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あなたを誰にも渡さない 敏腕秘書と女社長の淫らな偽装結婚 3

第三話

 二週間経った夜、莉央は意を決して篠宮の部屋を訪ね、眠る彼を起こして切り出した。
「わ、私との結婚は、――ふ、……夫婦生活的なものが込みだと思うけど、そのことは、どう思ってるの?」
 口にした後、すぐに言葉選びを間違えたことを理解した。もう少し夫婦っぽいことをしてもいいんじゃない的なことを言うつもりが、夜に寝室を訪ねたことも相まって、まるであっちの方をせがんでいるみたいになってしまったのだ。
 さすがに意表を突かれたのか、起き上がった篠宮は喉に何かが詰まったような咳をした。しかしすぐに、いつもの優しい笑みを頬に刻むと、
「お嬢様のお相手になるには、私は少しばかり歳を取りすぎています。なので、私が考えることではないと思っていました」
 あ、そうなんだ――と思いながら、莉央は全身からぷしゅーっと力が抜けるのを感じた。
 篠宮にその気は全くないのだ。よかった、早めに聞いておいて。そこにかすかな可能性を抱いたままでいたら、自分の心がボロボロになってしまう。
 よかったよかったと自分に言い聞かせるも、不意に目元が熱くなった。
「あ……うん、そう。私も、篠宮が考えてないなら、全然」
 やばい、泣く。莉央は急いで立ち上がると、大急ぎで篠宮に背を向けた。
「ごめん、遅くに。じゃ、おやすみ!」
「しますか」
 莉央は足を止めた。彼が何を言っているのかすぐに理解できなかった。
「もちろんお嬢様が、お嫌でなければですが」
 薄闇の中、立ち上がった篠宮が近づいてくるのが気配で分かった。莉央は夢でも見ているような思いで、彼の腕が自分の腰に回され、抱き寄せられるのを感じていた。
 薄いシルクを通して伝わってくる筋肉の隆起と体温。石鹸にも似た清潔な香り。心臓の鼓動が速まりすぎて、失神してしまうかと思った。彼の吐息が耳を掠め、唇がそっと――。
「っ、ま、ままっ……待って!」
 篠宮の腕を振り解いた莉央は、激しく混乱したまま飛ぶように後ずさった。
 まずい、心の準備がゼロすぎる。こうなるなんて予想してもいなかったから、下着を含めた諸々がおざなりになっている。何よりまずいのは、莉央にはこういったことの全てが初めてで、それを篠宮が知らないということだ。
「い、今はちょっと。し……渋谷の店のオープンも迫ってるし」 
「そうですね」
「――ごめんっ、また、また絶対来るから」
 篠宮の顔も見ずに莉央は逃げた。
 その夜は、一晩中眠れなかった。
 全身に、彼が触れた時の胸がざわめくような感触が残っている。抱き寄せられた時の気が遠くなるような甘い陶酔。それが何度も繰り返し思い出されて、その度に胸が切なく締めつけられる。
 その日から莉央はおかしくなった。篠宮の顔をまともに見られない。手が触れただけでくなくなと膝からくずおれそうになる。彼の存在を意識しただけで顔が赤くなるので、意識すまいと気を張るあまり、やたら態度が刺々しくなる。
 渋谷店のオープンを理由にホテル暮らしをするようになったのも、篠宮と二人になると、何も手につかなくなるからだ。そのくせ彼がいないと寂しくて堪らず、一方で平然としている彼を見ると子供みたいに不機嫌丸出しになってしまう。――
 そんな時に起きた伊月旬との不倫騒動は、さすがに莉央を慌てさせた。
 実は伊月のマネージャーからラウンジに誘われた時、真っ先に篠宮に相談しようと、彼を目で探したのだ。が、パーティ会場のかなり目立つ場所で、篠宮は莉央の最も苦手な女性と親しげに笑い合っていた。
 それまでの不満も重なって、後は浅慮、短慮の連続である。そのせいで篠宮は各方面への謝罪と説明に回ることになり、瀬芥にも「お目付役失格」だと叱られたらしい。
 結局のところ、莉央は瀬芥の思惑にまんまと嵌まってしまったのである。
