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もう一度、約束の場所で 怜悧な御曹司と元令嬢秘書の再会愛 2

第二話

 

「良さん……キス、して」
 キスを乞えば、とびきり甘い唇で塞がれる。舌先が当たっただけで、えもいわれぬ快感が清香を包み込み、全身が快楽物質に侵されていく。
「ふぅ……っ」
 吐息が漏れ、彼のくぐもった声が清香の背骨を震わせる。
「清香、可愛い……」
 キスを交わしながらも、彼の手は清香の秘められた場所に届き、ぐっしょりと濡れた秘裂を指がなぞる。
 グチュグチュと水音が奏でられ、さらに奥へと指が入っていく。
「……あっ!」
 清香の声に、途中で動きを止めた彼は荒い息で問いかける。
「初めて……だよね?」
 目を合わせ、清香は小さく頷く。良は目を細めて清香を見つめ、優しく髪を撫でた。
「続きは明日以降かな。リと途切れたのだった。ちゃんとした場所でしよう」
 一緒に勉強でもする? みたいなノリで微笑まれ、清香は思わずクスッと笑った。
 良は清香の着衣の乱れを直し、自身も服装を整えて立ち上がる。そうして、清香に手を差し伸べながら言った。
「もうすぐ演奏が終わるから、仲間に顔を見せてくるよ。ここで待っていてくれる? その後でファミレスに行こう。お腹空いただろう?」
「そういえば、お腹ペコペコ」
「待ってて。すぐに戻るから」
 良が楽屋を出ていくと、清香は壁に立てかけられた鏡で身だしなみを整えた。普段なら絶対に着ないタイプの服装の自分を眺め、これなら良の隣にいても違和感がないように思えたけれど正直自信がない。
 しかし、自分の思考のおかしさに気がついて、清香は自嘲の笑みを浮かべる。
 今日初めて出会った人、良との時間を目一杯楽しめばいいのだ。彼の隣に相応しいかなんて、そんなことを気にする余裕も必要も今の自分にはない。
 ―――私、今夜は好き勝手に振る舞うんだから。
 戻ってきた良に肩を抱かれ、ライブハウスの急な階段を上る。良はギターケースを手にしていたので、清香は不思議に思って尋ねた。
「楽屋にあったギターを持って帰ってもいいの?」
「これ僕のギターなんだ。ライブに出るつもりだったから、楽屋に預けておいたんだよ」
 そう説明して、ギターケースを撫でる。とても大切にしているのがその仕草から伝わって、良への好感度がさらに上がった。
 チラチラと降っていた雪はすっかり消えたが、春とは名のみの空気の冷たさだ。でも、洋服越しに伝わる彼の熱が清香を安心させてくれる。
 夜の街を少し歩くと、深夜営業のファミリーレストランの赤い看板が見えてきた。
 奥まった席に着きメニューを開く。彼はハンバーグセットにコーラ、清香はサンドイッチとミルクセーキを注文する。
 ミルクセーキを飲むのは子供の頃以来で、少しワクワクする。テーブルに届いたミルクセーキは、以前のイメージとは違って豪華になっていたが、赤いチェリーと優しい甘さは子供の頃を思い起こさせた。
 熱々のハンバーグを頬張った良が『あふあふ』と口を開いて涙目になり、慌ててコーラを流し込んだ。
「熱かった!」
「良さん、猫舌?」
 熱いものが苦手だなんて可愛い。清香はなんだか嬉しくなって、笑顔で尋ねた。
「あっ、子供っぽいと思っただろう? 僕の口の中は繊細なんだから仕方ないよ」
「ふふふっ……」
 二人はクスクスと笑いながら顔を見合わせる。そうして、しばらくは食事に夢中になっていたが、落ち着くと良が清香に質問を始めた。
「ねえ、聞いてもいい? どうしてお祖母さんから逃げたの?」
「……話が長くなるかもしれないけど、いい?」
 清香の真剣な表情に、良はふんわりと笑みを浮かべ頷いた。
「聞くよ。全部話して」
 良の言葉に、清香は一瞬不意をつかれて黙り込む。
 本当は、父や祖母にそう言ってほしかった。全ての感情を押し殺していた清香にとって、その何気ない一言は大きな救いとなった。息を整え、これまでの経緯を話し始める。
 幼い頃に母がくも膜下出血で亡くなったこと。父は仕事一徹の人で、祖母が家に入って育ててくれたこと。大学を卒業後は父の会社に入れと言われ渋々従ったら、今度は就職をやめて会社のために結婚をしろと言われたこと。
 もしかしたら好きになれるかも……とわずかな望みをかけて見合いをしたけれど、それは甘い考えだと知ったこと。
「……見合いをしたけど、相手は十八歳年上で、私を家のための道具として見ている感じだった。何度も父や祖母に結婚したくないと言ったんだけど、聞いてくれないの」
 俯く清香に良は軽々と言った。
「結婚が嫌なら、家から出ればいい」
「それは……無理なの。相手の方は同業の息子さんで、その……結婚が会社存続の条件なの。私が逃げ出したら、父は会社を失って従業員は路頭に迷ってしまう」
