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僕らはこの手を離さずに 4

第四話


 翌週の土曜の午後。試合の会場は、倫が通っている学校の体育館だった。二階にぐるりと廊下があって、ゴール付近には椅子も少しある。外は真夏だが、体育館のなかはエアコンがよく効いていた。
 椅子はもう埋まっていたので、凛はゴールを斜めに見る感じで通路の柵にもたれかかって観戦することにした。通路もほとんど埋まっている。少し早く来てよかった。
 それにしても、練習試合だと聞いてきたのに、ずいぶんたくさんの観戦者がいる。
 選手の家族らしき大人や子供もいるが、圧倒的に多いのは女の子たちだ。倫が通っている学校は、偏差値が高いことの他に校則がないことでも有名だからか、派手な髪色の女子も多く、なんとなく気後れしてしまう。
 女の子たちはみんな賑やかで、特に聞く気がなくとも話している内容が聞こえてくる。やっぱり選手たちのファンらしく、人の名前がちらほらと混ざっている。そのなかでも、気にしているからか「瀬川くん」というワードが際立って多く聞こえてくる感じがして落ち着かない。
 十分ほどそのまま立って待っていると、試合前の軽い練習という感じで、パラパラと選手たちがコートに出てきた。選手たちも観客と一緒で、黒髪から金髪に近い茶髪までいる。
 倫の姿はすぐに見つけられた。黒髪の短髪。背がずいぶん高くなったと思ったけれど、こうしてバスケ部員の中にいるとそう目立たない。
 リラックスした様子でチームメイトとボールを投げ合い、ふとこちらの方に顔を向けた。
 倫はパッと表情を明るくして、凛に手を振ってきた。
「あ……」
 周囲にいた女の子たちの視線が、誰に? という感じでそわそわとさまよう。
 倫を無視するわけにもいかず、凛は小さく手を振り返した。
 嫉妬めいた視線が、あっちからもこっちからもぐさぐさと突き刺さってくるのがわかる。なんであんたみたいな地味な子が、と思われているのもわかる。
 倫は中学生時代女の子たちからモテまくっていたが、高校に入ってからもそれは変わらないらしい。
 そういえば、付き合っているひとはいるのか聞いていなかった。
 上野で再会したとき、倫を含めて男女二人ずつで遊んでいたようだが、あれはダブルデートだったんじゃないだろうか。倫は彼女じゃない、と否定していたけれど、女の子の方はどう思っていたのかわからない。
 などと考えていると、背中がざわっとした。
 コート脇に立っている女の子から、すごい目で睨まれている。その顔を、凛は見たことがある。上野で『考える人』のブロンズ像を見て『半ケツ出てる』と笑っていた子だ。マネージャーだから、選手たちの近くにいるのだろう。
 他にどうしていいかわからず、会釈してみたら、思いっきり顔を反らされた。
 こわっ、と思ったけれど、これくらいどう思われているかわかりやすい方が楽だとも思う。あの子はきっと、倫のことが好きなのだ。
 やがてピーっと笛が鳴り、両校の選手が一列に並んだ。
 互いに一礼して、真ん中の円いところに選手がひとりずつ入る。審判がふたりの間にボールを高く投げ、試合がはじまった。
 はじまってものの一分で最初の得点が決まって、えっ、と驚く。よくわからないが、倫たちのチームが先制したようだ。
 すぐに相手チームがゴール下からボールを投げ入れ、試合が再開する。展開が早くて目が忙しい。中学の体育で見た未経験者たちのぬるいバスケットボールとは、スピード感が全然違う。
 全体を把握しようとするとわけがわからなくなりそうだったので、倫の姿を追うことに集中する。
 ちょうど味方からのパスを受け取ったところだ。ドリブルで相手をかわして鋭く敵陣に切り込み、ふわっと飛んだ。ボールが手から離れる瞬間、ゴールに入ることを確信したからか、倫が少し笑ったのがわかった。
 ゴールが決まり、二階の女の子たちが「キャーッ」と歓声を上げた。
