身代わり婚約者は今夜も抱かれる 御曹司の甘く激しい執着愛 1
第一話
時刻は夜の十時を少し回っている。佑衣香(ゆいか)は重い足取りで自宅に辿り着くと、できるだけ音を立てないように玄関扉を開いた。
とはいえ、古い日本家屋ではどんなに静かにしようとしても限界がある。板張りの廊下を軋ませながら歩いていると不意に応接間の扉が開き、思わずびくりと肩を揺らした。
「随分と遅かったじゃない。どこをほっつき歩いていたの?」
お帰りの言葉もなく、母親である奏美(かなみ)が不機嫌丸出しで問い詰めてくる。寝支度を済ませているところから察するに、佑衣香が帰ってくるのを待ち構えていたようだ。
「仕事がちょうど忙しい時期なの」
「あらそう」
佑衣香は大学で土壌学を学び、今は母校に付属する研究所で助手として働いている。
そして毎年この時期は研究費の助成申請やら新年度の準備やらに追われているのだが、これまで母に説明したことはない。そもそも佑衣香の仕事に興味がないのだから、知らないのは当然だろう。
しかし、連日深夜に帰宅する娘を心配するような人ではないのに、一体どういう風の吹き回しだろう。なんだか嫌な予感がする。
「佑衣音(ゆいね)が昼過ぎから喉が痛いと言い出して、今は熱も出ているのよ」
「そうなんだ。大変だね」
双子の妹は子供の頃から身体が弱く、ちょっとしたことですぐに熱を出してしまう。
母親は佑衣音に対して過保護すぎるのだが、それを指摘すると逆上するのが明白だ。
さっさとこの場から離脱したい佑衣香は続きを促した。
「実は明日、大事なお見合いがあるの」
「……へぇ」
妹がお見合いをするなんて初耳なのだが、最近は滅多に顔を合わせないので文句を言うつもりはない。
「あの子、それで緊張してしまったみたいなのよ。繊細すぎて本当に可哀そう……」
頬に手を当てて母が盛大に溜息を零す。双子のくせにお前はどうしてそんなに図太いんだとでも言いたいのだろう。この手の嫌味はもう聞き飽きている。気にすることなく「そうだね」と生返事をした。
明日も仕事が満載なのは確定している。だからそろそろ解放してもらえないだろうか。そんなことを願いながら愚痴を聞き流す佑衣香の耳へと信じられない言葉が届けられた。
「――だから、佑衣音の代わりに行ってちょうだい」
「…………えっ?」
反射的に訊き返してしまったが、不機嫌そうに同じ言葉が繰り返された。聞き間違いであってほしかったのだが、どうやらそうではなかったらしい。
「急に相手が変わるなんて失礼だよ!」
思わず大きな声で拒否すると母親が呆れた顔をする。
「なにを言ってるの。これは佑衣音のための縁談に変わりはないわよ。それに結婚自体はほとんど決まったようなもので、顔合わせを兼ねて食事をするだけだから難しくはないでしょう?」
あまりにも突飛な提案に佑衣香は固まってしまった。
それはつまり、妹のふりをして見合いに行ってこい……ということ!?