 逃げ出したいと思っていても、やはり父の会社が心配だ。夢中で話をする清香には、自分の言葉の矛盾に気がつく余裕はなかった。
「清香が犠牲になっても、お父さんはどうせ会社を失うよ」
「えっ、どうして?」
「結婚相手の会社は同業で向こうの方が規模が大きいんだろう? いずれは吸収合併して従業員は整理解雇され、お父さんはお金と引き換えに会社を奪われる。そんなの、お決まりの筋書きさ」
 世間知らずの清香にとって彼の言うことは冷たく聞こえるけれど、安易に口から出てきたストーリーには思えず、一瞬で真剣な表情になった良の態度に妙に納得させられた。
 婚約者の横柄な態度や、言葉の端々から伝わる父や清香への敬意のなさが、良の言葉に真実味を与える。
 そんな危険があるのなら絶対に父を止めたいが、どうせ聞く耳を持たないだろう。清香は絶望的な気持ちで俯く。
 テーブルの上で無意識に握りしめていた清香の手が良の温かい手に包まれた。
 顔を上げると、良は微笑んでこちらを見つめていた。彼の口調が真剣なものになり、二人の間に漂う空気が一気に変わっていく。
「提案があるんだけど、清香、僕と一緒に逃げないか?」
「……どこに?」
「ヨーロッパ。まずはイタリアから」
 良の提案には現実味がなくて、清香は苦笑いで首を振る。
「無理よ。逃げて何をするの?」
 清香の表情に怯みもせず、良は言葉を続ける。
「実は僕、イタリアの名門ホテルで数年間修業をする予定なんだ。イタリアの後はロンドンに暮らす予定でね、ちゃんと仕事はするから清香を養うくらいなら問題ないよ。清香は言葉を学んで生活を楽しめばいい」
「……本気なの?」
「本気だよ。慣れない土地での修業は過酷で寂しい。清香が側にいてくれたら、やっていける気がする。僕は清香が好きだし、清香は家を逃げ出す必要がある。ね、これでウィンウィンだろう?」
 荒唐無稽にも思える提案を清香は拒もうとしたが、良の話を聞いているうちに異国で彼と暮らすシーンが徐々に脳裏に浮かんできた。
 海外にまで行って修業をするほど、良がホテルの仕事にのめり込んでいる理由はわからないけれど、彼と古いアパートメントに住んで歴史ある街を歩く自分を容易に想像することができた。
 英語ならなんとか話せるから、イタリアでも生活できる? イタリア語は難しいと聞いているけれど、勉強するのもいいかもしれない。
 良が示してくれた未来からは、無限の可能性が感じられた。急に将来に光が見え、清香の胸が弾む。
 これから家に帰ってこっそり荷造りをして、家族が起きる前に出ていけば……。
「イタリアに着いたら、ちゃんとエッチしようか?」
 爽やかな笑顔でそう言う良に、清香は頬を染めてクスクスと笑う。
「良さんは、どうしてヨーロッパに行こうと思ったの? 日本にも素晴らしいホテルはいくらでもあると思うけど」
「そうだね。日本のホテルもいいんだけど……多分、すぐに慣れちゃって僕は楽な道に行くと思うんだ。だから、より厳しくて格式の高い場所で自分を鍛えたいと思ったんだよ」
「すごい。そんなにもホテルの仕事が好きなの?」
「……そうだね、好きだよ」
 ホテルの話をしていたはずなのに、良の視線が熱を帯び清香を見つめる。
 清香は胸の鼓動を悟られるのが恥ずかしくて、手元の時計に目を落とした。時刻はすでに二十三時になっていた。
「そろそろ出ようか」
「うん」
 街を戯れ合って歩きながらまたキスを交わした。出会ったホテルの前まで歩き、タクシーを待つ間も良は清香の手を強く握り真剣な表情を浮かべ言う。
「清香、人生を変えてみようよ。お父さんは気の毒だけど、娘の犠牲で得た融資なんてすぐに尽きてしまうに決まっている。それにお父さんの人生だってまだ長い、いずれ自力で再出発できる」
「そうかな……?」
「明日の朝五時、この場所で待っている」
 清香は良を見上げ、真剣な顔で問いかけた。
「……ヨーロッパに行ったら、人生を変えられる?」
「変わるさ! 少なくともイタリア語とクイーンズイングリッシュは習得できるはずだ」
 冗談っぽく言ってこちらを覗き込む良に、清香は気弱な笑顔を向ける。車のヘッドライトが近づき、タクシーが横付けされた。
「六時間後だ。パスポートは持っている?」
「ええ、家にあるわ。あっ、携帯番号を教えてもらってもいい?」
「携帯は持っていないんだ。なんだか、縛られるみたいで嫌なんだよね」
 携帯を持っていないなんて、良らしい。ならば自分の番号を教えておけば、何かあった時に連絡が取れるだろうと清香は考えた。
「じゃあ、私の番号を覚えてくれる?」
「いいよ。記憶力はいい方だ」
 清香が自身の携帯番号を良に伝えると、良はスラスラと暗唱してみせた。
 ―――私、本当に良さんとヨーロッパに行けるのかなあ?
