最後にあなたと恋がしたい クールな御曹司は余命わずかな彼女を諦めない 1
第一話
その日の夕方、愛良(あいら)は関内(かんない)駅構内を一人で歩いていた。
今日はクリスマスイブだ。
更に日曜日ということもあって、カップルや親子連れで溢れかえっている。
皆コートやジャケットを着ているし寒いはずなのに、そんな様子はない。そろって温かい笑みを浮かべているのは、隣に一番大切な人がいるからだろう。
先ほどすれ違った同年代と思しきカップルの男性は、女性にプロポーズするつもりではないだろうか。
「えっ、あんな高いレストランを予約したの? 大丈夫?」
女性が心配そうに尋ねると、
「大丈夫、大丈夫。たまには奢らせろよ。っていうか、期待していろよ」
などと、笑っている。
この男性は彼女が一番大切なのだろう。
隣を歩く老夫婦と若夫婦、幼い少女は家族か。
少女は腕にアニメキャラクターのぬいぐるみを抱えていた。プレゼントされたばかりなのか、ぬいぐるみの首には赤いリボンが掛かっている。
「真奈実(まなみ)ちゃん、今からご飯とケーキを食べにいくけど、そこでお祖父ちゃんたちからもプレゼントをあげるからね」
「えっ! 本当?」
「本当、本当」
若夫婦は娘と老夫婦との遣り取りを微笑んで見守っている。
少女を中心にした幸福そうな家族だった。
愛良はコートのポケットに手を入れつつ、心の中で「いいなあ」と呟いた。
皆今から和気藹々とクリスマスパーティを楽しむのに、こちらは病院で検査を終えた帰り道なのだから。
医師は「念のためだから」とは言っていたが、四年前一度がんの手術をし、以降経過観察をしてきた身としてはどうしても気になる。
再発を心配しながら年末年始を過ごすことになるのが嫌だった。
先ほどのカップルの女性は彼にとっての一番。あのぬいぐるみを抱いた少女は家族にとっての一番。
自分だけが誰かの一番になったことがないと思うと一層気分が沈む。
愛良という名前は「良く愛される」という願いを込めて付けられたらしい。なのに、皮肉にも真逆の人生を歩んでしまっている。
──愛良の両親は愛良が六歳の頃に別れている。
父に他に好きな女性ができて離婚に至ったとのこと。
愛良は母に引き取られたものの、その後母が再婚することになった際、相手にそうしろと言われたからと祖母に預けられた。
その祖母も、娘を裏切り他の女のもとに走った婿似の愛良を、可愛いとは思えなかったのだろう。
衣食住は与えてくれたし、虐待こそされなかったが、どこか距離を置かれて育てられた。
愛良は寂しかった。父でも、母でも、祖母でも誰でもいい。子どもとして思い切り甘えたかった。
しかし、それが許される環境ではなかった上に、そんなことをしようものなら、皆ますます遠ざかりそうでできなかった。
──子どもには決してよいとはいえない環境の中、高校三年生の頃に祖母が亡くなった。
ずっと会っていなかった母とこの時再会したが、親子としての絆を取り戻すには長く離れすぎていた。
母は、再婚相手との間に新たに二人の子を儲けており、とうの昔に情も失せた前夫の娘との交流を望んではいなかった。
祖母の葬儀が終わったあと、母は愛良にキャッシュカードを手渡した。
『これはあなたのお父さんからもらった養育費を貯めたものよ。そこに私がいくらか足してあるわ。だから、もうこれからは……』
愛良はすぐにその言葉の意味を悟った。
つまりは手切れ金ということなのだろう。
『……わかった』
愛良にはそう答えて受け取る以外の選択肢はなかった。
父にも母にも新しい家庭があり、そこに彼らの一番大切な人がいる。自分は過去に置き去りにされたお荷物なのだと理解していたから。
──母から受け取った金は微妙な金額で、大学入学の費用にあてるには少なすぎた。
愛良は夢だった大学進学を諦め、高校卒業後、小さな石油製品製造会社に事務員として就職した。
あれから七年が経ち、気が付くと来年にはもう二十五歳だ。
その間に恋をする機会が訪れなかったわけではない。
同僚の男性からの誘いはあったし、告白されたこともあった。中には憎からず想う人もいた。
だが、怖くて一歩を踏み出せない。
今は好きだと言ってくれていても、両親のように「他に好きな人ができた」と言って、自分のもとから去っていくのではないかと疑ってしまう。