「決まったも同然だったら、スケジュールを変えてもらえばいいじゃない」
佑衣香と佑衣音の姉妹がそっくりなのは外見だけで、性格は正反対といっても過言ではない。お見合いは見た目だけを判断するものではないし、佑衣音本人が相手を見定める必要だってあるはずだ。
至極まっとうな提案だというのに、頑固な母は憮然としたままだった。
「お相手は大企業の重役さんなのよ!? 簡単にスケジュールを変えていただけるようなお方じゃないの」
「いや、だからって……」
「あんたは黙ってニコニコしていればいいの。なんの役にも立っていないんだから佑衣音のために少しくらい協力しなさい!!」
経験はないけれど、お見合いは絶対にそういうものじゃないと断言できる。とはいえ、意固地になった母親を説得するのが不可能なことは、これまでの経験で嫌というほどわかっていた。
「佑衣音にとって大事な日なのよ。だから明日は仕事を休みなさい」
「いや……繁忙期だってさっき言ったよね?」
奏美は基本的に、佑衣香についての情報や言ったことをまったく憶えないのだ。
それだけ聞くと記憶するのが苦手な人なのだと思われるだろうが、佑衣音に関する事柄に関しては恐ろしいほど子細に憶えているので、単に興味の有無なのだろう。
その点について、もはや責める気は微塵もない。だが、ほんの数分前に交わした会話の内容すら忘れられては、話をするのが一気に億劫になってしまう。
「半休も取れないの?」
「事前にわかっていれば調整できるけど、今日の明日では無理だって」
「まったく……とんでもないところで働いているのね」
常に忙しい職場ではあるが、病気や急を要する用事が入ってしまった時に休むのは仕方ないだろう。だが、「妹の身代わりとしてお見合いするので休みます」はさすがに許されない、というよりそんな理由で同僚に迷惑をかけたくないのが本音だった。
「仕方ないわね。十九時半に始まるから、絶対に遅れるんじゃないわよ」
「……わかった」
「くれぐれも今日みたいに無駄な残業をしないこと。いいわね!」
服装はどうするのかと思っていると、佑衣音と奏美が行きつけにしている美容院で着付けとメイクの予約をしていると言われた。そうなると定時ダッシュでもしない限りとても間に合わない。佑衣香は明日やるべき仕事を頭の中で列挙してみた。
幸か不幸か、絶対に片付けなければいけないタスクを超特急で終わらせれば、ぎりぎり間に合うだろう。但し、昼食の時間を犠牲にするのが条件だ。
佑衣香の零した溜息を完全に無視し、母親は用が済んだとばかりに回れ右をした。
「お相手の釣書は部屋に置いておいたから、ちゃんと憶えていくのよ」
返事を待たずさっさと階上の寝室へ戻っていく背を見送り、佑衣香は更に重くなった足を引きずるように自室へと向かった。
言われた通り、デスクに置いてあるノートパソコンの上に薄い冊子が重ねられている。ショルダーバッグを壁のフックに引っかけながらそれを手に取り、少し雑に表紙を開く。随分と上等な紙を使っているなと思いつつ薄紙をめくると、こちらをまっすぐに見据える美丈夫と目が合った。
太めの首とがっしりとした肩幅から察するに、妹のお見合い相手は大柄な人物のようだ。顔立ちは整っているが、笑顔の気配は微塵も感じられないのでやや怖い印象を受けた。
「六路木(ろくろぎ)って……『六路木ケミカル』の? 大企業じゃない」
写真の彼の名前は六路木礼悠(あやちか)。
年齢は佑衣香の四つ年上の三十歳。バイオケミカル分野の国内最大手企業である「六路木ケミカル」の開発部門で専務を務めている。この年齢で役員とは、いくら創業者一族に名を連ねているとはいえ相当優秀な人物なのだろう。
佑衣香の亡父、辰彦(たつひこ)は農業用飼料を製造、販売する「あさぎり興産」という会社を経営していた。今は副社長だった叔父が社長に就き、一つ年下の弟である千隼(ちはや)が後を継ぐために修業中だ。
おそらくこの縁談は叔父のお膳立てなのだろう。最近は安価な海外製品にシェアを奪わつつあると聞いている。だから六路木ケミカルとの繋がりを作り、世界に張り巡らされている六路木のネットワークを使い、新たな販路を確保しようと考えているのだろう。
そして叔父が二人の姪のうち、仕事漬けで可愛げのない姉ではなく、大人しくて庇護欲をそそる妹を選んだのは妥当な判断と言えた。
「……とりあえず、お風呂に入ろう」