 不安に表情を曇らせる清香の頬を、彼はやさしく撫でる。
「清香、待ってる」
「……はい。五時に」
 清香は良に頷きタクシーに乗り込んだ。実家の住所を伝え振り返れば、良が手を振っている。清香は手を振り返しながら、小さくなる良を見えなくなるまで見つめていた。
 ほんの数時間過ごしただけなのに、清香は良に強く惹かれていた。
 理由なんてわからない。ただ彼の声や匂いが好き。離れるとすぐに彼の体温が懐かしく感じられる。
 清香は今夜、初めての恋をしたのだった。
 
 自宅に戻り玄関をそっと開けると、リビングからすぐに祖母が出てくる。
「清香ちゃん! 今までどこにいたの?」
 強い力で両腕を掴まれ身体を揺さぶられる。清香はそっと祖母の手を払い、詫びの言葉を伝える。
「お祖母ちゃんごめんなさい。車内が息苦しくなって咄嗟に逃げたの」
「息苦しいって……。突然逃げ出して、おまけにこんな時間まで連絡もせずにウロウロするなんて、心配するじゃないの」
「ごめんなさい」
 どこで何をしていたかなんて話したら、良との約束は果たせなくなる。清香は絶対にバレないようにと用心していた。
「その洋服はどうしたの? いやだ、真っ黒で品がない!」
「これは……転んで汚れたから着替えたの。すぐに脱ぐわ」
「いいから、お父さんも心配して待っていたのよ。一緒に来て謝りなさい」
 リビングに連れて行かれ、待ち構えていた父にさらに叱られる。
「嫁入り前の娘が深夜までうろついて……嫁ぎ先にバレたら大変だぞ」
 バレたら破談になるのだろうか? それなら嬉しいのに。そう思ったけれど、無事に逃げるため清香は謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめんなさい」
 父は清香の洋服をジロリと見て顔を顰める。
「その妙な格好はなんだ! 今朝着ていた服はどうした?」
「転んで汚れたからお友達に借りたの。……ごめんなさい」
「まったく、何をしでかすかわからない。お前は一体、どうしたっていうんだ?」
 清香の行動が理解できなくて、父は頭を抱える。
 そんな父に、融資を受けた後の危険性について、一言だけでも話しておきたかった。
「お父さん、あの……」
「なんだ?」
 イラついた表情でこちらをギロリと睨む。その視線に怯みながら、清香は言葉を選んで話をしようとした。
「お相手の会社からの融資についてなんだけど……」
「清香、女が口出すことじゃない!」
 大きな声で叱られ、清香は身体を縮こませる。しかし、もし父が耳を傾けてくれれば、家を出る必要はなくなる。そうなれば、今は良とは離れ離れになるけれど、様子を見てヨーロッパに会いに行きたいと考えていた。
 家族と良、どちらも失いたくなくて、清香は必死に最後の説得を試みる。
「融資を受けた後で、お相手の会社に吸収合併される危険性を考えたことは? 従業員を解雇されたり、会社の部門を切り売りされる可能性はないの? 資金さえ入れば、このままでやっていけると、お父さんは本気で信じているの?」
「素人が知ったかぶりで話をするな。あちらさんは会社を残すと約束してくれた。それは了承済みだ」
「そう……。それはもちろん、書面でいただいているのよね?」
 清香の問いに父は一瞬で激昂した。
「嫁に行くのが嫌でケチをつけているのか? いい加減にしろ!」
「……ご、ごめんなさい」
 父はやはり聞く耳を持ってくれなかった。清香はがっかりしながらも、ここは素直に謝罪を繰り返すべきだと判断して頭を下げる。
「くだらないことを言いました。お父さん申し訳ありませんでした」
 必死に謝罪をする清香を睨みつけながらも、これ以上叱っても同じだと感じたのか、父は大きなため息を吐いて、清香にリビングを出ていくよう手で指図する。
「もういい。さっさと寝ろ」
 父のこういう仕草が嫌で、今までは嫌悪感を隠さなかったが、今夜だけは従順な態度を崩さない清香に、父も強く叱ることはなかった。
 親子の会話をオロオロしながら見ていた祖母が、部屋に戻る清香に話しかけた。
