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僕らはこの手を離さずに 3

第三話
 


 ふにっ、と柔らかいものが唇に当たっている。凛は動けない。まぶたも閉じれなかった。倫は目を閉じている。近すぎる距離にいても、まつ毛が長いのがよくわかった。
 角度を変えてもう一度、唇を押し付けられる。
 彼の手の皮膚の厚さからは想像できないくらい、柔らかい唇だった。
 今度は凛もまぶたを閉じた。
 後頭部に、指切りしていない方の手を置かれる、
 凛は泣きたくなったが、それがどういう感情からなのかはよくわからなかった。頭を撫でてくる手があんまり優しいからか。蘭への後ろめたさか。
 倫の顔がゆっくりと離れていく。口づけられていたのは、時間にすればきっと短かったのだろうが、ずいぶん長く感じた。
 凛を見た倫が、ぎょっとした顔をした。
「ごめん」
「え?」
「嫌だった?」
 なにを慌てているのかと思ったら、凛の目から涙が一筋溢れていた。
「……嫌では、なかったよ」
「そうか」
 凛はこてんと、倫の肩に頭を置いた。
「パンダ」
「え?」
「籠に入れて、お布団かけてある」
「待遇いいな。うちのは、壁にぶら下がってる」
「もっとかわいがってあげて」
「今晩から一緒に寝る」
 肩に手を回された。また唇を重ねられる。
 そうされるのが自然な気もしたし、いったい自分たちはなにをしているんだろうという気にもなる。
 倫に対する気持ちは曖昧だったし、倫も好きだとか、そういうことは言ってこなかった。告白して、受け入れられて、キスをして、その先もして。そういった一連の流れは不可逆で、一歩ずつ確実に進められるものだと思い込んでいたのだが、そんなことはないらしい。
「……お姉さんから連絡あった?」
 唇を数ミリだけ離して、倫が聞いてきた。
「ううん。もっと早く音を上げて帰ってくると思ってたから、驚いてる。意外と根性あったんだなって。お兄さんの様子はどう?」
「相変わらず仕事に身が入っていないって、親父が嘆いている。ここまで長くそんなだってことは、真面目に頑張っていないいまの方が本性なんだろうって俺は思ってるけど」
 倫には絶対言えないが、最近の両親は姉だけを責めるのに疲れたのか、倫の兄がふがいないせいでこんなことになったなどと言い出している。
「俺たちが付き合いだしたら、親たちはなんて言うのかな」
「無理だよ、そんなの」
 許されるわけがない。
 そうだよなと、倫も小声で言う。
 急に現実に引き戻された感じがして、凛は肩に回されていた倫の腕を下ろした。肩が軽くなったはずなのに、逆にもっと重くなったように感じた。
「そろそろ勉強するね」
「ああ、頑張って」
 約束を忘れるなよというように小指を振って、倫は美術室から出て行った。

 

