最後にあなたと恋がしたい クールな御曹司は余命わずかな彼女を諦めない 2
第二話
くすくすと笑いながら「掃除も洗濯も食器洗いもしなくていいんだあ……」と呟く。それだけでもう心はプリンセス気分だった。
気が済むまでベッドでゴロゴロして、「あっ、そうそう」とバッグからパンフレットを取り出す。
「回る順番決めなくちゃね」
客船は一つの街だとは聞いていたが、この船にはフレンチのレストランが一店、カフェが二店と鮨店。
アルコールを嗜むことのできるバーとラウンジが二店、クラブが一店、食事も提供するバー、シガーバーが一店ずつある。
娯楽は劇場と映画館、ショーやコンサートの開催される大ホール、ダンスホール。常連限定のイベントホール。
スポーツ施設もあり、プールやフィットネスセンターはもちろん、フットサルやパドルテニスの楽しめるコート。
長旅の疲れを癒やすリラクゼーションエリアにはスパにエステ、美容院。
買い物を楽しみたければ土産物店や日用品店、ブランドショップもあり、ギャンブルに興味があるならカジノに行くこともできる。
その他図書館にネットカフェ、診療室もあり至れり尽くせりだった。
「うーん……」
選択肢が多すぎると、ますます迷うのだと思い知る。
愛良はしばしパンフレットとにらめっこをしていたが、やがてそっと閉じて頭上に置いた。
「……別にきっちり決めなくてもいいじゃない? シンガポールまで九日もあるんだし」
心の赴くままに好きなところへ行く。それが一番楽しいのではないかと。
──「せっかく」精神も捨てよう。
愛良はうんと頷いた。
給料内でやりくりするためにずっと効率性を重視してきたが、このクルーズには今までとは違う体験をするために来たのだ。
心赴くままに、積極的に──。
しかし、今まで真面目一辺倒で生きてきただけに、そう簡単にいつもの自分の行動を変えられるとは思えない。
参考になるモデルがいないかと記憶を探る。
「……そうだ」
すぐにずっと好きだったモノクロ映画のヒロインがぱっと浮かんだ。
正体を隠してお忍びで遊びに出かけた某国のプリンセスだ。
堅苦しい生活から抜け出し、思い切って髪型を変え、ファッションを変え、憧れていた観光地に出向き、その時限りの夢のような身分違いの恋に落ちる──。
純粋で、同時にコケティッシュで、愛良の理想のヒロインだった。
決まり切った日常を打ち破ろうとしているところや、秘密を抱えているところが自分と重なる。
「私はプリンセスって感じじゃないけどね。……ううん」
こうして否定するのももう止めるべきだと頷く。
「うん、そうしよう。今日から私はヒロイン!」
愛良は体を起こしてスーツケースの一つを開けた。その中には思い切って買ったワンピースやヒール靴、アクセサリーが詰め込まれている。
これまでに選んできたファッションとはまったく違って、フェミニンで大胆なものばかりだった。
見るだけでワクワクしてくる。
「さあ、エスコートしてくれる相手を見つけなくちゃ」
地上では愛良は外出する際はお一人様、あるいは女友だちが一緒だった。
しかし、「白鳥」にいる間は絶対に一人では行動しない、男性と一緒にいるのだと決めている。
うち一枚のオレンジのストライプワンピースに袖を通し、鏡の前でメイクをし、仕上がった顔面を見てもう一度うんと頷く。
「さあ、行くわよ」
──逆ナンの始まりである。
これは旅の目的の一つだった。
愛良は一度でいいから恋をしてみたかった。女性として口説かれて、デートをして、一夜を過ごして……とロマンチックな一時を過ごしたかった。
が、一日かけて客船を一通り巡り、同乗者の顔を確認して気付いてしまった。
──乗客の八割は七十代以上と思しき老人ばかりだ。
よく考えなくても当たり前だと思い至る。
そもそも三ヶ月以上の長期休暇が取れて、六百万から一千万円以上の旅行代金を払えるのは、引退した富裕層くらいではないか。更に連れ合いがある老人がほとんどだ。
一瞬怯みそうになったが、ここでめげるわけにはいかない。
