身代わり婚約者は今夜も抱かれる 御曹司の甘く激しい執着愛 3
第三話
無事に約束の十五分前に到着して予約名を伝えると、またもや店の奥にある個室へと案内された。二人で食事をするにはあまりにも広すぎる場所だが、中庭に面しているので景色が楽しめるのはありがたい。
一度は着席したものの、佑衣香はバッグを椅子に置いたまま窓際へと向かった。色とりどりの花で彩られている庭は丁寧に手入れがされている。花壇の表面を木の皮のようなものが覆っているのだが、あれはなんだろう。
興味をそそられるが、残念ながらここから外には出られないようだ。チャンスがあれば帰りに立ち寄ってみよう、と密かに決意すると、礼悠の到着が報された。
席に戻る間もなく扉が開き、チャコールグレーのスリーピーススーツを纏ったがっしりとした男が姿を現した。窓を背に思わず見惚れた佑衣香だが、すぐさま我に返って「こんばんは」と両手をお腹の前で揃えてお辞儀をする。
「お待たせして申し訳ありません」
「気になさらないでください。お庭がとても素敵だったので、楽しませていただいておりました」
興味を向けた箇所は一般的ではないかもしれないが、素晴らしいと思っているのは本当だ。佑衣香の言葉にウェイターが嬉しそうに微笑んだ。
「おそれいります。ちょうどクリスマスローズが見頃となっております」
そういえば、佑衣音の趣味は「生け花」だと伝えてあると聞いた。習っているという話は聞いたことがないが、もしかすると最近になって始めたのかもしれない。図らずも植物に興味があるように装えたのではないだろうか。
「すみません。あの、土の上に敷き詰められているものはなにかご存じですか?」
ついでといった様子で一番気になっていたものを訊ねてみた。まさか花以外の質問をされると思わなかったのか、ウェイターは少し戸惑ったような表情を浮かべた。
「たしか……バークチップ、というものかと」
「あぁ、やっぱり木の皮なのですね」
木の皮(バーク)は保温と保湿に優れているので土の凍結や乾燥を防いでいるのだろう。見た目も良くなって一石二鳥だな、と佑衣香は納得しながらお礼を告げ、席に戻った。
向かい合わせに座った礼悠は前回よりも幾分か纏う雰囲気が柔らかくなっている。もしかすると人見知りするタイプなのかも? そう思うと厳つい顔立ちにも緊張しなくなってきた。
このレストランの売りは創作スペイン料理である。どんなものが出てくるのか今から楽しみで仕方がない。
佑衣香はまたもやワインを飲みたい欲求を必死に抑えると、炭酸(ガス)入りのミネラルウォーターを注文した。
「そういえば、貴女のお姉さんにお会いしましたよ」
食事も終盤に差しかかった頃、ついにその話題が振られた。ちゃんと心構えはしていたが、やはり心臓がぎゅっと縮み上がる感覚に襲われた。だが、ここで動揺を見せては一巻の終わりだ。佑衣香はイベリコ豚の炭火焼きに添えられた焼き野菜(エスカリバーダ)をナイフで切っていた手を止め、穏やかに微笑んだ。
「はい、聞き及んでおります。姉の勤め先と共同研究をなさるそうですね」
やっぱり気付かれていたか。それでも接触してこなかったのは、政略結婚をする相手の姉など関わるだけ無駄だという判断からだろう。むしろ話しかけられたら同僚からどういう関係なのかと問い詰められて面倒だったに違いない。
綺麗な焼き目のついたパプリカをぱくりと口に入れる。黒にんにくとシェリー酒の効いたソースが美味しい。静かに感動しながら咀嚼する佑衣香へと、テーブルの反対側から探るような眼差しが向けられた。
「お二人はあまり似ていらっしゃいませんね」
「はい。服の趣味もまったく違いますので、親戚からは見分けるのが簡単だと言われています」
双子というとお揃いの服を着せられがちだが、佑衣香と佑衣音の場合はまったくそのようなことがなかった。
生まれた時間は変わらないというのに、佑衣香は常に「長女」として扱われていた。母親からは幾度となく「姉なのだから、妹や弟の面倒を見なくてはならない」と言い聞かせられ、甘えることは許されなかった。
だからといって佑衣香は寂しい幼少期を過ごしたわけではない。身体の弱い妹につき添って滅多に外出しない母親に代わり、仕事の合間に父親が色々な場所へ連れていってくれた。
姉妹でありながらあまりにも共に過ごす時間が短かったので、むしろ普通の姉妹より関係は希薄だと言えるだろう。
「佑衣音さんから見て、お姉さんはどんな方ですか」
予想だにしていなかった問いにグラスへと伸ばした手が止まる。そんなことを訊いてどうするのかと勘ぐってしまいそうになったが、単なるコミュニケーションの一環にすぎないのだろうと思い直した。
「実は、あまりよくわからないのです」
「と、いいますと?」
自分自身について、妹の立場から話す日が来るなんて思わなかった。炭酸水を一口飲んでから、佑衣香はほんのり苦笑いを浮かべる。
「学生の頃から忙しい人だったのでほとんど家にいないのです。だから、話す機会があまりなくて……」
