身代わり婚約者は今夜も抱かれる 御曹司の甘く激しい執着愛 2
第二話
結局、礼悠と交わした言葉はそう多くはなかった。だが、水菓子が出される頃には当初より和やかな雰囲気になっていたので、「淺霧佑衣音」の印象を損ねるようなことはなかったはず。
無理難題を押しつけられてげんなりしていたが、久しぶりに美味しい料理が食べられたのだからよしとしよう。
「本日はありがとうございました」
見送ってくれる礼悠へとハイヤーに乗り込む前に頭を下げる。次に佑衣香が彼と会うのは両家顔合わせの場になるだろう。
そもそも正式な婚約はいつなのだろうか。早めに教えてもらわないとスケジュールの調整が間に合わないかもしれない。帰ったら母親に念を押しておかないと、などと忙しく考えつつ控えめに微笑んだ。
「いや、こちらこそ」
礼悠もつられるようにふわりと笑みを浮かべる。元々が整っているだけにその破壊力は満点で、佑衣香は思わず見惚れてしまった。
この人は妹の婚約者! そう言い聞かせて視線を引き剥がす。もう一度会釈をすると後部座席に身体を滑り込ませた。
「またお会いしましょう」
「はい、楽しみにしております」
次の機会を匂わせてくれたので、これは成功といっていいのではないだろうか。完全に姿が見えなくなると、佑衣香はぐったりと座席に身を預けた。
今日はもう遅いので美容院には戻らない。自力で着物を脱いで畳み、髪のセットも解かなくてはならない。
そして明日は出勤すると、後回しにした仕事が山積みになっているという残酷な現実が待ち受けている。
「はぁぁ……」
ぼんやりと車窓を眺めながら、佑衣香は思わず盛大な溜息を零した。
降って湧いた身代わり見合いから五日後、日常に戻った佑衣香は今日もまた慌ただしく動き回っていた。
しかし、メールというものは少し目を離しただけでどうしてこんなにも溜まっていくのだろう。キーボードを叩き、急ぎの件の返信を済ませると、タイミングをはかったように電話が鳴った。
「第三研究室、淺霧です」
ディスプレイに表示された発信元は研究所が併設されている大学の教務課になっている。嫌な予感がしながら受話器を取ると、恐る恐るといった様子の声が聞こえてきた。
『あ、あの……教務課の坂出(さかいで)です』
「お疲れ様です」
『あぁ……淺霧さん。実はですね、犬養(いぬかい)教授から来年度の講義要項(シラバス)を、まだいただけていないのですが……』
「えっ、締め切りはだいぶ前でしたよね? いつまでに出せばいいでしょうか」
できれば今週中で……という弱々しい声に思わず「それって明日ですよね!?」と心の中でツッコミを入れる。いや、出していない方が完全に悪いのだが、どうしてもっと早く教えてくれなかったのだろうか。
佑衣香はなるべく早く出させます、と伝えて電話を切り、大急ぎでファイルサーバーから去年のものを発掘する作業に取りかかった。
佑衣香の上司である犬養素彦(もとひこ)は土壌研究の傍ら、大学の農学部で教鞭を執っている。
とはいえ、研究好きが災いして講義を疎かにしがちなので、教務課からはこれまでも講義日数が足りないやらなにやらで散々注意を受けてきた。
研究所の所員である佑衣香は講義に関する業務は担当外なのだが、併設機関だけにそう簡単に割り切れるものではない。のらりくらりと躱してしまう教授本人よりも話が通じるからと、いつの間にか窓口にされてしまっていた。
「もう、どこにあるの…………あぁ、あった」
決めてあるはずのファイルの命名規則を完全に無視しているので、まずはそれを修正する。そして開いてから印刷し、クリップボードに挟むと上司の部屋へと大急ぎで向かった。
「失礼します。教授、これを終わらせてから測定室に行ってください」
「えぇ……僕、すぐに確認したいサンプルがあるんだけどな」
「こちらの方が間違いなく急ぎです」
サンドイッチを齧っている壮年の男性へクリップボードごとずいっと差し出すと、あからさまに面倒くさそうな顔をされた。ふと時計を見ると時刻は正午を少し回っているではないか。この調子では今日もまた仕事をしながらの昼食になりそうだ。
「講義要項です。教務課から催促がありました」
「あー! あったねそんなの。いやぁ、学会の準備が忙しくて忘れてたよ」
頭をがしがしと搔きながらも悪びれた様子はない。これは絶対に預けていったらやらないパターンだ。壁際にあったパイプ椅子を上司の隣まで引っ張っていくと、白衣の胸ポケットからボールペンを取り出した。
