極甘な恩返し 恋愛スキルゼロな私がハイスペ外科医と結婚いたします 2
(ひぁっ!?)
出そうになったおかしな悲鳴をぐっと喉の奥で止める。これだけ近くで見ると、かえって見てはいけないものを見てしまっているのではないかと感じるくらい綺麗な顔だ。
「俺、あの小さな女の子が来たときからここにいたんですよ。話が終わってこっちに気づいてくれるかなと思ったら、すかさず高杉先生の息子さんのほうに走って行ってしまって。俺のほうが先だったのに。ここにいたの気がつかなかったんですか?」
……一瞬、思考が止まる。
なんだろう、気がつかなかったことを怒っている……というより、自分が先にいたのに順番を飛ばして竜星のもとへ走っていったから拗ねている。……ように感じる。
(ぎゃんかわっ!)
身をよじってしまいたくなるほど胸の奥がくすぐったい。これは、園児たちに母性本能を盛大にくすぐられたときと同じ状態だ。
いやしかし、大人の男性に、それも自分より年上なのに、「かわいい」とか感じてしまってもいいものなのだろうか。
「あ……、もしかして、高杉先生が見えたから走っていった……とかじゃないですよね。まあ、高杉先生は落ち着きのある渋い大人だし、かっこいいですしね」
せっかく動いた思考が、またもや止まりそうになる。
(なんだろう……園児のやきもちを聞かされているような気分)
先生が先にこっちに来てくれなかったと言ってご機嫌斜めになる子どもも多い。そんなやきもちを見たときと同じ気分だ。
「しかしなぜ、バツイチ男ってモテるんでしょう。俺の父親も妙にモテるんですよね」
「いえ、べつにわたし、高杉先生が見えたから走ったわけではなく……」
千菜美がいなくてよかった。冗談でも彼女の前でそんな話をされた日には、居酒屋できっちり問い詰められてしまう。
どうやら高杉は千菜美の憧れの人らしいのだ。それを知っているので、高杉が竜星の送り迎えに現れたときには担当を千菜美に譲ることにしている。
今朝は千菜美が場を離れていて、さらにいきなり竜星が走り出したので駆けつけるほかなかった。
……高杉の年齢を知っているのも、情報源はすべて千菜美なのである。
「それに、院長先生もとても素敵な方でいらっしゃいますから、おモテになるのも当然かと……」
「和沙先生、オジ専だったんですか!? ああいうタイプが好みですか?」
「ちっ、違いますよっ。オジ専ってなんですか! 朝比奈先生のお父様だから素敵なんですって言いたかったんです!」
あらぬ疑いをかけられている気がして、ついムキになってしまった。そんな和沙に、透は母性本能を鷲掴みにする、嬉しそうな笑顔を見せる。
「それって、俺が素敵だって言ってくれているってことですか? 嬉しいな」
(あああああ! 頭ぐりぐり撫でまくりたいぃぃぃ!!!!!)
少しでも気をゆるめれば、手が勝手に動いて透の頭を撫でてしまう。下手をすれば「なんだぁ、そのかぁわいい笑顔わぁ」とデレデレしながら頬をつまんでしまいそうだ。
(駄目っ! 落ち着けわたし! この人は園児でも近所の子どもでも実家のゴローちゃんでもないの! 年上の男の人!!)
和沙の中で激しい葛藤が繰り広げられる。
和沙は昔から世話好きな性格だ。子どものころは近所の年下の子たちの面倒をみたし、小学校の頃は進んで新入生のお世話をした。
母性本能をくすぐられるとかわいがらずにはいられない。“かわいがってくれる人”というのが本能的にわかるのか、赤ん坊を抱けば泣き止むし、実家の家主である高橋家の父親にさえ毅然とした態度をとる飼い犬、シベリアンハスキーのゴローちゃんでさえ和沙には腹を出して懐く。
母性本能が発達したのは、八歳年上の姉や年子の兄三人、その他からかわいがられて育った反動なのかもしれない。
人当たりがよくて朗らかなせいもあるのだろうか、透と話しているとちょくちょく和沙のツボにはまるのだ。
とはいえ、朝からハマりっぱなしになっているわけにもいかない。透が訪ねてきている理由も、おおむね見当がついている。
「朝比奈先生、健太君の様子を聞きにいらっしゃったんですよね?」
「そうだ、それが目的だった」
彼の“うっかり”に笑顔を見せ、ですよねー、と心で呟く。
健太は五歳の男の子で、降園後病院のロビーで待っているよう看護助手の母親に言われていたのだが、退屈だったのか階段で遊びはじめてしまった。
そんなに高い場所ではなかったが階段から滑り落ち、脚の骨にひびが入ってしまったのだ。
退院して登園許可は出たものの、当然安静が条件である。