 翌朝。
 教室で会った蘭の表情は強張っていた。
 おはようと言ったらおはようと返ってはきたが、目を合わせようとしてこない。
 心当たりは、ある。
 昨日倫と美術室にいたのを見られたのだろう。決定的な瞬間まで見られたかはわからないが、けっこうしばらく肩を抱かれた状態で喋っていたから、通りがかりに見られていたとしても不思議はない。
 凛には友達が少ない。だから休み時間にはひとりになってしまうようになった。
 授業の合間の休み時間はいい。勉強していればすぐに十分くらい経つし、この時期はみんなも勉強している。昼食の時間は、少し辛かった。もともと凛より社交的な蘭は、簡単によそのグループに混ざって弁当を食べるようになったが、凛はそういうことができない。声をかけてくれた女子もいたが、結局勉強しながらひとりで食べるスタイルに落ち着いた。
 倫は凛と蘭の異変に気づいているようだったが、教室で話しかけてはこなかった。少なからず彼が原因であり、へたに話しかけてこられても困るので、それでいい。
 そうこうしているうちに、都立の推薦入試が終わった。
 倫は見事、都立最難関校に合格した。
 それから一か月の間、凛は余計なことは考えず、勉強に集中した。放課後は図書室に直行し、帰宅するぎりぎりまで受験勉強に励んだ。
 いま自分が受験生として正しい行動をしているという意識は、それ以外の現実から逃げているという後ろめたさを消してくれた。
 そして、三月の初日。
 凛は第一志望校に無事合格した。蘭も合格したことは、人づてに聞いた。
 いよいよ卒業が近くなり、教室は弛緩した空気でいっぱいになる。卒業を間近に控えてできた即席カップルたちは、過ぎていく時間を惜しむように写真を撮り、思い出を残そうとしている。
 倫は教室では元バスケ部のメンバーに囲まれていて、凛に話しかけてはこない。
 卒業まであと一週間、というところで、凛はやっと母から受験が終わったらという約束だったスマートフォンを買い与えられた。
 さっそく遅ればせながらクラスのライングループに入れてもらう。これで同窓会などの知らせが受け取れるようになった。
 グループに入った通知を見たらしく、すぐに倫から個人メッセージが飛んできた。
『スマホ買ったんだ』
『うん、やっと』
 やったー! という浮かれたパンダのスタンプが押された。かわいい。自分もほしいが、どう操作するのかわからない。
『絵を描く日程決めよう』
『私はいつでも大丈夫』
 凛は一文字一文字一生懸命打ち込んだ。倫のフリック入力が早すぎて、全然ついていけない。
『じゃあ卒業式の前日の放課後は?』
 さすが人気者。卒業ぎりぎりまで倫は予定が詰まっているようだ。
『了解です』
 楽しみ! というパンダの絵が送られてきて、口角が緩む。
 こんなささいなやり取りに、幸せを感じる。
 それから毎日、倫からはメッセージが入った。
『今日カラオケ行ってきた』とか『駅前の喫茶店のパフェでかすぎ』とか、短い文がくることもあれば、ピンク色のパンダが倫のものらしきベッドに寝かされている写真だけということもあった。
 そのすべてに、凛は律儀に返信をした。
 ライングループに入ったことで、蘭の個人アカウントもわかった。あれから蘭とは一度も話せていない。何度もメッセージを書きかけては、結局送れずにいる。
 三年間共に部活に励み、二年からはクラスも一緒だったのに、このまま別れ別れになるのかと思うと切ないが、全部自分のせいだ。無理やりキスされたわけでもなく、言い訳の余地はない。

