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もう一度、約束の場所で 怜悧な御曹司と元令嬢秘書の再会愛 3

第三話

 

 ……首が締め付けられ、身動きができない苦しさを覚え、清香は目を開く。
 霞んだ視界の中、誰かの声が聞こえる。
「……やか、清香ちゃんっ! 気がついたのね」
 女の人が涙を流して必死に話しかけている。
 ―――お祖母ちゃん。
 声をかけようとするのだけれど、口元が何かに覆われて声が出せない。手を伸ばそうとしても、手は動かない。
 ただ、瞬きをして祖母を見つめる。
 その後、たくさんの人が清香を囲み話しかけたり身体を触ったりするが、清香は自分がなぜここにいるのかを理解できずに混乱した。
 しばらくすると、深夜の激しい頭痛や救急車で運ばれたこと、病院での検査や対応してくれた医師の白衣などの断片的な記憶が蘇り、ようやく自分の状況が飲み込めてきた。
 でも、涙を流す祖母を見つめながらもどこか他人事のようで、全く現実感がない。
 その時、清香の脳裏に黒い服を着た青年の姿がパッと浮かんだ。
 ―――私は彼と飛行機に乗るはずだった。今は何時?
 バカな考えなのだが、清香は良との待ち合わせの時間に間に合えば行こうと思っていたのだ。
 時間を知りたいけれど、酸素マスクをしているので話ができない。おまけに身体も動かせない。清香は焦燥感に襲われ、マスクを外してほしいとジェスチャーをして、看護師に緩めてもらい祖母に話しかける。
「いま……なんじ?」
 喉が渇いているせいか、まるで知らない人の声のように聞こえる。意識が戻って最初の言葉で時間を聞かれたものだから、祖母は驚きの表情を浮かべながら答えてくれる。
「十五時だけど、時間なんか気にして、どうしたの?」
 問いには答えず、清香は目を閉じた。
 時間を聞いてひどく落胆したけれど、後で思い返すとあの時の自分の頭は、やはり正常ではなかったのだ。
 身体は動かせず体調も最悪なのに、良の元に行けると思い込んでいたのだから。
 そんな清香も、病室にやってきた医師によって自分の状況を思い知ることになった。
「藤村さん、あなたは昨日の未明に『右くも膜下出血』のために病院に運ばれて緊急手術を受けました。これから酸素マスクを外しますが、下半身は動かしてはいけません。それと、今日から二週間は何が起こってもおかしくないので、絶対に安静が必要です」
 清香は医師の言葉を呆然とした面持ちで聞いていたが、良とはもうヨーロッパに行けないことを知り、絶望感に襲われていた。
 自分が生きるか死ぬかの瀬戸際に立っていることに、気がついていなかった。
 診察を終えた医師が病室を出ると、看護師もケアを終えて出ていく。清香は目を閉じ部屋に残った祖母が話しかけてくれる言葉をぼんやりと聞いていた。
「目覚めてくれてホッとしたわ。よかった……」
 目を開けて何かを見るのもひどく疲れる。清香は祖母の言葉に微かに頷いた。
 この苦しさはいつになったら晴れるのだろう? 赤ん坊のように何もできない。食事も自分では摂れない。排泄は看護師任せ、ただ寝ているだけ。
 生きる屍と化した自分を受け入れられずに清香は苦悶する。
「おばあちゃん」
 枯れた喉から必死に声を絞り出す。
「何? 清香ちゃん」
「きょうは、なんにち、ですか?」
 たどたどしい口調に祖母は涙を流しながら教えてくれたが、その答えに清香は愕然とした。
 良との約束の日はとっくに過ぎていた。
 清香の双眸から涙が溢れ出す。自分が病気になってしまったのは辛い。でも、良との約束を破ってしまったことが清香を泣かせる。
 ―――一人で行かせてしまった……。
 清香は、悲鳴のような声を漏らした。涙は止めどなく流れ、やがて嗚咽に変わる。見守る祖母は、病を得たことを嘆いていると思っただろうが、清香には現実を見る余裕はなかった。