数少ないとはいえ男性の一人客もいないわけではないだろう。片端から逆ナンをすれば一人や二人引っかかるはずだ。
しかし、気を取り直した愛良の前に再び障害が立ちはだかった。
「……逆ナンってどうすればいいの?」
何せ年齢=彼氏いない歴なのだ。男を誘う術など知るはずもない。
「ま、待って。ここはネットよ、ネット」
愛良は甲板で潮風を感じつつ、スマホのブラウザを立ち上げた。「白鳥」はWi-Fiもほぼ全域で使えるのがありがたい。
「逆ナン、逆ナン……」
愛良と同じ悩みを抱く女性は多いらしく、該当するサイトがなんと数百件もヒットした。同志がこれだけいるのだと思うと励まされる。
そしてサイトの一つ曰く、逆ナンの基本は以下のとおりだ。
まず、必ず相手をよく見て選ぶこと。一般常識を踏まえた言動を取っているか。女性を見下す傾向がないかなど。
中でも育ちがよさそうで、紳士的な男性はお勧めだと書いてあった。女性は守るべき存在で、傷付けてはいけないと考えている性格の人が多いからだ。更に、押しに弱いので逆ナン成功率が高いとも。
次に一人で暇そうにしている男性を狙う。同行者がいる場合、それが恋人ではなく家族や友人であっても、人間関係を考慮し、逆ナンを受け入れないケースも多いのだとか。
三つ目に警戒心を抱かれないようにする。昨今、美人局で女性が男性を陥れるケースも多い。
確かにクルーズ船に乗れるような経済力のある男性なら、より警戒しているだろうとは愛良にも想像できた。
そこで、道を尋ねたり、わざとものを落としたりして拾ってもらうなど、自然なシチュエーションを演出するのだという。
「……」
愛良は呆然と海の彼方を見つめた。
「……ちょっと難易度高くない?」
彼氏いない歴=年齢にそんな高度な演技ができるものなのか。
「ううん。めげちゃ駄目」
ぐっとスマホを握り締め、自分にブツブツと言い聞かせる。
「やってみなくちゃわからないじゃない。うまくいかなくて当たり前! うまくいったら万々歳よ」
だが、さすがに素面で自然と男性に近付く自信はなかった。となると、残る手段は一つしかない。
──アルコールだ。
酒が入れば誰でも多少開放的な気分になり、理性の箍が外れ判断力が鈍る。
これを利用しない手はない。つまり酒場は格好の逆ナンスポットなのだ。
そこで愛良はその日の夕食後、早速「白鳥」のメインバーへ向かった。
コロニアル風の温かみがありつつも洗練された内装が、大人、それも上流の雰囲気を醸し出している。
もう客がパラパラ入っており、食後のゆったりとした一時を楽しんでいるように見えた。
正直店に入り、カウンター席に案内されるまでは、緊張で心臓が鳴りっぱなしだった。
夕食を取ったフレンチレストランでもそうだったが、垢抜けていない、この場に相応しくないと思われていないかと怖い。
いくら自分を励ましてもどうしても引いてしまう。気合いを入れて着たストライプのワンピースも助けになってくれない。
「ご来店いただきありがとうございます。ご注文はお決まりでしょうか?」
バーテンダーに声をかけてもらわなければ、その場でカチンと固まったままだったかもしれない。
「あっ、はい。ええっと……メニューはありますか?」
バーテンダーは四十代半ばほどの女性だった。すらりとした体に黒いベストと蝶ネクタイがよく似合っている。
同性だったので少々ほっとした。
「ええ。そちらにあるカクテルでもよろしいですし、メニューにないものでもリクエストをいただければお作りします」
愛良は手渡されたメニューに目を通したが、ウォッカベースだのテキーラベースだのと書かれても何がなんだかわからない。
アルコールは積極的に飲むこともなかったし、付き合いで勤め先の飲み会に行くくらいだったのだ。
ディナーでは水やノンアルコールドリンクで誤魔化せたが、さすがにバーとなるとそうもいかない。
第一勢いを付けるために酔いにきたのだ。飲まなければ来た意味がない。
「……」
愛良はメニューをパタンと閉じた。
「お客様?」
