もう一度、約束の場所で 怜悧な御曹司と元令嬢秘書の再会愛 1
二十二歳の藤村清香は、今年の春に女子大を卒業予定だ。
母は病気で早世し、会社経営者の父と祖母との三人で暮らしている。
特殊な家庭環境ではあるが、仕事が忙しく幼い清香の世話が難しい父を助けるために、寡婦だった祖母が同居をして、長年家族を支えてくれていた。
厳格な祖母の元で育った清香は、いまだ男性と交際をしたことがない。
母譲りの色白の肌、一五五センチメートルの身長に体重四五キログラムと、細身な清香は外見にあまり自信がない。
自分を全てにおいて平凡だと思っているが、そんな清香にもささやかな夢がある。
優しい人と恋をして、温かい家庭を築く。それが、誰にでも可能な夢ではないことは、幼い頃に寂しい思いをした清香にはよくわかっていた。
……でも、もう、夢は遠く叶わない。
清香には近々結婚の予定がある。父の会社のため、お金のために、よく知りもしない男性と結婚をしなければならないのだ。
いつも利用しているデパートに、祖母と出かける予定の朝、鏡に向かって髪にブラッシングをする清香の胸には、ある決心が隠されていた。
ストレートの黒髪は肩甲骨を覆う長さで、不安そうな表情を額縁のように取り囲んでいる。顔は緊張のためか青白く覇気がない。
祖母が揃えてくれた洋服は、清香の好みではないけれど、せっかく買ってくれたのだから着なければいけない。
「清香ちゃん、行きますよ!」
リビングから祖母の甲高い声が響く。
「今行きます」
可憐な外見に不釣り合いな、落ち着いたアルトで清香は応えた。
タクシーの後部座席に祖母と乗り込み、清香は前方を食い入るように見つめている。
―――次の信号がもし赤なら、車から飛び出そう。
清香は今、信号機に自分の運命を託そうとしていた。走行するタクシーが次の信号で停止したら、青に変わる直前に車外に飛び出して、全ての呪縛から逃げ出そう。そう心に決めて前方を凝視していた。
もうすぐだ。信号は……赤! 清香の心臓は口から飛び出しそうなほどドキドキしている。バッグを持つ手が小刻みに震えているが、失敗はできない。
1、2、3、4! 清香はドアノブに手をかけた。そして、歩道に出ると駆けだした。
祖母は慌てて追おうとしたけれど、信号が青になりタクシーは発進した。リヤガラス越しに何かを叫ぶ祖母が垣間見えたが、清香は全速力で逃げた。
駆けだした際に泥濘へ足を踏み入れて転び、服はドロドロに汚れてしまったが、桜色のワンピースと揃いのジャケットを見下ろして、祖母が選んだ服など惜しくはないとさえ思っていた。
泥で汚れて惨めな姿になってしまったけれど、逃げおおせた爽快感で清香の気分は高揚していた。
―――政略結婚なんて絶対に嫌!
