最後にあなたと恋がしたい クールな御曹司は余命わずかな彼女を諦めない 3
第三話
「……やっちゃった。逆ナン」
しかも、手が届くはずがないと思い込んでいた高嶺の花を相手にだ。
「もう、本当にやっちゃった! しかもお話しできちゃった!」
枕を抱き締めてジタバタと身を捩る。
まったく相手にされないかと思いきや、今夜こそさりげなく身を引かれたものの、反応はそこまで悪くなかった気がする。
あの分ならもう少し押せばいけるのではないか。
しかし、間もなく大きなミスに気付いて、数秒後ベッドに手をついて顔を上げた。
「いけない! 名前と連絡先を聞くのを忘れていた!」
一番肝心な情報をなぜ入手しなかったのかと悔やむ。
「やっぱり慣れないから……」
とはいえ、同じ船に乗っているのだから、必ずチャンスはあるはずだ。
また会えると思うと胸の中にじわじわ喜びが広がっていく。
あの男性がこちらを覚えているにしろ、いないにしろ、もうどちらでもよくなっていた。
「よーし、あと一週間で絶対に落とす!」
両の拳をぐっと握り締めてうんうんと頷いた。
翌日の午後五時五分前、愛良は一人ダイニングルームのテーブル席に腰を下ろし、辺りをキョロキョロ見回していた。
ダイニングルームはこの船でメインのフレンチレストランだ。ルームと聞くとこぢんまりしていそうだが、実際にはホテルのバンケットルームほどの広さがある。
オフホワイトとベージュ、ブラウンが基調の室内は煌びやかなシャンデリアに照らされており、イタリア製のインテリアが非日常的な空間を演出していた。
すでに席のほとんどは埋まり、相席もチラホラ出始めている。
今夜愛良は二人がけの丸テーブルに案内されたが、この分ではそのうち同じ一人客と相席を勧められることになるだろう。
ちなみに食事の席は毎回変わり、二人がけの席のときもあれば三人がけや、四人がけのこともある。二人がけは人気なのかすぐに埋まってしまう。
しかも、客室クラスがより上の客が優先されるので、一番下のクラスの愛良は今まで三人がけか四人がけの席にばかり案内されていた。
となると、相席になるのは夫婦やカップルとが多くなり、なんだかお邪魔虫になったようで申し訳ない気分になる。先日同席した中年夫婦は社交的で、愛良にも気軽に話しかけてくれたので助かったのだが──。
「うーん……」
愛良は唸り声を上げた。
あの男性も夕食を取りにきていないかと思ったのだ。それを期待してファッションとメイクにも気合いを入れている。
モネの睡蓮を思わせるブルーが基調のワンピースだ。胸元が開き気味のデザインなので、露出過多になるのを避けて、ロイヤルブルーのストールを羽織っている。ハニーカラーの巻き髪は緩やかなハーフアップにまとめていた。
だが、ダイニングルームのどこにも姿がないところからして、午後七時半からの回なのかもしれない。
「白鳥」では夕食は午後五時からと七時半からの二回制になっている。愛良は夜、逆ナンに励むため、午後五時の方を選んでいたのだ。
残念だが仕方がない。
では、どうやってもう一度彼に会えばいいのかと考えていると、不意に「失礼」と男性が目の前の席に腰を下ろした。
見覚えのない、四十代半ばほどの身なりのいい男だった。
「お一人ですか?」
「は、はい。そうですが……」
席はギャルソンに案内されるはずなのに、勝手に座っていいものなのかと首を傾げる。
男はニコニコ……というよりはニヤニヤと笑った。
「いや、俺もなんだよ。こんな若くて可愛い子と同じ席になれるなんて嬉しいなあ」
「……」
いきなりのセクハラめいた発言に戸惑う。それまで会ってきた乗客たちは皆余裕があるからか物腰柔らかで、会話もこちらを尊重した話し方だったので尚更だった。
バーで愛良を酔い潰し、お持ち帰りを試みた不埒者すら、初めは丁寧な振る舞いだったのに。
「お連れの方はいないんですか?」
「いない、いない。いやあ、この船には老人ばかりだと思っていたから、ちょっとほっとしたよ」