万全を期すために明日は早めに出勤しなくてはならない。だから余計なことはせずにさっさと休まないと。
佑衣香は深い溜息をつき、華々しいキャリアを書き連ねた釣書をぱたりと閉じた。
翌日、赤坂(あかさか)にある高級料亭に佑衣香が到着したのは、あと二分で十九時半になる頃だった。入口に横付けされた黒塗りのハイヤーから降り立つと、女将と思しき女性が慌てた様子で出迎えてくれる。
「淺霧(あさぎり)様、お待ちしておりました」
「こんばんは。お世話になります」
佑衣香がぎこちなく微笑むと女将が「こちらでございます」と廊下の奥を手で指し示した。彼女の様子から察するにお見合い相手はもう到着しているのだろう。申し訳ないと思いつつ、これでも精一杯頑張ったのだと心の中で言い訳をした。
いつもより三十分早く出勤し、上司の確認が必要な書類をすべて準備しておいた。そして講義や研究の合間にすかさず捕獲しては確認してもらい、修正したり捺印をもらったりしてなんとか提出を済ませてきたのだ。
昼休みの間も必死で手を動かし、定時である十七時半に研究所を飛び出した。向かうは母と妹の行きつけである美容院。そこで顔合わせのために用意されている振袖へと超特急で着替えさせられた。
外見はそっくりだが姉妹の好みはまるで違う。妹の趣味、というより母が選んだのだろう。可愛らしさを全面にアピールした明るい桃色の振袖を見せられた時、思わず「これを着るんですか……?」と訊ねてしまったほどだ。
ただでさえ面倒な役目を押しつけられて憂鬱だというのに、寒色系を好む佑衣香のテンションが更に下がってしまった。このまま回れ右をして仕事に戻りたい気持ちでいっぱいになりながら、これまた手配されていたハイヤーへと乗り込んだ。
ここまで来たらもう後には引けない。やや早足で進む女将の後ろをついて歩きながら、佑衣香は静かに深呼吸をした。
「失礼いたします。淺霧様がお見えになりました」
案内されたのは店の奥にある離れの個室。音もなく開かれた襖の先から鋭い眼差しを向けられ、佑衣香は思わずびくりと肩を揺らす。
想像していた通り、六路木礼悠なる男性はがっしりと立派な体躯をしている。座っているので確実ではないが、身長は百八十センチを優に超えているはず。
濃紺のスーツに身を包んだ彼もまた仕事帰りなのだろう。写真よりも端整な顔にほんの少しだけ疲れの気配を滲ませていた。
「遅くなりまして、誠に申し訳ありません……」
「いえ、私が早めに来ただけですのでお気になさらず」
言葉ではフォローしているものの、低い声が機嫌の悪さをありありと伝えている。佑衣香はもう一度「申し訳ありませんでした」と頭を下げ、女将が引いてくれた椅子へと腰掛けた。
和室だがテーブル席になっているので足が痺れる心配はなさそうだ。安堵しながら背もたれとの間に手提げを置くと、彼の傍らにタブレット端末が置かれているのに気付いた。きっと待ちながら仕事をしていたのだろう。それを隠す素振りが見えないあたり、この席に乗り気ではないのが察せられた。
顔合わせはまだ始まったばかり。
だが、これはもう――終わっているも同然ではないだろうか。
状況と表情から察するに、佑衣香がどんなに早く来ていたとしても同じ反応をしたに違いない。母親にどんなふうに報告すれば機嫌を損ねずに済むか、考えなくてはならないのが今から憂鬱だった。
いっそ多忙を理由に切り上げてくれればいいのに。そんなことを祈りつつ向かいに座る礼悠を見上げると、眉間にうっすらと皺が寄せられた。
「……六路木礼悠です」
これ以上ないほど簡潔な自己紹介に思わず「それだけですか!?」とツッコミを入れそうになった。だが今は大人しい「佑衣音」なのだと自分に言い聞かせ、笑顔のまま軽く頭を下げる。
「本日はお忙しい中、貴重なお時間をいただきましてありがとうございます。淺霧佑衣音と申します」
佑衣香の職場の上司や同僚達はよく言えば個性的、悪く言えば曲者揃いである。常日頃から面倒な人々を相手にしているせいだろうか、その場の雰囲気と相手に合わせた言い回しは呼吸するのと同じくらい自然に口から出てくる。妹には働いた経験がないが、これくらいの挨拶は練習していると信じたい。
だが、礼悠には意外だったらしい。くっきりとした大きな目を軽く瞠ってから、ほんの少しだけ険しい気配を和らげた。
とはいえ、相変わらず友好的とはほど遠い雰囲気のままである。時間の無駄にしかならない予感でいっぱいだが、佑衣香にはどうしても無駄にしたくないものがあった。