そうしてまごついている間に皆「困らせて悪かったな」と去っていき、結局年齢=彼氏いない歴となっている。
チャンスを失ったときにはいつもがっかりしたが、同時にほっと胸を撫で下ろしてもいた。また捨てられて傷付くこともないからだ。
一人での日々は凪いだ海を思わせた。穏やかで何事もおこらない。時折胸を過る寂しさを堪えさえすればいい。
だが、家族や恋人たちが幸せそうに寄り添うクリスマスイブには独り身が応える。
「……」
頭を軽く振って雑念を振り払う。いつの間にか歩くスピードが落ち、通行人の邪魔になっていた。
気を取り直そうと駅から出て、自宅とは真逆の方向の横浜(よこはま)港へ向かう。
山下(やました)公園の隣には大さん橋というふ頭がある。
ここは日本だけではなく外国籍の船も発着する施設で、屋上は「くじらのせなか」と呼ばれている。
文字通り鯨の背中を思わせる形で、ウッドデッキ仕上げの温かみのある雰囲気の広場だ。
二十四時間開放され、三百六十度を見回せるパノラマビューが売りだ。
横浜の高層ビルだけではなく、有名な観覧車やベイブリッジ、客船の出入りを眺めることができるので、カップルのデートスポットのみならず、地元民の憩いの場ともなっている。
愛良も大さん橋屋上広場を愛する一人で、生まれ育った横浜の中でも、ここからの景色がもっとも好きだった。
先ほど買ったホットカフェラテの缶を手に海側の先端に向かう。
するとちょうど客船が出港したところだった。
横浜港の背景の海の彼方と、そこに重なる空は鮮やかな夕焼けの朱色で、上部には紫の夜の闇が迫っている。
自然の織りなすグラデーションを貫くようにして、白い船体が乗り出す様は何度見ても飽きなかった。
「……綺麗」
あの船はどこに行くのか。
きっと海外だろう。
目的地はシンガポールか、スペインかイタリアか──一度も日本から出たことのない愛良には、どの街の景色も想像できない。
また、どんな人が乗っているのだろうと想像してみる。
会社社長に令嬢、お金持ちの老夫婦。若くして成功した実業家も有り得る。
隣で人の気配がしたので、何気なくそちらに目を向ける。思わずあっと声を上げそうになった。
二メートルほど離れたところで、まさに今頭の中で思い描いていた豪華客船の、乗客の一人を思わせる男性が佇んでいたからだ。
同じく客船を見にきたのだろうか。
仕立てのよいトレンチコートにスーツのトラウザーズがよく似合っている。カラーが落ち着きのあるベージュなのに、地味になっていないのは、男性本人に品と華があるからだろう。
愛良より頭一つ分大きい、すらりとした長身痩鏸だが、肩幅は広くしっかりしている。恐らくブランド物だと思われるコートに着られていない。
艶のある黒髪はきっちり整えられており、そのストイックな雰囲気が男の色気を演出している。
端整な横顔は彫りが深く日本人離れしていて、異国の血が混じっているのではないかと思わせられた。
年齢は二十代後半から三十代前半に見える。豪華客船のみならずこの横浜にも相応しい。
なぜこんな素敵な男性がクリスマスイブに一人でいるのかと不思議に思う。
女の百人や二百人群がってきそうなものだが。それとも待ち合わせをしているところだろうか。
愛良はしばし見惚れていたが、すぐにはっとして視線を客船に戻した。
見ず知らずの赤の他人にジロジロ見られるなど、男性だって嫌だろう。
気を取り直そうとマフラー代わりのストールを結び直そうとする。そこに突然強い潮風が吹いてきたので、慌てて押さえたのだがもう遅かった。
「あっ……」
ロイヤルブルーのストールがふわりと舞い上がる。
愛良の長い黒髪も風に吹かれて乱れたが、それどころではなく目を見開いた。
一週間前に買ったばかりなのに──。
ストールは風に乗って先ほどの男性の佇む方角に飛んでいった。
「おっと」
男性が顔を上げる。長い腕がさっと伸び、大きな手が宙を飛ぶストールを掴んだ。
「このストールはあなたのものでしょうか?」
黒曜石を思わせる深い色の瞳を向けられ、一瞬愛良の心臓がドキリと鳴った。
「はっ、はい。ありがとうございます」
ほっと胸を撫で下ろす。おろしたてなこともあったが、色が大層気に入ったものだったからだ。