愛良も同じように感じていたので文句は言えないが、それにしても実際に口にしていいこととは思えない。
不快感を覚えて黙り込んでいると、「ねえねえ、名前は?」と素性を尋ねられた。
「早乙女と言います」
「姓じゃなくて名前の方だよ。名乗り合うのは初対面での基本でしょ?」
上から目線で言われて更に不快感が増した。自分は名乗っていないではないかと思ったが、せっかくの夕食の席であまり騒ぎ立てたくない。
「ね、スマホ持ってるでしょ? SNSアプリとか入れてる?」
「いいえ、スマホは持っていません」
「嘘だー。こんなところで気取ったって仕方ないでしょ」
「……」
スマホを所持していないという意味ではない。格式あるフレンチレストランの席で、スマホを使うのはマナー違反ではないかと考えたから持ってきていないだけだ。
黙り込む愛良を前に男はますます調子に乗ったのか、「もしかして緊張してる? 可愛いねえ」とまたニヤニヤ笑った。
「まあ、時間はたっぷりあるんだからさ。ところで──」
「──失礼しますが、席をお間違えでは?」
男の声に低く艶のある声が被さる。
愛良はこの声はと目を見開いて顔を上げた。この人も午後五時からの夕食だったなんてと驚く。彼の斜め後ろにはギャルソンが恭しく控えていた。
「いや、間違ってないよ」
邪魔されたのが面白くないのか、男が不快そうに振り返る。次の瞬間、その表情が強張ったまま固まった。
男性の長身に驚いたからだろう。シャンデリアをバックにし、逆光で表情が見えにくくなっているので、一層大きく恐ろしく見える。
「な、なんだよあんた」
「敷島劔(しきしまつるぎ)と申します」
「敷島……」
その名前に覚えがあったのか、男の顔がたちまちさあっと青ざめていった。
「えっ、あんたまさか……」
「やはり間違いだったようですね」
男性は微笑みを浮かべたが、黒い瞳はまったく笑っていない。
「あっ、はい。やっぱり間違えていたみたいです」
男はヘラヘラ愛想笑いを浮かべながら立ち上がった。しかし、まだ少々顔が強張っている。額にはいつの間にか脂汗が滲んでいた。
愛良は呆然と二人の遣り取りを見守っていたが、彼が向かいの席に腰を下ろしたところで我に返った。
「あっ……」
ありがとうございますと礼を述べようとしたのだが、少々皮肉げな彼の言葉に遮られてしまう。
「こんなところでも男漁りか?」
「えっ……」
「バーはある程度そうした目的も兼ねているからまだいいが、さすがにドレスコードのあるレストランでは感心しない」
「……」
なるほど、どうやら彼は愛良が逆ナンをして、あの男性をこの席に座らせたと思ったらしかった。
前日のバーでの行いがあるので仕方ないが、それでもやっぱりムッとなる。
なのに、ブルーブラックのニットジャケットが惚れ惚れするほど似合っていて、視線を引き寄せられてしまうのが悔しかった。
男性が──劔が言葉を続ける。
「君は相手が男なら誰でもいいのか? 危険すぎるからその考えは改めた方がいい」
「敷島劔さん……でしたっけ」
愛良は男性の名前を確認した。同時に、食事開始のクラシックのBGMが流れ出す。
間もなくギャルソンとソムリエがやって来て、ギャルソンはテーブルにアミューズの皿を、ソムリエがすらりとしたグラスに食前酒のシェリー酒を注いでくれた。
愛良は無言でシェリー酒を呷った。
アルコールを入れてしまえばこちらのものだ。
「男の人なら誰でもいいわけじゃない」
にっこりと笑ってローストビーフを口に入れる。
「私は私を好きな人が好き。さっきの人は私を気に入ったみたいだったから。ね、選んでいるでしょう?」
「バーのあの男のように君の体目当てかもしれないだろう」
愛良はギャルソンを呼びもう一杯シェリー酒を頼んだ。
「体だって私の一部。それだけでも好きになってくれるなら嬉しいじゃない。男の人だってそうでしょう?」
これには反論できないだろうと自信があった。