「やっぱり瀬川くんやばいね」
「ほんとやばい」
 興奮した口調で言い合う声が聞こえてくる。
 この場合の「やばい」は「かっこいい」だろう。いまのは本当にかっこよかったと凛も思う。あの瞬間を、切り取ってスケッチしたいと思った。
「彼女いないって本当なのかな」
「先週告白して玉砕した子が『付き合っているひとがいるからですか?』って聞いたら『そういうわけじゃないけど』って言われたらしいよ」
 倫は相変わらず、モテまくっているようだ。
 それから凛は、柵にもたれかかってコートのなかで躍動する倫を見つめ続けた。
 倫はすごい。試合が終盤になっても、飛ぶようにコートを走り、重力から解き放たれたように飛んでゴールを決めている。凛だったら、コートの端から端まで一度走ったら、もうヘロヘロになってしまうだろう。
 仲間たちと笑顔で励まし合い、疲れを見せず走る彼は生き生きとしていて、凛がいままで見てきた倫とは全然違った。
 四十分間の試合は、あっという間に終わった。倫たちの快勝だった。倫が何回ゴールを決めるのか凛は数えていたのだが、途中でわからなくなってやめた。
 選手たちがまた一列に並び、一礼する。
 二階の観客たちは座っていたひとたちも立ち上がり、選手たちに大きな拍手を送った。
 拍手が収まったところで、周りのひとの動きに合わせ、ゆっくりと階段を下りる。
 開け放された入り口から、体育館のなかを覗く。選手たちは水分を補給したり、タオルで顔を拭いたりしている。顧問の先生らしきひとがなにか言い、部員たちが大きな声で「はい!」と返事をした。
 当たり前だが、美術部とは全然雰囲気が違う。
 凛の後ろを通り、観客たちが続々と帰っていく。凛も部員たちといる倫の邪魔をする気はないので、そのまま帰ろうとしたが。
「葉山っ」
 首からスポーツタオルを下げた倫が、凛に気づいて駆け寄ってきた。
「お疲れ様。大活躍だったね」
 健闘をたたえると、倫は満面の笑みを浮かべた。
「来てくれてありがとう。おかげで頑張れた。俺、今日のMVP」
 凛は「すごい」と手を叩いたが、MVPがなんのことか正直よくわかっていない。
「このまま葉山と冷たいものでも食べに行きたいところだけど、まだミーティングとかあるんだよな」
 倫は残念そうだが、凛は試合が終わったからといって、はい解散とはならないだろうと思っていたので特にがっかりもしなかった。
「みんな待ってるんじゃない? もう行きなよ」
「……また観に来てくれる?」
「うん」
 そのくらい、お安い御用だ。
「やった」
 倫が嬉しそうだと、凛も嬉しい。
 と、そこで。
「リン! ミーティングやるよってば!」
 マネージャーの女の子のいらいらした声が飛んできた。
「わーかったって」
 言い返してから、倫は凛と向き直った。
「それじゃ、また。来週は葉山の行きたいとこ行こ」
「うん」
 何度も振り返って手を振りながら、倫は仲間たちのところに帰っていった。

 

 次の週末には、午前十一時に九段下で待ち合わせをした。
 皇居や武道館を囲むお堀に沿ってぐるりと歩き国立の美術館を目指す。気温は三十八度を超えていて、十五分歩いただけで凛は汗だくになった。
 せめて堀が綺麗に見えていれば気分だけでも涼しくなれそうなものだが、あいにく水草でいっぱいで、ほとんど水面が見えない。
「おーい、葉山、大丈夫か」
「あんまり大丈夫じゃない」
 建物に入る前に、持参した水筒の水をごくごくと飲んだ。それだけで生き返った心地がした。
「いる?」
 倫に水筒を差し出す。
「いる」
 倫も相当喉が渇いていたらしく、勢いよく水筒をあおる。凛は倫の喉仏が上下するのをなんとなく見ていた。
「ありがとう」
「ん」
 すっかり軽くなった水筒を鞄にしまい、館内に入る。
 他の美術館から収蔵品を借りてきている企画展は高校生から料金がかかるが、ここのところ蔵作品展の方は高校生まで無料だ。ありがたい。
 エレベーターで四階まで上がって、目当ての美術品を探す。