健太がちゃんと毎日“安静”にしているか。それを毎日聞きにくるのが、透だ。
「そうですね……、昨日は『サッカーしたい』って言ってました。だいぶよくなっているのかな、元気ですよ~」
「気持ちはわかるけど、まだ駄目だな。もう少し我慢だ。次の診察のときにでも、しっかり言っておかないと」
「健太君、わかってはいるんですよ。言ってるだけなんです。“もう大丈夫だよ”“痛くなんかないよ”っていうのを、みんなにわかってほしいんじゃないでしょうか」
このままでは健太がお説教をされそうだ。とっさに擁護するが、自分の言葉で和沙は声のトーンが落ちる。
「……怪我をしたとき、保育園の職員が駆けつけて、静かだったロビーが騒然となって、健太君のお母さんが動揺して泣いちゃって、結構な騒ぎだったじゃないですか。健太君、脚の痛みより自分のせいで大騒ぎになったことが怖くて、お母さんを泣かせてしまったのが悲しくて、大号泣しちゃったんですよ。だから、もう大丈夫だよって伝えたくて『サッカーしたい』なんて言うんだと思うんです」
「いい子ですね」
「いい子ですよ。うちの保育園の子たちは、みんないい子」
「和沙先生をはじめとした保育士の方々が、いい先生ばかりだからですよ」
嬉しい言葉をもらってしまった。いい気になってしまいたいが、ここは仕事を考えて謙虚にいくべきか。
しかしやはり、保育士だって子どもと同じで褒められると嬉しいのだ。
「そうでしょう?」
嬉しさのまま、にこぉっと笑顔を作る。謙虚に出てくると予想していたのか、キョトンとした透がすぐに声を出して楽しそうに笑った。
その笑顔がとても無邪気に見えて、和沙はまた頭をグリグリ撫でたくなってしまったのである。
「かずさせんせい、壮太がおなかイタイんだって」
お昼寝の時間が終わったころ、慌てた様子で教えにきてくれたのは竜星だった。
和沙は早番勤務なので職員室で日誌作業の最中だ。しかし壮太の具合が悪いと聞いては黙っていられない。すぐにお昼寝部屋へ駆けつけた。
「だいじょうぶだよ。竜星がおおげさに言っただけ」
当の壮太は落ち着いたものだ。それでもやはり体調は悪いのか、お昼寝布団に転がったままだった。
「だって壮太、はらイタくてねむれないみたいだったろう?」
「ちょっともぞもぞして気持ち悪かったからだ。たいしたことないよ」
平気な口をきくわりにはお腹に枕を抱いて体を丸めている。
「壮太、寒い?」
「ううん、ただ、こうしてるとおちつくから」
隣にかがんでひたいに手をあててみるが、熱がある気配はない。寝具を片づけ終えた千菜美が横にかがんだ。
「壮太君お腹でも冷やしたかな? お布団、ちゃんと掛けていたと思ったんだけど。見落としたのかも、ごめんね」
「寝相のいい子なのでそれはないですよ。隣の子にお布団でも取られない限り」
「おれ、とってないぞー」
慌てて竜星が割りこんできた。本日のお隣さんは竜星だったらしい。
「壮太、昼ごはんものこしてたし、その前からおなかイタかったんじゃないのか?」
「お昼ご飯……」
思い返してみれば、壮太は朝食もあまり食べていなかった。母親のことで元気がないだけかと思ったが、もしや朝から体調が悪かったのではないか。
壮太も健太と同じで、周囲の大人を心配させまいと気を使うところがある。お腹が痛くて具合が悪いなんて言ったら、和沙が仕事に出られないと感じたのでは。
和沙は壮太の頭を撫でながら千菜美に顔を向ける。
「わたしの退勤まで一時間くらいだし、このまま寝かせておいてもらっていいですか?」
「そんなのもちろんだよ。残っている業務は? 連絡帳なら私がやっておくから、壮太君連れて帰ってもいいんだよ」
「連絡帳は終わっていて、あとは業務日誌……」
「だいじょうぶだよ! なんともないから、和ちゃん!」
話を遮るように壮太が割りこんでくる。声を張ったせいなのか、いきなり上半身を起こそうとしたせいなのか、大事な甥っ子の顔が苦痛に歪んだ。
和沙だって見たことがないような顔だったせいか、驚いて目を見開いてしまった。
そんなふたりの様子を見て、さらに驚いたのは千菜美である。
「かっ、かずさせんせいっ、すぐ帰る用意してっ! 私、園長に事情を話しておくから、すぐ壮太君をおうちで寝かせてあげて!」
ここで千菜美の言葉に甘えれば、終わっていない業務を任せることになって彼女の仕事を増やしてしまう。申し訳ない、申し訳ないと思いつつも、この厚意に甘えずにはいられない。
「ありがとうございます! 千菜美先生っ」
