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あなたを誰にも渡さない 敏腕秘書と女社長の淫らな偽装結婚 2

第二話

 

 ただし、うつむいたのはやましいからではない。一部の社員から、行状を批判的な目で見られているのは知っているし、それを気にしたこともない。
 顔が赤くなっているのを、誰にも見られたくなかっただけだ。
 篠宮に触れられた腕が熱かった。軽く押された背中も熱を帯びたように火照っている。
 なんでこんな風になったんだろう。――と、莉央は歩きながら反芻(はんすう)する。
 十四年間彼と一緒にいて、色んな感情の浮き沈みを経験した。
 少なくとも、恥ずかしいとか顔が見られないとか、触られただけで顔が赤くなるとか、そういう子供っぽい感情はとっくに乗り越えたと思っていたのに――。
 それが、なんで今さらこうなった?
 背後から、その篠宮の声が聞こえてくる。
「ご承知の通り今日はRIOにとって特別な日です。そして莉央は、ぎりぎりまでその準備にかかりきりでした。どうか皆様、今日だけは莉央を仕事に集中させてください」

 

「人が出張に行ってる間に、一体、何をやらかしてくれたのよ」
 勢いよく扉が開いて、小気味いい声がエグゼクティブルームに響きわたる。
 翌日――午後四時。スーツケースを片手に仁王立ちになっているのはRIOの専務取締役、ヨン・シア。莉央にとっては、高校生からの親友で共同経営者でもある。
 百五十三センチと小柄ながらスポーティな身体つきで、髪は本人の性格を体現したかのような切れのいいボブカット。元々は韓国からの留学生で、父親は有名財閥の会長だ。
「熱愛騒動は二度とやらないって約束だよね。しかも既婚者だって立場、分かってる?」
「――あのね、メールでも説明したけど、あれは伊月旬に嵌められたのよ」
 社長席で、デザイナーから上がってきたデザイン画をチェックしていた莉央は、そのカラクリを知った時の怒りを思い出し、ペンをぎゅうっと握り締めた。
「ちょこっと顔を出したパーティで伊月と一緒になって、その時、同伴してたマネージャーから仕事の話がしたいって誘われたの。で、ラウンジに行ったら伊月が一人だけ。そこを隠し撮りされたってわけ。こっちも報道が出るって知って大慌てだったんだから」
 ちょっと言い訳がましく、メールでも報告したことを繰り返したのは、この話を隣の秘書室にいる男にも聞かせたかったからだ。
 中野(なかの)区の中心街。RIO本社は駅からほど近い商業ビルに入っている。
 十五階建てビルの十三階から上がRIOの業務スペースで、このエグゼクティブルームは役員専用オフィスだ。いかにも女性中心の企業らしいアプリコットピンクのソファが中央に鎮座しているが、その応接スペースを除けば内装はかなり実務的。広い室内は放射線状に三分割され、莉央を含めた三人の取締役用に独立したワークスペースが設けてある。
「ごめん。意味分かんない。トップアイドルがわざわざ人妻とスキャンダルを起こしてなんのメリットがあるわけ?」
「知るわけないでしょ、そんなの伊月旬に直接聞いてよ」
「てか、その時篠宮さんは何やってたの? 莉央と一緒だったんじゃなかったの?」
「ぃ、一緒だったけど、その時は離れた場所にいたのよ」
「まぁまぁ、二人とも、少し落ち着こうよ」
 シアの背後からなだめるような声がした。もう一人の専務取締役、中島(なかじま)良人(よしと)である。
「莉央さん、昨日はお疲れ様。オープニングイベント大成功だったみたいだね」
「良人は黙ってて、今、莉央と大切な話をしてんだから」
 シアに噛みつかれた中島は、二人より四歳年上の二十七歳。ひょろりとした長身で、居眠り中の猫みたいな優しい顔をした男である。
 莉央が十八歳でRIOを起業した時、真っ先に「私もやる!」と言い出したシアが、自分の家庭教師で、当時大学で電子工学を専攻していた中島を連れてきた。
 聞けば中島は、その分野では将来を嘱望される学生で、大手企業への就職も内定していたらしい。なのに人が良いのか、親に隠れて付き合っていたシアの押しに逆らえなかったのか――ECサイトの設計に協力するだけのはずが、結局取締役になってしまった。