「──これでやっと瀬川さんちと縁が切れると思うと、ホッとするわ」
 卒業式を二日後に控えた夜、夕食の最中に母がこぼした。
「まったくだ。式場のキャンセル費用なんかのやり取りのとき、ずいぶんねちねち言われたからな。うちが悪いのはわかっているが、何度キレそうになったことか。愛華が逃げ出したときはなんてことをしてくれたんだと思ったが、あんな意地の悪い舅と姑がいるところに嫁がなくてよかったといまは思うよ」
 温厚そうに見えて意外と短気な父が母に同意する。
 兄と姉のことは、倫と凛には関係ない。そんなことを口に出せる空気ではなかった。
 凛は籠に入っているピンク色のパンダを思い浮かべた。
 自分の本心を両親に理解してもらいたいとは思わない。ただパンダと一緒に柔らかいものに包んで大事にしまっておければ、それでいい。
「ところで、凛」
「え?」
「買ってあげたスマホ、変な使い方してないでしょうね」
「変なってなに」
「知らない人と出会うようなサイトに登録したり、くだらないゲームに課金したり。スマホを買い与えてすぐの頃が一番危ないって、今日テレビで言ってたのよ」
「やってないよ、そんなこと」
 母は過剰にスマートフォンを敵視している。もともと漫画やテレビ番組も制限したがるタイプだ。過保護というか過干渉で、凛は内心うんざりしているが、顔には出さない。そんなことをすれば、せっかく手に入れたばかりのスマートフォンを没収されることが目に見えているからだ。それなのに、母がとんでもないことを言い出した。
「見せなさい」
「……え?」
「スマホを買ったときに、あくまで所有権は親で、凛には貸しているだけ。親はいつでも中身をチェックできることにするって約束したでしょ」
「した……けど……」
 心臓の拍動が激しくなる。
 たしかに約束はさせられたけれど、それはクレジットカードの請求額が跳ね上がったときや、凛の様子が明らかにおかしいときなど、特別なときに限られると思い込んでいた。
「なに出し渋ってるの。ますます怪しいわね」
 母は眉を吊り上げ、リビングのテーブルに置いてあった凛のスマートフォンをガッと掴んで持ってきた。
 パスワードは最初に設定したものを変えることを禁じられていたため、すぐに突破される。
 母は真面目な顔でホーム画面をスクロールし、妙なアプリが入ってないかチェックしはじめる。アプリ自体には、なんらやましいものはない。
 問題はSNSだ。頼むから触らないでくれ、と思った瞬間、メッセージアプリが立ち上げられ、小さく悲鳴を上げかける。
 トーク欄に並んでいるアイコンは、ふたつしかない。ひとつはクラスのグループのもの、そしてもうひとつには『倫』とハッキリ表示されている。
「……倫? って、あんた、まさか」
 トーク画面を開かれ、絶望的な気分になる。ここ最近のなにげない、でも親しげなやり取りを読み、母は目を吊り上げた。
「お姉ちゃんだけじゃなくて、あんたまで瀬川さんちの子とどうこうなる気!?」
「どうこうなんてなってないって。ただちょっと、仲良くなっただけで──」
「そんな軽い気持ちであの家に関わるな! ろくなことにならないに決まっている」
 父が腹立たしげに母の手からスマホを奪い取った。
 倫、そしてクラスのグループまでブロックされる。それだけでは終わらず、SNSアプリ自体がアンインストールされてしまった。
 凛は俯いて下唇を噛んだ。これで中学のクラスメイトたちの連絡先をすべて失った。
 明日と明後日は学校に行くから、SNSアプリを再インストールしてもう一度みんなと繋がることは可能だろうが、母は絶対に卒業式のあとにまたスマートフォンをチェックしてくるだろう。
「凛、謝りなさい」
 父と母が圧をかけてくる。謝らない限り、もうスマートフォンは渡さないつもりのようだ。
 自分は、謝らなくてはいけないことをしたのだろうか。
 凛は膝に置いている手をぎゅっと握った。
「なによ、その反抗的な目は」
 母が憎々しげに言った。
「倫くん、ずいぶんかっこいい子だったわよね。あんたもお姉ちゃんと同じ。面食いで男を見る目がない」
「面食いなんかじゃ……」
 涙が込み上げてきて、うまく言葉が出てこない。
 小指がかわいいと言ってくれた。
 絵のモデルを務めてくれた。
 おそろいのパンダを買ってくれた。
 そういう宝石みたいにキラキラしている思い出のひとつひとつを無視して『面食い』の一言でまとめてほしくなかった。
「とにかく。これは高校の入学式までお預けだ」
 父が判決を言い渡す。凛はそれを受け入れるしかなかった。

 翌日凛は、卒業式の練習が終わると倫と待ち合わせしていた美術室に寄った。
 先に来ていた倫がホッとしたような顔をする。
「来ないかもと思った」
「え?」
「昨日の夜、既読つかなかったから」
「ああ……」
 どんなメッセージをくれたのかわからないが、既読はつけられなかったのだ。ブロックされてしまったし、スマートフォン本体も没収されてしまったから。
 倫がさっそく『手』のポーズをとってくれる。前回よりずっとスムーズだ。練習してきてくれたのかもしれない。
 凛は前回と同じ角度から、真剣に彼の手を観察した。明日は卒業式で、凛は部活の仲間たちや後輩にもみくちゃにされるだろうから、こんなふうに過ごせるのはこれが最後になるだろう。
「……なにかあった?」
 デッサンをはじめて十分くらい経ったところで、倫に尋ねられた。
「あったといえばあったかな」
「なに」
「親にスマホの中身見られて、没収された。高校の入学式まで返さないって」
「……まじか」
「まじです。瀬川とのやり取りも見られたし、全部消された」
「兄貴たちのことと、俺たちのことは、関係ないと思うんだけど」
 納得いかないらしく、倫は憤りを露わにした。それを見て、昨日から感じていたやりきれなさが、少し報われた気がした。
「ありがとう、怒ってくれて」
 デッサンが完成した。そのページを破り取って、倫に手渡す。
「これ、瀬川が持ってて」
「いいのか?」
「うん。持っててほしい」
「わかった」
 倫はじっと自分の手のデッサンを眺めてから、なにも描かれていない右下の空白の部分をビリッと破った。
 そこに電話番号とSNSのIDを書いて手渡してくる。
「ほとぼりが冷めたら、登録して。SNSの表示は、俺の名前になってるとまずいだろうから、登録したらすぐ適当に女の子の名前にでも変更するといい」
「あ、あれって変更できたんだ」
 知らなかった。知っていれば倫の名前のままにはしておかなかったのにと悔しくなる。なにせつい最近までスマートフォンを買ってもらえなかったものだから、全然使いこなせていないのだ。
「……それじゃ、行くね」
「……うん」
 離れがたい心を引きはがすようにして、倫から一歩離れた。
「葉山」
「うん?」
「……元気で」
「うん、瀬川も」
 約束めいたことは、なにも言われなかったし言えなかった。
 卒業式のあとも、倫が部活の仲間たちや後輩たちにもみくちゃにされ、制服のボタンを取られまくっているのを横目に、スマートフォンがなくて写真の一枚も撮れない凛はすぐに家に帰った。