ところが、劔は黒い眉をわずかに顰めて言い返してきたのだ。
「……他の男はどうか知らないが、少なくとも俺はそうじゃない」
「そうなの?」
うまく反応できずに目を瞬かせてしまう。
「そんな簡単に割り切れるほど器用でもない。どうも君は男に偏見があるようだな」
「そんなはずは……」
逆ナンをするためにスマホで前もって男性心理を勉強し、マニュアルに書かれていた通りのことを実行していただけなのに。
愛良が真剣な表情で考え込むのを見て、劔がふと鋭かった視線を和らげる。
「やっぱり君は面白い女性だな」
「そ、そう?」
「とにかく」と劔は言葉を続けた。
「これ以上男漁りはやめるんだ。君が危険な目に遭うだけじゃない。風紀をあまりに乱したり、犯罪に繋がったりするようなことがあれば、船長に引き渡さなければならないからな」
「……」
遠洋区域内では船長は警察署長に匹敵する権限を与えられている。
男女のトラブルでそんなところに相手の男性を突き出す、あるいは突き出される羽目になりたくはなかった。
「それじゃ困るの。じゃあ、誰が私の相手をしてくれるの?」
愛良は運ばれてきたフォアグラのフラン・トリュフをフォークで刺した。
「あなたがしてくれる?」
「それは……」
ワインで飲み下しながらくすくすと笑う。
「じゃあ、仕方がないからやっぱり男の人を片端から誘ってみるわ。ある程度のリスクは取らなくちゃ退屈なんて紛らわせないし」
劔は数度目を瞬かせたのち、愛良をじっと見つめていたが、やがて「降参」と手を上げ、通りがかりのギャルソンにワインを頼んだ。
「わかった。付き合う」
「……!」
脳内にマグロ一本釣りに見事成功したイメージが浮かぶ。
本当は万歳三唱したかったが、さすがにぐっと堪えて「ありがとう」とワイングラスを掲げた。
「せっかくだから八日間楽しみましょう」
「八日?」
「ええ、私はシンガポールで下りるから。ねえ、あなたってやっぱり旅行会社の関係者? クルーズの企画責任者とかそこに近い立場とか」
「そんなものだ」
なるほど、なら仕事でこの船に乗ったというのも頷ける。
「じゃあ、このまま世界一周?」
「そう。当分は海の上だな」
乗客はディナーの席を自分で指定できないはずなのに、それもできたということは、船内で融通が利く立場ということなのだろう。
先ほどナンパしてきた男性が逃げたのは、関係者に告げ口をされてはこのクルーズが続けにくくなるからと考えられた。
ちなみに年は三十歳で、十月に三十一歳になるのだとか。その年代にしては随分と落ち着きがあった。
「君は一人旅だと言っていたな。若い女性は珍しい」
「でしょうね」
今回のクルーズで愛良のような二十代の女性は他に見かけない。いても裕福な家族連れの一員で、一人でフラフラしてはいない。
「まだ学生?」
「まさか。私、学生の身分で旅行できるような、そんなお嬢様じゃないもの。全部自腹」
「なら、社会人か」
「それも間違い。仕事は辞めちゃった。だから、今は無職。とっても自由」
愛良はあっさり打ち明け、呆気に取られた劔を見てくすくすと笑った。
美形もこんなふうに目を丸くするのだとおかしくなる。
「そんなに変? バックパッカーとか、ワーキングホリデーとかには私みたいな女は結構いない?」
「……」
「あっ、今どうして辞めたのかって思った? じゃあ、私の頼みを聞いてくれたら教えてあげる」
「頼み?」
「そう。私の名前、早乙女愛良っていうの。良く愛すると書いて愛良」
「アイラ……」
黒い目がわずかに見開かれる。
「本当にアイラって言うのか」
「そう。可愛いでしょう。愛良って呼んでくれない? 私も劔って呼ぶから」
劔は苦笑し「わかった」と承知してくれた。
「劔でいい。劔さんって呼ばれるのも居心地が悪い」
愛良は内心で勝利の雄叫びを上げながら、敷島劔とは素敵な名前だなと感心した。
研ぎ澄まされた刃のイメージが、ストイックな色気によく似合っている。