 篠宮の立場を考えれば、偽装熱愛など二度とできないし、彼を困らせるようなスキャンダルも起こせない。
(本当にいい犬だ。早くもご主人様の心をしっかり掴んでいるじゃないか)
 多分瀬芥は、初めて会った日から知っていたのだ。
 あの頃も今も、莉央の心は変わらず篠宮に囚われている。篠宮という鎖で縛られてしまえば、どこにも逃げられないことを――。

                         

「私一人でいいって言ったのに」
 地下駐車場で車を降りた莉央は、扉を開けてくれた篠宮につんっとした顔を向けた。
「いいえ、そうはいきません。瀬芥様に呼ばれているのは私も一緒でございますから」
 その日の午後八時。六本木(ろっぽんぎ)の表参道(おもてさんどう)。
 瀬芥率いるワールド・カンパニー・グループ――通称WCGは、二人が車を降りた五十四階建てのタワービル、その三十二階から三十五階に入っている。
 WCGは、全国に展開する大型総合スーパー〈イーストア〉を主軸に、コンビニ、専門店、フードサービス、アパレルなど各事業の子会社を統括する管理運営会社である。
 グループの年間売り上げは七兆円。会長である瀬芥は、四十代という若さでその地位に立ち、経済界の風雲児として一躍時の人となった。
 ちなみに社名のワールドは、瀬芥の名前「せかい」から来ている。
 今夜、タワービルの最上階で催されているのは、WCG恒例の〈桜を愛でる会〉。
 とはいえ桜というのはただの季語で、実態は取引先の役員や政治家を招いた接待パーティだ。そのため、タレントやスポーツ選手など各界の著名人が多数招かれている。
「見て、莉央社長と同伴の男。ふるいつきたいほどいい男だけど、新しい恋人かしら?」
「違うわよ。確か元マネージャーで、彼女と結婚してるって噂がある男よ」
 会場に入ると、さんざめく笑い声や食器の音に混じって、そんな声が聞こえてきた。
 中世ヨーロッパを模した広いホールには、豪華な料理を載せた丸テーブルが並び、様々に着飾った男女がグラスを片手に談笑している。午後七時開始のパーティだが、殆どの人がほろ酔い加減で、そのせいか場違いに大きな笑い声も聞こえてくる。
 壁を彩るアンティークな装飾品。宝石の反射光のようなトパーズ色の間接照明。床は最高級の黒大理石で、四方を囲む窓からは地上五十四階の東京の夜景が一望できる。
 ここは、選ばれた一握りの人間しか出入りできない特別な場所なのだ。
 が、今の莉央にとって、そんなことはどうでもよかった。
 清純派で知られる若手女優がちらりと篠宮を振り返る。巨乳が売りのモデルも、流し目で篠宮を追っている……ように見える。
 莉央は彼女たちを睨みながら牽制し、急ぎ足でホールを突っ切った。
 莉央も芸能界にいたから身に染みて知っているが、選民意識の塊みたいな女性タレントから見れば、社会的ステイタスのない篠宮は皿に載った子羊も同然だ。しかもこの会場のどこかには、莉央が最も警戒している肉食動物が潜伏しているのである。
「お嬢様、ネックレスに髪が」
 その時、不意に後ろから篠宮の声がした。
「留め金に絡んでいるのでお直しします。少しの間、動かないでください」
 息をのむようにして固まる莉央の耳元に、彼の香りと体温が近づいてきた。
 ――え? なになに、今、一体どういう状況?
 ――ていうか篠宮って、人前でこんなに大胆な真似をする人だった?
 彼の指が肌に触れる度に、胸が変な風にドキドキした。しかも今夜莉央が身に着けているのは、背中が大胆に露出したローズレッドのバックレスドレス。RIOの新作で、二十代の大人ギャル向けにリリースしたものだ。肌出しはギャルファッションの基本だが、さすがに少し恥ずかしいと思っていたところに――この距離感。
 そういえば、今日は暑くてやたら汗をかいたっけ。香水、ちゃんとしてきたよね。うん、してる。ずっと愛用している桜の香りのオードパルファム。以前篠宮にも「いい香りですね」と褒められたことがある。大丈夫、大丈夫――。
