。すぐに就活をするも、なかなか決まらず焦りばかりが募っていく。不採用通知が届くたびに、自分は必要とされる人間ではないという烙印を押されたようで苦しくなった。
 そんなある日、私は息抜きを兼ねてこのコーヒーショップに立ち寄った。スーツを着て暗い顔で溜息を吐く私に、上田さんが声を掛けてきた。そこで就職活動中だがなかなかうまくいかないと話すと、バイトをしてみないかと誘われた。
 以前のような正社員を目指していた私は一度は丁重にお断りした。もしもアルバイトとして働き始めてすぐに就職先が見つかれば、すぐに辞めなければならなくなり、迷惑をかけてしまう。
 けれど、断る私に上田さんは短期間だけでもいいと食い下がった。
 アルバイトではあるものの、働けば一定の収入が手に入る。アパートからも近く、働きやすい。何よりオーナーの上田さんが正社員になるまでの繋ぎでもいいと言ってくれている。
 どうしようか悩んでいると『頼む。君の力が必要なんだ』と頭を下げられ、その一言がダメ押しになった。
 のちに聞いた話では当時、突然連絡もなくアルバイトが辞めたせいで、人手不足で困っていたらしい。そんな偶然も重なり、私はこの店で働くことになった。
「そういえばさ、ストーカーの件、最近はどう? まだ見られてる感じはする?」
 お釣りを入れ終わった上田さんがレジを閉めながら尋ねた。
 テーブルを拭き終えた私は、グレーの波模様のダスターとスプレーを手に上田さんのそばに歩み寄った。
「最近はあんまり視線を感じなくなりました。そもそも、私の勘違いかもしれませんし」
 心配をかけないように、努めて明るく振る舞う。
 実はここ数か月前から、時々どこからか視線を感じるようになった。
 はじめは気のせいかと思っていたものの、アルバイトを終えて自宅へ帰るまでの道中に、後をつけられていると感じることが何回かあった。
 家を知られたくないため、コンビニで時間を潰してからアパートに帰る日もあった。
 得体の知れない誰かに見られて後をつけられている恐怖に私は悩まされた。
 とはいえ、後をつけられる以外に実害はない。自分の思い違いかもしれないと前置きして上田さんと一緒に働くパートの小峰さんに打ち明けると、二人は心配して親身になって相談に乗ってくれた。
「心当たりはないの? 調べたらそういうのって、結構元カレとかが多いみたいだし」
「元カレは……ありえないですね」
 私は困ったように苦笑いを浮かべた。 
 上田さんには照れくさいから言っていないけれど、そもそも元カレがいない。私は、二十三歳になっても恋愛経験ゼロなのだ。
「そうなんだね。前にも言ったけど、僕が家まで送ろうか? 今までは追いかけられるだけだったかもしれないけど、エスカレートしたら困るしさ」
「そんな!」
 私はブンブンッと首を振った。
 上田さんの親切心はありがたいけれど、そこまで甘えるわけにはいかない。
「お気遣いありがとうございます。でも、気を付けるので大丈夫ですよ」
「そう? でも、もし困ったことがあったらいつでも相談して。大切な従業員に何かあったら困るから」
「はい」
 私が頷くと、上田さんは柔らかい笑顔を浮かべた。
「おはようございます! ああ、よかった。間に合った!」
 そこに、パートの小峰さんが飛び込んできた。
 私の勤務時間は午前八時半から閉店時間の十九時まで。子供の送迎のある小峰さんは九時からの勤務だ。
「おはよう。今日はずいぶんバタバタだね」
 エプロンの肩紐が落ちかけている小峰さんを見て上田さんがクスクス笑う。
 三十代前半の小峰さんは幼稚園児二人のママだ。慌ててやってきたのか、ショートボブの前髪がぺたりとおでこに張り付いていた。
「ほんと参りましたよぉ。雨のせいで道が混んでて、子供たちの幼稚園の送迎がギリギリになっちゃって」
「小峰さん、おはようございます。雨の中の送迎、お疲れ様です」
「ありがとう、美沙ちゃん」
 小峰さんは笑顔を浮かべて店内の掛け時計に目をやった。
 時刻はもうすぐ開店時間の九時を迎えようとしている。
「さっ、仕事だ、仕事! 今日も頑張るぞ!」
 小峰さんの明るい声に、私も気を引き締めた。
 一日中雨が降り続いているせいもあり、午後になっても客足はあまり伸びなかった。
 午後三時まで勤務の小峰さんが帰った後は、私と上田さんの二人で店を回した。
 閉店時間になり、この日の勤務を終えて店の奥にある更衣室で帰る準備を済ませる。
