あなたを誰にも渡さない 敏腕秘書と女社長の淫らな偽装結婚 1
第一話
東谷(ひがしだに)莉央(りお)が婚約者に会ったのは、十三歳の時である。
「やぁ、莉央ちゃん。初めまして」
莉央は大きな目を瞬かせ、その男の背後を見た。てっきり、そこに息子でもいるのかと思ったのだ。
けれど、お父さんくらいの歳の男の周囲には誰もいない。
「おじさんは……」
「莉央、瀬芥(せかい)さんだ」
莉央の隣に立つ祖父が、優しい声で言った。
「莉央が大人になったら、この瀬芥さんが莉央のお婿さんになる。分かるね?」
少しの間唖然としてから、莉央はこくりと喉を鳴らした。
このおじさん、何歳だろう。
お祖父ちゃんよりは若いけど、庭師の遠藤(えんどう)さんよりは年上に見える。もしかしてコックの斉藤(さいとう)さんと同じくらい……?
「はっはは、戸惑ってるねぇ」
男は豪快な笑い声を立てた。日焼けした顔とは不釣り合いに真っ白な歯。その人工的な白さに、莉央は薄気味悪さを覚えて顔を強張らせる。
「まぁ、お父さんくらいの歳の男が、突然婿になると言われても驚くだろうね。しかも君が成人する時分には、そろそろ五十の呼び声がかかるときている。はっははは」
静まり返った東谷家のリビングダイニングに、男の笑い声が響きわたる。
「瀬芥さんは、いずれ私に代わって〈東谷HD(ホールディングス)〉の会長になる人だ。莉央も大きくなったら、瀬芥さんと一緒に私の作った会社を守ってくれるね?」
祖父の言葉に莉央がおずおずと頷くと、瀬芥はにたにた笑いながらその傍らに屈み込んだ。逃げる間もなく脂じみた手が伸びてきて、結い上げた髪を撫でられる。
「ほうほう、京友禅がよく似合う、日本人形みたいな可愛らしいお嬢さんだ」
そこで煙草臭い息が鼻にかかったので、莉央はうっと息を詰めた。
「最近の若い娘は、変に髪を明るくしたりどぎつい化粧をしたりしてね。いわゆるギャルというのだろうが、みっともなくて見ちゃおれん。やはり女性は黒髪に和服だよ」
そう語る男の目は油を浮かせたようにギラギラして、目尻と下瞼からは魚骨のような不気味な皺が広がっている。背後に撫でつけた髪は整髪料で濡れ光り、車の芳香剤みたいな強烈な匂いを放っていた。
――どうしよう、このおじさん生理的に無理かも……。
瀬芥の鼻が莉央の首元に近づき、くんくんと匂いを嗅いだ。
「この匂いは桜かな。友禅の色といい香りといい、もし君が選んだものならなかなかいいセンスをしている。ふむ、まだ中学生か。とはいえ身体つきはもう大人だな」
いや、中身も無理だ。
キモすぎて無理、絶対に無理!
「どれ、後ろ姿をチェックしよう。莉央ちゃん、おじさんに背中を向けてごらん」
そこでポンッと腰を叩かれた莉央は、悲鳴を上げて飛び上がりそうになった。
咄嗟に――すがるような気持ちで見上げた祖父は、英国紳士を思わせる上品な顔をうつむかせ、微動だにしない。
「莉央、瀬芥さんの言う通りにしないかっ」
そこで神経質な声を上げたのは、祖父の背後に控えている叔父の晴臣(はるおみ)だった。
莉央の父の弟に当たる男で三十五歳。隣には前年見合い結婚した妻を従えている。
「瀬芥さん、すみませんねぇ。この子は亡くなった兄に似たのか、大人しい顔の割に妙に反抗的なところがありまして。しかも兄が認知せずに亡くなったものですから、育ちの悪い女のもとでろくな躾けも受けずに育ったんですよ」
東大(とうだい)卒で山よりプライドが高い晴臣の猫撫で声は、莉央に自分の立場――もとい役目を思い出させるには十分だった。
そうだ。私は、お祖父ちゃんとの約束を果たすためにここにいるんだ。
だったら何をされても我慢するしかない。ええい、お尻だろうが腰だろうが、触りたいなら勝手に触れ!
