極甘な恩返し 恋愛スキルゼロな私がハイスペ外科医と結婚いたします 3
翌日、壮太は退院できなかった。
痛みは治まらず、腸の活動を抑えて様子をみるために絶食がはじまったのだ。
口にできるのは経口補水液とそれに準じるゼリー飲料のみ。お腹がすかないか心配になったが、腹部の痛みが継続しているせいで食欲自体がないらしい。
その状態のまま、三日がすぎた。
優の見解では徐々に痛みも治まっていく……はずだったのだろう。「なかなか手ごわいね~」と笑いながら壮太に接してはいるが、笑顔に焦りがにじんでいる。
初日に撮ったCTに異常はなし。腸の活動いかんで弱くなるはずの腹痛は治まる気配がない。痛み止めも一時的な効果でしかないようだ。
様子を見に行くたびに、壮太は身体を丸めて横になっているばかり。自力では体を起こせずベッドのリクライニングに頼るしかない。
なにもしてあげられないのがつらい。しかし和沙がつらそうにしていては壮太を不安にさせる。壮太の前では、極力元気づける役目に徹した。
原因がはっきりとわからない状態ではあったが、入院が続いていることを美沙にも伝えた。なにかあればすぐに連絡をする約束をしたが、壮太を預かっていた手前、姉に申し訳なくて仕方がない。
『原因もわかってないんだから、和沙が全責任を負っているみたいな声を出さなくていいんだよ。壮太のこと、頼むね』
反応が気がかりだったこともあって、姉にそう言ってもらえて少しほっとした。
相変わらず透は毎朝健太の様子を聞きに現れているが、和沙を元気づけようとしてくれているのが伝わってくる。気を使わせて申し訳ないとは思いつつ、嬉しかった。
入院から五日目。
緊急手術の説明をしたいという連絡を受けた。
緊急手術とは、なんて物々しい言葉だろう。壮太の腹痛は手術をしなくてはいけないものだったのだろうか。
それなら、絶食しながらただ痛みに耐えていた数日間はなんだったのだろう。
和沙は正午で仕事を早退し病院へ向かった。カンファレンスルームで説明がはじまるのを待ったのである。
「朝比奈先生、すぐにいらっしゃると思いますから、もう少し待ってくださいね」
看護師が気遣ってくれる。聞き覚えのある声だと思ったら、あみの母親だ。
今日会うのは初めてなので挨拶でもと思うのに、自分に余裕がなくて言葉が出てこない。かろうじて軽く会釈をした。
(あれ……? でも)
ふと、あみの母親は小児科勤務ではないはずだと思いだす。室内にはもうひとり看護師がいるが、やはり小児科に出入りしているぶんには見たことがない。
不思議に思っていると、ドアが開き──透が現れた。
てっきり優がくるものだと思っていた。看護師ふたりと話しながら和沙の向かいに腰を下ろしたので、彼で間違いないのだろう。
ちょっとぽかんとしていたのかもしれない。透が苦笑する。
「どうしました? なにか驚くようなことでもありましたか?」
「すみませんっ、てっきり小児科の朝比奈先生だと思って……」
意表をつかれたとはいえ、おかしな顔をした気がする。思わず両手で頬を押さえた。
「説明不足ですみません。そうでしたね、小児科の主治医は優先生でしたね。外科の手術なので透先生のほうなんですよ」
申し訳なさそうに言いながら、あみの母親が目の前に手術の説明書と同意書を置く。どうやら看護師のあいだでは「優先生」「透先生」と呼ばれているようだ。
白衣の胸ポケットからボールペンを取り、説明書の病名に丸をつけて透が口を開く。
「外科で対応すべき原因が見つかったので、私が外科の主治医になります。手術も私が執刀します。手術と聞いて不安だとは思いますが、その不安を取り除けるよう私がサポートします。気をしっかり持って」