 エプロンを取り、白いブラウスと黒いパンツの上にベージュのロングトレンチコートを羽織る。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
 体を揺らしながら店の戸締りをしていた上田さんに声を掛ける。片耳にはワイヤレスイヤホンが差し込まれている。仕事中も気分を上げたい時には、こうやってイヤホンをして音楽を聴いているらしい。
 すると、私の声に気づいた上田さんに呼び止められた。
「あっ、美沙ちゃん、待って。雨風がすごいから今日は送るよ。濡れたら風邪ひいちゃうから」
 確かに雨足は強まっている。けれど、ここから家までさほど遠くはない。上田さんは私とは違いまだ仕事が残っているだろうし、忙しい中わざわざ送ってもらうのも申し訳ない。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
「本当に? 気を遣わなくていいのに」
 上田さんは心配そうに言う。
「そんな。こうやって働かせてもらえているだけでありがたいです。では、失礼します」
 丁重に頭を下げて店の裏口から外に出る。お気に入りのピンクベージュの傘を差し、アパートの方へ歩き出す。
 傘を叩く雨粒は大きい。アスファルトのあちこちには水たまりができ、そこを避けて歩いたものの、履いてきたスニーカーはびしょ濡れだった。靴下までビショビショになり歩くたびに音が鳴り不快感が募る。
 二十分ほど歩くと、ようやくアパートが見えてきた。大通りから一本入った住宅街に私の住むアパートがある。あと少しだと自分を励ましながら歩いている時、前方にある電信柱に寄りかかるように座り込む人影が見えた。
 こんな雨の中、人が座っているなどとは考えられず、まさかと訝しがりながら目を凝らす。
 すると、前方から歩いてきたサラリーマン風の男性が立ち止まり、電信柱の方へ目をやった。けれど、男性は慌てたように小走りで去っていく。
 私は電信柱の方へ駆けていく。そこには胡坐をかいた男性が座り込んでいた。
「あのっ、どうしましたか? 大丈夫ですか?」
 これ以上雨に打たれないように、男性に傘を差し出す。そのせいで、私の背中は一瞬でビショ濡れになる。
 声を掛けても、俯いている男性はなんの反応も示さない。
 もしかして、意識を失っているの……?
 その時、近くを通り過ぎていった車のヘッドライトが私たちを照らし出した。
 サラリーマンなんだろうか。男性は白いワイシャツを着ていた。
 そのシャツが雨に濡れ、地肌にぺたりと張り付き透けて見えた。
「え……」
 思わず目を見開いた。男性の胸元にはびっしりと入れ墨が彫り込まれているように見える。それはどうやら腕から背中まで連なっているようで、一目見ただけでその筋の人間であることが分かった。
 男性は右手で自身の脇腹を押さえていた。怪我をしているのか、その指の間からポタポタと鮮血が滴り落ちている。
「どうかされました?」
 すると、異変に気付いたのか、通りすがりの女性が声を掛けてきた。私は縋るように女性に目を向けた。
「この方が座り込んでいたので心配になって声を掛けたんですが、怪我をしているみたいで反応がなくて……」
 辺りはもう真っ暗な上に、雨も降り視界が悪い。女性がスマホのライトを当てて、男性に目を向ける。瞬間、女性の喉がヒュッと鳴った。
「ひぃ。い、入れ墨……。あの、すみません、ちょっと急いでいるので」
「え、ま、待ってください!」
 焦って引き止めるも、男性の入れ墨に気付いた瞬間、女性は逃げるように駆け出して行ってしまった。
 男性と共に、その場に取り残された。通行人はいるものの、面倒ごとを避けたいのか、目を背けて誰一人として声を掛けてはこない。
『一緒に暮らすなんて絶対に嫌よ。うちにだって子供がいるんだから、引きとれないわよ!』
『こっちだって無理だ。困ったな……。どうするんだ、あの子』
 両親のお葬式で遠い親戚たちに煙たがられ、誰一人手を差し伸べてくれなかった辛い過去が蘇る。
「大丈夫ですか!? 今、救急車を呼びますから――」
 雨の音で声がかき消されてしまわぬように、声を張って男性に伝える。
「――やめろ」
 すると、先程までなんの反応も示さなかった男性が顔を持ち上げた。
「俺にかかわるな。放っておけ」
 恐ろしいほど鋭い眼光を向けられ、強い言葉で拒絶された。言われた通りこの場を離れるべきだと頭では分かっていたものの、怪我をしている男性をこの場に残して去ることはどうしてもできなかった。
 男性の身になにがあったのかは分からないけれど、どうやら怪我をしても救急車を呼べない事情があるようだ。