三月にしては珍しく雪の降る街をあてもなく彷徨いながら、これまでの騒動を思い浮かべていた。
就活中だった一年前、祖母から父の会社に入社して手伝うように請われ渋々受け入れた。
「清香ちゃん、総務部でしっかり仕事をして、お父さんを助けるのよ」
「……はい」
父の会社が綱渡り状態なのはわかっていた。
だから、自分だけ好きな会社に就職することに罪悪感があったのは事実だ。でも、会社が立ち行かなくなれば共倒れの危険があるから、清香はちゃんとした企業に就職したいと考えていたのに願いは叶わなかった。
憧れの会社に次々と就職が決まっていく友達を横目に、就活に興味がないふりをするのは辛かったが、自分の希望はどうせ叶わないのだから、誰に相談しても意味のないことだと感じていた。
―――まるで籠の鳥のよう。
自力で人生を生きることを諦めるようになり、徐々に清香の心は死んでいった。
そして一週間前、父に呼ばれリビングに行くと、突然縁談話を聞かされる。
「お前の結婚が決まった。会社の存続のために、この縁談は絶対にまとめるぞ」
仕事を選ぶ権利を奪われても、会社のためだと従っていたけれど、いきなり望まない結婚を強いられ清香は目の前が真っ暗になった。
「お父さん、どういうことですか? ウチの会社への就職はどうなるの?」
「就職はなしだ。せっかく条件のいい結婚が決まったんだから、しっかりやれよ」
「……い、嫌っ」
「わがままは許さんぞ。見合いは明日だ。朝イチで着付けに行くように」
言葉は父に届かず、言い含められそうになる。清香は大きな声を上げ、父の話を遮った。
「嫌です! どうして結婚すら自分で決められないの?」
怒りで身体が震えて立っていられない。側にあるソファーに崩れ落ちるように腰をかけ、父を見上げて叫ぶ。
「私はお父さんの道具じゃありません」
「清香ちゃん! お父さんになんてことを言うの?」
別室にいた祖母が駆け寄り清香を叱りつける。
「お祖母ちゃんまで……」
清香の母は、十三年前にくも膜下出血で亡くなった。その後祖母が、仕事で忙しい父の代わりに清香を育ててくれた。会社や父にも献身的に尽くしてくれる。そんな祖母から叱られて、清香は言いかけた言葉を飲み込む。
「大丈夫。お父さんの言うことを聞いていれば、幸せになれるわ」
「……」
そうして清香は、父の勧める男性と見合いをした。自分の意思ではない。見合いの最中も気持ちを閉ざしたまま、まるで操り人形のように受け答えをして俯いていた。
あの日から今日まで鬱々とした日々を送っていたのだ。どうしたら今の閉塞状態から抜け出せるのだろう?
父親や祖母の言う通りに、流されて結婚してしまうのが一番いいことなのだろうか? そう自問自答したが……相手は十八歳も年上の男性。
見合いの最中、もしかして好きになれるかもと夢のようなことを考えていたけれど、会って話をしても響くものがまるでない。
相手の男性は、清香が断ることなど微塵も考えていないようで、横柄な態度が目につき、二度目に会った時に肩を引き寄せられて思わず飛び退いた。これからの生活を想像すると身震いがする。
結婚なんて、絶対に無理だ。生理的にも受け付けないのだから。
清香は父を説得しようと試みたが、全く聞き入れてもらえない。
事業を縮小して、身の丈に合った商売はできないのだろうか? 資産の売却や人員整理などで身を削り、事業を存続させる道を選ぶのは無理なのか? 祖母に相談すると、従業員を不幸にするのかとなじられた。
「私の幸せは……?」
「結婚すれば相手に慣れてくるものよ。昔の人は皆そうだったんだから」
無責任で心ない祖母の言葉に絶望する。
「お相手は家柄も人柄も申し分ない方だし、清香ちゃんにとってもいい縁談だと思うわ。結婚して義務を果たせば、あとは好きに楽しめばいいのよ」
義務という言葉の裏にあるものを想像して怖気がたつ。惨めな結婚を自分の孫に強いる祖母に、次第に不信感が募ってきた。
清香にも夢はある。ささやかだが、就職をして一人暮らしをしてみたい。優しい男性と普通に恋愛をして結婚をしたい。愛する人と添い遂げたい。好きな人の子供を授かって愛しみたい。それが贅沢な望みだろうか?
―――どうして私にはそれが許されないの?