彼の口調がとても頼もしい。同じ仕事の話をしているにしても、毎朝健太の話をしているときとはまったく違う。そんな場合じゃないのに、ついきゅんっとする。
「緊急性のある手術になります。手早くしっかり説明させていただきますが、気になることや納得いかないことは遠慮なく聞いてください」
「はい、わかりました」
手術の説明を聞くなんて初めてだ。一時的に解けた緊張が戻ってくる。それでも、入室したときのような不安だらけの緊張ではなかった。
「壮太君の腹痛が原因不明のまま続いていたことから、再度CTを撮り直し、外科預かりとしました。検証の結果、メッケル憩室が認められましたので外科での緊急手術という結果を出しました」
「す、すみませんっ、メモを取っていいですかっ」
ハッとして口に出すと、透が「どうぞ」というように手のひらを上に向ける。バッグからメモ帳を取り出し、ペンを探しながら口を動かした。
「壮太の母親に説明しなくちゃならないと思うので……、多分、兄たちも聞きたがると思うし、わたし、こういうこと初めてで、間違って伝えたら大変だから……!」
ペンを構えて顔を上げると、透と看護師ふたりが微笑ましそうに和沙を見ていた。
緊張感のかけらもない行動だっただろうかと、……少し恥ずかしかった。
デイルームでは、ひと組の家族が看護師の説明を受けながら入院に関する書類の記入をしていた。
夫の入院らしく、妻と娘が質問をしながら取り組んでいる。主に質問しているのはスーツ姿の娘のほう。ハキハキとしたキャリアウーマン風の女性だ。
「お母さん、ここ、電話番号。あとね……あっ、看護師さん、この入院中のアメニティの支払い、振込伝票は私のほうに送ってもらえますか」
「そんな、お母さんのほうに送ってもらえばいいじゃない」
「引き落としじゃないんだよ? お母さん、振込伝票だと『あとで』とか言って忘れるじゃない。大丈夫だよ、支払ったら、そのぶんのお金はちゃんともらうから」
自立したしっかり者の女性を見ると、姉を思いだす。あまりじろじろ見るのも失礼だと感じ、さりげなく視線をそらして窓の外に目を向けた。
入院初日には、和沙も同じように説明を受けて書類に記入をした。あのときは、すぐによくなって退院できると思っていたのに。
壮太の手術がはじまって、まだ三十分ほど。妙に時間が経つのが遅い。手術の予定所要時間は二時間だと言っていたので、単純に考えてまだ一時間三十分もかかる。
時間があるうちに、落ち着いて姉に連絡をと思うのに行動へ移せない。今ならまだ説明されたこともしっかり覚えているので、上手く説明できそうだ。
──壮太の病名は【腸閉塞】だった。
腸管側にあったメッケル憩室という組織が他の腸管にも癒着してしまったため、腸が本来とは違う方向にねじれた。
そのせいで腸が本来の活動をできなくなり、腹痛が起こったらしい。
病名の欄には【絞扼性イレウス】とも書いてあった。
腸閉塞という病名だけなら和沙も知っているし、腸が詰まる危険な病気だということも知っている。
ただ、腸閉塞にもいろいろな種類や原因があるらしく、メモを取るのに必死だった和沙に透はわかりやすい説明をくれた。
『胎児のときに役目を終えて自然に消えるはずだったへその緒が、そのまま腸管に残ってできたのがメッケル憩室です。あるだけなら問題はないのですが、その組織がいたずらをしてしまった。他の腸管にくっついて働きを阻害してしまったんです』
フラットな口調だったせいか、看護師たちには「先生、大丈夫ですか、その説明」と心配されていたが、医学的なことはわからないぶん単純にイメージはしやすかった。
(つらかっただろうな……痛かっただろうな……壮太)
考えると泣きたくなってくる。視線を下げてスカートを握る自分の手を眺めていると、そこに白衣の裾が入りこんだ。
「こんばんは、和沙先生」