 私は大雨が降りしきる中、傘を閉じた。途端、私たちに一気に雨が降り注ぐ。
「……何をしてるんだ」
 男性が驚いたように尋ねた。
 私は男性の隣に腰を落として左腕を取り、自身の首に回した。
「立てますか?」
「おい、やめろ。離せ」
 強く拒む男性に臆することなく、私はハッキリ告げた。
「このままここにいたら、いずれ救急車か警察を呼ばれてしまいます。すぐそこに私のアパートがあります。応急手当てくらいはできますから」
 私の言葉に、男性は渋々立ち上がった。男性は思った以上に背が高い。百六十センチの私より二十センチ以上大きいだろうか。
「支えなどなくても、一人で歩ける」
 男性は私から手を離してぶっきら棒に言った。
「分かりました。では、ついてきてください」
 閉じた傘を再び開いて、私はゆっくり歩く男性が濡れないようにそっと傘を差し出した。
 時間をかけて築三十年のアパートの二階に辿り着き、1Kの部屋に男性を招き入れる。
 ラグマットの上に座るように促してから、真っ先に部屋の暖房をつけた。
 男性がいつからあの場所にいたのかは分からない。けれど、雨に打たれた体は冷え切っていた。
 私は着ていたトレンチコートと靴下を脱ぎ捨てると、着替えることもせずすぐさま部屋の棚から救急箱を取り出した。それから、新品のタオルを持ってマットの上で胡坐をかいた男性の前に腰を下ろす。
「タオル、使ってください。それと傷の手当てをするので、着ているものを脱いでもらえますか?」
「そんな必要はない。少し休んだらすぐに帰る」
 濡れた前髪の間から覗く威圧的な鋭い瞳に射貫かれて、ごくりとつばを飲み込む。
 明るい場所で見た男性は、一瞬で目を惹かれるような端整な顔立ちをしていた。
 男性的な魅力を感じる高い鼻梁に薄く形の良い唇。顔のパーツのバランスが良く、一切の隙がないため、どこか冷めた印象を与える。
「でも、このままじゃ風邪をひいてしまいます」
「それはお前も同じだろう」
 言われて自身の体を見る。髪は濡れポタポタと水滴が床に落ちる。
「私は大丈夫です。それより、早く止血しないと」
「俺にこれ以上かかわるな。正体を知ったら、きっと後悔するぞ」
 男性が私を牽制しているのは明らかだった。私はやれやれと息を吐く。
「後悔するぐらいなら、部屋に連れてきたりしませんよ。それに、大体想像がついているので。なので遠慮はいりません」
 男性が自身の上半身に視線を落とす。肌に張り付いたワイシャツに気付いた男性は全てを悟ったように、ふっとわずかに口元を緩ませた。
「分かっていて家に入れたのか。なんて無防備な奴だ」
 男性は呆れたように言いながらも、素直にワイシャツを脱いだ。男性の上半身にはビッシリと鮮やかな入れ墨が彫られていた。それは胸元から肘の下、それに背中まで連なっている。
 興味本位で背中の方を覗き込むと、昇り龍が背中一面に彫られていた。
 彫刻のようにしなやかな筋肉のついた上半身に彫られた入れ墨は、まるで芸術作品のようで圧巻だった。
「なんだ、今さら怖気づいたか?」
「すみません、綺麗に彫られているのでつい目を奪われてしまいました。えっと、傷は……」
 脇腹の傷に目をやった瞬間、凍り付く。
 なにか鋭い刃物で抉られたような傷は、想像していた以上に深そうで深刻だった。
 真っ赤な鮮血を見ていると、自然と呼吸が荒くなり、顔から血の気が引いていく。
「はぁ……はぁ……」
 耳鳴りがして、周りの景色がぐにゃりと歪む。徐々に意識が遠退いていくのを感じる。
そのとき「おい」という男性の声でハッと我に返った。
「あ……」
「どうした、顔が真っ青だぞ。大丈夫か」
 男性は訝しげな表情で私の顔を覗き込む。
「す、すみません。もう大丈夫です」
 小さく息を吐きだしてから、気を取り直して救急箱の中の消毒液とガーゼを取り出す。
「痛むかと思いますが、頑張りましょう」
 あまりにも痛々しい傷を直視することができず、私は薄目になりながら傷口に消毒液を振りかけた。
 けれど、忍耐力が強いのか男性は呻き声ひとつあげず、ピクリとも動かなかった。
 慣れない手当てに手間取りながらも傷口の消毒を済ませて、ガーゼを当てることに成功した。
「ふぅ……、ひとまず応急手当ては終わりました。ただ、体が熱いので体温を測りましょう」
 非接触式の体温計で熱を測ると、予想通り体温は三十八度を超えていた。家にあった解熱剤を飲ませた後、男性の上半身に大きめのブランケットをかける。