そうして今日、突発的に車から逃げ出してしまった。
今日の予定を台無しにしたところで、待ち構えている未来から逃げられるなんて甘い考えを持っているわけではない。
ただもう、無理なのだ。
自分を監視する祖母の存在も、父の望みも、全てが清香を息苦しくさせる。逃げればさらに監視が厳しくなるかもしれない。それでも、動かずにはいられなかった。
しばらく街を彷徨っていたのだが、寒くて身体が凍えてきた。
ふとクラシックなホテルの前で立ち止まり中を眺めると、窓越しに談笑するカップルや笑顔の家族連れが目に入る。
幸せそうな彼らに誘われるように、清香はフラフラとホテルに吸い込まれていった。
なんとなく見覚えのある空間を見上げて記憶を探るがピンとこない。
温かいものを飲もうと、ホテル内のカフェに向かう。格式高い装飾に気後れはしないけれど、自分の服装の惨めさに気持ちが落ち着かない。
服に付いた泥で椅子を汚してしまわないかも気がかりだったが、清香は背筋を伸ばし顔を上げて案内を待った。
制服を着た若い男性に案内されて腰をかける。しばらくすると、屋内の暖かさに凍えた身体が解れていく。
落ち着いて周りを眺めているうちに、カフェの調度品やインテリアと自身の古い記憶が合致する不思議な感覚に陥り、清香は動揺する。
壁のクラシカルな鳩時計に視線を向けた瞬間、幼い頃の記憶が一気に蘇った。母の笑顔、白地にブルーの模様が描かれた繊細な紅茶カップや焼き菓子。鳩時計の小窓から出てくる人形……ここでの記憶の全てが母と繋がっている。
「お母さん……」
このホテルは、幼い頃に亡くなった母とよく訪れた場所だ! ここでミルクセーキを飲むのが好きだった。何年ぶりだろう? 懐かしさに涙が滲む。
―――お母さんが生きていたら、こんなことにはならなかったのに。
「お客さま、よろしければこちらを使ってお召し物の汚れを取られますか?」
「え?」
先ほど案内してくれたホテルのスタッフが、清香の側に傅きおしぼりを手に微笑んでいる。
彼は、男性にしては繊細で美しい顔をしていた。大学生のアルバイトだろうか? 身長が高く細身の身体は、少年と青年の中間地点にあるような、清潔感と独特の華を感じさせる。
悪戯っぽい表情を浮かべ、彼は小声で清香に言った。
「綺麗なワンピースが泥だらけだよ。おまけにコートも着ずに、もしかしてワケあり?」
「あの……私、祖母から逃げたんです」
彼の笑顔につられて、清香は本当のことを言ってしまった。彼はまたクスッと笑うと、清香に耳打ちをする。
「もうすぐ仕事が終わるから、僕が連れ出してあげる。洋服も綺麗にしよう」
「え?」
普段の清香なら、決してそんな誘いには乗らなかっただろう。しかし、逃亡が成功したせいで精神状態が普通ではなかった。
それに、彼からは危険な匂いがしなくて、逆に気軽さが心地よく感じられた。さりげない誘いに清香は思わず頷いていた。
言われるがまま、ホテルのパウダールームでワンピースの汚れを取ることにする。熱いおしぼりで泥を拭き取り、汚れたストッキングを脱ぎ捨てる。備え付けのアメニティーで髪の毛を括り、手持ちのリップクリームを塗り直す。そこに、私服に着替えたホテルスタッフの彼が顔を覗かせた。
全身黒ずくめの服装をしていて、大きめのブラックデニムのジャケットは借り物みたいにブカブカだけれど、右の袖が擦り切れて使い込んでいる印象だ。不思議なことに、彼が身につけると清潔な印象を与える。
「用意できた?」
「は、はい」
彼の元に向かうと、いきなり手を繋がれて戸惑う。見上げると目が合い、にっこりと微笑まれる。その美しい顔を正面から直視して、清香はちょっとした衝撃を覚えた。
上品で整った顔をしているのに冷たい印象は皆無で、黒目がちの瞳は全ての光を集めたような輝きを放っている。
目が細められ、清香を優しく見つめる。その表情に既視感を覚え、清香は彼から目が離せなくなっていた。
―――私、この人とどこかで会った?