 企画展じゃないとはいえ、夏休み期間だからか、展示室にはそこそこひとがいた。
「──あった」
 倫が黒い彫刻を指さした。
 第二展示室のど真ん中に、それはあった。
 高村光太郎の『手』。
 中学三年のとき、凛が倫に同じポーズをとってもらって、デッサンした思い出の彫刻だ。
「本物はけっこう大きいな。俺の手の倍とまでは言わないけど」
 倫が彫刻の横に左手を構え、同じポーズをとる。中学のときは、指がつりそうだと大騒ぎしていたのに、複雑なポーズをほぼ一発で再現した。
「うまいね」
「練習したからな」
 凛は彫刻と倫の周りをゆっくりと一周した。教科書に載っていた写真とは違い、三百六十度どこからでも見られるのがいい。
 こうして観ると、どちらも男の手だが、彫刻の方が関節が目立ち筋張っていて大人の手という感じだ。
「俺、あのときのデッサン、大事に取ってあるよ」
「……うん」
 凛も、あのとき倫が画用紙の端を破って書いてくれたSNSのIDを大事に取ってある。母親に見つからないよう、普段はピンク色のパンダを寝かせている籠のなかに入れてある。
「この彫刻って不思議だよな。こんなにキツくて緊張感のあるポーズなのに、観ている分には妙に落ち着くっていうか」
「この『手』は、高村光太郎自身の手がモデルなんだけど、参考にしたのは仏像の手らしいよ」
「なるほど。だからか」
 写真撮影可だったので、凛は彫刻の手と倫の手を一枚記念に撮った。
 母にスマートフォンをチェックされても言い訳がたつように、倫の顔は入れなかった。
 それから一時間半ほどかけてゆっくりと展示された作品を鑑賞して、美術館を出た。
 外はまだカンカン照りだ。
「お昼ご飯どうしよう」
「こんな暑い日は、カレー。カレー一択」
「カレーか……」
 暑い日に、熱々のカレー。まあ、冷たい蕎麦なんかより元気は出そうだ。
「なんでカレーは夏でもオッケーな感じなのに、シチューって冬のものってイメージなんだろうな」
「ルーのメーカーが冬しかCMしないからじゃないの。知らないけど」
 どうでもいいことを話しながら、十五分ほどかけて神保町まで歩く。神保町は古本屋街としてよく知られているが、カレーの街でもある。
 そこかしこにあるカレー屋のなかから、倫が好きだという老舗に行くことにした。昼時を少し過ぎているが、さすがに人気店。二階にある店舗に続く階段にずらりと列ができていた。
 壁に沿って、ふたりで並ぶ。
 一時間は待つかなと凛は覚悟していたけれど、回転はよく、三十分ほどで店内に案内された。
 水と一緒に、ふかしたジャガイモがまるまる一個出てきて驚く。添えられていたバターをつけて食べるととても美味しかった。
「今日は付き合ってくれてありがとう」
「いや。楽しかったよ」
 倫に芸術鑑賞の趣味があるのかはわからないが、思いのほか熱心に見て回っていた。
「……瀬川、しょっちゅう美術室に来て、私が絵を描いてるの見てたよなあとか、思い出してた」
「俺、放課後に美術室で葉山といるの好きだったな。すごい落ち着くっていうか」
 美術室で凛の隣に座っていたとき、倫はいつもとても静かで、この前バスケットボールの試合で見せたような生き生きした彼とはまるで別人だった。
 どっちが本当の倫なのだろう。
 たぶん、どっちも本当の姿なのだろう。
「家がそんなに居心地いいところじゃなかったから、早く帰りたくなくて美術室に行ってたところもある」
「そうなの?」
「うち再婚家庭で、兄貴と俺は母親が違うんだ。母親は兄貴に気を使っていつもビクビクしてたし、兄貴とは年が離れているのもあって全然気が合わないし」
 倫の家庭事情は初耳だった。
 お互いのきょうだいが結婚する予定だったのだから、たぶん親はその辺りの事情を聞いていたのだろうが。
 そんなことを話している間に、ふたりの前に注文した中辛のビーフカレーが置かれた。ライスとカレーが分かれていて、自分でかけて食べるスタイルだ。