 自分のスーツケースを中島に押しつけると、シアは大股で莉央の前に歩み寄ってきた。
「言っとくけどSNSじゃ莉央一人がフルボッコ、袋叩き状態よ」
「知ってます」
「知ってますってすかしてる場合? このネット記事なんて莉央がナントカ依存症で、男なしじゃ生きていけないみたいなひっどい書きぶりなんだから」
「全然――」
 不意に瞼が痙攣(けいれん)したので、莉央は目の端を指で引っ張った。
 渋谷店のオープン準備もあって連日の残業続き。昨日も深夜まで仕事をして、ここ最近定宿にしているホテルに泊まった。不倫報道も重なってずっと気持ちが張り詰めていたから、山を越えたことでどっと疲れが出たのかもしれない。
「全然平気、むしろもっとひどく書いてくれって感じだから」
 そこでようやく莉央の境遇を思い出したのか、シアの表情がふと緩んだ。
 シアだけは、莉央の本当の気持ちを知っている。
 優等生だった高校時代に突然オーディションを受けてギャルモデルになった理由も、好きでもない男と次から次へと熱愛騒動を起こしてきた理由も知っている。
 全ては、十三歳で婚約した男に嫌われるため――その男との結婚を一日でも先延ばすためなのだ。
「莉央、でも、それはもう……」
 とシアが言いかけたところへ、
「ヨン専務、中島専務、お二人ともお帰りでしたか」
 秘書室に続く北側の扉が開いて、にこやかな笑顔を浮かべた篠宮が現れた。
 咄嗟に視線を泳がせた莉央を優しい目で一瞥すると、彼はシアと中島に向き直る。
「状況はメールで報告した通りです。今、マスコミ各社宛に、伊月旬は友人で、その場には私とマネージャーが同席していた旨のコメントを送りました」
「ありがとう篠宮さん。あなたがいれば安心だとは思っていたけど」
 と、たちまちシアの表情が安堵に変わった。
 シアの篠宮への信頼は海より深い。というのも、学生三人で起ち上げた会社を、創業時からずっとフォローしてくれているのが篠宮だからだ。
 シアは経理で中島はシステム、会社の看板である莉央は商品開発と営業。そういう役割でやってきた中で、人事給与、福利厚生などの総務関係の仕事は全て篠宮が担ってくれた。
 現在七十人近くいる社員も取引先も、RIOの実質的な社長は篠宮だと知っている。 
「でもさ、記事が出たのって確か一昨日だったよね」
 二人分のスーツケースを転がしながら、中島が眠たげな目を不思議そうに瞬かせた。
「ねぇ篠宮さん、否定コメントを出すのに、どうしてこんなに時間がかかったの?」
「メールに書いてあったでしょ。伊月旬の所属事務所がうちにストップをかけてたのよ」
 腹立たしげに言ったシアがリモコンを取り上げる。壁にかかった五十インチのモニターが午後のワイドショーを映し出した。
 画面では伊月旬が白い歯を見せて笑っていた。舞台挨拶の最中のようで、画面右上には〈莉央社長とはいい友人・不倫は双方が否定〉という文字が踊っている。
『僕の恋人はファンの皆さんです。あ、ついでにこの機会に言っとこうかな。莉央社長、結婚おめでとうございま~す』
 と、伊月旬が手を振ったタイミングで、篠宮がテレビを消した。
「今日が初主演映画の試写だったようです。マスコミも注目していますし、伊月旬の所属するアベプロとしては、この開始時間に合わせてコメントを出したかったのでしょう」
「腹立つ! 結局莉央が話題づくりに利用されたんじゃない。こっちは叩かれやすいキャラで、しかも結婚したばかりなのにひどすぎない?」
 それについては莉央も全くの同意見だ。伊月旬には怒りのメッセージを連投してやったが、一切無視されている。中小企業の社長一人を怒らせたところで、きっと伊月には痛くも痒くもないのだろう。
「お気持ちはごもっともですが、アベプロダクションは業界最大手で力関係ではうちに分が悪い。今後のことも考慮して、従うのが得策と判断しました。むしろ渋谷店の宣伝になったと前向きに捉えましょう」
 にっこりと笑った篠宮が、オフィス内に設えてある給湯スペースへと歩き出した。
「そんなことよりお疲れでしょう。今、お茶をお淹れしますよ」
 ――いや、ここはもうちょっと怒ってくれてもよくない……?