旅の恥は掻き捨て。どんどん掻いていけと、乗船時に決めたではないかと頷く。
「あの、私普段あまりお酒を飲まないんです。バーに来るのも初めてで……。だからあまりカクテルの種類がわからなくて。弱いってわけではないんですけど」
だから、少々強めの度数のお勧めを教えてほしいと頼むと、女性はにっこり笑って「甘口と辛口ではどちらがお好みですか?」と尋ねてきた。
「甘口ですね。辛口は苦手です」
「では、フルーツはお好きですか?」
「あっ、はい。なんでも好きです。アレルギーはありません」
「でしたら、マタドールはいかがでしょう。アルコール度数もワインくらいで飲みやすいと思います」
「じゃあ、それで」
時間が経つとバーには次々と人がやって来て、テーブル席は満席になってしまった。バーテンダーは愛良の元を離れ、他の客の対応に追われている。
愛良はその光景を眺めながら、店内の男性客を一人一人眺めていた。逆ナンのターゲットを定めるためだ。
乗船したばかりの頃には年配者だらけだと感じていたが、こうして見ると男性の一人客もそれなりにいるらしい。三十代から五十代まで年齢層も様々だ。
しかし、最初に誰に声をかけるべきか。逆ナンの指南書には紳士的な男性を選べと書いてあった。
「つまり優しそうな人……ってことだよね」
あまりギラギラしておらず、がっついていなそうということだろうか。
ひとまず一番近くにいた、三十代ほどの男性に声をかけようとして、左手にキラリと光るものを見つけてぎょっとした。
既婚者だ。
肩を叩こうとした手を引っ込める。
いくらロマンチックな恋愛をしたいと言っても、人の道を外れた真似はしたくなかった。
不倫の罪で死後天国に行けなくなったら困る。
続いて同年代っぽい若者を誘いかけ、直前に彼女らしき女性がやって来たので慌てて身を引いた。横恋慕も愛良の望むところではない。
こっそり自分の席に戻り、飲みかけのカクテルのグラスを手に取る。
「うーん、難しいなあ」
だが、諦めてはならない。チャレンジあるのみだとみずからを叱咤する。
いざゆかんと再びテーブルに手を突く。ところがそこで今度は逆に声をかけられた。
「ねえ、君、もしかして一人?」
三十代半ばほどの男性が隣のスツールに腰をかける。
「一緒に飲む相手探していた?」
年は離れていそうだが、大人の余裕があると言えばそんな気もする。
「はい。一人旅なので話し相手がほしくて」
「僕もだよ。よければ一杯ご馳走させてもらえないかな」
「あ、いえ。もう結構飲んだので……」
「いいから、いいから」
ナンパ男はもう一人のバーテンダーに頼み、白く濁ったカクテルを愛良の前に置かせた。
「これ、お勧めなんだ」
「なんてお酒ですか?」
「……君、カクテルに詳しい?」
「いいえ。普段お酒そんなに飲まなくて」
「じゃあ、好きになること間違いなしだから」
奢られている上に、そこまで言われると口を付けないわけにはいかない。
カクテルグラスを手に取り口元に近付ける。
ところが、飲む間際に第三の人物に肩を叩かれ、「そちらの女性の方」と呼ばれたので顔を上げた。
「はい。なんでしょう?」
振り返った次の瞬間、愛良は息を呑んでその場に固まった。
「……っ」
確かに見覚えのある顔だった。
丁寧に整えられた艶のある黒髪と、黒曜石を思わせる深い色の瞳。シャープな輪郭の中に収まった各パーツは驚くほどバランス良く整っていて、端整な顔立ちとはまさにこのことだと感動させられる。
腰を屈めているにもかかわらず、その背の高さと足の長さは一目瞭然で、仕立てのいいノーネクタイのブルーのピンストライプスーツがよく似合っていた。
「あ、あなたは……」
脳裏に昨年の大さん橋での光景が蘇る。風に舞い上がったストールと、それを掴んだ大きな手──。
彼は愛良と隣の男性の顔を交互に見た。
隣の男性はなぜか彼と目が合った途端、ビクリと身を震わせて息を呑む。
彼はそんな男性を見据えたまま、なぜ声をかけたのかの説明を始めた。
「失礼。どうやらバーテンダーが私のカクテルとあなたのカクテルを間違えたようなんです」