愛良は新たに注がれた白ワインのグラスを傾けつつ、ゴールドの水面に映る自分の顔を見つめた。
海のように揺らめいてシャンデリアの灯りをキラキラ反射している。
「じゃあ、仕事を辞めた理由を教えてあげる。横浜以外の海が見たかったから」
劔の黒い眉がピクリと動いた。
「横浜?」
「そう。私、生まれも育ちも横浜。ずうっとあの海を見てきたの。今羽織っているストールと同じ色の海」
ファッションの趣味をがらっと変えたので、以前持っていた服はほとんど処分したが、このストールだけは手放せなかった。
「私、横浜が大好きだけど、この色の海しか知らないって、寂しいなあって思ったの。だから、一度憧れていた地中海を見てみたくて。シンガポールからはバルセロナ行きの飛行機に乗る予定」
瞼を閉じてわずかに灰色の混じるロイヤルブルーの海を思い出す。
「帰る頃にはまた横浜の海が恋しくなっている気がするの。そう思えるようになっていればふるさと再発見って感じで素敵じゃない?」
思い出にあるいくつもの海の色が、死までの一時を慰めてくれるのではないかと思えた。
「だからね、前あなたがバーであのカクテルを頼んでくれた時びっくりしちゃった。この人って私のことを知っているの? って。そんなわけないのにね」
「……」
劔が食い入るようにこちらを見つめている。
「劔?」
「君は……」
「なあに」
「いや……なんでもない」
劔は止めていた手を動かし、魚料理を口に入れた。
夕食後は場所を変え、酒の飲めるラウンジに行くことになった。船首近くにあり、前方に大海原のパノラマの絶景を楽しめるのが売りだ。
だが、その前に夜の海が見たいと愛良は強請った。
「せっかく船に乗ったのに、逆ナンのことばっかり考えて、それらしいこと全然してなくて。あはは、私って忘れっぽかったのねえ」
「……」
「劔? どうしたの?」
「……なんでもない」
はしゃぐ愛良とは対照的に、隣を歩く劔は少々不機嫌そうに見える。
「どうしたの?」
「……」
「もう! 言いたいことがあるならはっきり言って」
「なら──」
劔は身を翻して愛良の脇の壁に手をつく。
劔と壁との間に挟まれる形になってしまい、愛良は息を呑んですぐそばにある黒い瞳を見上げた。
「今後は俺以外の男を絶対に誘わない。いいな?」
真剣な眼差しに射抜かれてドキリとする。
「それは……さっき約束したから……」
「君を見ていると不安になる。すぐにどこかに飛んでいきそうだ」
以前の「面白い女性」といい、これもまた初めて言われた。
「……飛んでなんかいかない」
そう。今はまだ──。
「だから、安心して。ねっ」
愛良は思いをぐっと呑み込んで、笑顔で劔の腕に自分の両腕を巻き付けた。
「早く行きましょ。真っ暗になっちゃう」
この船の初めの寄港地はシンガポールだ。
南に向かっているので明るい色の海を想像していたが、横浜と大して変わらなかった。今日は曇り空というのもあるのかもしれないが──。
「もう結構暗い……」
また、風が強く愛良は思わずストールの端を強く掴んだ。
「これじゃ海の色も見えないから残念」
「中に戻るか?」
愛良はううんと首を横に振った。白い柵に手をかけ「もう少しここにいる」と笑う。
「甲板を歩くだけでも楽しいから」
「白鳥」の甲板はナチュラルなウッドデッキ風で、潮風とともに木の香りを嗅いでいると気持ちが落ち着いた。
「二度と来られないから、どんな海も直に目に焼き付けておきたいの。ガラス戸越しじゃだめ」
劔は何を言っているんだと首を傾げた。
「また来ればいいだろう」
「……」
またという言葉に一瞬口を噤み、笑顔でそれを誤魔化して隣の劔を見上げる。
「私、あなたみたいにエリートじゃないの。お金が貯まるまで待っていたら、次に来る時はもうお婆ちゃんになっちゃう」
愛良は本当にお婆ちゃんになりたかったなと思った。
独りぼっちでも、寂しくても、ただ元気に生きているだけで、それはすでに恵まれていて、神からの祝福なのだとも。
「なら俺が……」