そう感じて、すぐに否定する。多分、優しくされて舞い上がっているのだ。
「ポニーテールにしたんだ。可愛いね」
「……っ!」
普段言い慣れているのか、自然に褒められ清香の頬が赤く染まる。
「今日はここの仕事の最終日なんだ。いいところに連れて行ってあげる」
「は、はい」
電車の移動中も、彼は清香の手を握ったまま離さない。男性との接触が少ない清香にとって手を繋ぐこと自体が大事件だ。
恥ずかしいから手を離してほしいけれど、離されると寂しく感じるような、矛盾した想いが交差していた。
彼が、ふと気がついたように問いかける。
「名前はなんていうの?」
「さ、清香です」
「清香……。可愛い名前だね。僕は良。りょうって呼んでみて」
「り、良……さん?」
「君って、素敵な声をしているね」
唐突にそう言われ、清香は口ごもる。
「そ、そんなこと……」
そんな風に今まで言われたことはない。冗談かと疑ったが、彼の目からは揶揄いや下心が感じられなくて、どう受け取っていいのかわからない。
嬉しさと戸惑いに清香は俯くが、良は無邪気に話を続ける。
「あのさ、今日は友達のライブに行くんだけど、その前に洋服をどうにかしよう」
清香は身につけている服を見下ろして、首を傾げた。
「汚れは取れましたけど」
「うん。ライブハウスに行くから、もうちょっとワルっぽい格好に着替えた方がいいかな」
「ワル……?」
電車から降りてしばらく歩くと、瀟洒なマンションの前で立ち止まる。エントランスでパネルを操作すると、女性の声で応答があった。
「はい」
「開けてー!」
それだけで通じたのか、ドアが開き清香と彼はエレベーターに乗り込んだ。十五階のボタンを押すと、エレベーターは高速で昇っていく。
「はぐれると、いけないからね」
そう言って手は繋がれたまま。こんな場所ではぐれる危険はないと思うのだけれど、なんとなく言い出せない。
ドアを開けたのは、清香より少し年上に見える女性だった。
「お疲れ! ちょっとこの娘を着替えさせてよ」
女性は清香を一瞥すると表情も変えずに頷く。
「いいよ。入って」
どういう知り合いなのだろう? ふと疑問に感じたが、会ったばかりの人達の人間関係を詮索する余裕は清香にはなかった。目を丸くして室内を見渡す。
清香の父は会社を経営しているのでそこそこ豊かではあったが、こんなに豪華な室内に足を踏み入れたのは初めてだった。
壁も天井も真っ白で、床にはマーブル模様の大理石のタイルが敷き詰められている。インテリア雑誌から抜け出たような室内には、細身の大型犬がゆったりと横になっていた。圧倒されてぼんやりする清香に女性は淡々と声をかける。
「どんな服がいい?」
「この子は清香。ライブに行くんだけど、小悪魔っぽい格好にしてあげて。あ、清香、彼女は綾だよ」
「さ、清香です。お邪魔してすみません」
綾は清香についてこいというように首を振り別室に向かう。彼女の後を追うと、広いウォークインクローゼットに入っていく。
「良が黒を着ているから、清香も黒にする?」
初対面の女性からさりげなく名を呼ばれ、清香は少し戸惑いながら頷く。
黒は今まで着たことのない色だから、絶対に挑戦したい。清香は直感的にそう思った。
「黒が着たいです。すみません貸していただいてもいいですか?」
「別に……。あげるから、気を使わなくてもいいよ」
女性は透けたカットソーに金具の付いたミニスカートを清香に当てて首を傾げる。
「いいんじゃない? 下着はカップ付きのキャミを着るといい。ジャケットもたしか黒があったはず……」
目当ての衣類を見つけ出すと、女性は清香を鏡の前に案内する。
「はい。これ着たらリビングに戻ってきて」
「あ、ありがとうございます」