愛良はストールを受け取ろうとして、続く男性の行動にドキリとした。
彼はごく自然に、ストールをふわりと愛良の首に巻いてくれたのだ。
「えっ……あっ……」
男性は唇の端に笑みを浮かべた。
「いい色ですね。深い海の色みたいで」
愛良は思わず男性を見つめた。同じようにそう感じてこのストールを買ったからだ。
「は、はい。そんなに高いものじゃないんですけど……」
「どこで買ったんですか?」
「東急スクエアのお店です」
若い女性向けの安価な店の名を告げたのだが、男性はブランドや価格など気にならないらしい。
「いいな。俺も今度行ってみるか」
確かに、この男性ならなんでも着こなせそうだった。
「しかし、こんな寒い場所で女性を一人で待たせるなんて、あなたの恋人が来たら説教をしたい気分ですね」
「あっ、その、違うんです。彼氏なんていません」
反射的にそう答えて、しまったと口を噤む。
わざわざ惨めな状況を説明することもないのに。
「ここから船が出るところを見たくて……その……私よくここに来ているんです。子どもの頃から好きで……」
もともと異性慣れしていないのもあるし、こんなに迫力のある男性の前では更にしどろもどろになってしまう。
「……」
男性はふと微笑んで海の上の客船に黒い瞳を向けた。
「私もですよ。このふ頭ができた時からよく来ています。ここからの景色が見られるだけで横浜に住んでいてよかったと思えますね」
「わ、私もです……」
なんとなく照れ臭くなって顔を伏せる。
「おっと」
同じタイミングで男性がトレンチコートのポケットに手を突っ込む。
「ちょっと失礼」
スマホを取り出し通話オンにして耳に当て、すぐに「……そうか!」と声を上げた。
「あの企画が通ったか。わかった」
電話を終えて今度は懐にしまい、「仕事が入りました」と肩を竦める。
「あっ、ストール本当にありがとうございました」
愛良が改めて頭を下げると男性はまた微笑んで、「メリークリスマス」と今日と明日にしか口にできない言葉を告げた。
「あなたにもサンタクロースが来てくれるといいですね」
男性は身を翻してしばらく歩き、再び電話をかけている。
愛良も男性の広い背を見つめながら、「……メリークリスマス」と呟いた。
ようやく緊張から解放され、大きく息を吐くのと同時に、素敵な人だなと男性の微笑みを思い浮かべる。
身なりと雰囲気からして住む世界の違う人だ。初対面の女性に何気なくストールを巻けるのも、エスコートに慣れているからだろう。
二度と会うことはないのだろうと思うと、ますます今日の一時の邂逅が貴重に思えた。
「ちょっといい思いしちゃった」
これこそがサンタクロースからのプレゼントかもしれない。病院の検査結果が心配で沈んでいた心がいつの間にか明るくなっている。
愛良は子どもの頃もサンタクロースを信じていなかった。
両親からも祖母からもプレゼントを贈られたことはなかったし、そんな無邪気なお伽噺に夢を抱くには寂しすぎる家庭環境で育ったからだ。
だが、今夜だけは信じてもいい気がする。
先ほどの男性のおかげで久々に寂しさを感じないクリスマスになりそうだった。
──だがそれから二週間後、愛良はもう一つとんでもない、ありがたくはないプレゼントを受け取ることになる。
翌年一月七日の午後、病院から電話がかかって来た時、愛良はなぜだと首を傾げた。検査結果は郵送で届くと聞いていたからだ。
「はい、もしもし」
ちょうど仕事中だったので、折り返すと伝えるつもりだったが、向こうの放ったこの一言で全身からざっと血の気が引いた。
『検査結果についてお伝えしたいことがございますので、病院にいらしてくださいませんか』
どう考えてもいい結果だったとは思えなかった。
『必ずご家族も同伴でお願いします』
家族という言葉に胸がズキリと痛む。
「家族は……いないんです」
戸籍上でこそ両親はいるが、二人とも愛良の親であることを放棄している。
四年前、ごく初期のがんを患ったことがあった。
医師は悪性度が低く、予後もよいタイプなので、手術をすれば今後も変わりなく暮らせると説明した。将来の妊娠と出産も十分可能だと。
しかし、それでも告知された時にはショックだったし、誰かにそばにいてほしかった。
だから、数年ぶりに母に電話をかけ、手術の付き添いを頼もうとしたのだ。