「それではさっさとやってしまいましょう」
「いや、僕は実験の続きを……」
「これを終わらせれば行けますよ。えーと、まずは概要ですね」
上司の抗議をすげなくあしらい、佑衣香は紙に書かれた文字を読み上げていった。
犬養教授が助手から解放されたのはそれから一時間後のこと。佑衣香は嬉々とした様子で測定室へと向かう背を見送った。あの場所には大量の土壌サンプルが保管されていて、教授お気に入りの場所なのだ。教授室よりも滞在時間が長いので、スタッフやゼミ生の間では測定室を「犬養教授の棲家」と呼んでいるほどだ。
自席に戻った佑衣香は、赤文字で埋め尽くされた紙をデスクに置いてからコーヒーを淹れた。
「……お腹すいた」
急いで清書しなければならないが、このままではとても仕事にならない。デスクの横にある抽斗を開け、備蓄してあるブロック型のバランス栄養食を取り出した。
二本入りと書かれた袋を破り、一本をぱくりと咥えてからキーボードを叩きはじめる。こういう時はスティック状なのがありがたい。もくもくと一気に食べきるとコーヒーで胃へと流し込み、残りの一本を咥えた。
適度なカロリーと栄養をバランスよく摂取できるので重宝しているが、元々食べることが好きなのでこれを食べるたびに虚しさがよぎる。しかも今日はひときわ味気なさを強く感じてしまうのは、きっと五日前に口にしたものが影響しているのだろう。
さすが一流料亭だけあり、どの料理も本当に美味しかった。そういえば香箱蟹だけでなく、鶉(うずら)を食べたのも久しぶりだった。あぁ、それから水菓子に出された代白柿(だいしろかき)は、とろりとした果肉が最高だったなぁ……。
うっかり思い出してしまい、より一層虚しさが募る。それと同時に食事を共にした人物までもが脳裏へ蘇り、キーを叩く指が乱れてしまった。
「…………はぁ」
あれはもう終わったこと。さっさと忘れようと自分に言い聞かせながら入力をミスした文字を消していく。
母から聞いた話によると、縁談は立ち消えになることなく無事に進められているが、具体的な日取りは未定らしい。妹のために頑張ったというのにやはり感謝の言葉はなく、むしろ先方を待たせたなんて失礼極まりないと叱られてしまった。
だが、佑衣香は母になにかを期待するのをとうの昔に諦めている。彼女にとって大事なのは身体の弱い妹と跡取りである弟の二人だけ。ドライな性格で自分に甘えてこない長女などどうでもいいのだ。
もし別居婚ではなく佑衣音が嫁入りをしたら、実家には佑衣香と母親の二人きりになってしまう。どうせお互いに不干渉のままだろうが、更に居心地が悪くなるのは目に見えていた。
そろそろ一人暮らしを真剣に考えようと思いながら講義要項を修正し、教務課へ詫びの言葉と共にメールで送信した。
「淺霧さーん、木多(きた)君ってどこにいるかわかる?」
「えーと……少し待ってくださいね」
顔見知りの研究員が開け放したままの扉からひょっこりと顔を出した。コーヒーを淹れ直していた佑衣香はマグカップを手にデスクへと戻る。
第一研究室の助手である木多拓己(たくみ)とは席が隣同士だ。そう言われてみると、出勤した時に言葉を交わしたきり姿を見ていない気がする。彼もまた研究に没頭するタイプなので実験室にでも籠っているのかもしれないと思いつつ、マウスを操作してスケジューラーを開いた。
「今の時間は……『研究所の案内』っていう予定が入っていますね」
案内ということは来客の対応をしているのだろうが、彼とは所属している研究室が別なので、仕事上での関わりは皆無に等しい。だから誰の相手をしているのかまでは残念ながらわからなかった。
「それ、何時に終わる予定?」
「もう少しみたいです。戻ってきたら連絡するよう伝え……」
不意に廊下が騒がしくなり、訪ねてきた研究員が慌てた様子で顔を引っ込める。誰が来たのか怪訝に思っていると、当の木多が第一研究室の室長を兼務する所長と共に入ってきた。
「そしてこちらが、第一から第四研究室の助手の部屋です」
案内って、ここも見せるの!? 佑衣香は素早く周囲を見回して機密文書が出ていないのをたしかめ、念のために手元のクリップボードを伏せてから姿勢を正した。
入室してきた人達は全員スーツを着ているから、どこかの企業の視察だろうか。はやく終わってくれるのを密かに祈っていると、扉の陰になっていた場所からがっしりとした男性が姿を現した。
「えっ……」
思わず零した驚きの声は、幸いにして誰の耳にも届かなかったらしい。
どうして、この人がここに?