 

 荷物がすべて運び出された部屋は、やけに広く見えた。
 一人暮らしをはじめたのは大学を出てからだから、この賃貸マンションには約三年間住んだことになる。1Kと狭い部屋だが、ひとりで暮らすには十分だったし、窓の外が開けていて明るいところが気に入っていた。
 三年間、いろいろあった。いいことばかりではなかったけれど、悪いことばかりでもなかった。
 いままでのことを振り返るとどうしても感傷的になるが、自分の人生を自分の手で掴み取るのに必要な三年間だったとも思う。
 もう迷いはない。凛はスポンジと洗剤を手に持った。
 どうせハウスクリーニングが入るから、そんなに頑張って掃除しなくていいよとは大家さんから言われているが、三年間住ませてくれたこの部屋にお礼をしたかった。

 

 夏休みに入ったばかりの七月中旬。
 凛は上野にある国立の美術館に来ていた。いつものように、ひとりで。
 友達がいないわけではない。高校に入ってから一年と三か月が過ぎ、けっして多くはないが美術部員仲間を中心に心許せる友達が何人かできている。
 三年生は秋の展覧会への出品をもって、部活を引退する。そこで、次の部長を引き受けてくれないかと昨日現部長から打診された。
 二年生の美術部員は、現在男女合わせて八人いる。穏やかで優しいひとばかりだから、協力を仰げば皆手を貸してくれるだろうし、部長の仕事は多くはない。
 ただ、『長』とつくものに対する漠然とした不安が拭えず、返事を保留してしまった。
 胸がざわざわして落ち着かないとき、凛はよくこの美術館に来る。常設展の内容が素晴らしいのに、高校生だと入館料が無料だからだ。
 なかは広くて空調が効いていて、ちょっといただけで汗が吹き出てくる外とは別世界だし、一休みするための椅子があちこちにある。誰も他人なんて見ていないから、朝から晩までいたっていい。
 ミロの大作の前にある休憩スペースに座り、うーんとひとつ伸びをする。この展示室を出れば、常設展はおしまいだ。もう何度もたどっている観覧ルートなのに、いつもここまでくると名残惜しい気分になる。
 やっぱり、部長やりますって言おうかな。
 ミロの極太の黒い線と、太陽を思わせる真っ赤な円を見ているうちに、なんとなく勇気が湧いてきた。
 立ち上がって、出口に向かって歩き出す。ミュージアムショップは、見るといろいろ買いたくなってしまうから見ない。
 美術館の扉から出ると、真夏の厳しい日差しとむあっとした空気が一斉に襲い掛かってきた。一瞬で汗だくになりそうだ。
 一刻も早く駅ナカに避難したい気持ちを抑えて、美術館の前庭にある『地獄の門』を見上げる。ここまで来てロダンを見ないなんてもったいない。
 高さ五メートルを超える大きなブロンズの門の上部では、今日も『考える人』が真面目くさった顔で地獄を見下ろしている。
『なんか偉そうだよな』
『考える人』がなにを考えているのか話したときに、倫が言った言葉を思い出す。姉が自分の結婚式から脱走した日のことだ。あれからもう二年経つ。
「ほんと、偉そう」
 フフッと笑って、凛は『地獄の門』から離れ、少し離れたところにある拡大された『考える人』のブロンズ像を見に行った。
 筋肉質な裸の男性が下を見ている。全体的に拡大されているうえに目線に近いところに置かれているため、『地獄の門』の上にいる彼より表情やポーズがよくわかる。
 凛は倫が右肘を左の腿に置いたこのポーズを真似て、美術部員たちの前で六十分間モデルを務めたときのことを思い出した。休憩を一度も挟まずこのポーズを一時間キープするのは、さぞつらかったことだろう。
 倫とは中学の卒業式以来、一度も会っていない。
 高校の入学式後に戻ってきたスマートフォンに倫の連絡先は登録していない。登録しようかと思ったこともあるが、高校に入学して新しい生活になじむのに時間がかかり、倫に連絡するタイミングを失った。
 連絡先を書いた紙片は、大事にとってある。いまからだって連絡できなくはない。しかし倫は倫でもう新しい環境にすっかり慣れただろうし、いまさら中学時代に一度キスしただけの女に連絡されても困らせるだけかもしれないと思うと、動けなかった。
 要は勇気が出なかったのだ。