それで急いで交換しにきたのだという。
「お邪魔して申し訳ありません」
「あっ、いえ、こちらこそ気を遣わせてしまって」
──やはり大さん橋で遭遇した男性で間違いない。
これほどの美形を見忘れるはずがなかった。
しかし、彼は自分のことを覚えていないようだ。安心したような、少し残念なような気持ちになる。
「あら?」
しばらく見惚れていたものの、我に返って隣の席を見る。彼からも礼を言ってもらおうと思ったのだ。
ところが、いつの間にか姿を消していたので首を傾げた。
「えっ、どこに……」
「どうやら逃げたようですね」
美形が溜め息を吐いてその席に腰を下ろす。
「逃げた?」
「さっきあの男が注文していたところに居合わせたのですが、あのカクテルはアースクエイクです」
「あーすくえいく……?」
と言われたところでカクテルには疎いのでわからない。
「アルコール度数が三十七度ほどある強い酒です。飲み慣れていない女性は一杯で倒れることもありますよ」
「え、ええっ」
「時々ああした不埒な輩が乗り込む。まったく困ったものだ」
男性はあーすくえいくなるカクテルを一口飲んだ。
「あの、すごく強いんじゃないんですか?」
「女性は飲まない方がいいですよ」
「……」
子ども扱いされた気がしてムッとした。
「そんなことは……」
男性の黒い瞳がゆっくりと愛良に向けられる。
「顔が赤いですよ。そろそろ部屋に戻った方がいい」
心配しているような、呆れているようなその視線にますます腹が立った。
──どうやら今の自分は怒り上戸らしいと気付いた時にはもう遅かった。
愛良は自分でも驚くほどの大胆さでグラスを持つ男性の手首を掴んだ。
「そのカクテルは私のものです。間違いなんかじゃない」
黒い目がわずかに見開かれる。
「何を言って……」
「私、横取りされるのが嫌い」
呆然とする男性の指を一本一本グラスから引き剥がしてカクテルを奪う。そして、取り返される前に一気にあーすくえいくを飲み干した。
確かにとんでもない度数のカクテルだ。舌がビリビリして喉が焼け焦げそうになる。
しかし、一旦口に入れたものを吐き出すわけにはいかない。根性で飲み下してやった。
喉から胃がカッと熱くなる。更にたちまち脳にまでアルコールが回って、視界がぐらつくのをなんとか耐えた。
「……ふー。マスター、チェイサーを一杯」
「かしこまりました」
続いて運ばれてきたチェイサーを一気飲みする。最後に口元をぐいと拭ってにっと笑ってやった。
「ね、これくらい大丈夫でしょう」
男性はまだ呆気に取られていたが、やがて苦笑して「負けず嫌いなんですか?」と尋ねてきた。
「そうみたい。今初めて知ったわ」
「初めて知った?」
「……」
なんだかおかしくなってくすくすと笑う。
どうやら笑い上戸でもあるらしかった。
「ねえ、あの人を追い払った責任を取ってよ。やっとお喋りの相手を見つけたと思ったのに」
「……お喋りの相手にしては親密そうでしたが」
「丁寧語も止めて。興醒めしちゃう」
世界が穏やかな海に浮かぶ船のようにふわふわとしている。愛良の心も一緒に夢心地になっていた。
「あなたも一人でこの船に乗ったの?」
「“も”ということはあなたもですか?」
「だから、丁寧語は止めてって。うん、そう。シンガポールから飛行機に乗り換えるんだけどね」
どう見ても天と地ほども経済格差がありそうな男性なのに、アルコールが入るとこうも気安く話せるようになるのもおかしい。
「本当は旦那様か彼氏と来たかったけど、私、全然モテなくて」
「……そうは見えないが」
「あら、ありがとう。お世辞でも嬉しい。だから寂しくてつい」
「男に片端から声をかけていた?」
「そうそう……ってどうして知っているの?」
「それは……」
男性は口を閉ざしたまま答えない。
愛良はまあいいかと話題を変えた。
「女一人じゃクルーズに来た甲斐がないから。やっぱり男の人にエスコートしてほしいもの」