ほぼ毎朝聞く声だ。顔を上げた先で高杉が軽く手を上げている。和沙は立ち上がって会釈した。
「高杉先生、こんばんは。今日はまだお仕事なんですか?」
「今夜は夜勤なんです。明日の朝は、うちの母が竜星を連れていくと思いますので」
「そうですか、竜星君、お父さんがいなくて寂しがりませんか?」
「いやいや、それどころか、おばあちゃんの家で羽を伸ばしているんじゃないかなー。母は竜星を甘やかすので。あっ、座って座って、手術が終わるのを待っているのって落ち着かないでしょう」
座ってと勧めながら高杉が先に座ってしまった。立っているわけにもいかず、和沙も腰を下ろす。
「手術……、壮太の手術のこと、ご存じなんですか?」
「もちろん。壮太君のCT、透先生と一緒に見たし。緊急手術なんて大変な扱いになっちゃったけど、入院して日が経っているから、原因がわかったなら早いところなんとかしなくちゃならない」
「手術って、その日夜勤の先生がするものなんですか?」
「いや、そんなことはないけど、どうして?」
「朝比奈先生、あっ……と、透先生のほうですけど、こんな時間に手術してくれているから……。夜勤だからかなって」
確かに「朝比奈先生」がふたりいて、そのふたりにかかわっていると呼びかたに困る。名前呼びにしている看護師さんたちの気持ちがわかった。
名前で呼ぶと、胸がくすぐったい。
「いや、透先生は夜勤じゃないよ。当直だけど」
夜勤と当直の違いがよくわからない。執刀医になってくれたのとはあまり関係はないようだ。
「思えば、入院したときから透先生にはお世話になってばかりです。あの日は夜勤だったのかな……入院が決まって手続きが終わったときにも会ったから」
「いや……あの日も夜勤では……」
なにか言いかけた高杉だったが、ふと考えこみ、ニヤッとしたあと「うんうん」とうなずいた。
「……春だねぇ」
「そうですね、あたたかすぎてびっくりする日もありますけど。でもこのあと梅雨がくるかと思うと、ため息が出ます」
「和沙先生って、天然? 鈍いだけ?」
「なにがですか?」
「大事な同僚の春に関係すること」
返答に困って首をかしげる。そんな和沙を気にすることもなく、高杉は腕時計に目を走らせた。
「もうすぐ一時間か……。あと三十分もかからないで終わるかな」
「予定所要時間は二時間って、手術の説明書にありましたよ」
「うちの透先生は優秀でね。今回みたいな腹腔鏡下手術には定評がありすぎて、引き抜きから守るのに必死だよ。予定時間なんてあってないようなものなんだ」
「そうなんですか……すごいんですね」
「そうなんだ、すごいんだよー。覚えておいてあげてくれ」
感心する和沙に対して、なぜか高杉が自慢げだ。やはり同僚の腕がいいと自慢したくなるものなのだろうか。
「だから、そんな思い詰めた顔をしないで、透先生を信じてあげてほしいんだけど」
「信頼しています。壮太の病気の原因を突き止めてくれたし、緊急手術まで決めてくれて……」
褒める言葉の裏で、いやな気持ちが顔を出す。
透には感謝をしている。それは嘘ではない。けれど、原因が見つかってよかったと思えば思うほど、痛みで苦しんでいた壮太の顔が目に浮かぶのだ。
────どうしてもっと早く、原因がわからなかったんだろう……。
「外科で壮太のCTを見てくれたとき、原因はすぐにわかったんですか?」
「見つけたのは透先生。外科的な要因を疑って見ていたから、見つけるのも早かった」
「どうして……最初に見つからなかったんでしょうか。病院に来た日、CTは撮ったのに」
「そうですね、そう考えてしまうのが普通かな」
「すみません……」
見つけられなかった病院が悪い、医者が悪い。そう言っているように聞こえたのではないか。