その時だった。ガシャーンと金属と陶器が同時に砕けるようなけたたましい音がした。
その音は、三階まで吹き抜けになっているリビングダイニング全体に響きわたり、いつまでも繰り返し残響する。
「――申し訳ございません」
誰もが驚きで声をなくしている中、隣接するキッチンの方から男の慌てた声がした。
「お茶を運ぶカートを倒してしまいました。すぐに片付けますのでお許しください」
四方から駆けつけた使用人(サーバント)の中心では、銀製のカートが無残に横倒しになっている。
割れた陶器や銀製のフォークが周囲に散らばり、生クリームやフルーツが散乱した床では、広がった紅茶が湯気を立てていた。
「おい、気をつけろ! 暴漢でも入ってきたのかと思ったじゃないか」
不快げに声を上げた瀬芥が、その表情をふと和らげた。
サーバントの輪から一人の男が立ち上がり、こちらに駆けてきたからだ。
不意に怒りを削がれたような瀬芥の表情は、男を見た誰もが一度は見せる反応だ。
白兎みたいな色白の小顔に、完璧に配置された左右対称の目鼻だち。黒目の大きな双眸は凜々しくも涼しげで、どんな表情をしていても微笑を宿しているように見える。すっと伸びた鼻筋は高くもなく低くもなく、その平凡さが男の美貌に絶妙な親しみやすさを与えていた。人を見れば嫌味しか言わない晴臣が、かつてその顔を見るや言い放った一言が、案外、この男の特徴を的確に捉えているのかもしれない。
(まるでAIが作ったみたいな顔だな)
「篠宮(しのみや)、まさかと思うが、今のはお前がやったのか」
その晴臣が、細い眉をピクピク震わせながら駆けてきた男――篠宮鷹士(たかし)を睨みつけた。
「申し訳ございません。バランスを崩した弾みで身体ごとぶつかってしまいまして」
姿勢を正した篠宮が、胸に手を当てて頭を下げる。
百八十三センチの長身を包む優雅な黒スーツ。実際はサーバントのお仕着せなのだが、篠宮が身に着けると貴族かと思うくらいさまになっている。
片や、痩せぎすで頭髪が後退気味の晴臣は、漫画に出てくるモブの悪役のようだ。
「この木偶の坊め、父さん、だから私はこんな男を家に入れるなと言ったんですよ!」
「まぁまぁ、もういいじゃないか、晴臣君」
そこで瀬芥が、白い歯を見せて間に入った。
「会長、この青年は? 私には初めて見る顔ですが」
晴臣から「父さん」、瀬芥からは「会長」と呼ばれたのは莉央の祖父、東谷正宗(まさむね)である。全国に五百以上の店舗を持つ老舗スーパー〈イーストア〉の創業者で、そのグループ企業や子会社を含めたコングロマリット、東谷HDの会長だ。
「篠宮鷹士です。うちの財団が奨学金を出している孤児の一人ですが、中でもずば抜けて優秀な青年でしてな」
年齢を重ねた者特有の、含みを帯びた穏やかな声で正宗は続けた。
「これまでも、家の手伝いなどをさせていたのですが、今年大学を出たのを機に正式に雇い入れることになりました。今は、サーバントの見習いをさせておるところです」
「なるほど、ではいずれ会長か晴臣君の秘書にでもするおつもりですか?」
「先のことは分かりませんが、当面は莉央の守り役を任せようと思っております」
そこで柔らかく言葉を切ると、正宗は優しげな目を篠宮に向けた。
「ご覧の通り優男ですが、こう見えてなかなか腕が立つ男でしてな。特技は……なんだったかな、篠宮」
「特技とは違いますが、学生の頃にクラヴマガを学んでいました」
「……ほう、それはかなり本格的だ。日本じゃ護身術として知られていますが、元々軍や警察向けの戦闘術ですからね。――つまり、私の婚約者のボディガードになると?」
「瀬芥様と結婚するまでの間、お嬢様をお守りするよう申しつかっております」
そう答えた篠宮の、笑みを帯びた涼しげな目が優しく莉央に向けられる。莉央は表情を変えないまま、視線だけを彼から逸らした。
篠宮と初めて出会ったのは四年前――莉央が九歳の時である。
(――莉央お嬢様、篠宮と申します。今日からこのお屋敷で、お嬢様の身の回りのお手伝いをさせていただくことになりました)
当時篠宮は十八歳。祖父の財団が庇護している孤児の一人で、全寮制高校を卒業したのを機に東谷家に住まわせることになったという。大学に通う傍ら、莉央の家庭教師兼小間使いをすることが居候の条件で、いわばその頃から彼はサーバントも同然だった。
莉央はすぐに彼のことが大好きになった。顔だちは貴公子のように凜々しいのに、どこか愛嬌があって誰に対しても分け隔てなく優しい。それでいて常に莉央のことを一番に考えてくれ、望めばどんな時でも場所でも駆けつけてくれる。
(ねぇ篠宮、格闘技を教えて。私、大きくなったらお祖父ちゃんの敵を倒すんだ)
(――旦那様に、敵がおられるのですか?)