黒い目がまたわずかに見開かれる。愛良があっけらかんと逆ナンを認め、肯定したことに驚いたようだ。
「女性が男を誘うなんて危険だ。特に君のような人は……」
「ちょっと! 堅すぎない? リスクを取らなければほしいものは手に入らないの! あなたは一人で寂しくないの?」
男性は困ったように口を噤んでから言った。
「半分仕事だから寂しい、寂しくないの問題じゃない」
「あら、じゃあ旅行会社の関係者? それともこの船を所有している会社の人?」
「白鳥」は世界的海運会社のグループ企業の一つである、客船事業専門の海運会社が所有している。いずれも旧財閥に所属しており、財界政界に大きな影響力がある。
だとしたら、この男性もエリートなのだろう。
しかし、男性はやはり何も答えようとしなかった。
「あなた、隠していることが多いのねえ。抱えるものが多すぎると、そのうちパンクしちゃうかもよ」
愛良には病気以外の秘密はもう何もなかった。
「まあ、いいわ。ねえ、せっかく知り合ったんだから一杯奢らせて?」
「いや、俺は……」
男性は砕けた口調だと一人称が私から俺に変わるようだ。
「男が遠慮しない! 代わりにあなたも一杯奢って?」
愛良は首を傾げて男性の目を覗き込んだ。
怒り上戸、笑い上戸に加えて絡み酒なのだから、我ながらタチが悪いとおかしくなった。
だが、そんな自分を止める気もない。
「もう一杯飲んだら部屋に戻るから」
男性は「まったく」と天井を仰いだ。
「君は面白い女性だな」
「面白いって……」
女としては少々複雑な評価である。
男性はそれ以上止めようとはしなかった。
「……わかった。一杯奢ろう。その代わり、飲み終わったら部屋に戻ると約束するな?」
「するする」
「あやしいな」
愛良はくすくすと笑って男性の目を覗き込んだ。
「もちろん部屋まで送ってくれるでしょう?」
「酔っ払いを放っておくわけにはいかないからな。マスター」
男性は苦笑しつつもマスターを呼ぶ。
愛良はそこにすかさず言葉を被せた。
「ジュースと間違えそうな弱いカクテルとか、ノンアルコールを頼んだらさっきの約束は無効だからね?」
「わかっている」
男性はしばし首を傾げて考えていたが、不意にその黒い瞳を愛良に向けた。
そこに映る自分の姿を見て愛良の心臓が軽く跳ねる。
「なら、ヨコハマを二杯」
驚きのあまり今度は息を呑んでしまった。
「……横浜?」
出会った地名、愛良が生まれ育った故郷の名が、その薄い唇からポロリと零れ落ちたのだ。
「……日本語の名前のカクテルなんてあるんだ」
マスターが材料をシェイクしたのち、ヨコハマをグラスに注ぐ。
「……綺麗」
オレンジジュースを使っているのか、カクテルは色鮮やかな朱色で、あの日の夕焼けと同じ色をしていた。
「ヨコハマは港の夕日をイメージしたと言われています」
マスターがヨコハマの由来を説明してくれた。
男性が笑いながらカウンターの上で手を組む。
「ああ、確かに横浜港から見た夕焼けは一見の価値がありますよね」
「……」
愛良は目の前に差し出されたカクテルグラスを手に取った。そっと一口飲むとオレンジの爽やかな甘味と独特のほろ苦さが広がる。
確かにこの味は横浜だと思えた。
愛良はちらりと男性に目を向けた。
もしかして、彼は私を覚えているのだろうかと考えると落ち着かない。
しかし、すぐにううん、そんなはずはない。ヘアスタイルもメイクもファッションもガラリと趣味を変えたのだからと思い直す。
それ以前にいかにも地味で大人しい女でしかなかった自分を、美女など何人も手に入れられそうな、こんな男性が覚えているわけがない。自惚れてはいけない。
そう考えてもやはり心臓のドキドキは治まりそうになかった。
マスターが男性に同調するかのようにうんうんと頷く。
「僕はこのカクテルを作るたび、恋人たちが横浜港で夕日を背景に抱き合い、別れるシーンが思い浮かぶんですよね」
男性もグラスを傾ける。
「なるほど、マスターの夕日のイメージは別れですか」
「黄昏時はどうしても真っ暗になる前……終わりの始まりって感じがしますからね」