 続けて濡れていた男性のスーツの上着を乾かそうとエアコンのそばのカーテンレールに干していると、私の背中に男性の声がぶつかった。
「もしかして血が苦手なのか?」
「はい。実は血を見ると、両親のことを思い出してしまうんです」
 私は男性のそばに腰を下ろして正座し、救急箱の片付けをしながら答えた。
「小三の時、家族で出掛けた帰り道に事故に遭ったんです。居眠り運転の車と正面衝突して、運転席と助手席に座っていた両親は亡くなりました」
 短い母の悲鳴の後、物凄い音と衝撃に意識を失った。救急隊員に呼びかけられて目を覚ました時、両親の姿が視界に飛び込んできた。両親は頭から大量の血を流してぴくりとも動かなかった。そこで私は再びぷつりと意識を手放したのだった。
 その事故は私の中に深い傷とトラウマをつくった。今も真っ赤な血を見ると、あの日の光景を思い出して苦しくなる。
「そんなトラウマがあるのに、どうして見ず知らずの俺を助けたんだ」
 話を聞き終えた男性はどこか呆れた様子で尋ねた。
「怪我をしている人がいるのに、見て見ぬふりはできませんよ」
「だが、俺はお前も知っての通りこんな風貌だ。面倒ごとに巻き込まれたら嫌だろう?」
「それは確かに嫌ですけど、あそこであなたを見捨てることはもっと嫌でした」
「どれだけお人好しなんだ」
 男性は吐き捨てるように言った。
 少し横になるかと尋ねたものの、男性は首を横に振った。
 仕方なく立ち上がり冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出して男性の元へ戻り、テーブルの上に置く。
「……お前、名前は?」
「真白美沙です。あなたは?」
「一条漣也だ。さっきは仕事帰りだったのか?」
 彼は私の素性を探るような視線を向ける。
 家に招き入れてからも、彼は気を緩めることなく、警戒したように部屋中を見渡していた。
「安心してください。私はすぐそばにある光一珈琲で働くただのアルバイト店員です」
「……そうか」
 一条さんの首筋にわずかに汗が浮かび上がる。さっきから平気な顔をしているけれど、傷の痛みは相当強いに違いない。
「えっと……他にできることは……」
「俺のことはもういい。お前も濡れてるだろう。早く着替えてこい」
「私は平気です」
 私の頭の中は男性の怪我のことでいっぱいだった。熱を少しでもとれば楽になるかもしれない。冷蔵庫の中から取り出した冷却シートを手に男性の前に座る。
「おでこに貼りましょう」
「やめろ、そんなことしなくていい」
 一条さんはあっちに行けとばかりに鬱陶しげに手で私を追い払う仕草をした。
「じっとしていてください。少しは楽になるかもしれませんよ」
 一条さんの顔を覗き込みながら、冷却シートをおでこに貼り付ける。
 その時、バチッと至近距離で一条さんと目が合った。美しい漆黒の瞳が私を捕らえて離さない。
「……っ」
 ふわりと彼から煙草のような匂いがして、息が止まりそうになった。普段ならばこんな風に異性のパーソナルスペースに安易に立ち入ることはない。そもそも、恋愛経験のない私がこんなにも近い距離で男性と言葉を交わす機会など未だかつてなかった。
 怪我を負った一条さんをなんとかしなければという思いに駆られていたせいで、距離感を見誤っていた。
 自分では平常心のつもりだったけれど、予期せぬ事態に気持ちが高ぶっていたのかもしれない。慌てて一条さんから距離を置こうとした瞬間だった。
「あ゛!?」
 一条さんが眉間に皺を寄せ、険しい表情で大声を上げた。
「キャ!」
 驚いた勢いでバランスを崩した私は、後ろにひっくり返る。転ぶ寸前のようにスローモーションになる。
「危ねぇ!」
 ギュッと目を瞑ったと同時に、後頭部になにかが触れてぐっと引き寄せられた。
 勢いよく倒れたのに、不思議と体に痛みはない。背中にひんやりとしたフローリングの感触がする。
 恐る恐る目を開けると、一条さんが私の体の上に馬乗りになっていた。私の後頭部を守るように添えられていたのは一条さんの手のひらだったようだ。
「いってぇ……」
 私を支えたことで怪我をした脇腹に力がこもり痛みが増したようだ。さすがの一条さんもこのときばかりはほんのわずかに顔を歪めた。
「す、すみません!」
 慌てて起き上がろうとするも、膝の辺りにゴリッと固く熱いなにかが触れた。それは、今まで触れたことのない未知なる感触だった。
 すると、一条さんはなぜか熱のこもった目を私に向けた。
「あのっ、一条さん……?」
「頼む、今すぐここでお前を抱かせてくれ」