 それじゃあさっそく、という感じで、倫がテーブルに並んでいる薬味のなかからラッキョウを手に取り、ライスに豪快にかけていく。
「えっ」
「ん?」
「信じられない……」
 そう言いながら凛はレーズンを大きなスプーンで二回ライスにかけた。
「いや、レーズンはないだろう、レーズンは」
 甘味処に行ったときも思ったが、絶妙に気が合わない。
 お互いに文句をつけ合ったライスにカレーをかけて、口に運ぶ。大ぶりな牛肉が、口のなかでほろほろと崩れた。
「ん……美味しい」
「だろ?」
 レーズンはないと思うけど、と倫はまだ言っている。
 お腹が空いていたのもあって、半分くらいまでふたりして夢中で食べた。
「──来週は、どこに行こうか」
 さも出かけるのが当然という感じで、倫が尋ねてきた。
「え」
 先週の試合を見に行ったのと、今日美術館に来たところまではまだセットで考えられたのだが、毎週ふたりで出かけるとなると、まるで付き合っているみたいだ。
「ほんとは夏休みなんだし、平日に遊べればもっとどこでも空いてるんだろうけどな。部活休めないから」
 部活、というワードで、凛は思い切り睨んできたマネージャーの女の子のことを思い出した。
「貴重な休みの日を私と遊ぶのに使っちゃっていいの?」
「貴重な休みだから、葉山と遊びたいんじゃないか」
 そうなんだ、とドギマギしてしまう。どういう顔をすればいいのかわからない。
「……瀬川はさ、モテモテだよね」
「そう?」
「バスケの試合に行ったとき、周りの女の子たちみんな瀬川を見てたよ」
「バスケやってる姿がかっこいいと思ってもらえるのは、まあ嬉しいよ」
「高校入ってから、彼女作らなかったの? 告白されたりしてそうなのに」
「告白は何度かされたよ。だけど、ほとんど知らない子に『付き合って』って言われても、正直困る。あと高校入ってわりとすぐの頃告白されて振ったら、翌日にはクラス中の人間に知られてて。女子たちからは『あの子泣いてたよ』とか責められるし、女の子っていう群れがなんか怖くなった」
「ああ……」
 凛は告白したこともされたこともないが、誰かが誰かに告白したという情報がクラス全体に広まっていく速さがものすごいことは、よくわかる。
「葉山はあんまり群れないよな。上野で再会したときもひとりだったし」
「友達少ないからね」
 その少ない友達と日時を話し合って決めるのも面倒で、たいていのところへはひとりで行ってしまう。
「そういや聞いてなかったけど、付き合ってるやつはいないの?」
「ずっといないよ」
「なんで」
「なんでって、私は瀬川と違って普通にモテないから」
 そう答えると、倫はパアッと表情を明るくした。
「周りの見る目がなくて安心した」
「え?」
「なあ、来週も再来週も俺とどっか行こう」
 けっこう辛めのカレーを食べているはずなのに、倫の顔はまるで甘いケーキでも食べているかのようにとろけている。
 じわじわと言われた言葉の意味が凛の胸に染み込んできた。
「バスケの試合もまた観に来てほしい」
「……いいよ」
「やった」
 顔の前で小さくガッツポーズして、倫が笑う。凛は胸がくすぐったくなり、残りのカレーを勢いよく食べた。

 

 夏休みが明けて、九月になった。残暑は厳しく、まだ長袖の制服を着る気にはなれない。
 倫とはほぼ毎日、主に寝る前にSNSでたわいのないやり取りを続けている。まるで中学の卒業間際のときみたいだ。
 夏休みの間は土日がバスケ部の休みだった倫だが、学校がはじまると水曜と日曜が部活の休みとなった。
 水曜は、凛の美術部も休みだ。
 だからか、倫は凛の学校の正門まで毎週迎えに来るようになった。
「凛、今日も『水曜日の君』が来てるよ」
「その言い方やめて」
 窓の外を見た美術部員仲間にからかわれて、赤面してしまう。
 鞄に教科書やノートを急いで詰め、教室を出る。
「正門に、すっごいかっこいいひと来てたね」
「誰かの彼氏かな。羨ましい」
 下級生たちの興奮した声を聞きながら、靴を履き替えて正門前へと走る。