 そう思ったが、優しげに見えてビジネスには抜け目のない篠宮のことだ。きっとアベプロには相応の見返りを約束させているに違いない。 
 ペンを持ち直した莉央は、紅茶を淹れ始めた篠宮を、横目でそっと窺った。
 出会って十四年。今年で三十二歳になる篠宮だが、容貌は十八歳の頃と変わらない。
 どこか少年のような面影が残る凜々しい顔も、細身ながら硬い筋肉を有した優雅で俊敏な身体つきも昔のままだ。
 ただ、サーバントのお仕着せではないオーダーメイドのスーツをまとい、短く刈った髪をきっちりと整えている今の彼からは、あの頃にはなかった大人の匂いがする。
 形のいい喉仏や男らしい手。その手首で煌めいているのは、祖父から成人祝いに贈られたオメガのシーマスターだ。スーツ越しでも、しなやかに引き締まった腰や、張り詰めた腿や尻のラインがよく分かる。黙って立っているだけで、そこかしこから色気がだだ漏れになっているような……。
「――お嬢様」
 その背中が不意に言った。
 ぎょっとした莉央は、大慌てでスリープ状態のパソコンに視線を移す。忘れていた、篠宮は背中にも目があることを。
「な、何? 会社でお嬢様はやめてって言わなかった?」
「申し訳ございません。視線を感じたので何か私に御用かと思いまして」
「別に篠宮なんか見てないし。たまたまそっちを見て考え事をしていただけよ」
 莉央はモニターで顔を隠し、忙しげに仕事をするふりをした。
 ――う……、恥ずかしい。私、職場で何を考えてたんだろう。
 最近ホテル暮らしをしているせいで、篠宮と一緒にいる機会が格段に減った。そのせいか気づけば彼を目で追ってしまうのだが、そもそも莉央のホテル暮らしは、篠宮を避けたいがために始めたことでもある。 
 二人は今――ホテル暮らしを始めたここ数日を除き、同じマンションの隣り合った部屋で暮らしている。隣といっても二世帯仕様の部屋だから、共有玄関をくぐった後、内側でふたつの部屋に分かれているという格好だ。
 莉央が武蔵野(むさしの)の実家を出たのは、仕事が多忙になった二十歳の時である。祖父がそれを許すに当たって唯一出した条件が、篠宮を隣に住まわせることで、瀬芥との結婚まで莉央を守るという彼の仕事柄、目の届く場所に住むのは当然と言えば当然だった。
 が、そんな二人の暮らしは、最初から同棲同然だった。なにしろ屋敷にいた時と変わらず、篠宮は痒いところに手が届く丁寧さで身の回りの世話をしてくれる。送迎、掃除、日用品の買い物にクリーニング、果てはエステや美容院の予約まで。朝は必ず七時に起こしに来てくれて、その時には浴槽には湯が張られ、テーブルにはフルーツを中心としたヘルシーな朝食が並んでいる。
(こればかりは何度聞いても信じられないんだけど、そんな風に暮らしてて、本当に莉央と篠宮さんの間には何もないの?)
 と、シアに驚かれたが、本当に何もない。
 というより、九歳から篠宮とそんな風に過ごしてきた莉央にすれば、シアに驚かれて初めて「え? そんなにおかしいこと?」と思ったほどだ。
 瀬芥と婚約して以来、篠宮への恋心は完璧に封印している莉央である。
 もちろん篠宮には全く気づかれていないし、フェイクの熱愛だって篠宮の前ではさも本当のように演じている。ビッチと誤解されるのは悲しいが、敵を欺くにはまず味方から。一番身近な篠宮を欺かなければ、肝心の瀬芥を欺けるはずがない。
 もし篠宮に恋人ができたらという想像は、莉央の心を荒海の小舟のようにかき乱す。今のところ女の気配はなさそうだが、その時は――永遠に来なければいいが――潔く笑顔で応援しようと決めている。
 しかし、そんな篠宮と莉央の関係に、先月大きな変化が起きた。
 それ以来、篠宮の顔がまともに見られないどころか、思春期に乗り越えたはずの「赤面」とか「ツンデレ」とかいう乙女な条件反射がぶり返してしまったのである。
「社長、今夜のご予定ですが、私が把握している以外で何かございますか」
 その篠宮が、莉央の前にウェッジウッドのティーカップを置きながら言った。