 絶対安静の二週間をなんとか無事に過ごし、清香はとてもゆっくりとした速度で回復に向かっていった。
 出血の量や部位が致命的な損傷に繋がらなかったことや、処置の速さや清香の若さがプラスに作用した。
 それでも、何一つ自由にならない自分の身体と思考能力に、毎日苛立ちを募らせ、自暴自棄になるくらいに辛く厳しい日々が続いた。
 主治医は根気強く清香を諭し、『大丈夫、以前と同じ生活が絶対にできるようになる』と励ましてくれた。それは看護師やリハビリ担当者も同じで、チームで清香を回復に導いてくれた。
 後遺症については、運動機能や言語能力、その他諸々も奇跡的に発症前と変わらぬ回復を望めることがわかり、清香はもちろん祖母や父を安堵させた。
 そして、仕事に追われて、なかなか見舞いにもこられない父に代わり、祖母もまた清香の精神的な支柱となってくれた。
 望まぬ結婚を押し付けられ、祖母を恨んだ日もあったが、今は清香の一番の味方だ。
 
 入院が一ヶ月を過ぎる頃、清香はリハビリ専門の病棟に転床し、それから二ヶ月間リハビリに懸命に取り組んだ。
 退院の許可をもらい、入院最後の回診の日、主治医から温かい言葉をかけられる。
「藤村さん、退院後は通院してリハビリを頑張ってください。月一の診察日も忘れずに受診してください」
「はい。先生、お世話になりました」
 丁寧に頭を下げる清香に医師は慈愛の表情を浮かべて言う。
「リハビリを頑張って続ければ、発病前と同じように生活できるはずです。それから、仕事も結婚も……。出産も不可能ではない」
「本当ですか?」
 無理だと思い込んでいた全てが、『不可能ではない』と言ってもらえて、飛び上がるほど嬉しかった。そんな清香に、医師は大きく頷いてくれる。
「ええ。細心の注意が必要にはなるけれど、不可能ではありません。藤村さん、一度は失いかけた命だから、これからは思う存分、自分の人生を生きてください」
「先生……」
 医師の励ましは光となり、ままならない身体を抱えた清香に希望を与えた。