(うん、お祖父ちゃんは私を助けてくれたから、今度は私がお祖父ちゃんを助けるんだ)
やがて篠宮は、屋敷に住む誰より莉央の嗜好や機嫌の機微を熟知するようになった。
二人が男女であることに懸念を示す者もいたが、篠宮の滅私的な奉公ぶりは、そんな声さえもかき消した。何より主人の正宗が、篠宮を絶対的に信頼しているのである。
中学生になってしばらくした頃、莉央はごく自然に篠宮への恋心を自覚した。
けれど、それが絶対に叶わない――叶えてはならない想いであることも分かっていた。
(莉央には、近いうちに婚約者と会ってもらうことになる。きっとだだをこねるだろうが、篠宮、お前が説得して慰めてやってくれないか)
(もちろんです、旦那様。私はそのためにお嬢様のお側にいるのですから)
最初から分かっていたことだが、篠宮が莉央に優しくしてくれるのは、莉央が篠宮にとっての恩人――東谷正宗の孫だからだ。
そして莉央にとっても、祖父は大切な恩人だ。施設で育った辛い幼少時代、あの地獄から救い出してくれた祖父のためなら、なんだってできる自信がある。
二人の立場を再認識してからというもの、莉央は自分の恋心をきっぱりと封印し、篠宮との間に主従としての一線を引くようになった。
ただそれは、自分ではなく篠宮のためである。優しい彼を絶対に困らせたくなかったから。――
「木偶の坊でも顔だけはいい。育ちの悪い莉央にはいい虫除けになりますよ」
晴臣の皮肉な声が、束の間過去に飛んだ莉央の意識を現実に引き戻した。
「なにしろ莉央が瀬芥さんのもとに嫁ぐまであと七年。それまで、莉央には清らかなままでいてもらわねばなりませんからね」
「はっはは、それを守るには七年は長すぎる。莉央ちゃんではなく私がね」
賢しげに言う晴臣を、瀬芥は豪快に笑い飛ばした。
「私の趣味は女道楽で、婚約したからといってやめるつもりはない。なので妊娠にさえ気をつけてくれれば何をやっても構わんよ。結婚する時に一人や二人愛人がいても、まとめて私が面倒を見ようじゃないか」
そして莉央を見下ろしてにやりと笑うと、
「な、私は寛大だろう? だから君も、私に寛大になってくれなくては困るよ」
莉央はただ唖然としていた。
なんだろう、このおじさん。いくらなんでも私やお祖父ちゃんの前で失礼すぎない?
つまりこのおじさんは、完全に私たちのことを見下しているんだ。
もしかして、この人がお祖父ちゃんがいつも言っていた――敵?