違うのだ、誰かを責めたいわけではなくて、ただ単純に、もっと早く原因がわかればよかったのにと考えてしまうだけなのだ。
「原因がわからなくて、なにか体に異常をきたすものを食べさせてしまっただろうかとか、お腹を冷やしただろうかとかいろいろ考えて……、姉にも説明できなくて心配かけてしまったから、早くわかればよかったのにって思ってしまったんです」
「壮太君の場合は先天性のものですから、誰かが悪い、なにかをしたから悪い、なにを食べたから悪いというわけではないんです。だから、和沙先生が責任を感じることなんてなにもない。運悪く状態の悪化に繋がってしまったというだけなんですよ。……運悪くっていうのも、言いかたは悪いですけど。でも、本当に“運悪く”だからなぁ……」
透が説明してくれたとき「あるだけなら問題はない」と言っていた。本当に“運悪く”病気の引き金になってしまったのだろう。
「さっき、どうして病院に来た日に見つからなかったのかって聞いていたでしょう」
「はい……」
「それを透先生に聞いたら、きっと優先生を庇った言いかたしかしないと思うんで、あえて僕が言っちゃいますけどね。先入観もあったと思いますよ。子どもの腹痛は本当によくある症状だし気分ひとつで治まるというのもよくある。吐いたものに血が混じっているとか激痛でのたうち回っているとか、そのくらいの腹痛を目の当たりにしたならCTの見かたも変わったんだろうけど」
「先入観……そうですね」
壮太が見たこともないくらいつらそうにしていたときは動揺したが、和沙だって一晩入院すれば治るだろうと考えていた。
入院当日の優のように「次の日にはケロッとしている」、小さな子どもにはそういうところがあると楽観的な先入観をもっていた。
「どうしてすぐに発見できなかったって、責めたい気持ちもわかるし、実際そういったご家族も多い」
「責めるつもりはないですよ。優先生はご自分が信じた診察をしていただけなんでしょうし、なかなか痛みが引かないのを透先生がおかしく思ってくれたのは、運がよかったって思います。本当に、もっと早く見つかっていればよかったのにって、そう思うだけなんです」
「和沙先生、優しいな~。あったかい春だ。いいな~、透君羨ましい」
先ほどから“春”が彼の口から飛び出すが、だんだん季節的な春の話ではないように思えてきた。
「もうすぐ手術も終わるだろうし、満足のいく結果だったら、透先生に笑顔でお礼でも言ってやって。春パワーでバリバリ働いてくれそうだから」
「お礼は言いますよ。もちろんです」
春に関する話題はよくわからないのでスルーする。
「なんとなく、透先生が治してくれると思ったら安心できるんです。きっともう大丈夫って」
安心していることを知ってほしかっただけなのだが、これでは優に診てもらっていたときは安心できなかったと言っているように聞こえないだろうか。
誤解がないように付け足そうと顔を向ける。が、高杉が感慨深いというか微笑ましいというか、なんと表現したらいいか微妙な表情で和沙を見ているので、……なにも言えなくなった。
(まあ、いいか。安心できるのは本当だし)
そのとき看護師が走り寄ってきて、壮太の手術が無事終了したと教えてくれたのである。
病室に戻ってきた壮太は、とてもおだやかな顔をしていた。
酸素吸入器や点滴が着いていても痛々しさは感じない。それは、しばらくのあいだ痛みで切なそうな顔ばかりを見ていたせいかもしれない。
一時間もすると、ぼんやりとだが目を覚ました。
「壮太……手術、終わったよ」
枕もとに顔を寄せて静かに話しかける。視線を向けてきた壮太が弱々しくだが笑顔を見せた。
口元が動いたが酸素吸入器のマスクのせいでよく見えない。なにか言いたいことがあるのではないかと耳を寄せた。
「……かず……ちゃ、ん」