「失礼いたします」
先ほど案内してくれた女性が小さな盆を手に入ってくる。
「お飲み物はいかがなさいますか」
受け取ったおしぼりで軽く手を拭きながら佑衣香はしばし思案する。礼悠はどうするのだろう。ちらりと様子を窺うと「はやくしろ」と言わんばかり、仏頂面でこちらを見つめていた。
「お茶をいただけますか。できれば冷たいものをお願いします」
「かしこまりました」
妹がアルコールを飲んでいる姿を見たことがない。もしかすると母に禁じられているだけなのかもしれないが、ここでは飲まない方がいいだろう。
そう言いながらもつい、佑衣香の視線は目の前にある青磁(せいじ)の細長い皿へと吸い寄せられてしまう。左から蛤(はまぐり)の佃煮、おかひじきの辛子和え、鮟肝(あんきも)、そして山葵菜(わさびな)の浅漬けが上品に盛りつけられている。
ここまでお酒を飲んでください! といわんばかりの料理の数々を前にして、ビールか日本酒を頼みたくなるのは酒飲みとして当然の反応だろう。だが、今の佑衣香は見事なほどの空きっ腹である。この状態でアルコールを胃に流し込んだら、仕事と着付けで疲労困憊状態なのも相俟って泥酔する、もしくは寝落ちするに違いない。
残念だが我慢するしかない、と心の中で涙を飲んでいると礼悠までもが「同じものを」と頼むではないか。
「あの、私のことはお気になさらないでください」
「そうではありません。このあと会議が控えているだけです」
素っ気なく返され、佑衣香は「そうですか」と言ったきり黙ってしまう。つまり、礼悠は仕事の合間に食事がてら顔合わせをしている――いや、彼の中ではこの会食も仕事なのかもしれない。
気まずい沈黙が続く中、意味もなくおしぼりで指先を拭っていると、ようやく注文した飲み物が届けられた。
振袖なので腕を高く上げられない。目の高さにグラスを掲げて乾杯すると、綺麗な翡翠色の液体を喉に滑り込ませた。どうやら抹茶も少し入っているらしく、口の中にほろ苦さが残る。その後味でビールを頼まなかったことをはやくも後悔してしまった。
なにから手をつけようかと四つの小山を眺めていると、ことんとグラスが置かれた音がやけに響いた。
「先にお伝えしておきたいことがあります」
「……はい」
とても食事を始められる雰囲気ではない。佑衣香は箸へと伸ばしかけていた手を泣く泣く引っ込め、膝の上に乗せると背筋を伸ばした。
「貴女との結婚は仕事上の繋がりを作る名目にすぎません」
やはりそうだったのか。佑衣香は納得しながら「はい」と小さく頷いた。
「ですので、私の妻としての役目さえ果たしていただければ十分です。それ以外は自由にしてくださって構いません」
これはあくまで政略結婚。だから愛情はこちらから求めないし、そちらからも求めてこないでほしい――そう言いたいのだろう。
果たしてこの条件を母親は知っているのだろうか。とはいえ、会社の規模や影響力から判断するに、受け入れるしか道は残されていないのは明白だった。
「はい、異論はございません」
そうなのであれば、もしかすると別居婚になるのだろうか。確認しておきたい気もするが、当人が不在の場でする話ではない。詳細は日を改めて話し合いましょう、とお決まりのフレーズを心の中で呟きながら了承した。
だが、どうやらすんなり受け入れられたのが意外だったらしい。礼悠はほんの一瞬だけ動きを止めた。
「…………ご理解いただけたようでなによりです」
もしかして提案を拒否されるとでも思っていたのだろうか。それで険しい顔をしていたのかもしれないと腑に落ちると同時に緊張が緩み、危うくお腹が鳴りそうになった。
取り急ぎ冷茶を飲んだがこの程度では誤魔化しきれなくなるだろう。佑衣香はにこりと微笑みながら小首を傾げた。
「あの、せっかくですから食べながらお話しをいたしませんか?」
このまま顔合わせの終了を宣言されたら泣くに泣けない。もし礼悠が先に帰ると言い出したら理由をつけて居残り、今出ている分だけでも食べさせてもらおう。そんな密かな決意を知ってか知らずか、礼悠は「そうですね」と塗り箸を手にした。
やや不自然な促し方ではあったが、これでようやく食べ物にありつける。佑衣香もいそいそと箸を手にすると緑鮮やかな山葵菜を摘み上げた。
しゃくしゃくとした歯ごたえとほどよい塩気、少し遅れてツンとした辛みが鼻を抜ける。あぁ、すっごく美味しい……!