「お、お待たせ」
 息を切らせているのがおかしかったのか、倫が笑う。
「そんなに急がなくてよかったのに」
「だって瀬川が待ってるから」
「待ってるのも楽しいよ」
 たぶん倫は本当にそう思っているのだろうが、凛が待たせたくないのだ。凛はこの学校で、地味に平和に暮らしている。あまり多くのひとに倫を見られて、噂されたくない。
 もう遅いかもしれないが。
「行こう」
「うん」
 凛が歩き出すと、倫がついてきた。
 水曜日のデートは、お互い夕飯までに家に帰らなくてはいけないから、時間が短い。たいていは、ファストフード店でポテトを食べながらお喋りしたり、歩きながらかき氷を食べたりして終わる。
 少しでも長く一緒にいたいのはやまやまだが、万が一にも母親に倫といるところを見られるわけにはいかないので、家まで送ってもらうことはできない。
 倫とはすごく気が合うというわけでもないのに、不思議と話すネタに詰まることは少なく、また沈黙になっても気まずくならない。
 お互いの学校でのできごとを話したり、家の愚痴を言ったりしているうちに、すぐ帰る時間になる。
 週末は映画や水族館に行くこともあれば、倫の試合を観に行くこともあった。
 夏の大会が終わり三年生が引退すると、倫は男子バスケットボール部の部長になった。
 凛も秋の文化祭が終わると美術部の部長になった。
 お互い忙しくなったけれど、その忙しい合間を縫うようにして逢瀬を重ねた。会えない時間が増えるとそれだけ会えたときの喜びが増し、ふたりの仲は深まった。
 それでもお互いの家には行けないので、密室でふたりきりになることは難しく、手を繋ぐのがせいぜいのかわいらしい付き合い方だった。

 そんなある日。
 凛のスマートフォンに妙なメッセージが入った。
 差出人のアカウントは倫だが、部活があるはずの金曜日にお互いの学校の中間地点にあるカフェに来るよう書かれている。
 文面も普段より事務的で妙だなと思ったけれど、行けないことはなかったので部活を休んで指定された店に向かう。
 チェーン店のカフェは七割ほどの客入りだった。カウンターでオレンジジュースを買い、きょろきょろと店内を見回すが、倫の姿はない。まだ来てないのかな、と思いかけたところで知った顔を見つけ、なるほどと納得する。
 倫の試合を観に行くたびに睨みつけてくる男子バスケットボール部のマネージャーが、窓際に座り、冷たい目で凛を見ていた。
 ここまで来ておいて、逃げるわけにはいかない。
 凛は通学鞄の持ち手をぎゅっと握り締めて、マネージャーのもとへ向かった。
「……お待たせしました」
 向かい合わせに座り、まっすぐに視線を受け止める。
「葉山凛です」
 たぶん知ってるんだろうけどと思いながら自己紹介すると、馬鹿にしたような顔をされた。
「リンだと思って、ほいほい来ちゃって」
「ちょっと変だな、とは思いましたよ」
「それでも来るんだ」
「誰かが私に話があるのはたしかだと思ったから。お名前くらい聞かせてもらっていいです?」
「……中井美和(なかいみわ)。二年。男バスのマネージャー」
 ふてくされたような言い方だった。
 美和も来たばかりなのか、アイスコーヒーらしき飲み物はほとんど減っていない。
「試合でいつもお顔見てます」
「どうせ、マネージャーなんて男目当てでやってるとでも思ってるんでしょ」
「それはどうでもいいですけど、ひとのスマホを勝手にいじるのはどうかと思いますよ」
 凛は一歩も引かない。
 部活が文化系なのと顔が地味なのとでおとなしいと思われがちだが、べつに気は小さくないのだ。
「リンから私の話は聞いてる?」
「いいえ、まったく」
 まったくを強調すると、美和は露骨にイラついた顔をした。
「私はリンの幼馴染なの。父親同士が親友で、リンとはまだ歩けない頃からよく一緒に遊んでた」
「……そうなんですか」
 凛の知らない倫の姿をたくさん見てきたんだろうと思うと羨ましい気持ちになるが、顔には出さない。