──終わりの始まり。
愛良はカクテルの水面に映る自分の顔を見つめた。
もうじき幕を下ろす自分の人生のようだ。空も最後に美しく終わりたいと思うのだろうか。
「お客様はいかがでしょうか?」
マスターが男性に何気なく尋ねる。
「夕陽にどのようなイメージをお持ちでしょうか」
男性は「そうですね」と呟き、愛良と同じようにオレンジ色の水面に目を落とした。
「僕にとってはむしろ黄昏時が始まりです」
「ほう、それはなぜ……」
愛良も是非聞いてみたかった。
「僕が生まれたのは夕方なんですよ」
男性はグラスを軽く揺らして語った。
「仕事のチャンスが回ってきたのもです」
マスターはなるほどと頷いた。
「ああ、それで」
「それに、日はまた昇りますからね。終わって再び始まる……その繰り返しです。太陽は毎日生まれ直しているようなものですね」
「なんだか人生と似ていますね」
マスターの言葉に男性は唇の端を上げて微笑んだ。
「眠ることで意識喪失し仮死を体験して、翌朝起きることを誕生すると考えれば、人間も似たようなものかもしれません。同時に」
グラスを置きカウンターの上で手を組む。
「誰も確実に目覚める保証などないわけです。実は太陽が明日昇るという保証もない。どこの誰も永遠を保証してくれない」
皆儚く、不確実な生を生きている──男性はそう語った。
「ただわかっているのは、明日か、明後日か、あるいは百年後か……いつか必ず終わりがくるということだけ」
愛良はじっと彼の横顔を見つめながら、不思議な思いに駆られていた。
一見何もかも恵まれているように見えて、この人もそんな思いを抱いて生きていたのかと。まだ三十前後だろうになぜそんな境地に至ったのだろう。
マスターが男性の言葉にうんうんと頷く。
「ああ……。こんなこと言っては不吉と怒られそうですが、タイタニックの乗客なんかもそう考えていたでしょうねえ。そう考えると一日、一日を大切に生きようという気になりますね」
その後男性は約束通り部屋の前まで送ってくれた。
「……送っていただいてありがとうございました」
愛良は別れ際に丁寧に頭を下げた。
男性はわずかに眉を顰める。
「さっきとは随分態度が違うな。丁寧語はやめるんじゃなかったのか?」
何せ先ほどまでは我が儘放題で振り回していたのに、一転して謙虚に礼を述べたのだ。そのギャップに驚いたに違いなかった。
「あ、ははは。ちょっとはしゃいじゃって」
途中で甲板に出て夜風に当たったからか、酔いはまだ残っているが、なんとか歩ける。
「あの……」
「なんだ?」
少し冷静になって男性を目の前にすると、華やかさと品の良さ、経験に裏打ちされた知性が束になって押し寄せてきて圧倒される。
やはり違う世界の人なんだと思い知る。
「あ、いや、なんでもないです……」
あの日の横浜港での出来事を覚えているのか、いないのかを確かめたかったが、覚えていないと言われると落ち込んでしまいそうだ。
それ以上に彼ともっと話してみたいと感じていた。彼の考える人生や、生き方や、心に抱く哲学を知りたかった。彼の言葉を聞きたかった。
しかし、まごまごしているうちに男性は身を翻し、廊下を歩き出そうとしている。
愛良は思わずその手首を掴んだ。
勇気を出さなければ何も手に入らない──。
「待ってくだ……ねえ、待って。もう帰るの?」
男性が驚いたように振り返る。
「また会える?」
愛良を映していた瞳がなぜかさりげなく逸らされる。
「……酔っ払いの戯れ言は本気にしないようにしているんだ」
「じゃあ、酔っていなければいいの?」
愛良はじっと男性を見つめた。男性もその視線に釣られ、夜の海のような色の目を再び愛良に向ける。
「とにかく、今夜は早く寝るんだ。足がふらついているだろう」
「それじゃ答えになっていないわ」
「……」
愛良の頭に手を乗せ苦笑する。
「酔っていない君に会った時に考えよう」
「よかった。会えるってことね」
愛良はくすくすと笑って男性の手首を離した。
「おやすみなさい。楽しみにしているわ」