五日前に二人きりで食事をした妹の結婚相手は周囲を軽く見回し、壁にかけられた大きなモニターを興味深げに眺めていた。
突然のことで焦ってしまったが、今の恰好では絶対に気付かれないだろう。あの時とは違い、必要最低限のメイクに野暮ったいパソコン用眼鏡、そして無造作に後ろで一つに結んだだけの髪はパーマが取れかけている。白衣の下はサックスブルーのブラウスにベージュのワイドパンツという出で立ちなのだ。
こんな雑然とした場所で働く地味な女性所員が、まさかあの華やかな振袖を纏って会席料理に舌鼓を打っていた相手だとは夢にも思わないだろう。
それでも警戒するに越したことはない。佑衣香はできるだけ目立たないよう、軽く俯いたままパーティションの陰になる位置へ静かに移動した。
「あの人達って誰でしたっけ?」
「ほら、研究所(うち)と共同研究をする会社が視察に来るって、ちょっと前に周知メールが来てたじゃない」
「あぁ! 今日だったんですね。すっかり忘れてました」
第二研究室の助手二人のひそひそ話に耳を傾け、同じように忘れてた、と心の中で呟く。そのメールには企業の名前も書いてあったはずだが、斜め読みしただけですぐフォルダに放り込んだ気がする。
「ここに映っているものはなんでしょうか」
「実験室で測定しているものをモニタリングしています。えぇと、ちょうど出ているのは第三研究室ですね……淺霧さん」
「は、はいっ」
所長に名を呼ばれ、佑衣香は反射的に返事をする。部屋中の視線が集中しているのに気付いて姿勢を正した。
「これは犬養君が実験しているものだよね。説明を頼むよ」
「はい。現在は土壌の生分解(せいぶんかい)……微生物によって有機化合物が無機物まで分解される際の温度変化を計測しております」
どこまで詳しくすればいいのかわからず、とりあえず一般の人でもなんとなく理解できるように説明してみた。もう少し専門的な方が良かっただろうか。所長をちらりと見てみると満足そうに頷いてから後を引き継いでくれた。
「数値は自動的に記録していますが、異常が起こった際もアラートが表示されるようになっております」
「なるほど。効率的ですね」
これでもう佑衣香は用済みだろう。ずれた眼鏡のフレームを指で押し上げていると、こちらに探るような眼差しを向けられていることに気がついた。
もしかして、名前で気付かれた……? このまま目を逸らしたら後々に影響があるかもしれない。とりあえず小さく会釈したものの、礼悠は佑衣香の傍らにあるデスクへと視線を移していた。
そこに置かれているのは――バランス栄養食のパッケージ。空の袋も放置したままなので、ついさっきまで食べていたのは一目瞭然だ。
「次は実験室をご覧いただきましょう」
所長が朗らかに告げると一行がぞろぞろと部屋から出ていく。礼悠もまた佑衣香を顧みることなく踵を返し、足早に去っていった。
きっと彼はこんなもので食事を済ませる佑衣香に呆れたのだろう。もちろん時間があればそうしたいが、文字通り背に腹は代えられないのだ。
とはいえ、なんとか危機は脱したらしい。礼悠は佑衣香が先日、お見合いの席で食事をした相手だとはまったく気付いていない様子だった。
佑衣香はオフィスが日常へ戻っていくのを眺めながら、ほっと安堵の溜息をついた。
どうしてこうなった――――。
佑衣香は鏡の前に座るなり、零れそうになった特大の溜息をそっと噛み殺した。
もうこの美容院に来ることはないと思っていたのに、どうしてまた可愛らしいワンピースを着る羽目になったのか。思わず遠い目になっていると、後ろからおずおずといった様子で話しかけられた。
「佑衣香様。髪型はいかがいたしましょう」
「あー……まとめ髪にした方が誤魔化しやすいですよね」
「はい。そうしていただけますとありがたいです」
「じゃあそれでお願いします」
母と妹が行きつけにしているだけあり、美容室のスタッフは事情を知っている。前回の準備の際は、双子の姉を妹の装いにできるだけ近付けるよう厳命されたと言っていた。