 結局、結婚話は病のせいで破談となり、会社は融資を受けられなくなった。資産を可能な限り売り払い、優良部門を有利に取引先に売り渡したことで、残った従業員を守り抜くことができた。
 規模を縮小して、父は会社を整理しながら必死に働き、従業員や清香達の生活を守ってくれた。
 家と土地の大半は売り払われ、マンション建設用の土地となった。父は知り合いの厚意で、築年数は古いものの立地条件のいいマンションを購入し一人で住んでいた。
 祖母は清香の世話をするために、病院にほど近いアパートを借り、一人暮らしをして看病を続けてくれていた。
 しかし、家事をしたことのない父はすぐに一人暮らしに音を上げた。退院した清香の世話をするためもあり、祖母がマンションに同居することになった。今、三人は以前のように一緒に暮らしている。
 引っ越しは清香の入院中だったため、新しいマンションの部屋には祖母が梱包してくれた荷物が山積みとなっている。
 時間をかけて整理する必要があるが、清香はスマホの行方が気になっていた。
 あの日荷造りをした旅行バッグは、クローゼットの中で服に紛れて置かれていて、中を探してもスマホは見つからない。
 必死に探し物をしていると、祖母がやってきた。
「清香ちゃん、お茶にしない?」
「あ、はい。行きます」
 ダイニングで紅茶を飲みながら、祖母にスマホの在処を聞いてみる。
「お祖母ちゃん、荷造りしてくれてありがとう。あの、私のスマホを知らない?」
「多分、段ボールの中の荷物に紛れているのかも……貴重品らしきものは箱に丸印をしているから、そこから探すと見つかるかもしれないわ」
「探してみる。あの、お祖母ちゃん、本当に色々とありがとう」
 実家の家具や日用品などの取捨選択は大変だっただろう。清香は自身が病と闘っていたとはいえ、家の大変な時に全てを祖母に任せっきりだったことに罪悪感を持っていた。
 たった三ヶ月で、祖母はさらに老け込んでしまった。もちろん清香も痩せて酷いありさまなのだけれど……。そういえば父も痩せてシワが深くなった。
 ―――家族中が満身創痍なのね。
 それを思うと、清香は少し笑えてきた。
 私達は底辺に落ちたのだ。これ以上悪いことはもう起こらないだろう。そう思うと静かな闘志が湧いてくる。口角を上げる清香を、祖母が不思議そうに見た。
「ねえお祖母ちゃん、私達って今が人生の底よね? これからはいいことしか起こらないんじゃないかしら?」
「清香ちゃんったら……。そうね、希望を持って生きましょう」
 部屋に戻り、丸印のある段ボールを片っ端から開けてスマホを探すと、時計やスカーフなど、身の回りの物と一緒に見つかった。
 その中には、父と祖母に書いた手紙も封をした状態で残っていた。救急車を呼んだドタバタと引っ越しなどの忙しさの中で、宛名を書かなかったせいで、気づかれずに残されていたのだった。
 清香は、自分の逃避行の企みが家族の誰にも見つからなかったことに、安堵すると共にさらなる胸の痛みを覚えた。
 スマホを充電して機能を回復させ、着信履歴をチェックする。
「あっ……!」
 待ち合わせの日に、知らない番号から何件も着信が入っていた。良との約束の日を含む二日間続き、それからピタリと途切れている。
 番号をネットで検索すると、あのホテルの代表番号に近いことがわかった。
「良さん……」
 留守録はなし。もちろんメッセージアプリの交換もしていなかったから、良からの知らせはなかった。この知らない番号からの電話は、多分良からの着信だろう。
 何度も何度も連絡を取ろうとした良を思い浮かべ、清香はまた涙した。
 その後、良の消息を知ろうと、うろ覚えでライブハウスを訪ねたが、地下の店は居酒屋に変わっていた。ダメもとで店の人にライブハウスのことを聞いたが、前の店を知る人は一人もいなかった。 
 ―――せめて、良が勤務する予定のホテルを聞いておけばよかった。
 そう後悔したけれど、今の自分の体調は万全ではなくて、再会しても良の足手纏いになるだけだ。それに、まだリハビリを継続しなければ麻痺が残る可能性だってある。海外に行くことは、家族も主治医も許してはくれないだろう。
 清香にできることは何一つなかった。
 ……彼の柔らかい笑顔が目に浮かび、胸がギュッと締め付けられる。私をずっと待っていたのだろうか? それともすぐに諦めて旅に出た?
(やっぱり、父と祖母を簡単に裏切ろうとしたからこんな目に遭ったんだ)
 清香は、強く自分を責めた。
 そうして……あの日書いた手紙を細かく裂いてゴミ箱に捨て、自身への戒めとして良のことはすっぱりと諦めようと誓ったのだった。

 

 

 

 

 


 

 二日遅れでローマの空港に降り立った良は、ローマ中心部の駅までの直通列車に乗って予約していたホテルに向かうことにした。
 小さなスーツケースと旅の友のクラシックギターを背に、三十分ほど列車に揺られて駅に着く。そこから大きな噴水のある広場を抜け、目指すホテルに徒歩で向かった。
 三月のローマにしては珍しい晴天で、良は淡い空色を見上げて目を細める。これから始まる生活に夢や希望は浮かんでこない。あんなに望んで手に入れた修業の地だというのに。
 良は隣にいるはずだった清香を想いうなだれた。

 あの日は、朝四時過ぎからホテルの前で清香を待っていた。約束の時間には早かったけれど、なんとなく清香なら早めに来そうな気がしたのだ。昨夜清香の分の旅券も予約しており、彼女が快適に渡欧できるようにとビジネスクラスにランクアップした。
 しかし、約束の五時を過ぎても清香は訪れない。良は五時半に清香のスマホに電話をしたが出てくれなかった。何度も電話をして、そのたびに呼び出し音だけが無情に響く。
 曇天はやがて雨となり、良はその中で清香を待った。ホテルの中にいたら、遅れてきた清香が帰ってしまうかもしれないと思ったのだ。
 公衆電話を使う以外の十九時間、雨の中ホテルの前で待った良は、もう清香は来ないのだと諦めてホテルにチェックインしたが、冷たい雨に濡れたせいで熱を出して寝込んでしまった。 
 大汗をかき朦朧とする意識の中で、何度もフロントに頼んで清香のスマホに電話をしたが、応答はなく折り返しの電話もなかった。
 清香は簡単に約束を破る人間ではないはず。出会って一日しか経っていなかったが、良には清香に対して絶対的な信頼があった。
 その根拠は何? と聞かれても答えることはできないけれど、清香の人柄からそう感じられたのだ。
 何か事情があるに違いないと思ったが、すっぽかされた事実に打ちのめされた。何も食べずに眠り続け、回復したのは二日後。良は一人ぼっちでローマに旅立った。