劔はそこから先を言わずに口を噤んだ。
「なあに? 今、何か言いかけた?」
「……いいや」
「もう、あなたって言えないことが多過ぎ!」
愛良は気取って自分の胸を叩いた。
「私を見習いなさい。ほら、この通り正直に生きているでしょう?」
「……」
劔は苦笑し愛良を見下ろした。
「やっぱり君はすぐにどこかに行ってしまいそうだな」
黒い瞳に影が落ちる。
愛良は心を見透かされた気がしてドキリとした。
「そうそう。しっかり捕まえておかないと、すぐ他の男のところに行っちゃうんだから」
愛良としては軽い冗談のつもりだったが、劔の眼差しが一瞬鋭くなった気がして見えて目を瞬かせた。
いや、気のせいではないと息を呑む。先ほど壁との間に挟まれた時と同じ、鋭く、射抜くような目だ。
「つ、劔?」
名前を呼ぶとようやく鋭さが和らいだ。
「どうしたの?」
「……いや」
また何も言わなくなってしまう。
愛良は劔の端整な横顔を見つめた。
劔は何を考えているのかわからないとこちらを評したが、愛良も彼が何を考えどう感じているのかまったく把握できない。
それが初めて異性と関わるからなのか、劔という人物の性格のせいなのかも愛良にはわからなかった。
──それからどれだけ二人で海を見つめていただろうか。
劔が何かに気付いたように懐に手を入れた。
「すごい。こんなところにまで電話が掛かってくるの」
「ああ。悪いが待っていてくれ」
仕事の連絡なのだろう。劔は愛良を残して船内に姿を消した。
愛良はその背を見送ると、再び海に目を向けた。
甲板には愛良しかいない。
なぜならほんの十五分ほどしか経っていないのに、もう日はすっかり落ちているからだ。前方に広がる海も闇に閉ざされた空の色と同じになっていた。
この辺り一帯は地上の横浜とは違って、ネオンもなければ民家の灯りもない。真っ暗な水面が揺れるばかりだ。
意識が深く暗いところに沈んでしまいそうになる。
なのに、見つめずにはいられない。
愛良はやはり来るんじゃなかったと後悔した。
劔のことを思ったり一緒にいたりすると楽しくて、時にはドキドキして、とにかく様々な感情が心に入り乱れて他のことを考えられなくなる。
ところが、一人でいると、常に脳裏にこびり付いている死への恐怖を、こうしたふとした瞬間に思い出してしまう。そんな夜には眠れない。
体質に合わないのか気分が悪くなるので、なるべく睡眠薬に頼りたくはなかったが、今夜はどうやらお世話にならなければならないようだ。
「私って馬鹿……」
愛良はそう呟いて柵から離れた。ちょうど船内から男性が出てくるのを見て、「劔?」と名前を呼ぶ。
だが、その男性は劔ではなかった。逆光を背にしていたのでわかりにくかったが、先ほどダイニングルームで絡んできたあの男ではないか。
随分と酔っているようで足下がふらついている。
男は愛良を見つけ「おっとお」とヘラヘラ笑った。
「さっきの子じゃないか。何、こんなところで。さっきの彼に振られたの? まあ、君とは身分違いだよね。遊ばれたんだと思って諦めた方がいいよ」
愛良は男を無視して中に入ろうとしたが、男は愛良の肩に手をかけ無理矢理引き止めた。
「きゃっ!」
「じゃあさ、ちょっと付き合ってよ。いいじゃないか減るもんじゃなし」
冗談ではない。残り少ない時間が減る。一分一秒でも無駄にしたくないのに──。
愛良もまだアルコールが抜けていなかったからだろうか。怒り上戸が発揮され、頭にカッと血が上るのを感じた。
「離してよ! あなたに付き合う時間なんかないの!」
男は愛良の怒りの込められたセリフにカチンときたらしい。「この女、舐めるなよ!」と怒鳴り今度は愛良の手首を掴んだ。
「俺を誰だと思ってんだ」
「知るわけないでしょう。どこまで自意識過剰なわけ? この船にいる客であなたのことを知っている人なんて、乗船名簿持っている関係者くらいでしょ!」
酒が入ると怒り上戸、笑い上戸、絡み酒に加えて毒舌にもなるらしい。
「この……!」