妹はストレートヘアなので、下ろしたままにするにはヘアアイロンで残っているパーマの部分を伸ばさなくてはならない。それよりもまとめてしまった方が手間も時間もかけずに済むだろう。
ほっとしたような顔で「かしこまりました」と告げた女性がヘアアクセサリーを用意すべく去っていった。
今日は日曜日。実験データの整理に土曜日を費やしてしまったので、昼過ぎまで惰眠を貪るつもりでいた。だが、十時を少し過ぎた頃に部屋へ乱入してきた母親によって叩き起こされたのだ。
なにか緊急事態でもあったのかと思いきや、開口一番こう告げられた。
「佑衣音がね、頭が痛いと言っているのよ」
「……そう」
幼い頃から身体が弱かった妹にはかかりつけ医がいる。曜日や時間などお構いなしに呼び出される彼に同情しながら欠伸交じりに返すと、またもや耳を疑うような命令が下された。
「だから、六路木さんとの食事会にはあんたが行ってきなさい」
「えっ、また!?」
ぼんやりしていた頭が一気に覚醒し、つい大きな声が出てしまった。驚くのは当然だというのに母は不快そうに顔をしかめる。
「佑衣音が寝ているんだから大きな声を出さないでちょうだい」
「顔合わせじゃなくて食事でしょ? キャンセルすればいいじゃない」
「心証を悪くするわけにはいかないと、この前も言ったでしょ!?」
いや、どう考えても身代わりを立てる方が失礼だろう。佑衣香がやんわりと反論したものの「ただ話を聞いていればいいだけ」だの「お姉ちゃんでしょ?」と、前回と同じ主張が繰り返されるだけだった。
「いやいや……勘弁してよ。六路木さんが研究所にも時々来てるって話をしたよね?」
まだ正式決定はしてないようだが、六路木ケミカルとの共同研究は具体的な話が進められているのだ。その打ち合わせに参加しているらしく、訪問はあの時限りだと思っていた礼悠の姿を研究所で時折見かけるようになっていた。
しかも研究には佑衣香の上司も参画することが急遽決まってしまった。そうなれば必然的に佑衣香と接触する機会があるのだと事前に母親へは伝えておいたのだ。
これから頻繁に顔を合わせるかもしれない相手を騙すのは大いに気が引けるし、万が一にも身代わりがばれたら一大事だ。そんな切実な思いも、佑衣音第一主義である母親にはまったく伝わらなかった。
「どうせあちらは気付かないわよ。まだ佑衣音とは顔を合わせていないんだから」
「いや、だから……」
「とにかく! 十五時に美容室へ行きなさい、いいわね!?」
そろそろ医者が到着するからと、母親は反論する暇もなく去り――今に至る。
しかも今回は美容院にすら姉の方が行くことを連絡していなかったらしい。佑衣香が決まり悪そうに来店すると、顔合わせの時にお世話になったスタッフ達が唖然としていた。
これを着ていくように、と渡されたのは白地にコーラルピンクの花が散らされた可愛らしいギャザーワンピース。同じ顔の妹が似合うのだからおかしくはないものの、好みではない色と形の服を着ているせいでどうにも落ち着かない。
メイクもヘアアレンジも服に合わせているので、鏡に映された姿はまるで自分ではないような錯覚に陥ってきた。
「いかがでしょうか?」
「はい。佑衣音っぽくていいと思います」
おどけた口調で返すとスタッフ達が苦笑いを浮かべる。結果的に詐欺の片棒を担がせるような形になって申し訳ないが、こうなったらもう妹になりきるしかない。
今回は神楽坂(かぐらざか)にほど近いスペイン料理店。幼い頃に一度だけ父に連れられ、貸し切りのパーティーに参加したことがあるだけなので、どんな美味しい料理が出てくるのかだけが唯一の楽しみだった。
「お世話になりました。いってきます」
「佑衣香様、お気をつけていってらっしゃいませ」
呼んでもらったタクシーに乗り込み、美容院を後にする。今回は待ち合わせの時間には十分間に合うだろう。
あぁ、本当ならのんびりして明日からの英気を養うはずだったのに。あえなく散っていった少ない休みを心の中で嘆きながら、佑衣香は夕暮れに染まりはじめた街並みを眺めていた。