 赤くなったりそわそわしたり――そんな莉央の変化にも気づかないのか、篠宮は焦れったいほど丁寧にネックレスに絡んだ髪を解くと、ようやく莉央の背中から身を引いた。
「ぁ、ありがと」
 耳まで真っ赤になった莉央は、両手と両足を同時に出してギクシャクと歩き出した。と、その腰に、突然背後から大きな腕が回される。ずっと背中で意識していた香りに包まれた途端、心臓が巨大な手で握りつぶされてしまったかと思った。
「――失礼しました」
 莉央を片腕で抱き寄せた篠宮が謝ったのは、立ち話をしていた高齢の女性である。ろくに前を見ていなかった莉央は、その女性とぶつかるところだったのだ。
「大丈夫ですか、お嬢様」
 いや、大丈夫だけど、大丈夫じゃない。色んな気持ちが頭を駆け巡って――思い出さないと決めたあの夜のことまで浮かんできて――目の前がぐるぐるしている。
 片腕で莉央を抱いたまま、篠宮はひどく優しい目で莉央を見下ろしている。
 今夜、彼がまとっているのはディオール・メンのブラックスーツ。上品な黒は優雅でスマートな彼に憎らしいほどよく似合う。かすかに香るのはイランイランだろうか。普段のビジネスライクな彼と違い、涼しげな双眸や唇から匂うような男の色気が滲み出ている。
 腰に回された手が熱い。胸が疼くように切なくなる。どうしよう、こんなに近くで見つめられていると、好きな気持ちで心が溢れてしまいそう……。
「――あら、莉央さん、鷹士さん、そんなところにいたの」
 と、いきなりそんな声が、莉央を現実に引き戻した。
 声だけで相手を認識した莉央は、反射的に篠宮を背後に押しのける。
 ――来た、大型肉食獣。
「探していたのよ。着いたらまず私に連絡してくれればよかったのに」
 白大島に銀鼠(ぎんねず)の帯。夜会巻きの髪に紅の簪(かんざし)が艶やかな色を添えている。ふっくらした頬に笑くぼを浮かべて微笑んでいるのは東谷翠(すい)。叔父晴臣の再婚相手で、莉央にとっては義理の叔母――と呼ぶべき女性だ。
 三十五歳。二年前に晴臣と再婚するまで銀座(ぎんざ)のクラブのママだった。目尻の切れ上がった妖艶な美人で、莉央でも吸い寄せられそうになるほど強いフェロモンを放っている。
 全くの逆恨みにはなるが、あの夜、この女が篠宮と笑い合ってさえいなければ、伊月旬との不倫報道が世に出ることはなかったろう。
「わぁ、知らなかった、翠さんも来てたんですか。叔父さんは元気ですか?」
 莉央は無理に作った笑顔で、篠宮をさらに背後に押しやった。
 もちろん翠がいることは分かっていた。瀬芥絡みのパーティには、百パーセントの確率で叔父夫婦も同席しているからだ。
 翠は、莉央にはあっさりした笑顔だけを返すと、一転して艶っぽい目を篠宮に向けた。
「鷹士さん、お仕事ご苦労様。こういう場で見ると、あなたって本当にセクシーね」
「恐縮です。奥様」
 いやいや、恐縮じゃないし。篠宮はもう私の夫なんだから、使用人みたいにへりくだらなくていいから! ――と目で訴えても篠宮には伝わらない。
 翠は、そんな莉央を見てくすりと笑うと、艶めいた腰を揺らして着物の裾を翻した。
「じゃ二人ともこちらにいらして。瀬芥会長のところに案内するわ」

「じゃ、瀬芥会長、我々はこれで失礼します」
 そんな声がして、扉の中から二人の男が現れた。
 翠の後をついて歩いていた莉央は、どこかで聞いた声だと思って眉を寄せる。
 どちらも、やたら肌つやと恰幅のいい初老の男だ。来ているスーツや立ち居振る舞いから、社会的地位の高い人たちだとすぐに分かる。
 二人は慇懃な態度で扉に向かって頭を下げると、談笑しながら、莉央たちとは反対側に向かって歩いていった。
「……翠さん、今の人たちは?」
「アベプロの安倍(あべ)社長と民政党の麻生(あそう)先生。瀬芥会長にご挨拶に来られたんでしょ」
 へぇーと思った莉央は、そこではたと気がついた。アベプロの社長? もしかしなくても今回私を罠に嵌めた張本人?