ところが、母は日程を聞くと、困ったようにこう答えた。「その日は千尋の塾の下見なのよ。悪いけど……」と。
千尋とは愛良の異父妹である。
その電話以降、母とは連絡を取っていない。父とは絶縁状態で頼れるわけがなかった。
『そうですか……。では、お一人でいらしてください。このお電話で予約を取りますので、今月中でご都合のよろしい日時を教えていただけませんか』
「はい……」
愛良は震える手でスケジュール帳をめくった。
──それから一週間後、愛良は一人病院に向かった。
予約を取っても待たされることが多いのに、この日だけはなんと五分前に診察室に通された。
担当医が「こちらをご覧ください」とボードに掲示されたエコー画像を見せる。
「以前もお話ししたと思いますが、こちらがエコーで撮影した新たなしこりの部分です」
と言われても、愛良には黒い影にしか見えない。
定期検診で軽い腫れを指摘され、そういえばこの数ヶ月で急に痩せたと気付いたのだ。それに加えて妙に疲れが溜まって、風邪を引きやすくなっている気がしていた。
「この辺りにできる腫瘍は良性のものが多いんです。がんの場合も進行が遅く手術すれば治ることが多いのですが……」
ごくまれに再発したがんが悪性度の高い腫瘍に変化し、命に関わることがあるのだという。
「若い方には極めて珍しいのですが……」
視界がぐらぐらと揺れる。全身が小刻みに震え、心臓は早鐘を打っている。「悪性度の高い腫瘍」というフレーズが脳内で何度も繰り返された。
「手術は、できるんでしょうか」
「それが、少々位置が悪く……」
しかも、手術による完治は困難なのだという。すぐに再発することがほとんどで、余命は平均六ヶ月。保って一年。
「しかし、治療をすれば寛解の可能性がゼロではありません。すぐに入院の手続きをお願いします。」
それはもう助からないと言っているも同然だった。
「……」
「早乙女(さおとめ)さん、大丈夫ですか」
医師の声は優しかった。
「ご家族がいないとうかがっていますが、婚約している方やお付き合いしている方は?」
面倒を見てくれる人はいないのかと聞いているのだろう。
「……いません」
怖くて、惨めで、涙がじわりと滲む。
「ご、ごめんなさい。びっくりして……」
「当然です」
医師はティッシュを差し出してくれた。
愛良はひとしきり泣いたあとで、「……手術は、待ってください」と答えた。
医師の顔色がさっと変わる。
「この癌は進行が早いんです。すぐに手を打たなければなりません」
医師としては少しでも余命を延ばさなければと考えているのだろう。
「末期になると痛みもひどくなりますよ」
だが、愛良はやはり首を横に振った。
「すみません。今は何も考えられなくて……ごめんなさい」
医師はしぶしぶ承諾し、愛良に一週間以内には返事をするよう約束させた。
「正直申し上げて可能性は低いです。ですが、希望を捨てないでください。まだお若いんですから」
若いからなんだというのだろうと愛良はぼんやりと思う。
誰の一番にもなれなかった空虚な人生だ。これからもそうして生きていくのだと諦観し、受け入れてもいた。
なのに、神様は生きることすら許してくれないらしい。
その夜、愛良は自宅アパートでベッドに潜り込んで頭から布団を被った。すべてが夢であってくれと何度も願った。
こんな精神状態で仕事ができるはずもなく、風邪を引いたからと会社を数日休んだ。
心臓が鉛になってしまったように重い。息がうまくできない。胃が何も受け付けない。
どれだけ寂しい人生であろうと、やはり死ぬのは怖いし死にたくない。
だが、無理に手術をして余命をわずかに延ばしたいとも思えなかった。
「私……これからどうすれば……」
──これから。
医師によると残された命は短くて半年、保って一年。
その間に何をすべきなのか、いいや、何をしたいのか。
当然まずは寛解のための治療を考え、ネットで癌に関する情報を収集した。
しかし、同じ病気にかかって治療したところで、五年生存率が十パーセントもない。しかも若ければ若いほど死ぬ確率が高いと知って絶望した。
ネットに掲載されている闘病記も読んでみたが、治療の内容は壮絶で、患者は苦痛を訴えるばかり。
そんな中でも患者たちが病気と闘えているのは、ひとえに守るべき家族がいたからだった。