『考える人』の前に立ち、じっと見上げる。岩の上に座った彼は、拳を歯に当ててずいぶん深刻そうな顔をしている。
『地獄の門』から切り離されたことで、『考える人』は普遍的な人間像となった。いったいなにを考えているのか、どうとでも解釈できる。だから人々を魅了してやまないのだろう。
 暑いなか、帽子も被らず『考える人』を延々と眺めていると、柵の向こう側、つまり美術館の敷地外から、キャハハと笑う若そうな女性の声が聞こえてきた。
「やばい。半ケツ出てる、このおじさん」
 たしかに柵の向こうから見ると、岩の上に座った『考える人』のお尻の上部が見えるだろうが、それでウケるなんて小学生男子みたいだと可笑しくなる。
「くだらないこと言ってんじゃねえよ」
 呆れたような声が聞こえてきた瞬間、心臓が跳ねた。
 この声は。
 ふらふらと足が勝手に動き、体が『考える人』の陰から出る。
 柵のすぐ前。両手をパンツのポケットに突っ込んで、仏頂面をしている、倫がいた。
 『考える人』を見上げていた彼の顔が、ゆっくりと下がっていき、ハッとしたようにこちらを見る。
「──葉山」
「あ……」
 凛は反射的に一歩下がった。
 そこからの倫の行動は早かった。ダッシュで入り口に向かい柵の内側に入ってきたかと思うと、固まっている凛の手首を掴んだ。
「久しぶり」
「……久しぶり」
 一年と四か月ぶりだった。
 凛は倫の顔を見上げた。十センチくらい背が伸びた感じがする。凛は全然変わっていない。
 半袖のアロハシャツにハーフパンツを穿いて、日に焼けている。顔つきからは子供っぽさが抜け、だいぶ精悍になっている。
「連絡、待ってた」
「……ごめん」
「いい。連絡しづらかったのもわかるから。今日はひとり?」
「うん。瀬川は友達と、動物園でも行ってたの?」
 柵の向こうで男子がひとりと女子がふたり、こちらをじっと見ていることに凛は気づいていた。
「うん。双子のパンダがだいぶ育ってた」
 倫が凛の鞄のチャックのところについているキーホルダーをじっと見た。
 凛も倫のサコッシュにつけられているキーホルダーに目をやる。
 薄いピンク色の十センチくらいのぬいぐるみキーホルダーは、二年前の夏休み、蘭も交えて三人で動物園に行ったときに倫が買ってくれたものだ。
 双子のパンダで、倫のは男の子、凛のは女の子。
 普段は机の上に置いているのだけど、上野に来るから連れてきた。倫もそうなのかもしれないと思うと、なんだか胸がいっぱいになり、凛はなにも言えなくなった。
 倫も凛の手首を掴んだまま黙っている。
「──リン!」
 柵の向こうから、焦れたような声がかかった。
 さっき『考える人』を見て笑っていた女の子だ。ポニーテールの勝ち気そうな子で、おもしろくなさそうな顔で凛を見ている。
「彼女?」
「そんなんじゃないよ。男バスのマネージャー」
「バスケ、続けてるんだ」
「うん」
「ねー、リンってば、早く行こうよー」
「わかったって」
 倫が後ろを振り返って、めんどくさそうに言った。せっかく会えたのにもう行ってしまうのかと胸が引き絞られるような寂しさを覚えたが、引き留める言葉は凛の口から出てこない。
「……なあ」
 緊張した様子で倫がスマートフォンを取り出す。
「連絡先、交換してくれないか」
「あ、うん。いいよ」
 親にアンインストールされてしまったSNSアプリは、高校に入学してから再インストールした。中学までは親の方針などでスマートフォンを持っていない子も何人かはいたけれど、高校では所持率は百パーセントで、部活やクラスの連絡などにないとさすがに不便だったからだ。
 親も倫と学校が離れたことで安心したのか、何度かサラッとチェックしてきたものの、二年生になった頃にはもう凛のスマートフォンに触ることはなくなっていた。
 それじゃあ、とアプリを立ち上げ、友達登録をする。以前の失敗は無駄にしないよう、倫の登録名はすぐに無難な女の子の名前に変更しておいた。
「やった」と、倫が小さくガッツポーズをする。気持ちの上では、凛も同じ感じだった。
「じゃ、俺行くわ」
「うん」
「連絡するから」
「うん」
 倫は何度も振り返りながら、友達のところへ戻っていった。