盛大に頭を下げ、壮太の分も合わせて帰り支度をする。歩くのもつらそうだったのでタクシーを呼んでもらった。
タクシー以外の移動は和沙がおぶって歩く。必死になっているせいか重さなんて感じない。とにかく壮太の体調が心配でたまらなかった。
預かって一年ほどになるが、壮太は丈夫な子で軽い風邪以外は病気らしいものにかかったことがない。怪我をしても少しくらいの痛みは我慢してしまうせいか、あんな苦しそうな顔を見たのは初めてだった。
保育園でも体調を崩した子どもの相手はする。そういうときは次にやるべきことを考えながら順序だてて対応していけるのに、今はそれができていない気がした。
姉から預かった大切な甥っ子。「和沙なら大丈夫」と姉に信頼してもらったのだ。
小さな子どもの腹痛は、少しお腹を冷やしたとか気持ちの問題で起きることもある。お腹をあたためて安静にしていれば治ることも多い。
わかっているのに、最初に考えてしまうのは、お風呂上がりにお腹を冷やしたのだろうかとか、昨夜のオムライスに使った卵が古かったのだろうか、でも一昨日買ってきたばかりだし消費期限もまだまだ先だった、とか……自分の落ち度を探ることばかり。
食欲もないようだし、腹痛が重いなら食事はとらせないほうがいいだろうが、せめて水分くらいは……。
そう考えていた矢先、病状は悪化した。
帰宅して二時間、壮太が嘔吐し、腹痛も治まりをみせない。
もう気持ちの問題ではない。すぐに朝比奈病院の夜間外来に連絡をし、タクシーで向かったのである。
「和沙先生! 壮太君は!?」
タクシーを降りたとたん、夜間出入り口から出てきたのは透だった。和沙が背負おうとしていた壮太を抱き上げ、先を歩いて院内へと入ったのだ。
「あのっ、朝比奈先生……どうして……」
「高杉先生の息子さんが教えてくれたんです。『すっごく痛がってた』と言っていたので、そのまま緊急外来に来たらよかったのにと思って気になっていたんです。そうしたら保育園の子が外来にくると聞いたので、もしかしてと思って」
「すみません、そんな、気にしていただいて……」
すっごく痛がってた、というほど表には出していなかったと思うが、大げさに言ってくれたおかげで透に伝わっていたのなら竜星に感謝である。
急いていた気持ちが、彼の顔を見て少しだけ落ち着いたような気がした。
しかしそんな透が一緒にいてくれたのも小児科の処置室まで。壮太をベッドに寝かせると、彼は外科の医局へ戻っていった。
入れ替わるように現れたのは、小児科医の朝比奈優だ。
朝比奈総合病院院長の長男、三十五歳。透の兄である。
小児科医ということもあって、保育園で働きはじめて最初に接した医師だった。
彼の第一印象といえば……。
「お腹痛いんだ? どうしちゃったのかなぁ、ママにナイショでアイスいっぱい食べちゃった? それともすっぽんぽんで走り回っちゃったのかな?」
────フラットすぎて……ちょっとイラっとする……。
だったのを覚えている。
そのときの印象は健在だ。愛想がよく、フラットで親しみやすい雰囲気が好評だとは聞くが、子どもが目の前で苦しんでいるのにと思うと、多少の不快感は否めない。
特に患者の母親たちには人気があるらしい。なんといってもあの透の兄である。目を引くレベルで顔がいいのだ。
こちらは少々優男風の甘いマスクが一役買っているのだろう。ちなみに優は既婚者で、妻はピアノ教室の講師。
──これらも、千菜美情報である。
「アイスは食べるときに食べるだけしか買いません。お風呂上がりはすぐに着替えさせています」
壮太は痛みのせいで切ないのか声が出せない。代わりに和沙が答えたものの、心配のあまり深刻なトーンでの回答になってしまった。
怒っているように聞こえたのではないだろうか。これから壮太を診てもらうのだから「よろしくお願いします」くらいは付け足すべきだったのに。
「そうですよね、さすがは保育士さんだ。ちなみに、昨夜ご飯が美味しくて食べすぎたとか、美味くて期限切れだったけど食べちゃったとか、ありませんか?」
「……ありません」
少しはやわらかい態度をとろうと思うのに、できない。
そんな和沙を意に介さず、優はどんどん話を進めていく。
「痛みがつらいみたいだし、今夜は点滴をして病院で様子をみましょう。明日になっても痛みが続くようならCTを撮ってみます」
「入院ですか?」
「はい。大丈夫ですよ、明日になったらケロッと治ってしまう子がほとんどですから」