 良は国内でも屈指のホテルチェーン、澤田リゾートの後継者だ。大学を出て都内の自社ホテルに就職しロビースタッフをしていたが、仕事や友人関係があまりに順調で、毎日が楽しすぎることに漠然とした不安を抱いていた。
 ぬるま湯の中では成長できないと感じ、海外で仕事をすることを選んだ。
 ヨーロッパにある自社のホテルチェーンで仕事をしてはどうかと父に勧められたが、良は首を縦に振らなかった。社長の息子が呑気に外遊をしていると思われるのは癪だし、特別扱いされれば海外で働く意味がない。
 知り合いが誰もいない、名門ホテルの下っ端から仕事を始めると決めていた。
 清香と出会ったのは、日本での最後の勤務日だった。仕事を終え友人のライブに参加する予定で更衣室に向かっていた時に、ロビーを横切る女性が目に入った。
 彼女は汚れた着衣をものともせず背筋を伸ばして歩いている。
 青白い顔をこわばらせて、カフェの入り口で案内を待つ姿はまるで、どこかの王女さまのように気品に満ちていた。
 一瞬で心を奪われ目が離せなくなる。
「お客さま、こちらへどうぞ」
 良は迷わず彼女に近づき席に案内をしていた……。
 ライブハウスの楽屋でキスをした時、恥じらいつつも行為を積極的に受け入れる清香に、良は夢中になった。
 遊び慣れているようで意外と純なところのある良にとって、清香の全てが怖いくらいにしっくりきた。
 そう、一夜にして良は恋に落ちたのだった。
 清香はどうして来なかったのだろう? 
 裏切られたとは思っていなかった。何か事情があるに違いないと考え、何度もスマホに連絡をしたが出てくれない。
 そうして風邪から回復した良は、後ろ髪を引かれる想いを抱きつつ、日本を後にしたのだった。

 異国の地で、言葉に苦労しながらも、五つ星ホテルで勉強できる喜びを噛み締める日々。
 若い東洋人がヨーロッパで働けば、嫌なことなど毎日ある。それでも、自分が望んだことだから弱音は吐きたくない。
 そんな日々、思い浮かべるのは清香の姿。手に入らないものだから尚更欲しくなる。
 実際の彼女に恋をしていたのか、自分が作り上げた虚構の彼女に恋をしているのかもわからなくなっていた。
 ただ、会いたい。なぜ来なかった? 恨みはない。彼女の事情もわかるから。
 翌朝に会えることを全く疑っていなかった。家の電話番号や住所、フルネームも全て交換していればよかった。夢みたいなことばかり言ってないで、スマホを持っていればSNSで繋がれたのに……。
 良の想いは千々に乱れ後悔に苛まれた。
 寂しい夜、小さな部屋でギターを爪弾く。あの日清香がリクエストした曲を奏でれば、彼女の初々しい表情が蘇り胸が締め付けられる。
 望まない結婚をしたのだろうか? 清香が他の男に抱かれる姿を想像するだけで吐きそうになる。
 ―――重症だ。
 良は未練がましい自分を笑う。仕事をしている時はいい、無心でいられるから。でも、こんな静かな夜はダメだ。
 ―――苦しい。
 何か一つ諦めたら彼女に再会できる? 良は大切なクラシックギターを手放し、それから二度と弦に触れることはなかった。

 

 

 

 