 倫からは、その晩すぐに連絡が来た。
 高校でもバスケ三昧だが外を走らされるから日に焼けたこと、授業はレベルが高く、真面目に勉強しないとすぐついていけなくなってしまうこと、ピンク色のパンダは普段壁にかけてあるが、上野に行くからと思って連れていったこと。
 凛もベッドに潜って、美術部を続けていることや、週末はよくひとりで美術館を巡っていることなど近況を伝えた。
 たわいのないやり取りに心が躍る。こうしていると、中学の卒業間際の頃みたいだ。
 何度かメッセージをやり取りしたあと、倫が『今度の日曜、部活休みなんだけど会えないか』と誘ってきた。
 返信するのに、少し迷った。
 日曜は、凛も部活が休みだ。今週は友達や家族と出かける用事もない。だから会えるといえば会えるのだが、中学の卒業式の前々日に倫とやり取りをしたのがバレたときの両親の怒りようを思い出してしまい、腰が引けた。
 ダメ押しみたいに、倫からはパンダが両手を合わせて上目遣いで『お願い』と言ってきているスタンプが送られてきた。
 かわいい。
 凛もパンダでなにか送り返したいが、スタンプに課金することは禁じられている。なにかのキャンペーンでもらった無料スタンプで、『オッケー』と返事した。
 すぐさま『やったー!』とパンダが大喜びしているスタンプが送信されてきた。
 スマートフォンの向こうで倫がどんな顔をしているのか想像すると、口元が緩む。
 布団のなかでスマートフォンを抱き締める。今度の日曜まで、まだ一週間もある。こんなに週末が楽しみなのは久しぶりだった。

 