奏美たっての希望により、幼稚園から大学までのエスカレーター式の女子校に通っていたが、佑衣香は中学卒業を機に公立高校へ進む道を選んだ。
これまでだってまったく一緒に通学していなかったというのに、佑衣音が可哀そうだと随分と非難されたのを今でも憶えている。思えばあの頃から妹との会話が激減したのかもしれない。
佑衣香の選んだ高校は進学校として有名で、通常の授業が終わってからも希望者は居残りして補講が受けられた。家にいると煩わしいことばかりだった佑衣香は毎日のように受講していたのだ。
しかも自宅から学校までは電車を乗り継いで一時間半。帰宅は深夜と呼べる時間帯になっていたが、不思議とそれを辛いと思うことはなかった。
そして大学では少しでも興味がある講義を片っ端から受けていた。三年生になってゼミに入ると教授や先輩達の実験を手伝わせてもらっていたし、休日は朝から晩までアルバイトをしていた。そんな生活で家にはほとんどいなかったので、妹だけでなく家族の誰とも滅多に会わなかった。
こんな話をすると印象が悪くなってしまうだろうか。だが、ここで誤魔化したところでいずれは気付かれるのだから、正直に伝えておくべきだと判断した。
「あっ、ですが、仲が悪いわけではありません」
顔を合わせれば普通に話をするのでそう補足すると、礼悠は「そうですか」と小さく頷いた。どうやら納得してくれたらしい。
長女の佑衣香は淺霧家にとってデリケートな存在だと判断したらしい。その後は話題に上ることなく二回目の食事会も終了した。
今日は自宅まで送ってくれるという。この場合は断るのはかえって失礼だろうと思い、二人揃って店のエントランスまでやってきた。
「礼悠様、あの……」
運転手が素早く近付いてくると礼悠に耳打ちしている。徐々に表情が険しくなっていく様子から察するに、なにかしらのトラブルが起きたのだろう。
もしかして……身代わりがばれた、とか?
後ろめたいことがあると、どうしても嫌な想像をしてしまう。佑衣香はにこやかな表情を頑張って維持していたものの、いつの間にかバッグの持ち手をきつく掴んでいた。
幸いにしてそれは杞憂だったらしい。運転手との話を終えてこちらへやってきた礼悠は眉を下げ、すまなそうな表情を浮かべていた。
「申し訳ありません。急ぎで会社に戻らなくてはならなくなりました」
「まぁ、それは大変ですね」
日曜の夜でも容赦なく呼び出されるのは礼悠も同じらしい。役員である彼が行かなくてはならないのだから、深刻な事態が起こっているのだろうと察せられる。早く解決することを祈りつつ答えると、大きな手が胸ポケットからスマホを取り出した。
「車を手配しますので、少しお待ちいただけますか」
「いえ、必要ありません」
「でしたら、タクシー代を……」
「結構です。自分の家に帰るのですから自分で払います」
送っていけませんごめんなさい、で終わる話かと思いきや、礼悠は随分と律儀な性格をしているようだ。そこまでしてもらう義理はないと咄嗟に断ってしまったが、すぐにしまった! と内心で頭を抱える。
家格からすれば六路木家の方がはるかに上である。彼からの申し出を断っただけでなく、「自分で払う」と主張するのは失礼だったのではないだろうか。
恐る恐る見上げた先では礼悠が虚を突かれたかのように目を丸くしていた。だが、すぐさまふっと小さく息を吐くと淡い笑みを浮かべる。
「どのようにお帰りになる予定ですか?」
「えっと……まだ時間も早いですし、地下鉄を使おうかと思っています」
最寄り駅までは十分ほど歩くが、いい腹ごなしになるだろう。佑衣香が正直に伝えると、それならせめて駅まで車で送らせてほしいと押し切られてしまった。
「乗り換えは大丈夫でしょうか」
「はい。検索すればすぐにわかりますので」
佑衣音は相当な箱入り娘なので心配されるのも無理はない。だが、佑衣香は普段から公共交通機関を利用する生活をしているので、ここからのルートはおおよその見当がついていた。
ほどなくして駅の出入口へと車が横付けされる。礼悠が先に降りると、こちらへと手を差し伸べてきた。これがエスコートというものか、と密かに緊張しながら指先を恐る恐る乗せてみる。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。予定が変わってしまい申し訳ありません」
「いえ。お仕事頑張ってください」
にこやかに別れの挨拶を交わしているが、なぜか指先はしっかりと握られたまま。こちらから離すものなのだろうかと考えているうちにそっと持ち上げられた。
礼悠が軽く身を屈め、手にしたものに唇を寄せる。指の第二関節あたりに柔らかな感触が押し当てられた。
不意の接触にぶわりと頬が熱くなる。なにか言おうと唇を薄く開いたものの、結局そのまま閉じるだけで終わってしまった。
「また、近いうちにお会いしましょう」
「……は、い」
ふっと細められた瞳の奥には相変わらず鋭い光が宿っている。この胸の高鳴りは決してときめいたのではなく、まるで肉食獣に捕捉された獲物のような気分になったからに違いない。
佑衣香は大きな手に促されるまま駅の階段に向かって歩き出す。