本当は一気に食べてしまいたいけれど、仮にもここは見合いの場である。佑衣香の振る舞いを理由に反故にされる結末だけは絶対に避けなければならない。
それに、ここ最近は特に忙しくて適当な食事続きだった。だからこんな高級料亭の料理を勢いよく食べたら確実に胃がびっくりするだろう。ゆっくりと、一口一口噛みしめながら食べ進めていると、テーブル越しに探るような眼差しが向けられているのに気付いた。
しまった。食べるのに夢中で存在をすっかり忘れていた。佑衣香は箸を置いてから決まり悪そうに微笑んだ。
「申し訳ありません。実は今日、昼食を食べられなかったものですから……」
「食べられなかった、ですか? どこか具合でも悪くされているのですか」
思わず正直に言ってしまった。これは佑衣音らしくない発言だし、このまま帰宅を促されてしまっては非常にまずい。
「い、いえっ! その……緊張、のあまり食欲が無かった、だけです。今はもう大丈夫ですので」
咄嗟に出た言い訳にしては我ながらよく出来ているではないか。礼悠も悪い気はしなかったのか、「そうですか」と返すなり僅かに口元を綻ばせた。佑衣香もまた背中を冷たい汗が伝っていくのを感じながら、膝の上に乗せておいた懐紙で口元を拭い、控えめに微笑む。
美味しいものに気を取られてボロが出ないよう気をつけなくては。だが、食べ物に罪はないのですべてしっかりいただくとしよう。
どの酒肴も素材を活かしながらも、しっかり一流の料理人ならではの仕事がされているのがわかる味わいだった。静かに感動しながら食べ終えると、タイミングよく次の料理が運ばれてきた。
「香箱蟹(こうばこがに)の飯蒸(いいむ)しでございます」
目の前に焦げ茶色の片口小鉢が置かれ、ふわりと立ち昇った湯気から食欲をそそる香りが漂ってくる。これは実に美味しそうだ。
「もう香箱蟹の季節なのですね」
「はい。ほんの五日前に解禁されたばかりでございます」
佑衣香がこの蟹を知っているのが意外だったのか、女将は一瞬だけ面食らったような表情を浮かべた。だがそこは接客のプロである。すぐに笑顔に戻って説明をしてくれる。
「香箱蟹」とは北陸地方で獲れる本ズワイガニの雌のことで、漁の解禁期間が非常に短い貴重なものなのだ。小鉢を手に取り、銀餡を纏った紅い蟹の身を少しの緊張と共に口へと運ぶ。佑衣香は舌に拡がっていくふくよかな味わいをじっくり堪能した。
「随分と料理に詳しいのですね」
「あ、それは……」
この話を打ち明けても問題ないだろうか。僅かな思案の後、佑衣香は言葉を続けた。
「父が食道楽(くいどうらく)だったものですから、その影響でしょうか」
「なるほど」
佑衣香の父親は食べるだけでなく自分で料理をするのも好きな人だった。だから食事に行った時も味を気に入ると料理人を呼び、作り方やコツを根掘り葉掘り訊ねようとするのが思春期の頃はとても恥ずかしかったっけ。
父が心臓発作で急逝したのは佑衣香が大学を卒業する年のことだった。そこからは慌ただしくしている間に時間が過ぎ去り、こうやってゆっくり思い出すのは久しぶりな気がする。