本当に和沙を呼んだのかはわからない。細かく吐いた息がそう聞こえたのかもしれないし、壮太の声が聞きたいと思った気持ちが勝手に脳で生成してしまったのかもしれない。
本当に名前を呼んでくれたのではないとしても、壮太のおだやかな顔が見られて嬉しい。
「少しでも傷が痛むと感じたら、すぐ先生を呼んでくれ。速攻で駆けつける。先生、朝まで病院にいるから、安心して」
透の言葉に壮太は心から安心したのだろう。大きくうなずき、嬉しそうな笑顔を見せた。
壮太の手を取り、透もうんうんとうなずいている。なんだかふたりにしかわからない会話をしているようで、羨ましいような妬ましいような。
──安心しすぎて、泣いてしまいそうだった……。
手術の結果を伝えるため、姉にも連絡を入れた。「そうか、よかった。壮太を見ていてくれてありがとう、和沙」と喜んでくれたし、姉にお礼を言われて嬉しかった。
けれど、話をする姉の声がときどき涙声になって、どれだけ壮太を心配していたか、どれだけ手術が無事に終わって安心しているか、それらが痛いほど伝わってくる。
結局和沙も、もらい泣きしてしまった。
その後は、消灯まで粘って、病室を出た。夜通し壮太のそばにいたい気持ちはあるが、付き添いは認められていない。
消灯を過ぎると病棟は一気に静まり返る。廊下の照明も落とされるせいか、より静寂が深まって自分の足音が申し訳ないくらいに響き渡る。
「和沙先生、送りますよ」
エレベーターホールに立っていると声をかけられた。透だ。いつもの人懐っこい笑顔で歩いてくる。
「暗くて怖いでしょう? 一階はもっと怖いですよ~。広いロビーがシーンっとして」
「シーンっとしているだけなら普通です。保育園の遅番で最後の子が帰ったあと玄関に立っていると、誰もいないのに子どもたちの声が耳に響いてきますから」
「それ、職業病」
アハハと笑い合いながらエレベーターに乗りこむ。
こんなふうに笑ったのは久しぶりだ。壮太の笑顔を見たおかげかもしれない。とにかく心が軽くておだやかだ。
「すみません、お仕事があるのに」
「いいんですよ。宿直ってだけなので。夜勤より気が楽だ」
宿直と夜勤の違いがわからない。とりあえず、今夜仕事が大変なのは高杉のほうらしい。
エレベーターのドアが閉まる。ふたりきりなのだと思うと妙に緊張した。
「……本当に、ありがとうございました。壮太が笑っているのを見て泣きそうになりました」
「医者として当然のことをしただけです。……っていうのはテンプレ回答ですけど。俺の場合、ちょっとした下心があったので、さらに頑張りました」
「下心……ですか? なんでしょう、真面目な透先生が下心なんて……」
ハッと言葉を止める。高杉と話をしていたときの名残で「透先生」と呼んでしまった。
「真面目な、かぁ……。そんな優良人物にみられているなら、下手なことは言えないな」
名前のことは気にしていないようだ。ホッとしていると、顔を覗きこまれてドキッとする。
「でも、和沙さんに『透先生』って呼んでもらえて嬉しかったから、言っちゃおうかなぁ」
「なっ、なんですかっ、すっごく気になりますっ」
安心してもいられなかった。おまけに「和沙さん」と呼ばれて鼓動が速くなる。この気まずい恥ずかしさをどうしたものか。
慌てる和沙の目の前で、透は「へへっ」と笑う。
──胸骨が粉々になるんじゃないかと思うくらい、胸の奥が、きゅんっとした。
(なに? 『へへっ』って、なにぃ!? 透先生、かわいいんですけど!)
無邪気なイケメンというものに、これほどの破壊力があるとは。両手で頭をぐりぐりと撫でまくりたい気分だ。
(なにを考えているのっ!? かわいいとか……かわいいとか! 透先生は大人っ! 大人の男の人! それも私なんかよりずっと大人!!)