 倫と待ち合わせした上野公園のすぐそばにある甘味処には、外まで列ができていた。さすが老舗の大人気店だ。
 ただ席数が多く回転も速いので、十分も待たずになかに入れた。今日も日差しがきつかったのでありがたい。
 二階席に案内されて座ると、すぐに店員が温かいお茶を持ってきてくれる。
「ご注文はお決まりですか」
「クリーム白玉ぜんざいください」
「クリーム白玉金時、クリームダブルで」
 お互いにお互いの注文に対して、ええ……という顔になる。
「絶妙に気が合わないね。クリームダブルって、あんことのバランス悪すぎでしょ」
「そっちこそぜんざいってなんだよ。あんは粒々感があってこそ美味いんだろうが」
 どうでもいいといえばどうでもいいが、譲れない戦いがそこにはあった。
 少し待って、注文した品がふたりの前に運ばれてくる。
「ひと口ちょうだいって言ってもやらないからな」
「いらないよ」
 倫とこうして中学時代のようにぽんぽんとどうでもいいやり取りができるのが、いまだに信じられない。特に約束したわけでもないのに、ふたりしてまたピンク色のパンダを鞄につけてきているのも信じられない。
 なんとなく、倫とはもう二度と会えないと思い込んでいた。彼の連絡先を書いた紙を持っていたのだから、凛の方からはいつでも連絡しようと思えばできたのに。
「……それで、葉山んちはあれからどう?」
 倫がクリーム白玉金時のクリーム部分だけをひとすくい口に入れた。
 唇についたソフトクリームをちろりと出てきた舌が舐めとる。驚くほどに柔らかかったその唇の感触を生々しく思い出し、凛は思考を振り払うように拳でドンっとテーブルを叩いた。
「それが聞いてよ」
「おお、どうした」
「結婚式場から脱走するなんてあんな熱烈なことしておいて、この春『やっぱりなんか違った』って言って、ぷらっと帰ってきたの。いまは近所のファミレスでバイトしてる」
「まじか。ウケる」
 倫の肩が揺れる。
「お父さんもお母さんも呆れはしてもたいして怒らなかったし、アルバイトじゃ無理だろうって結婚式のキャンセル料も払わせないし。お姉ちゃんに甘い甘い」
「自由でいいな、葉山の姉ちゃん。葉山にしたら、たまったもんじゃないかもしれないけど」
「お姉ちゃんのことはべつに嫌いじゃないし、仲が悪くもないんだけど……親の態度が、お姉ちゃんと私じゃ全然違うのが気に入らないっていうか」
「葉山はしっかりしてるから」
 そう言われがちなのは事実だが、凛は自分をしっかり者だとは思っていない。常識に縛られ、姉ほど自由人になれないだけだ。
「瀬川の家は? どんな感じ?」
「あんまり変わらないかな。破談になったことを話すのは、タブーみたいになってる。兄貴は相変わらず適当に働いてるみたいで、父さんは兄貴じゃなくて俺に会社を継いでほしいみたいなことを言い出した」
「お互い、上のきょうだいに振り回される人生だね」
「勘弁してほしいよな。いままでいろいろ優遇されてきたんだったら、長子としての責任を全うしろっての」
 凛は白玉とあんを一緒にすくい、口の中に入れた。滑らかな白玉も、甘さ控えめなあんもとても美味しい。
「葉山はいまも美術部続けてるんだったよな?」
「うん。秋からは部長になりそう」
「すごいじゃん」
「ひと少ないだけだから、すごくはないかな。瀬川はバスケ続けてるって言ってたね」
「うん。けっこう強いよ、うちの学校」
 倫の学校は、公立では都内で一番の進学校だ。それでいて部活も強いのだから、まさに文武両道というやつだ。
「そうだ、葉山、来週の週末暇?」
 先に食べ終えた倫がお茶を飲みながら尋ねてきた。
「土日は展覧会の前以外は基本休みだから、暇だよ」
「土曜に試合があるんだ。練習試合だけど、よかったら見に来ないか」
 倫の提案に凛は戸惑った。
「それって、関係ない学校の生徒が見に行っても大丈夫そうな感じなの?」
「全然大丈夫。選手の家族とかみんな来るし……あ、うちの親ならいつも来ないから平気」
「私、バスケのルールってよくわかんないよ」
「中学の体育でやったろ」
「ゴールに入ったらだいたい二点。たまに一点とか三点」
「それだけわかっていれば問題ない」
 はい決まり、というように倫が笑う。
「そう……かなあ……?」
 凛はまだ迷っている。どこでもひとりで行けるタイプではあるのだが、そもそもスポーツ観戦に行ったことが一度もない。どういう雰囲気かわからず、気後れしてしまう。
「だいたい、不平等だと思わないか?」
 微妙な顔をしている凛に倫が言った。
「え?」
「俺は何度も葉山の部活を見に行ったのに、葉山は一度も俺の部活を見に来てくれてない」
「い、いやあ……それは……」
 中三の頃の話なら、来てと頼んだわけではなかったのだが。
「わかった。じゃ、来週試合見に来てくれたら、再来週は葉山の行きたいところに行く」
「なにそれ」
 凛は思わず笑ってしまった。そんなに見に来てほしいのか。
 中学の卒業式の前々日、倫と連絡を取り合っていることを知ったときの母の顔が脳裏をよぎった。あれから一年以上経つし、もうほとぼりも冷めている。と思いたい。
「……わかった。行くよ」
 どうせなにか用事があるわけではないのだ。それに、縁が切れたと思っていた倫と、先々まで約束ができるのは正直嬉しい。
「やった」
 倫は顔の前でぐっとガッツポーズをした。
「見てて。俺めちゃくちゃ頑張るから」