クローゼットを出ていく女性の後ろ姿を清香は見送る。初めて出会った自分を疑いもせずに受け入れる女性の鷹揚さは、清香の家とはランクの違う豊かさゆえの性質のように感じられた。
着替えた姿を鏡に映すと、ボーイッシュでおしゃれな女性が立っていた。自分ではないみたいで、清香の胸がワクワクしてきた。
わかっている、これが今日だけの冒険だと。それでも清香は夢を見ていたかった。脱いだ洋服を畳みクローゼットを出て、緊張しながらリビングに行くと、良が目を見開いて清香を迎える。
「いいね! こんな服も似合うんだ」
「あ、ありがとう」
もしかして良は、とことん優しい人なのかもしれない。何度も褒められているうちに、清香は彼の言葉を素直に受け入れてもいいような気になってきた。
良と部屋を出ていこうとすると、脱いだ洋服を入れた紙袋を綾が渡してくれる。
「履いてきた靴もこれに入れるといいよ。黒いアンクルブーツが合うから玄関に置いといた。サイズは合う?」
「あ、ありがとうございます。大丈夫そうです」
綾に靴まで用意してもらい、清香は申し訳なさでいっぱいになるけれど、近いうちにお礼に伺おうと思った。
「またおいで」
「はい!」
優しさを隠した無愛想な口調に清香は笑顔で応え、マンションを出ていく。
良と向かったのは、繁華街の地下にあるライブ会場だった。良は、店のスタッフに向かって手を挙げるとさっさとバックヤードに向かう。
生まれて初めての経験ばかりで戸惑うが、背伸びした行動に胸が弾む。清香は暗い廊下を良に手を引かれて進んだ。
楽屋らしき部屋には清香と同世代の男性が数人いて、皆個性的な服装をしていた。良は彼らと親しげに挨拶を交わし、清香を紹介する。
「この子は清香。今日ホテルで困っていたから連れてきた」
「またかよー! 良、拾うのは子猫くらいにしとけ」
皆がドッと沸く。いつの間にか清香は彼らの輪の中心で笑っていた。
集団の中にいることが心地よくて、彼らの話に興味深く耳を傾けていた。
コーラを渡され口をつけると、普段飲み慣れていないから強い刺激にむせそうになる。そんな清香を良は笑って背中を撫でてくれた。
「まさか、コーラを初めて飲んだって言わないよね?」
「中学生の頃にレストランでコーラフロートを飲んだことがあるけど、これは刺激が強くて……」
「ふふっ。清香は深窓の令嬢だね」
良にそう言われ、清香は赤面して首を振る。
良から紹介された男性が、ミネラルウォーターを清香に差し出し心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫? よかったら水どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「青山、優しいじゃないか!」
男性は仲間に囃し立てられ頭を掻く。
「良の友達だからね、大事にしないと」
青山と呼ばれる男性は建築士だという。楽屋には、今夜演奏をするバンドの他に、青山や良のように夢に向かって頑張っている人達がたくさんいるようだった。
株の売買だけで生活をしている大学生や、普段は山に籠っていて半年ぶりに下界に降りてきたセミプロの陶芸家。それに売れないミュージシャンなどなど。彼らは清香に優しい微笑みを向け、さりげなく話しかけてくれる。でも、清香は良の姿を追ってしまう。
どうしても目が吸い寄せられてしまうのだ。良はまるで恒星のように、自ら光を放ち周りを明るく照らす。しかもその光は、どこまでも麗らかで優しい。
こんな男性に出会ったのは初めてで、清香は自分でも気がつかないうちに良に惹かれていた。
演奏時間が近くなりバンドのメンバーが出ていくと、他の面々もライブ会場に向かう。良は清香とそのまま楽屋に残り、壁に立てかけられたクラシックギターを手に取った。
「ライブ見に行かなくてもいいの?」
「清香、行きたい?」