アルコールで赤くなっていた男の顔が怒りに染まる。
「俺はなあ、生意気な女が一番嫌いなんだよ!」
男は愛良を力尽くで甲板に連れていこうとした。
「思い知らせてやる!」
「もう、離してよ!」
愛良も負けずに渾身の力を込めて振り払おうとする。しかし、所詮は女の力で男に敵うはずもない。
ずるずると引き摺られていきそうになって悲鳴を上げた。
「やめて!」
男は「黙れ」と怒鳴って手を上げた。
愛良は反射的に目を閉じ、直後に背後からぐっと肩を引かれてぎょっとした。
「なっ……」
そのまま男から引き剥がされ、柔らかい何かに受け止められる。
「つ、るぎ……」
船内からの灯りが逆光になって、振り返っても劔の表情がよく見えない。だが、それでもギラギラ光る黒い瞳は、ぞくりとする凄みがあった。
「何をしている……」
一瞬でその場を凍り付かせるほどに低い声──。
男もその場で固まり、その後本能的になのか、数歩後ずさった。
「な、なんだよお前……」
劔は愛良を背の後ろに庇いつつ男に警告した。
「……俺は平和主義者でね。できる限り暴力沙汰は起こしたくない。特にこの船の上ではな」
とてもそうとは思えない迫力に愛良もゴクリと息を呑む。
「あんた、フューチャーアイズの社長の堤(つつみ)だろう」
愛良は劔が出したその名前に驚いた。
フューチャーアイズなら知っている。近頃話題になっている新進気鋭のIT企業だ。よくネットでCMも放送されている。
道理で豪華客船に乗船し、自信満々に口説いてくるはずだった。
劔はなおも堤を睨め付けた。
「女相手に随分といい気になっているようだが、こんなところでスキャンダルを起こしてもいい身分か?」
「……っ」
愛良は一歩も引かないどころか、堤を押している劔に驚いた。
話題の人物に堂々と相対せるとは──。
「もっ……申し訳ございません!」
堤が呻くように声を絞り出し、甲板に向かって更に後ずさる。
つい先ほどまで傲岸不遜で、愛良に手を出そうとしていたとは思えない、怯えた声だった。
「お、お願いですからこの件は内密に……」
「……とっとと立ち去れ。俺の気が変わらないうちにな」
劔は背を向けていたが、愛良にはその黒い瞳が怒りに満ちて、視線が刃さながらに鋭くなっているのが感じ取れた。
その眼差しをまともに受けた堤が身を竦める。そして、劔と愛良の脇をすり抜け転がるように船内に逃げていった。
「……」
愛良は緊張から解き放たれ、その場にしゃがみ込みそうになった。そんな愛良の腕を劔が素早く掴んで支える。
「愛良、大丈夫か」
「う、うん……」
「怪我はないか。何もされなかったか」
何かされたと言おうものなら、逃げた堤を引き摺り戻し、夜の海に放り込みそうな勢いだった。
「へ、平気、平気。ちょっと絡まれただけだから」
それにしてもとぶるりと身を震わせる。
腹が立ってつい突っかかってしまったが、中肉中背程度の堤でも、男の力はあれほど強いものなのか。
今更恐ろしくなって自分で自分を抱き締める。
一年以内に病気で死ぬものだとばかり思い込んできたが、人間とは簡単に命を落とすのだと実感させられた。
先ほどみたいに暴力で殺されることもあれば、タイタニックのように明日船が沈没するかもしれない。どの可能性もまったくないとは言い切れない。
死とは生のすぐ隣にあるものなのだ。
「気分が悪いなら医務室へ行くぞ」
「本当に平気……」
笑おうとしたもののうまくできない。
「ど、どうしちゃったのかしら私。ああ、そうね。きっと寒いからね」
ストールを羽織り直そうとする。
ところが、肩にかけていたはずのロイヤルブルーのそれがどこにもない。
「あら?」
辺りをキョロキョロと見回す。
「あっ、あった」
先ほど堤と揉み合った際外れてしまったらしい。甲板の柵に引っかかっている。
「大変! 落ちちゃう」
「止めろ、危ない。諦めろ」
「でも……!」
「わかった。そんなに大切なものなら俺が取りに行く」
劔は愛良をその場に残し、柵に向かった。