「こんなこと、もう二度としないでちょうだい」
「ごめんなさい」
 清香は部屋に入り、大きな息を吐く。
 とりあえずしのげたみたいだ。監視をつけるとか、束縛を強くされる可能性は少なそうなのでホッとした。
 清香はバレないようにと、小さな旅行バッグの奥に手持ちの現金とパスポートを隠し、最小限の着替えを入れてベッドの下に隠す。
 しばらくして部屋を出ると、廊下やリビングは真っ暗だった。父と祖母はそれぞれ自室に入ったようだ。清香は玄関のシューズクローゼットからスニーカーをそっと取り出し、音を立てないよう注意深く部屋に戻り、手早くシャワーを浴びた。
 それから、自分の気持ちを知ってほしくて父に手紙を書くことにした。
 相手の男性とは、どうしても結婚できないこと。自分がいなくなれば、会社を救うどころか危うい状態にしてしまうことを謝罪した。
 会社を縮小して、できるだけ従業員を大切にしてほしいと、父から見ればいらぬ心配だろうが、清香は会社への思いも切々と書き連ねる。
 友人と外国に向かうことを記し、最後に父と祖母に対して謝罪と感謝を綴って手紙を書き終えた。
 手紙は明日の早朝にリビングのテーブルに置くことにして、今は少しでも仮眠をとろうと、四時に起きられるようにアラームを設定してベッドに横になる。
 父と祖母を騙して逃げることに強い罪悪感を覚えるけれど、あの男性との結婚はどうしてもできない。嫌だと言っても聞き入れてくれない以上、これしか道がないと思っていた。
 清香は家から出る際の動線をシミュレーションしつつ目を閉じた。
 ……明日の朝目覚めたら、裏口から家を出ていこう。良の優しい眼差しを思い返し、清香はいつしか眠りについていた。

 ふと、重苦しい夢を見た気がして目覚めた。緊張しているからだろうと思いつつ、時間を知りたくて枕元のスマホに手を伸ばそうとした。
 ……その時、頭部に凄まじい衝撃を受け、動きを止める。金槌で頭を殴られるような、今まで感じたことのない激痛に清香は声も出せず唸る。
「ううぅッ!」
 しばらくして身を起こしたものの、両手足が痺れて歩ける気がしない。痛みのせいで呼吸もままならない。
 ―――誰か! 誰か呼ばなくちゃ!
 清香はスマホを落としそうになりながら、ブルブルと震える手で祖母の携帯に電話をかける。
 今、清香の頭の中に良の存在はなく、生きるか死ぬかの瀬戸際だった。
 何コールかして祖母の応答があり、清香は薄れゆく意識の中で必死に伝える。
「お祖母ちゃん、おね……い、部屋に来て……」
「ええっ? 清香、どうしたの?」
 廊下をバタバタと走る音がして、部屋のドアが開かれ眩しい灯りに照らされる。
「清香っ!」
「おばあ……ちゃん、頭がい……たいの」
 ベッドに駆け寄り清香を一瞥して、只事ではないと悟った祖母は、すぐに一一九番に電話をする。
 その間、清香は痛みと混乱の中でもがいていた。
 電話を終えた祖母が清香に声をかける。
「清香、救急車が来るからしっかりするのよ!」
「どうした?」
 清香の部屋の騒ぎに、父も目を覚ましてやってきた。清香は父の声を聞きながら目を閉じ痛みに耐える。
「頭が痛いと。もしかして、千代香と同じ……」
「まさか……」
 清香が幼い頃に母はくも膜下出血で亡くなっている。
 激しい痛みの中、死を覚悟した清香の胸に母の記憶が蘇ったが、親子間で病気が遺伝するなどと考える余裕はなかった。
 清香の耳には父と祖母の会話が聞こえるけれど、今は何も考えられない。痛い。誰か、この苦しみから救ってほしい……清香はそう願い続けていた。
 意識があるだけに、頭の痛みは地獄だった。最初の金槌で激しく叩かれたような痛みからすれば、少し弱まってはいるものの、麻酔でもかけて眠らせてほしいと願うほどに、身の置き所のない苦しみや痛みに身も心も消耗していく。
 ようやく到着した救急車に揺られている間も、清香に良を思いやる余裕はなかった。病院に着き、慌ただしい検査の後で手術が行われることになった時点で、清香の意識はプツリと途切れたのだった。