 清香は、リハビリ通院をしながら自宅で療養を続けていた。
 予後は良好で、軽度の左片麻痺を発症したもののリハビリのおかげで正常に戻りつつあり、医師は奇跡的だと話してくれた。
 後遺症がなかった理由としては、発病年齢の若さと、出血量が少なかったことなどがあったが、退院の際医師は清香にこう告げた。
「今も瘤が一つ残っていますが、サイズは微小で藤村さんが生きている間に破裂する可能性は低いと思われます。万が一破裂したとして、死亡確率は一般的に十パーセントと言われています」
 死亡確率の高さに清香が顔色を変え慄くと、医師は笑って補足する。
「あくまでもこれは最悪のシナリオです。検査を怠らず、規則正しい生活を心がければ、問題はないでしょう。心配なら、内視鏡で取り除くことも可能です」
 そう言われ、ホッと息を吐く清香に、医師は言葉を続ける。
「藤村さん、あなたは必死に生き抜いたのだから、これからは思う存分好きなことをしてください」
 ―――身体を労らず好き放題していいという意味じゃないよ。
 そう釘を刺し、医師は清香に慈愛の笑みを向けて言ってくれた。
「結婚だってできる。生まれ変わった気持ちで、あなたの人生を生きてほしい」
「先生、お世話になりました。とはいっても、次回診には会いにきますし、リハビリも頑張ります」
「待っています」
 二十代前半の若さで、くも膜下出血を発症する患者は多くはない。生命力の限りを尽くし懸命に生きようとした清香は、医師にとっても特別な患者だったのだろう。
 清香は医師との絆に胸を熱くしながら病院を後にしたのだった。

 退院から一年後、清香は身体慣らしも兼ね、父の会社で事務仕事をしつつ自分の将来を模索していた。
 職はすぐには見つからなかったが、ゆっくりと療養を続け体力を取り戻していった。
 そうして、二十四歳の春に大学時代の恩師の計らいで大手観光グループ会社に採用され、秘書室に配属されたのだ。
 二十七歳の今、清香は一人暮らしをしながら会社勤めをしている。
 ストレートの黒髪は、落ち着いたブラウンのふんわりヘアとなり肩先で揺れていて、青白かった肌には薄化粧が施され、どこから見ても大人の落ち着いた女性に見える。
 父の会社を縮小せざるを得なかった原因を自分が作ってしまったことに罪悪感を抱きつつも、清香はかつて夢見ていた『普通の生活』を謳歌していた。
 一度は手放しかけた命。神様に与えられた人生だと思い、懸命に仕事に打ち込んだ。父や祖母も、大病を乗り越えた清香の自立を今では応援してくれている。

 清香が勤務する株式会社澤田リゾートは、ラグジュアリーからカジュアルまで様々な形態のホテルを国内外で五十五軒有し、その他にもスキー場やカフェなどの店舗を全国に展開するリゾート会社だ。
 清香が就職できたのは恩師の口利きのおかげだったが、この職種を選んだ理由は、少しでも良と同じ業界に属していたいという想いがあったからだった。
 しがない秘書がヨーロッパにいる彼の情報を手に入れるなんて不可能なのだけれど、良が目を輝かせて語ってくれた業界に身を置けることは、清香にとって幸せなことだった。
 四月の最初の週の月曜、常務の依頼で急ぎの書類作成を終えパソコンの前で肩のストレッチをしていると、同僚の工藤紗希から声がかけられる。
「藤村さん、ランチに行かない?」
「あっ、もうそんな時間なんですね。ご一緒させてください」
 工藤は同じ歳だが、新卒採用なので清香の二年先輩だ。仕事がデキる上にさっぱりした性格の持ち主で、清香にとって頼りになる同僚だ。
 スプリングコートを羽織り、会社のビルを出て通りに繰り出す。
 近くにある飲食店で二人は日替わり定食を選んだ。この店の栄養バランスのよい定食は清香達のお気に入りだ。
 出来上がった食事が配膳され、二人は歓声を上げる。
「美味しそう! チキン南蛮なんて、家では絶対に作れないわ」
 そう言う工藤に、清香も同意する。
「確かに。我が家の狭いキッチンが油まみれになるのは必至です」
 秘書というと、オフィスで優雅に仕事をしているイメージを持つ人がいるかもしれないが、重役に仕えるのは体力と気力を消耗するし、書類一枚にしても扱いに神経を使う。
 外出する重役に随行すれば、夕方には精根尽き果てヘトヘトになる。精神面や体力面を削られるハードな部署なので、何気に健啖家が多い。
 二人は品よく全てを平らげると、食後のコーヒーをいただきながら雑談に興じる。
「すっごく美味しかったです」
 満足げな清香を見て、工藤がクスクスと笑う。
「藤村さんって大食いだもんね。かくいう私も負けてないけど。でも、何食べても太らないのは羨ましいわ」
「大食いなのは否定できませんけど、食後にはお腹がぽっこりします」
「ふふっ。私も食べた後はウエストがキツいわ。あ、そういえば、あの話聞いた?」
「なんの話ですか? このところ常務の仕事に追われていて、皆さんの話題に乗り遅れている気がします。教えてください」
「だよねー。実はね……」
 新年度になり、異動などでバタバタしている本社だが、先週末に大きなニュースが飛び込んでいたらしい。
 なんでも……長年外遊していた社長の子息が満を持して本社に戻ってくるとのことで、今朝からその噂でもちきりだそうだ。
 彼を偶然見かけた受付の女性が、洗練されたイケメンぶりにのぼせ上がったとか、マルチリンガルの彼のキングスイングリッシュが特に素敵だとか、色々な噂が飛び交っており、各部署の女性社員達は色めき立っているらしい。
「はあ、すごいですね。私が常務の悪筆と格闘している間に、そんなことが……」
 清香の呑気な発言に工藤は呆れつつも、頬を染め嬉しげに語りだす。
「ご子息は今二十九歳なんですって! 数年後には副社長に就任するんでしょうね。五年間もヨーロッパを外遊されていたわりには、めぼしいSNSに彼の形跡が見当たらないのは謎だわ」
「工藤さん、探したんですか?」
「ええ。十時の休憩時間に超高速で検索したけど、全然見当たらないの」
 工藤がシゴデキ秘書なのは社内でも有名だ。しかも、写真投稿SNSでは素性を伏せた上で数万人のフォロワーを有する、ちょっとした美容インフルエンサーでもある。その彼女が探し出せないとなると、社長子息の謎が深まる。
「そもそも発信をしない人なのかもしれませんね」
「そうね。でも、今どきどこの企業もトップは積極的に顔出しをしているでしょう? とにかく、明日から出社されるらしいから、じっくりと顔を拝ませてもらいましょう」
「そ、そうですね」