口には出せない葛藤を駆け巡らせていると、エレベーターが一階に到着した。“開”ボタンを押して「どうぞ」と先を譲られるだけで胸が熱くなって、ついでに頬もあたたかくなってくる。
エレベーターを出ると、そこには静寂と薄闇が広がっている。エレベーターホールから続くロビーも、日中のにぎやかさが嘘のよう。
寒いわけでもないのにブルッと身震いが起こる。横に立った透にクスッと笑われた。
「ほら、やっぱり怖いでしょう。送ってきてよかった。和沙さんは意外に怖がりなのかな?」
「違います、なんとなく震えてしまっただけですっ。こんな時間の病院なんて初めてなので、昼と夜で雰囲気がすごく違うなって……、あれ? 初めて、じゃないかな……」
壮太を連れてきた日も、人の気配のない病院を見ている。けれどあの日は雰囲気の違いなんて感じている余裕はなかった。
気持ちの問題なのかもしれない。とにかく壮太が心配で不安でいっぱいだったときには、怖いなんて感情はどこかに行ってしまっていた。
「そうだ、先生、なにか飲みますか? 缶コーヒーとか、買ってくるので受け取ってください」
ハッと思いだし、ロビーの奥にある飲み物の自動販売機を指さす。高杉に「笑顔でお礼を言ってあげて」と言われていた。お礼の言葉だけでは足りない気がして、なにか飲み物でもと思ったのだ。
「缶コーヒーですか? いいですね。でも、和沙さんにもらったと思ったら、飲まないでずっと取っておきそうだ」
「飲んでくれなきゃ、お礼になりませんよ」
「お礼?」
「はい、壮太の手術、頑張ってくれたから、なにかお礼をと思って」
「そうか……じゃあ、受け取れないな」
「え……?」
すっかり受け取ってもらえると思っていたのに、断られてしまった。上昇中だったテンションがひゅるひゅると下降していく。
「医者は、患者の家族から金銭が絡んだ謝礼は受け取れないんですよ。お世話になったからとか、手術を頑張ってほしいから、とか。札束でもコーヒー一本でも同じです」
嬉しさのあまり常識を放り出していた。医師が“お礼”に物を受け取らないのは当然だ。高杉には笑顔でお礼を言うことだけを勧められていたのに、勝手に付け足そうとして。
「すみません……わたし、失礼なことを……」
「そんなに気にしないで。俺も、手術のお礼とかじゃないなら大歓迎なので」
素直にお礼だけでよかったのだ。嬉しさのあまりよけいなことを言ってしまった。
それでも……。
「ありがとうだけじゃ……足りないんです……」
壮太が元気になった。またあの子の笑顔を見られた。それがとんでもなく嬉しくて、感謝の気持ちがあふれ出している。
どう納めたらいいものか、和沙が迷うレベルだ。
「感謝の気持ちでいっぱいいっぱいで、お礼を言っても言い足りないんです。お礼というより、透先生には恩返しをしたいくらい」
「恩返し、ですか」
そうだ。お礼ではない、恩返しだ。
頭の中には、園児たちのお昼寝で読み聞かせた【鶴の恩返し】がぐるぐると回っている。機は織れないが、己の身を削ってでも恩返しがしたいという気持ちは同じだ。
「恩返しがしたいんです! わたしにできることなら、なんでもします」
真剣なのだとわかってもらうためにも、和沙は両手を握りこぶしに変えて力説する。透の目をジッと見つめた。
透も和沙を見つめ返してくる。困っている様子はない。むしろ、ときどきなにかを考えるように瞳が逸れる。
「そこまで言ってくれるなら……」
どうやら“恩返し”には前向きにのってくれそうだ。次の言葉を、和沙は明るい気持ちで待った。
「恩返しをしたいなら、結婚してもらおうかな」
一瞬聞き間違いかとも思うが、耳を研ぎ澄ませて聞いていたのだからそれはない。それに透は、ユーモアのある人物だ。
それを知っているので、和沙も受けて立った。
「わかりました。どーんとこい、ですっ」
受けて立つとか、どーんとこい、とか、そんなお気楽だった昨日の自分に説教してやりたい。
思いこまずに、しっかり確認しなさい、と。
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