しかし、そんな莉央の頭を優しく撫でると、正宗は落ち着いた素振りで頷いた。
「仰る通りです。若者を大人のしがらみで縛りつけたところで、その鎖にはなんの効果もない。むしろ押さえつければつけるほど、それを跳ね返そうと強くなるばかりですから」
「ほう、なかなか含蓄のあるお言葉ですな」
苦笑した瀬芥が、そこでふと表情を改めて篠宮を見た。
「……ふむ」
それまでどこか機嫌よさげだった瀬芥の表情に、まるで雲が作る影のような複雑な色味が広がった。しかし、瀬芥はすぐにそれを皮肉な笑みで上書きすると、小馬鹿にしたような目で篠宮に笑いかける。
「イケメンさん、君がどれだけ主人に従順な犬なのか、私に教えてくれないか?」
「お望みとあらばなんでもいたします。瀬芥様は私の主人も同然ですから」
篠宮は微笑み、よどみもてらいもない口調で答える。その態度の何が癇にさわったのか、みるみる表情に酷薄さを広げた瀬芥が、自分の靴めがけてペッと唾を吐いた。
「舐めろ」
その場の空気が凍りついた。
さすがの晴臣も顔を引きつらせ、正宗も半白の眉を思案げにひそめている。
その中で、数秒、目を瞬かせていた篠宮は、すぐに微笑んで胸に手を当てた。
「かしこまりました」
瀬芥の前で膝をついた篠宮が、背をかがめて靴の方に顔を近づける。
息をのんだ莉央は咄嗟に視線を周囲に巡らせた。ちょうど斜め後ろに、祖父が中国から取り寄せた高さ二メートルほどの花瓶が飾られている。
よろめいたふりで花瓶に近づいた莉央は、全身の力を込めてその花瓶を突き飛ばした。
巨大な陶器が大理石の床で木っ端微塵に砕け散り、落雷と聞き違うほど凄まじい音が室内に響きわたる。
「お、お嬢様!」
「莉央お嬢様! 大丈夫ですか!」
破片の中で気を失ったふりをしていた莉央は、使用人たちによって抱え起こされた。
「ご、ごめんなさい、急に目眩がして……」
騒然となったその場の空気は、突如として響いた瀬芥の笑い声で遮られた。
「カートといい花瓶といい、とんだ散財でしたな、東谷会長」
そして、立ち上がった篠宮に目をやると、
「本当にいい犬だ。早くもご主人様の心をしっかり掴んでいるじゃないか」
心配そうな目で莉央を見ていた篠宮は、黙って瀬芥に向き直った。
瀬芥は取り出したハンカチで無造作に自分の靴を拭うと、それを篠宮の顔に投げつける。
「犬っころ、せいぜい私の花嫁を守るんだな」
落ちたハンカチを拾い上げた篠宮は、静かな目で微笑すると恭しく頭を下げた。
「はい。瀬芥様の仰せの通りに」
十年後――四月
東京(とうきょう)都渋谷(しぶや)区。
女性向けファッション店が立ち並ぶ目抜き通りの一角に、街並みを彩る桜より華やかな行列ができていた。
大半が十代から二十代の女性である。明るい髪は巻き毛率が異様に高く、カラコンで色味を変えた瞳をメイクでより大きく見せている。そして殆ど全員の顔にある涙袋。
女たちの行列は、一月にグランドオープンした商業複合施設のエントランスから始まり、巨大なビルをぐるりと囲んで駅の方にまで続いている。
ミニスカートやショートパンツなど、いわゆるギャルファッションに身を包む彼女たちの目的は、このビルで今日オープンする〈RIO(リオ)〉のオープニングイベントだ。
ファストファッションのECブランドとして、若い女性を中心に人気を集めているRIO初の実店舗。SNSを中心に大きな話題になっていただけあって、路上にはマスコミやネット配信を生業とするインフルエンサーらが待機している。とはいえ、彼らの目的はプレスリリースされたオープニングイベントでもギャルの行列でもない。
その時、鮮やかなメタルオレンジのBMWが、建物前の路上に滑り込んできて停車した。
それが彼女の愛車だというのは、あらゆるメディア関係者が知っている。
彼女――RIOの創業者にして、ギャルのカリスマ東谷莉央。
車から降りた莉央を、たちまちカメラのフラッシュが取り囲んだ。
「莉央社長、昨日配信された週刊エイトの記事のことで!」
「伊月(いつき)旬(しゅん)さんとの不倫報道について一言コメントお願いします」
しかしその声は、路上を埋め尽くす女性たちの歓声でかき消される。
「莉央社長!」