 追いかけて文句を言ってやりたいと思ったが、その前に翠が、男二人が出てきた扉をノックした。このパーティ会場には至る所に個室が用意されていて、瀬芥はその中のひとつ――つまりこの部屋にいるらしい。
 煌めく夜景を背景に、瀬芥はソファに腰掛けてワイングラスを傾けていた。
 個室とはいえ相当な広さのある部屋だ。薄暗い室内には豪華なミニバーやカラオケセットがあり、奥には別の部屋まである。瀬芥が座るコの字型のソファにはホステスめいた美女が三人いて、その隅には顔を真っ赤にした晴臣の姿もあった。
「やぁ、お嬢ちゃん。何かと忙しいのにこんなところに呼びつけて悪かったね」
 上機嫌で笑う瀬芥は、現在五十二歳。ただし見た目は十年前と変わらない。ぎらぎらした精力的な目に顔全体に刻まれた笑い皺。そして漂白したように白いインプラント。
 今でも顔を見るだけで嫌悪感が込み上げるが、ある種の女にはこういう男が魅力的に見えるのか、今も、隣に座る若い女がうっとりと瀬芥を見上げている。
「お元気そうですね、瀬芥さん」
「君もね、新婚ほやほやのせいか、なんだか急に色っぽくなったじゃないか」
 セクハラ親父――と、莉央は心の中で毒づいた。そこで翠が女たちを奥の部屋に移動させたので、余計に室内の雰囲気がギスギスする。
「座ったらどうかね。お嬢ちゃんのためにロマネコンティのビンテージを用意させたよ」
「結構です。――今回のこと、別に謝る必要はないですよね? さっき来られていた安倍社長から、事情はお聞きになったと思いますけど」
「伊月旬との醜聞のことなら篠宮から聞いているよ。安倍さんなら挨拶に見えただけだ。いちタレントのスキャンダルに口を出すほど、あの男は暇じゃない」
「まぁ……確かに」
 アベプロは芸能界最大の事務所で、政経界とのつながりも深いアンタッチャブルな組織である。しかも瀬芥との婚約は、それが履行されるまで非公表とするのが両家で交わした約束だ。安倍社長が知っているはずがない。
「じゃあ、今夜はなんのために私を呼んだんですか」
「なに、私の騎手が、ちゃんと馬の手綱を取れているか心配になってね」
 意味が分からず眉を寄せた莉央だが、すぐに騎手というのが篠宮のことだと気がついた。
「――今の言葉、取り消してください。篠宮は騎手じゃありません」
「はっはは、怒るのはそっちかね。私は今、お嬢ちゃんを馬に例えたんだが」
 う……と、莉央が言葉に詰まると、奥の部屋から酒肴のカートを運んできた翠が、からかうような口調で言った。
「心配しなくても夫婦仲は良好なんじゃないかしら。さっきも人目をはばからずにイチャイチャしていらしたし。あれで周りも、莉央さんの結婚相手が誰だか分かったはずよ」
 瀬芥は苦笑したが、一転して凄みを帯びた目を莉央の隣に立つ篠宮に向けた。
「――篠宮、この跳ねっ返りに二度とおかしな男を近づけさせるなよ」
「はい、承知しております」
 打てば響くように篠宮。
 そっか――。と、ようやく莉央は、今夜の篠宮のらしくない行動の理由を理解した。きっと予め瀬芥に、二人の仲の良さをアピールしろとでも命じられていたのだろう。
 そもそも結婚相手の名前を伏せることに関しては、瀬芥はあまりいい顔をしなかった。
 それを無視して、「相手は一般人」とリリースしたのは莉央である。この先起こる離婚、再婚のゴシップに、篠宮を巻き込ませたくなかったからだ。
 でも篠宮にしてみれば、そんなことは最初からどうでもよかったのかもしれない。
 今や篠宮は、隅で飲んだくれている晴臣より瀬芥に信頼されている。特に蜂蜜王子の一件以来、毎日のように瀬芥のオフィスに呼びつけられては、莉央の近況を報告させられているようだ。そんな篠宮だからこそ、莉央の結婚相手に選ばれたのだろう。
 その時、かなり酔っているらしい晴臣が、だんっと拳でテーブルを叩いた。
「おいッ、会長がせっかく用意してくださったんだ。さっさと席に着かないか!」
 大理石のテーブルには、クリスタルのワイングラス、そしてロマネコンティの赤ワインが並べられている。ビンテージとなると、ボトル数百万はくだらないだろう。
 莉央を呼びつけた時の瀬芥は、必ずと言っていいほどロマネコンティを用意するが、いかにも金満主義の成り上がりらしくてうんざりする。
 ワインをスルーした莉央は、怒りとも虚しさともつかない目を、だらしなく腹の突き出た叔父に向けた。
 かつて東谷HDの副会長だった叔父は、今や、完全に瀬芥に依存した生活を送っている。瀬芥に与えられたタワーマンションに住み、月々もらう小遣いで、連日、銀座界隈を飲み歩いているらしい。
 祖父が会社を売却した時、株主だった叔父もかなりの売却益を得たはずだが、その資産は全て投資で失った。祖父もまた、その後の投資や会社買収に失敗したため、東谷家にはもう借金しか残っていない。今は莉央が、それを分割返済している状況だ。