『もう終わらせてしまいたい』『でも、まだ小さい子どもがいる』『家族を置いて死んでいけない……』といった思いが頻繁に綴られていた。
「私には……誰もいない」
愛良は胸が潰れそうな思いがした。
自分を惜しんでくれ、死を嘆き悲しんでくれる家族はいない。誰も愛しても求めてもくれない。
なのに、筆絶に尽くしがたい苦しみや痛みに耐えてまで、生き延びる意味があるのだろうか。
残された日々をより楽しく過ごした方がいいのではないか。そう、今までできなかったことを思い切ってやってみるのがいい。
「私の、したかったこと……ほしかったもの……」
諦めるしかなかったが本当はたくさんあった。
優しい両親や恋人がほしかった。大学に進学して勉強もしたかった。結婚して自分だけの家族を持ちたかった。
でも、どうせ無理なのだから。また頑張った挙げ句叶わなくて、傷付くのは嫌だからと全部諦めてしまっていた。
一歩踏み出す勇気がなかったばかりに──。
今思うと傷付くくらいなんだろうと思う。どれほど深い心の傷だって生きている限り治るのだし、また新たにチャレンジすればいいだけのことなのだから。
「どうして諦めちゃったんだろう……」
どれほど後悔してもし足りずに過去の自分を責め、時折うつらうつらとしてはまた死への恐怖で目覚めることを繰り返した。
しかし、いつまでもそうしてはいられない。会社を更に数日欠勤し、心配して所長が見舞いにきた時、愛良はようやく決断した。
愛良は所長をダイニングに案内し、向かいの席に腰かけて話を切り出した。
「──所長、これ以上ご迷惑はかけられないので、退職しようと思います」
所長が「ちょっと待ってくれ」と口を挟む。
「体調が悪いなら治るまで休んでくれていいから、そんな簡単に辞めるだなんて言わないでくれ。最近、うちみたいな企業は人気がなくて、募集してもあんまり人が入らないんだよね。まあ、給料上げればいいだけなんだけど、それができれば苦労はないわけで……」
愛良は現在の勤め先で七年近く働いてきた。仕事は素早くかつ丁寧だと定評がある。いきなり辞められると困るのだろう。
「引き継ぎはちゃんとしますので……」
「ねえ、早乙女さん、何かあったのかい?」
さすがに様子がおかしいと思ったのか、所長は腕を組んで首を傾げた。
「俺でよければ話を聞くよ。俺はこの通り愛想がないし、若い女の子の気持ちなんてわからないから話しにくいのもわかるけど、これでも部下は大事にしたいと思っているんだ」
「所長……」
愛良は確かに所長を少々気難しい上司だと捉えていた。
それも必要以上に距離を取っていたからだと今は思う。その不器用だが誠実な人となりを知る機会はいくらでもあったのに。
「ありがとう、ございます」
「うーん……とりあえず有休扱いにしておくから、その間にゆっくり考えてくれないかな」
所長の気遣いはありがたかったが、愛良はこれ以上働き続けることはできないと感じた。
所長が帰宅したのち、愛良は一人残されたダイニングで、テーブルの上に使いかけのメモ帳を置いた。
最初のページに今までやりたかったができなかったことを書き連ねていく。
大学に進学したい──さすがにもう不可能だ。今から受験勉強をし、合格する時間はない。
恋人を作る──彼氏いない歴=年齢の愛良は、今から好きになれるような男性と出会い、短期間で両思いになれるとは思えなかった。
「ううん、待って」
愛良はじっと「恋人を作る」の一行を見つめた。
「……別に遊ばれたっていいじゃない?」
むしろそちらの方がいい。誰にも迷惑をかけずに済む。
一生に一度でいい。嘘でもいいから優しく、かつ情熱的に抱き締められ、「君が一番だ」と囁かれたかった。
「そうよ。もう怖いものなんてないんだし……なんだったら逆ナンしたっていいんだし……」
そして、最後の「やりたいこと」は海外に行く──。
「……」
愛良はその一行を丸で囲った。
どうせ行くなら映画で観て憧れていた、地中海が見える国々──イタリアとスペインがいい。
といっても、海外旅行には多額の資金がいる。
航空機の搭乗券や現地のホテルをスマホで検索し、自分の貯金残高とにらめっこをする。
直行便ではなく中継地のシンガポールを経てのフライトの航空券なら、愛良のなけなしの蓄えでもなんとか購入できそうだった。