その後ろ姿を食い入るように見つめられていたことなど知る由もなかった。
その日の佑衣香はいつもと変わらず仕事に追われていた。提出するように頼まれた経費申請書を手に上司の部屋を訪れる。一応の礼儀として扉をノックしたが、返事を待たずに開いて足を踏み入れた。
「犬養教授、この機材パーツは消耗品費ではないと何回いえ……」
手元に視線を落としていたので来客に気付くのが一瞬遅れてしまった。佑衣香は咄嗟に口を噤み、「失礼しました」と軽く頭を下げる。
危ない危ない、もう少しでお客様の前で教授を叱ってしまうところだった。
しかも相手は例のプロジェクトの関係者のようだ。こちらを見つめる視線の中からひときわ鋭い眼差しを見つけ、思わず目を伏せてしまった。
これは出直した方がいいだろう。廊下へ一歩後ずさると、暢気(のんき)な声で名前を呼ばれた。
「あぁ、淺霧さん。ちょうどよかった。ここに載っている薬品を使う場合ってさ、なにか手続きが必要だったっけ?」
「……拝見します」
犬養教授は飄々(ひょうひょう)とした様子で書類を差し出した。右上に六路木ケミカルのロゴが入っている研究計画書を受け取り、眼鏡のフレームを指で押し上げながらリストへと素早く目を通した。
「そうですね。必要なものが含まれておりますので、まとめて使用申請を出した方がよろしいかと思います」
「どれくらいかかる?」
「実施計画書に不備がなければ一週間ほどで通ります。その際、お手数ですが使用する薬品のメーカーと正式な商品名、そして規格番号をお知らせいただけますと助かります」
「なるほど。承知しました」
六路木ケミカルの研究者らしき人物が頷き、手にしたタブレットへなにかを打ち込んでいる。きっと忘れないようメモしてくれているのだろう。佑衣香は計画概要を斜め読みしながら更に口を開いた。
「あの、オゾンは使われますか? 研究所では使える実験室が一つだけですので、他の実験との調整が必要になります」
「あっ……えーと、使う場合もありますね」
「期間はどれくらいでしょう」
「十日ほどの予定です」
質問に対してすぐさま的確な答えが返ってくるのがありがたい。さすがは六路木ケミカルの社員だと感心していると、ずっとやり取りを黙って見守っていた礼悠が口を開いた。
「こちらの件は助手の皆さんにも共有した方が良さそうですね」
「あぁ、そうしていただけると助かります。僕はメールのチェックをこまめにするタイプじゃないもので」
こまめじゃなくてしないの間違いでは? と言いたいのをぐっと堪える。佑衣香は白衣のポケットからカードケースを取り出すと、先ほどまで話していた男性へと名刺を差し出した。
「一番下のアドレスが研究室メンバー全員に届くメーリングリストです」
「わかりました。では、こちらにお送りします」
古賀(こが)と名乗った彼がこのプロジェクトの研究リーダーだという。佑衣香が改めて挨拶すると、犬養がにこやかにやり取りを見守っていた。
「うちの研究室はですね、淺霧さんによって成り立っているんですよ」
「教授……!」
とんでもない補足に佑衣香がぎょっと目を剥いた。突然なにを言い出すのか。いや、それ以前に頼りきっている自覚があったとは驚きだ。色々と突っ込みたいが今はお客様の前なので制止するだけに留めた。
「皆さんが反応に困るような話はやめてください」
「いや、でも本当のことだからねぇ。設備に関しては淺霧さんに訊くと、一番速くて確実ですよ」
「なるほど。承知しました」
内情を察知したのか、古賀が頷いてからこちらへにこりと微笑みかけてきた。
さすがに分が悪いと判断した佑衣香は会議があるので、と言い訳をして素早くその場を離脱した。
廊下を足早に進み、途中で自動販売機に立ち寄ると炭酸水を買い求める。普段はホットコーヒーを愛飲しているのだが、今は身体が冷たいものを欲していた。
「ふぅ……」
その場で一口飲んで思わず溜息を零す。ようやく鼓動が落ち着いてきた。
ペットボトルを持つ右手を見つめると、ここに押し当てられた感触が嫌でも蘇ってくる。あれは佑衣音に対してであって、決して佑衣香に与えられたものではない。何度もそう言い聞かせたお陰でなんとか乗り切れた。
話をしていないし、あのがっしりとした体躯をできるだけ視界に入れないようにしていた。だというのに、礼悠と同じ空間にいるだけでどうしても言動がぎこちなくなってしまう。
動揺を悟られないようについつい早口になってしまったが、誰も気に留めていなかったのが唯一の救いかもしれない。
当然ながらあの出来事は母親にも報告していない……というより、報告した時の反応が恐ろしくてできなかった。
とはいえ、これから妹と彼は夫婦となり、それ以上のことをするのだから伝えなくても問題ないだろう。
残る課題は礼悠と顔を合わせても平静を保てるようになるだけ。
どうせ時間が解決してくれるという考えが甘かったと痛感したのは、この日の夜のことだった。
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