「うーん、それほどでもないかな」
「ツインギターのサブが出られないかもっていうんで呼ばれたけど、サブの調子がよくなったから僕は用無しなんだ。ここでゆっくりする?」
「うん」
静まりかえった楽屋には、先ほどまでの賑やかな空気がまだ残っていて、なんとなく立ち去りがたい。
初めてのライブを体験するのも楽しいだろうけれど、良と一緒にいる方がずっといい。ギターを軽く爪弾きながら、良が清香に問いかける。
「何か聴きたい曲ある?」
「えっ?」
洋楽やロックには詳しくないし、J-POPにも疎い清香は、ふと浮かんだ曲名を口にする。
「『アルハンブラの思い出』とか?」
音楽の授業で聴いて心に残った曲だ。でも難しそうだから、笑って『無理だよ』と言われると思った。何気なく口にした曲は誰もが知る名曲だけれど、簡単に弾けるものではない。
「いいよ」
良は気軽く請け負ってギターを構える。
短調で始まる物悲しいメロディーが奏でられると、清香の胸に衝撃が走った。ギターの奥深い音もさることながら、たどたどしさなど見当たらないプロの音が再現されたからだ。
時折耳に届くフィンガーノイズが、曲の切なさを際立たせ、清香を泣きたくさせる。トレモロ奏法の心安らぐ音色に癒されて、清香は彼の肩にもたれたまま軽く目を閉じた。
良が奏でる音は、清香の脳裏に母の姿を映し出し、記憶の奥に隠れた懐かしい思い出を蘇らせてくれる。
―――お母さん……。
涙を滲ませて聴き入る清香に、良の頭がそっと押し当てられる。まるで、『大丈夫だよ』と言ってくれているように。
彼の優しさに包まれて、清香はいつしか浅い眠りに導かれていった……。
最後のギターの音が響き、清香はハッと目を開く。
「清香、寝ていたね?」
彼はギターを置きクスッと笑う。
「ごめんなさい。あまりにも気持ちよくて寝ちゃった」
「……やっぱり」
ふとした間に顔を上げると、真っ直ぐに清香を見つめる良の視線に捕まってしまった。
二人きりの控室には、時折遠いステージの音が漏れ聞こえてくる。ドラムの響き、野太い声や黄色い歓声。
盛り上がる舞台とは逆に、ここは静かで優しい空間。今日までの苦悩がどこか他人事に感じられるほど、清香の胸は平穏に包まれていた。
―――きっと、良さんと一緒だからだわ。
穏やかな時。唇がゆっくりと降りてきて、清香は受け入れてもいいと思った。
柔らかい唇が触れた瞬間、電流が走るような衝撃が伝わってきた。驚きに思わず離れようとしたけれど、背中に伸びた腕に抱きしめられ、さらにキスが深くなる。
清香の唇は、甘く蕩けるキスに侵食され脳髄が痺れていくよう。抱きしめる腕の強さに身を任せ、初めてのキスに無我夢中で応えていた。
彼の手がカットソーの裾から入ってきて清香の肌にそっと触れる。温かい掌がウエストを撫で、柔らかいお腹の上に置かれた。
「ふ……、くすぐったい」
呟きは唇に飲み込まれ、下着に包まれた胸が大きな掌に包まれる。生地越しに優しく撫でられて、ムズムズとした喜悦が乳房の先端に生まれる。
良の動きにつられ、清香もおずおずと彼の髪や肌に触れてみる。次第に行為に熱くなっていく二人は、唇で繋がったまま互いの身体を弄り合った。
首筋にキスをされ、清香は頸を仰け反らせて甘く小さな声を上げる。目を閉じ彼の愛撫を夢中で受け入れながら、泣きたいくらいに切ない想いを噛み締めた。
―――忘れないでおこう。
これは、束の間の恋だ。
彼の匂い、彼に刻まれた感覚を忘れないでいれば、この先辛いことがあっても生きていけそうな気がした。
少なくとも心は死なない。清香の胸には、一つの決心が芽生えていた。
―――今日の冒険が終わったら、私は家に帰って父の人形になろう。
だからこそ、今の自由を精一杯味わい尽くしたい。
彼の唇が耳朶を喰み、清香の口から甘い吐息が漏れる。