「……シンガポール?」
そこでふと名案を思い付いて、以前大さん橋から見た船の名前と、まだ申し込めるクルーズがないかを調べてみた。
「あった……」
白い船体が印象的だったあの客船は「白鳥(しらとり)」というそうだ。国内では有名な大型客船でクルーズも国内から海外まで様々なプランがある。
その中でも目を引いたのが三月末から七月半ばまでのクルーズだった。横浜から出航し、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカを周遊しまた横浜に戻ってくる。
世界一周だと料金は一番安いツアーでもなんと六百万円台。
愛良には到底手の届かない金額だったが、途中の区間だけの乗船も可能らしい。
横浜からシンガポールなら愛良にも手の届く価格だった。
「……」
愛良はそれから三日後、勤め先の会社に電話をかけた。
「もしもし、所長ですか? お話があります」
貯金にわずかながらの退職金を足すと、一番安いクラスではあるが、無事クルーズ船に予約できた。
すでに募集は昨年締め切っていたのだが、思い切って直に旅行会社を訪ねて頼んだところ、一人ならなんとかできるかもしれないからと、運行会社に問い合わせてくれたのだ。
支払いを済ませても数十万円ほど残金が出たので、それでパスポートを取り、一通りの服や靴、スーツケースを揃えて旅行に備えた。
数ヶ月ぶりに美容院にも行った。
それも、以前ファッション誌で見て以来憧れていた、モデルや芸能人御用達の人気サロンだ。
愛良はそれまで生まれ持った黒髪のロングヘアで、切り揃える程度のことしかしてこなかった。
だが、せっかく初めての──最初で最後の海外旅行に行くのだ。イメージをぱっと変えたい。
それ以外はカラーもカットもパーマも全部お任せにしたい。一切文句は言わないと美容師に相談すると、「じゃあ、髪の色を明るくしてふわっとさせてみませんか?」と提案された。
スタイリッシュな眼鏡をかけて垢抜けた、いかにもお洒落な男性美容師だった。いつもの愛良なら臆してしまうタイプだ。
美容師は愛良の髪を掻き上げながら、鏡の前に置いてあった雑誌を手に取った。
「これだけ綺麗な長い髪を切るのはもったいないから、長さはそこまで変えずにイメージだけ変えて……こんな感じですね」
パラパラとページをめくって見せてくれる。美貌の外国人モデルが記事の中で微笑んでいる。
透け感のあるハニーカラーのロングヘアに、ふんわりパーマをかけたスタイルだった。
これはモデルがいいから似合うのではないか──一瞬躊躇してしまったが、すぐに首を横に振って「お願いします」と力強く頷いた。
「すごく可愛い。こういう髪型、ずっとやってみたかったんです」
「ブリーチをかけることになります。手入れも必要ですけどいいですか?」
愛良は子どもの頃からずっと大人しい、真面目そうだと言われてきた。裏を返せば暗くて引っ込み思案っぽい、ということだ。今日初対面の美容師にもそう見えるに違いない。
いかにも無難な髪型を好みそうなタイプが、これほど思い切って変えて大丈夫なのかと心配したのだろう。
「はい。お願いします」
美容師は「わかりました」と頷き、愛良にクロスを着せつつ嬉しそうに語った。
「思い切ったイメチェンのオーダーは久しぶりだから嬉しいです。初めてお会いした時から絶対に明るい髪とゆるふわパーマが似合うと思っていたんです」
「へえ」
「早乙女さんって目が大きくてドールみたいなので」
「えっ……そう……ですか?」
愛良は自分の顔を十人並だと自覚している。体型は中肉中背で、ヒップの大きさがコンプレックスだ。
だが、すぐに別にお世辞でもいい。真に受けても構わないではないかと思い直した。
「ありがとうございます。そんな風に言ってもらえたのって初めてです。思い切ってメイクも変えちゃおうかな」
「よろしければメイクもしていきませんか? 僕とは別のスタッフが担当しますが、新しいヘアスタイルに似合うメイクをご提案できますよ」
「えっ、いいんですか?」
「はい、もちろんです。よーし、今日はいつにも増して腕によりをかけちゃいます」
美容師は笑顔で愛良をシャンプー台に案内した。髪を洗いながら問いかけてくる。