ところが、直前に一際強い突風が吹き、ストールを攫って舞い上げる。
「あっ……」
思わず声を上げる。
すると劔はなんと手すりに手を掛け、ひょいとその上に飛び乗ったのだ。
「何やって……!」
海に落ちてしまうではないかと慌てたが、劔は長い腕を伸ばし、見事宙でストールをキャッチした。
そのまま甲板に飛び降り微笑みを浮かべる。
ほんの数秒の出来事だった。
「ほら、取れただろう」
「……!」
愛良は慌てて劔に駆け寄った。
「落ちるかと思ったじゃない!」
「大丈夫。俺は死なないんだ」
そんなはずもないのに、劔が言うと本当に聞こえるのだから不思議だ。
「もう……」
愛良は込み上げてきた涙を拭った。
「二度とこんなことしないで」
「……」
劔が愛良の目元を指先で拭う。
「泣かないでくれ」
そして、ストールを広げてふわりと愛良の首に巻いた。
「……」
黒い瞳が愛良をじっと見つめる。
「……やっぱりそうだ」
「えっ、何が?」
「去年のクリスマスイブの夕暮れ時、横浜にいなかったか。大さん橋で同じようにストールを飛ばされて……」
愛良の心臓が自分の耳にも届くほど大きく鳴り響いた。
「何を……言って……」
「印象ががらっと変わっていたから、まさかとは思っていたが……」
「……」
劔があの日の邂逅を覚えていたとは。
しかも、髪型もメイクもファッションも別人のように変えたのに、気付いてくれただなんて。覚えていてくれただなんて。自分の世界で小さく縮こまっていた、臆病な引っ込み思案な女を──。
嬉しくて、胸が一杯になって、また涙がぽろぽろと零れ落ちてしまう。
「なぜ泣く」
劔が涙を拭ってくれる。愛良は泣いたままくすくすと笑った。
「どうしてかしら。……自分でもわからない」
劔の手を取り、その手の平を自分の頬に押し当てる。
「あなた、温かいのね。ストールよりずっと……」
「……君は冷たいな」
愛良は涙を浮かべた目で劔を見上げた。せっかくの端整な顔立ちが涙でぶれてうまく見えない。
だが、そのおかげでさらりとこう言うことができた。
「じゃあ、温めてくれる?」
劔の客室は壁一面に窓があるスイートルームだった。外では闇色の海が穏やかに揺れている。
愛良の部屋とは内装のレベルが違う。
壁にかけられた油絵は名のある画家のもので、ブルーグレーとベージュのストライプのソファは、生地の光沢からして高級品だとわかる。
バルコニーまで設けられており、白いテーブルと二脚の椅子が置かれていた。
バスルームはジェットバス付きで、用意されていたバスローブの肌触りもいい。
だが、愛良の目にはもう劔の黒い瞳しか映っていない。
そっとベッドに横たえられても怖いとは思わなかった。
「ずっと私のことを覚えていてくれたの?」
「ああ、印象的だったから」
劔は愛良が横浜で白鳥に乗船するところを見かけ、どこかで会ったことがあると気になっていたのだという。
間もなくストールを飛ばした女性ではないかと思い至ったが、雰囲気がまったく違っていたので確信できなかったのだとか。
「じゃあ、バーで助けてくれたのも、夕食で同じテーブルになったのも……」
「偶然じゃない」
正体を確かめようと近付いたそうだ。
そしてつい先ほど愛良が大さん橋で出会った女性だと判明し、そうではないかと思っていたものの、大層驚いたのだと。
「私、そんなに変わった?」
劔はシーツの上に流れる愛良のハニーカラーの髪を指先で掬った。
「あの時は黒髪だっただろう」
「あっちの方が好きだった?」
「……いや」
薄い唇でそっと毛先に口付ける。
「どちらもいいし、似合っている」
好意をもつ男性から聞く褒め言葉は、百万人の男から聞く「美人だ」「可愛い」等のお世辞よりも心地よかった。
「……ありがとう。でも、私あの時地味なファッションだったのに」
劔は親指で愛良の目元に触れた。
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