気持ちの問題か食べ合わせが悪かったか、原因はそのあたりだと感じているのだろう。和沙だって、大変な原因があるとは思いたくない。
思いたくはないが、もしかしたら……と悪い可能性を考えてしまうところもある。いいこと悪いこと、両方考えてしまうのはおかしな気持ちじゃない。
優が妙にフラットに接するのは、そんな保護者の気持ちをやわらげるためという可能性もあるのでは。
「よろしくお願いします、先生」
やっと出たその言葉を口にしてから壮太を見ると、不安そうに和沙を見上げている。かわいそうで涙が出そうになるのをぐっとこらえ、小さな手を握った。
「だいじょうぶだよ、きっと、すぐ楽になるからね」
壮太に言いつつ、自分自身にも言い聞かせていたように思う。
そのあとは壮太が病室に移動するのを確認して、デイルームで入院同意書など数枚の書類にサインをする。
──すべての手続きが終わって、ひと息ついたのは二十一時を回ったころだった。
「はぁ~」
窓側のベンチソファに腰かけたまま脱力する。肩が落ちだらしないくらいの猫背になった。
幸いなことに、デイルームには和沙ひとりだ。少しくらい気を抜いてもいいだろう。
「お疲れ様」
「ひゃぁぁっ」
明らかに和沙に対してかけられた声と頬に冷たい感触、これで驚かないわけはない。気を抜くどころかよけいに張った。
ビクッと身体を飛び上がらせて顔を上げると、透が困った顔で和沙を見ている。
「朝比奈……先生」
「壮太君、入院になったんだね。はい、どうぞ」
隣に腰を下ろし、冷たいカフェラテの缶を差し出す。冷たい感触のもとはこれらしい。
受け取っていいものか迷っていると、缶を膝に置かれたので手に取るほかなくなった。
「大変だったね。飲んでひと息ついて」
「ありがとうございます、いただきます」
断るのも申し訳ない。ありがたく受け取ってプルタブを引く。圧縮された空気が抜ける音とともに甘さをまとったコーヒーの香りにホッとして、先ほど留まってしまった力が抜けた。
缶を落としてしまわないように両手で持つ。甘いコーヒーは喉越しがよく、心地よさが全身に広がる。
……とたんに、涙がにじんだ。
「……壮太……、大丈夫ですよね……」
それは、口に出せなかった不安だった。あの場で口にしてしまえば、和沙に心配をかけていると壮太が気にする。
和沙だって、言葉にしてしまえば不安が加速するのがわかっているから。
「壮太……食べ合わせが悪かったとか、それでお腹が痛くなっただけですよね……」
涙で視界が歪む。こうなることがわかっているのに、心配事を口に出すからだ。ほら見たことかと自分を笑ってしまいたい。
缶に口をつけて、飛び出してきそうな嗚咽を抑える。軽く鼻をすすると甘い香りが鼻腔をくすぐった。
肩のうしろをポンッと叩かれ、思った以上に大きなしずくが目からポロリとこぼれた。泣いてしまったのを見られただろうか。
こそっと目を向けると、おだやかに微笑む透が目に入る。
「原因がわかるまで『大丈夫』と気楽には言えないけれど、うちの小児科のスタッフは優秀だから、壮太君を預けておくことに関しては安心して」
優には「大丈夫ですよ」と言われてしまっていたが、透の言いかたのほうが安心できる。
贔屓だろうか。ちょっとした気持ちの問題かもしれない。
「小児科の朝比奈先生って、お兄さんなんですよね?」
「うん。あっ、もしかして、今日の夜間は兄貴が担当だった?」
「はい……ご存じじゃなかったんですか?」
「知らなかった。そうか、壮太君を置いてすぐに退散してよかった。見つかったら、またよけいなことをしているってヘソを曲げられるところだった」
安心したと言いたげに笑うのを見て、涙は完全に引っこんでしまった。冗談で言っているようにも思えなくて、どう反応したらいいか迷ってしまう。
(兄弟仲が悪いとか……なのかな)
和沙の兄たちのように年が近いとお互い張り合ったりするのはよくあることだったが、三歳違いで仕事の専門が違っても、兄弟で気になるものなのだろうか。
「小児科の朝比奈先生も、明日の朝にはケロッとしているかもって元気づけてくれたので、考えすぎないで安心していようと思います」
兄弟仲がいいにしろ悪いにしろ、憶測で決めつけてはいけない。したがって、当たり障りのない言葉しか出なかった。
それでも、自分で言葉にしたことで、少し安心できた。
「……そうですね。安心して任せてもらえれば、……兄もやりやすいでしょう」
少々歯切れ悪く感じたが、さほど気にはならない。
透が隣で元気づけてくれていると思えば、なによりも落ち着ける気がした。