 翌朝出社すると、秘書室長から内線が入った。最上階の第一会議室に来るように言われ、戸惑いながら受話器を置く。
「どうしたの?」 
 隣のデスクの工藤が、何かあったのかと心配して声をかけてくれる。
「あ、いえ。室長に呼び出されたんです。私、何かしでかしたのかしら? って考えていました」
「何もやらかしていないと思うけど、なんだろう? ちょっとドキドキするわね」
「はい。……とにかく、行ってきます」
「結果によっては、今日のランチを奢って慰めてあげるわよ」
「じゃあ、思いっきり叱られてきます」
「ふふっ。健闘を祈っているわ」
 工藤と笑い合い、清香は指定された階層に向かった。最上階なんて入社式以来だ。このフロアには各会議室の他に社長室と副社長室があり、清香が入社した時期に副社長が病没してからは稼働しているのは社長室だけだ。
 エレベーターの扉が開くと、秘書室長が目の前に立っていてギョッとする。
「藤村さん、第一会議室で話をしましょう」
「は、はい」
 室長のただならない雰囲気に、内心では恐怖に震えながら後をついていく。第一会議室は上層部が会議を行う部屋で、かなり豪華な設えだ。
 大理石の床にヒールの音が大きく響いただけでビクつく。清香は怖じ気付きそうになる心を奮い立たせ、勧められた窓際の椅子に腰をかけた。
「いきなり呼び出して悪かったね。突然で申し訳ないのだけど、藤村さんに部署の異動を通達します」
 ―――え?
 声にこそ出さなかったけれど、清香は驚きのあまりに腰を浮かせかけた。なんとなく嫌な予感しかしない。トップ付きの一人にされるのではないことを願いつつ、室長の言葉を待つ。
 室長は清香に一枚の書類を手渡して告げた。
「藤村清香さん、今日付けで副社長代理の第一秘書に任命します」
「……!」
 書類を手にしたまま、清香は硬直していた。嫌な予感が当たってしまった。副社長代理といえば、昨日から噂になっている社長の息子のことではないのか?
「どうして私が?」
 最初に浮かんだ疑問を清香は思わず口にしていた。室長は清香の質問を予想していたようで、対角線上にある椅子に腰をかけ説明を始める。
「彼が望まれたからだよ。藤村さんは優秀で仕事熱心だ、選ばれたからには全力で職務を全うしてくれると私は信じている」
「あの、第二秘書はいるのですか?」
 意味のない質問だ。清香のような下っ端が第一秘書なら、二番手はいないだろう。予想通り室長は首を振り、気遣うような表情になった。
「秘書は君だけだ。副社長代理は新しい事業に就かれるから、国内外を飛び回ることになる。それを君がフォローするんだ。個人秘書が無理だと思うなら、今ここで断ってもいい。このまま秘書室で役職者達のサポート業務を続けることもできる。どうだい?」
 今それを決断しろと迫られ、清香は室長に思わず掌を向けた。
「すみません、一分だけ時間をください」
「……どうぞ」
 清香は俯き目を閉じると、大きく息を吸いゆっくりと吐いた。何も考えられないけれど、今ここで断っても平凡な毎日が約束されることだけはわかった。
 清香の脳裏に、長い入院から解放された朝に主治医から告げられた言葉が蘇る。
 ―――精一杯生きなさい。
 そう言ってもらえてどんなに嬉しかったことか……。個人秘書となって、厳しい場面で仕事をする自分を想像して、ほんの少しだけ胸の高鳴りを感じて瞼を開く。
 清香は伏せていた顔を上げ、室長に応えた。
「ありがとうございます。謹んでお受けします」