 ドキッとしたが、そこはかろうじて動揺をのみ込んで、
「別にないけど、当分は渋谷店の様子が見たいから、九時までは会社に残るつもりよ」
「そうですか。実は先ほど瀬芥様から電話がございまして、今夜の〈桜を愛でる会〉に、できれば社長も顔を出すようにと」
 どこか浮ついていた気持ちはたちまち吹き飛び、莉央は身体を硬直させた。 
「……な、なんで? 今回のことなら、篠宮が事情を説明したんじゃなかったの?」
「いたしましたが、久しぶりに社長のお顔が見たいとのことです」
 恐怖でこくりと喉が鳴った。
 聞いた話によると、死刑囚の死刑執行は当日の朝に決まり、本人には直前に知らされるのだという。なんて残酷な話だろうと思ったが、二十歳を超えてからの莉央も少なからず似たような状況だ。瀬芥がその気になりさえすれば、結婚は即座に執行されるのだから。
 いや、でも今は、少なくとも百日の猶予が確実にある。 
 気持ちを落ち着かせて頷こうとした莉央は、そこで、はたとあることに気がついた。
「……そう、分かった。じゃ、急ぎの仕事だけ片付けて私一人で行ってくるから」
「いえ、もちろん私も参ります」
「いいわよ、子供じゃあるまいし。桜の会なら去年も行ったし私一人で大丈夫よ」
「そういう意味ではなく、私も必ず同行するよう申しつかっておりますので」
「へぇー、仲直りしたんだ、二人とも」
 不意に中島の呑気な声が、囁き声で応酬する二人の会話を遮った。
「いや、だって最近の莉央さん、やけに篠宮さんを避けてたじゃん。てっきり篠宮さんと喧嘩して、それが原因で伊月さんと二人で会っちゃったんだと思ってたよ」
 沈黙。ナチュラルに図星を指された莉央は言葉もない。ただそうなった原因は喧嘩ではなく、もっと複雑で気まずいものなのだが……。
 そういった事情を何も知らないはずのシアが、何かしら女の勘で察したのか、助け船を出すように立ち上がった。
「ねぇねぇ、これ、莉央のファンがSNSに上げてるんだけど!」
 莉央の前に突きつけられたスマホの画面には、昨日の喧噪が映し出されている。
 ドキッとしたのは、それが莉央と、その背中に手を回す篠宮の姿だったからだ。
 コメントはハートの絵文字だらけで、
〈超お似合い、莉央社長のダーリンは篠宮たんで間違いなし!〉 
「――どうする? いつもみたいに会社から削除要請しとく?」
「っ、当たり前じゃない。削除削除、篠宮は私と違って一般人なんだから」
「いいんじゃないですか、このままで」
 慌てる莉央を、穏やかに遮ったのは篠宮だった。
「私は公表しても一向に構いません。実際、社長と私は結婚しているわけですしね」

 ◇

 東谷莉央が篠宮莉央になったのは、今からおよそ一ヵ月前――三月中旬のことである。
 十三歳で交わした婚約がなくなったからではない。むしろ続いているからこその結婚だ。
 きっかけは同月の初めに莉央自身が起こした、若手実業家との熱愛騒動だった。
 もちろん、本当に付き合っていたわけでも、恋愛感情があったわけでもない。これまでスクープされた熱愛と同じで、双方示し合わせた上の偽装恋愛。相手にはマスコミに取り上げられることで知名度が上がるというメリットがあり、莉央には婚約者――瀬芥敬一(けいいち)に呆れられ、結婚を躊躇(ちゅうちょ)させるというメリットがある。
 実際、この手法のせいもあってか、二十歳で結婚する約束は未だ果たされていない。
 瀬芥との結婚は、祖父と瀬芥との間で決められた、いわゆる政略結婚だ。
 十年前、祖父は東谷HDを、瀬芥率いる〈ワールド・カンパニー・グループ〉に売却した。瀬芥との婚約はその交渉過程で非公式に決められたもので、東谷HDを将来的に身内に引き継がせたい祖父が、孫との結婚を条件に瀬芥に株を売却したのである。
 救いは、瀬芥がまっとうな性癖の持ち主で、二十歳も年下の莉央にこれっぽっちも関心がなかったことだ。
 もちろん、だからといって油断はできない。二十歳を過ぎた以上、瀬芥の気さえ変われば結婚の約束はすぐにでも実行される。――どころか十八歳を超えた時点で、いつ肉体関係を求められても不思議ではないのだ。