「でも、イメージをがらっと変えたいなんてどんな心境の変化があったんですか? あっ、聞いちゃいけなかったらすみません」
「それは……」
一般的には彼氏と別れたとか、あるいはできたとか、転職して心機一転だとかそんな理由が多いのだろう。
まさか、病気で余命が短いとは言えるはずもない。
それでも何か答えなければならないと口を開いて、出てきたのが次の一言だった。
「私、イメージだけじゃない……。根っこから生まれ変わりたいんです」
ポロリと零れ落ちた言葉には自分でも驚いた。
「違う自分を見つけて、その自分に人生を託したくなったんです」
でもだからこそ、心から望んでいることなのだとわかった。
そうか。私は変わりたかったのだと驚きながらも認める。
「あっ、なんかわかる気がします」
美容師は愛良を馬鹿にすることもなく、「僕、十八歳で上京したんです」と教えてくれた。
「四国の実家をほとんど無一文で飛び出して……あの時同じように考えていたと思います。変わらなくちゃ。頑張らなくちゃって」
「美容師さんもですか?」
「はい。若かったなあ」
その後紆余曲折の末に美容師となり、横浜に引っ越して今に至るのだとか。
「それで、変われましたか?」
「アハハ、それが全然。適当なまんまですよ」
だが、後悔はないという。
「僕自身は変わらなくても、人生は変わりましたから。あの時東京に行かなかったら、地元で後悔しっぱなしだったと思います」
叶わなかった夢を後生大事に胸に抱いて、後悔して、後悔して、勇気がなかった自分を責めていたのではないかと彼は語った。
「時間だけは戻せないですから」
「……」
時間だけは戻せない──この一言は愛良の胸に痛いほど染み込んでいった。
「人にはそんなことでって思われるかもしれないけど、前に進むって結構大変なんですよね」
たった一歩を踏み出すのに、途方もない勇気がいる。
「だから、その一歩を踏み出そうとしている人は応援してあげたいんです。あの日駅のホームで電車を待っていた僕を見ているみたいで」
「……」
「早乙女さんも頑張ってくださいね。きっといい方向に行きますから」
「ありがとう、ございます……」
所長といい、美容師といい、恐る恐るでも心を開いてみると、開き返してくれるのだと胸が熱くなる。
残された短い時間はこうして生きていきたい。死ぬことばかり考えて、心まで絶望の淵に落ちていくなんて嫌だ。
たとえ先には未来がなくても、明るく前向きになりたかった。
髪の色が明るくなると心まで軽くなった気がする。
医師には精神安定剤と痛み止めを処方されていたが、これからいよいよ出国する高揚感で、気分は悪いどころか弾んですらいたし、痛みもまったく感じなかった。
豪華客船の甲板から別れのテープを投げる手も弾む。
──愛良が乗船する「白鳥」は、名前の通りの純白の船体が美しい豪華客船だった。横浜の深く濃い、わずかにグレーの混じった海によく映えている。
初めはどのようなフォームで、どのくらい力を入れればいいのかと戸惑った。
だが、今の自分には悩む時間ももったいないし、失敗したからといってなんだと馬鹿らしくなった。
何を失うわけでもないのに何を戸惑っているのか。恥を掻いたところで、この船には自分を知る者はいない。
だから、「えいっ!」と思い切って振りかぶってみたのだ。すると、紙テープは見事鮮やかなロイヤルブルーの曲線を描いて岸辺に届いた。
思わず「やった!」と手を打って喜んでしまった。
「……私だってやればできるじゃない」
いい気分のまま指示された客室に向かう。
「わあ……」
ドアを開けた瞬間、愛良は思わず感嘆の溜め息を吐いた。感動のあまり室内にあるあらかじめ送っておいた荷物も目に入らなかった。
一番安いクラスの客室のはずだが、想像よりも広々としている。
ダブルベッドはいかにも寝心地がよさそうで、ルームランプやミニテーブル、壁に掛けられたモダンアートの絵画はテイストが統一されている。
海外の高級リゾートホテルに泊まっている気分だった。
だが、地上のホテルと唯一にして最大の違いは、横長の窓から穏やかに波打つ水面が見えることだ。
「もうっ、最高っ!」
心の赴くままにベッドに飛び込む。
いつもの愛良なら入浴後、部屋着に着替えてから……と躊躇していただろうが、乗船した以上もう日常ではない。