 秘書室に戻ると、清香はすぐに荷物の整理を始める。驚いてこちらを見つめる工藤に短く伝えた。
「副社長代理の第一秘書に任命されました」
 その言葉だけで工藤は、自分とのランチどころか、ガールズトークや何気ない職場での癒し全てが、清香から奪われたことを悟ったようだった。立ち上がり清香の肩に手を置いた。
 若きイケメンであろうと、経営者の側近くに仕える厳しさは秘書なら誰でも知っている。羨む者がいたとしたら、現実を知らない馬鹿だ。
「……片付け手伝うわ」
 アイコンタクトだけで思いが伝わり、二人は硬い表情で頷き合う。
「ありがとうございます。でも、すぐ終わるので大丈夫です。部署の皆さんには後でご挨拶に参りますが、取り急ぎ行ってきます」
「うんうん。……頑張ってね」
 秒速で私物を箱に収めると、清香は秘書室のドアの前で頭を下げる。
「皆さま、お世話になりました」
 秘書室の全員が立って清香を見送ってくれる。それがありがたくて、清香はただの異動なのに涙が出そうになった。
 震える手で最上階のボタンを押す。高速で静かに昇るエレベーターの中で、清香はちっぽけなプライドをかき集め自身を鼓舞していた。そうしないと怖じ気付いて手が震えそうだったからだ。
 副社長室の前で、深呼吸をしてドアをノックする。
「どうぞ」
 滑舌のいい力強い声がドア越しに響き、清香は意を決して中に入った。
「はじめまして、藤村清香と申します」
 段ボールを持ったまま深くお辞儀をする。顔を上げると、デスクの側に立つ男性と目が合った
「澤田だ。よろしく頼む」
「ぁ……!」
 そこには、思いもよらない人物がいた。
 ―――まさか、……良さん?
 副社長代理は、良に生き写しだった。いや、良が時を越えて、眩いばかりの大人の男性になり清香の目の前に現れた。
 シャープな頬や厳しい眼差し、上質なスーツや絶妙なカットを施された黒髪は、以前の良にはなかったものだ。
「よ、よろしくお願いいたします」
 慌てて挨拶をしたものの、清香は激しく動揺していた。副社長代理の名が『澤田良』というのは、私物の片付けをしている時に会社のグループウエアを閲覧して知っていたが、それがあの良と結びつくことはなかった。
 ……しかし、彼と出会ったのは澤田リゾートが保有するホテルだし、ヨーロッパを外遊する子息なんて、この国に滅多に存在しない。
 落ち着いて考えれば、副社長代理と良との共通点に気がついただろうに。清香は自分の頬を思いっきり叩きたい衝動に駆られる。
 ―――まさか、良さんがこんな身近に存在していたなんて。
 外見には以前の面影がしっかり残っているけれど、彼から醸される雰囲気や眼差しは刺々しく、まるで別人のようだ。
 それでも清香は、再会した嬉しさに目を潤ませた。そんな清香とは対照的に、彼は冷静沈着な表情を浮かべ言い放った。
「僕の要求は厳しい。覚悟するように」

 

 

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