「……叔父さん、悪いけど私、明日も早くから仕事だから」
 プライドの高い晴臣を傷つけないよう、莉央はなるべく優しい声で言った。
「それよりお祖父ちゃんは元気? たまには私も会いに――」
「なァにがお祖父ちゃんだ。どこの馬の骨かも分からん私生児のくせに!」
 ひどく酔っているのか、呂律の回らない大声で晴臣がまくしたてた。
「父さんがDNAを調べたらしいが、お前が兄さんの子だなんて私は認めてないからな。そもそも兄さんが認知してない以上、お前はうちとは無関係だ。他人だよ、赤の他人!」
「晴臣さん、お酒が過ぎるわよ」と、翠が苦笑いでたしなめる。
「そもそも私のことを叔父と呼ぶのも間違いで、戸籍の上では兄なんだ。法律上、赤の他人の産んだ娘を父さんが養女にしただけの話だよ。なのに、なんだってお前が瀬芥会長と結婚して、元々父さんのものだった会社を受け継ぐんだ。ええ?」
「……叔父さん、私は何も」
「なんだ? 私に口答えするのか? 私生児のくせにいちいち馬鹿にしやがってッ」
 爆発したような怒声を放つと、立ち上がった晴臣がタンブラーを持つ手を振りかぶった。
「――っ」
 足をすくませる莉央の前に、篠宮が身体を割り込ませる。あっと思った時には彼は片手でタンブラーを受け止めていて、自身の身体でワインの飛沫から莉央を守った。
「落ち着いてください、晴臣様」
 全員が息をのむ中、穏やかな笑みを浮かべた篠宮が、晴臣の前にタンブラーを置いた。
「万が一お嬢様の顔に傷でもついたら、瀬芥様も晴臣様の処遇にお困りになられます。それは晴臣様もお望みではないのでは……?」
 篠宮の顔は見えないが、ソファに腰を落とした晴臣が怯えているのはよく分かった。
 普段滅多に――というか、全く怒らない篠宮だが、時々目から強い圧を感じる時がある。
 穏やかな人ほど怒ると怖いとはよく言うが、もし篠宮が感情を解放したらどうなるのかという怖さは、莉央ですら感じたことがあるほどだ。
 そもそもこれだけ腰の低い篠宮が、ビジネスシーンで他人に舐められているのを莉央は今まで見たことがない。それどころか、どれだけ格上相手との交渉でも、気づけば篠宮が場を支配している。それは、彼の微笑みにうっすらとまとわりつく怖さを、周囲が感じ取っているせいかもしれない。
「――まぁ、大変」
 と、その時、突然声を上げた翠が、さっと立ち上がって篠宮の腕を取った。
「鷹士さん、そのスーツとシャツ、すぐにクリーニングに出さないと」
「あ……いえ、奥様、大丈夫ですので」
 先ほどの迫力はどこに消えたのか、何故か篠宮は翠にはめっぽう弱腰だ。
「いいえ、だめよ。さ、染みになる前にあっちで服を脱ぎましょう」
 ――ちょっと待てい!
 ずかずかと二人の間に割り込んだ莉央は、ハンカチで彼の服や顔をごしごしと拭った。
「――ぅ、お嬢様、そこは大丈夫です」
「黙ってて!」
 特に目の辺りを力一杯擦ってやった。もし翠の色気にやられているのなら、その目にワインをぶちまけてやりたい。 
 その時には、自分の中に束の間沸いた女々しい感情は跡形もなく消えていた。
 篠宮が祖父――そして今は瀬芥のために働いていることは莉央だって知っている。
 ただそれは、莉央を守るためにしていることだ。篠宮が祖父に託されたのは、瀬芥と結婚するまで莉央を守ること。篠宮は自らの業務に忠実でいるだけなのだ。
 そして、篠宮の莉央に対する優しさや思いやりに嘘はない。
 子供の頃からずっと一緒にいる莉央だけは、それをよく知っている。
 突然瀬芥が、大声で笑い出した。
「――っ、何がおかしいんですか」
「いや、失敬。本当に篠宮は使える男だと思ってね。まぁ、それはいい。ここからが本題だから、いったん座って飲まないか」
 莉央は答えず立ったままでいた。視界の端では、翠が晴臣を起こして別室に誘っている。
 ひどい言葉で莉央を侮辱した晴臣だが、憎む気持ちにはなれなかった。
 女遊びなどしたことのない生真面目な晴臣を、翠の店に連れていったのは瀬芥だろう。
 そこで翠に骨抜きにされた晴臣は、妻と離婚までして翠と結婚した。そこからの絵に描いたような転落人生に、瀬芥が影で糸を引いていると思うのは絶対に考えすぎではない。 その時、奥の部屋から晴臣のわめき声が聞こえてきた。瀬芥はチッと舌打ちし、
「篠宮、晴臣君の様子を見に行ってくれ。翠一人じゃどうにもならん」
「かしこまりました」
 あ、待って――と思ったが、篠宮は莉央に軽く会釈してから奥の部屋に入っていった。

 

 

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