 それを回避するために考えついたのが、瀬芥の嫌うギャルになることと、熱愛騒動を次々と起こして世間の耳目を集め、瀬芥が近寄りにくい空気を作り出すことだったのだが、最後の熱愛騒動でついにそれにもストップがかかった。
 偽装熱愛の相手――蜂蜜の定期販売で財をなし、インフルエンサーとしても有名な通称〈蜂蜜王子(はちみつおうじ)〉が、おかしな正義感を発動してしまったためである。
 父ほど歳の離れた婚約者がいると打ち明けたことですっかり莉央に同情したのだろう。「その婚約、俺が完璧に潰してあげるよ」とヒーローを気取り、莉央と自分の婚姻届を勝手に作成して役所に提出しようとしたのだ。
 莉央もその騒ぎで初めて知ったのだが、たとえ偽造された婚姻届でも、役所に受理されてしまえばひとまず婚姻は有効なのだという。それを無効にするには、裁判を起こすなどかなり面倒な手続きがいるらしい。しかも蜂蜜王子は、莉央を連れて海外移住する算段まで立てていたのだ。
 その恐ろしい計画は篠宮によって阻止されたが、さしもの瀬芥も今回ばかりは激怒した。
 これまでの方針を一転させて莉央の恋愛を禁止しただけではない。
 二度とこんな企みを起こさせないよう、当面の間篠宮と入籍させて、それを世間に公表しようと言い出したのだ。
 瀬芥のオフィスでそれを聞かされた莉央は、最初意味が分からなかった。
「私にも事情があってね。今はお嬢ちゃんと入籍できないんだ。それに以前から思っていたことだが、世間は年の差婚に不寛容すぎる。私はロリコン、お嬢ちゃんは金目当てと、散々バッシングされるだろう。ただ、そこに離婚歴がつくと印象は少し違ってくる」
 煙草をくゆらせる瀬芥は、自分の思いつきにひどく満足しているようだった。
「そういう意味で、お嬢ちゃんが結婚を経験しておくのは悪い話じゃない。相手が篠宮なら私も安心だし、それほど男遊びがしたいなら相手は篠宮一人で十分じゃないか」
 私も安心だし――と言いつつ、同時に離婚届にサインして、それを瀬芥に預けることが篠宮との結婚の条件だった。日本には再婚禁止期間という制度があり、少なくとも瀬芥と結婚する百日前には篠宮と離婚する必要があるからだ。
 瀬芥が本気だと分かった莉央は、驚き、呆れ、そして激怒した。一体瀬芥は、篠宮をなんだと思っているのだろうか。彼はサーバントだが奴隷ではない。しかも、ひどい勘違いをされているようだが、自分と篠宮は決してそういう関係ではないのだ。が――。
「お嬢様、短い間ですがよろしくお願いします」
 驚くことに篠宮は、この異常事態をすでに受け入れてしまっていた。
「名前はどういたしましょうか。私はどちらでも構いません。私がお嬢様の籍に入っても、お嬢様が私の籍に入っても」
「……え、じゃ、じゃあ……篠宮で……?」
 そのドキドキするようなやり取りで、莉央の理性は欲望に負けた。
 とうの昔に諦めながらも、篠宮に対する莉央の想いは変わらない。
 その篠宮とかりそめであっても結婚できる。そんな奇跡ってあるだろうか……?
 その日は嬉しさのあまり、朝まで眠りにつけなかった。篠宮莉央と紙に書いて、それを手にしてピョンピョン部屋を跳び回ったほどだ。 
 けれど、その高揚した気持ちは一週間も続かなかった。
 なにしろ二人の関係は結婚しても変わらない。会社では「社長」、家では「お嬢様」。部屋は別々のままで、莉央が就寝すると彼は自室に戻り、朝になったら起こしに来る。
 そして――これは莉央が結婚相手を公表しないと決めたからなのだが、対外的にも彼は独身のままである。社内外問わずモテモテで、莉央との結婚が噂になってからというもの、何故かますます言い寄る女性が増えている。
 そんな篠宮に、徐々に莉央は不満を募らせていった。一体彼はどういうつもりで偽装結婚を引き受けたのだろうか? 瀬芥に命じられたから? そこに、少しは私への愛情があると思ったのは勘違いだった……?