「莉央社長、超可愛い!」
駆けつけてきたスタッフに守られるようにして歩きながら、莉央は明るく手を振った。
大歓声。向けられたスマホとフラッシュの数は、メディアのカメラも霞むほどだ。
莉央社長。その愛称は、彼女が人気絶頂だったギャルモデル時代にRIOを起業したことに由来している。
今でも、若い女性――特にギャルに熱狂的に支持されているのは、彼女がギャルモデル引退後も、その頃と変わらぬスタイルを貫いているからだ。
緩くウェーブのかかったピンクブラウンの長い髪。アイメイクで強調された明るい双眸とエクステ睫毛。そしてギャル定番の涙袋。百六十三センチのスレンダーボディを包むパンツドレスは鮮やかなコバルトグリーンで、十五センチヒールのサンダルにもネイルにも、ゴテゴテキラキラしたものが光っている。
十七歳でギャルモデルとしてデビュー。モデル時代は明るい脳天気キャラで親しまれ、今では年商二億円企業の社長である。若い女性にカリスマ的人気があるのも無理はない。
が、昨日、その人気に影を落とす事件が起きた。
人気アイドル伊月旬との深夜デートが、ゴシップ週刊誌にスクープされたのだ。
それがただの熱愛なら莉央にはよくある話である。十八歳で交際宣言したギャル男モデル、二十歳でお泊まり愛が報じられたインフルエンサー等々、恋の相手は枚挙に暇がない。
しかし今回マスコミが気色ばみ、路上のファンの中にも動揺を隠せない者がいるのは、伊月旬が国民的人気を誇るトップアイドルであることと――今からおよそ一ヵ月前、莉央が一般男性との結婚を発表したからだ。
「莉央社長、不倫なんて嘘だよね」
「ちゃんと説明して、莉央社長!」
ファンの声に、ネット配信者の煽るような声が重なった。
「おい、ヘラヘラ笑ってないでちゃんと説明したらどうなんだよ!」
「――したくてもできないのよ」
カチンとして、思わず反論した莉央の腕を、隣に滑り込んだ篠宮がやんわりと掴んだ。
反射的に見上げた篠宮の顔は、優しく微笑んでこそいるが目が全く笑っていない。
――お嬢様。口の動きも囁きも、映像に拾われたら最後、解析されて終わりです。
との心の声が聞こえてくるような、圧のある眼差しだ。
「……わ、分かったから離してよ」
何日も前からその顔をまともに見られない莉央は、気まずく言って腕を振り解いた。
「先に中へ、後は私が対応いたします」
そんな態度も気にならないのか、篠宮は微笑んで莉央の背中を優しく押した。たちまち他のスタッフに囲まれた莉央の背後から、彼の爽やかな声が聞こえてくる。
「申し訳ないのですが、路上での取材は危険ですのでお控えください。莉央の囲み会見はこの後予定しておりますが、質問はイベントのことに限らせていただきます」
篠宮鷹士。RIOの社員で莉央の秘書。
莉央がモデル時代はマネージャーだった男で、昔からのファンにはよく知られた存在だ。当時、様々な芸能事務所から誘いがあったというが、それも納得の美貌である。
すらりとした長身に、甘いマスクという形容詞がぴったりの優しい目鼻だち。そのせいか、言っていることは噴飯ものなのに記者の表情もどことなく和んでいる。
「篠宮さん、報道は事実ですか?」
「一番近くで社長を見てきた人として、一言お願いします」
芸能記者の照準が、あっと言う間に篠宮に変わったのには理由がある。
未だ一般男性としか公表されていない莉央の結婚相手が篠宮なのではないか――という噂は、ファンの間で今も根強く囁かれている。
当然マスコミも、篠宮がそうなのだろうと睨んでいる。ただしあくまで一般人である篠宮の名前や顔写真を、憶測を交えて報道することはできない。
しかも、若くして年商二億円超え企業の社長になった莉央には、かなりの大物がバックについているという噂がある。彼女の実家が、かつて一時代を築いた〈イーストア〉の創業家なのは有名な話で、少なくとも流通業界に相当な人脈があるのは間違いない。
「篠宮さんって、本当にマスコミあしらいが上手いよね」
「そりゃ莉央社長のせいで慣れてるのよ。これまで何度会見を仕切ったと思ってんの?」
スタッフの棘のある囁きを背中で聞きながら、莉央はうつむいて建物の中に駆け込んだ。