「リンだけじゃない。瀬川のおじさんもおばさんも、お兄さんのこともよく知ってる」
 凛は倫の家族とは、両家顔合わせと姉の結婚式のとき、合わせて二度会っただけだ。
 だからなんだというのか。美和の言いたいことがまだわからない。
「あんた、自分がリンに気軽に会える立場だと思ってるの?」
「え?」
「私はあんたのお姉さんがリンのお兄さんとの結婚式から逃げたあとの瀬川家を見てた。おじさんとおばさんは喧嘩が増えて、おばさんは泣いてばかりいた。お兄さんは女性不信になってお酒に溺れるようになった」
 父親と母親に喧嘩が増えたのは凛の家も同じだ。ただ、悪いのは百パーセント姉が逃げた葉山家側だが。
「お兄さんはいまも、会社に行ったり行かなかったりしてる。おじさんはそろそろお兄さんを見捨てかかっていて、リンを跡継ぎにしたいみたい。そのとき、あんたはリンの隣になんて絶対にいられないでしょ。葉山家の娘なんてろくな育ち方してないって、もうバレてるんだから」
 姉と自分は違う。
 たしかに同じ環境で育ったかもしれないが、生まれ持った性格というものがある。
 しかし、倫の両親が凛を受け入れられるかというと、厳しいだろうなというのはわかる。
 それでも凛は俯かなかった。存在を忘れかけていたオレンジジュースをひと口飲んで、きっぱり言う。
「そんな先のこと考えられない」
「は?」
「私たちまだ高校生だよ? 会社がどうとか言われても」
 美和の眉が吊り上がった。
「そんないい加減な付き合い方してるわけ?」
「いまを大事にすることのなにがいけないの」
 凛は美和と真正面から睨み合った。目を逸らしたら負けだと思った。だいたい、倫の家族に言われるならともかく、たとえ幼馴染とはいえ他人にふたりの付き合いをどうこう言われる筋合いはない。
 気圧されたように先に目を逸らしたのは、美和だった。
「……絶対後悔するよ」
「かもしれないですけど、なにかあったらそのとき考えます」
「あっそ」
 ほとんど手つかずのアイスコーヒーのグラスを下げて、美和は足早にカフェを出て行った。

 

 迷ったけれど、美和に会ったことを倫には言わなかった。
 倫のスマートフォンを勝手にいじったことを凛に知られている以上、また同じことはしないだろうと思ったし、告げ口するみたいで抵抗があった。
 おそらく美和は、倫のことが好きだ。そういう意味では凛と美和は同志だから、情けをかけたとも言える。
 倫とは再会してしばらくは週に一度程度会っていたのだが、だんだんと歯止めがきかなくなり、秋が深まったいまではほぼ欠かさず週に二度会っている。
 倫は部活の休みを二日とも凛についやしている。ということは、夏休みに上野でバッタリ会ったときのようにバスケ部員や美和と出かける機会はほぼないということだ。
 あちらの人間関係をおろそかにするのはあまりよくないことのように思えたが、口には出せなかった。
 凛も倫に会いたかったからだ。
 美和に将来がどうこう言われたことで、いまみたいに過ごせるのは学生のうちだけだと思い知らされたというのもある。
 その先の将来のことまでは、まだなにも考えられない。いまだけでも一緒にいたい。

 十一月に入り、最初の週末は凛の誕生日だった。
 普段のデートは学生らしくすべて割り勘だが、この日ばかりは倫が喫茶店で美味しいショートケーキを奢ってくれて、凛は幸せだった。
「来年も一緒にお祝いしような」
「……うん」
 屈託なく笑う倫に、一拍おいて頷く。
 来年。
 来年のふたりはどうしているのだろう。部活は引退していて、受験勉強に励みつつ、いまみたいに頻繁に会っているのだろうか。
 たった一年後のことが、すごく遠く思えた。
「──凛?」
「あ、うん、なに?」
 ふたりは名前で呼び合うようになっていた。
「どうした、ボーっとして」
「倫のケーキも美味しそうだなと思って」
「ひと口食べるか?」
「うん」
 アップルパイをあーんで食べさせてもらう。シナモンが効いていて美味しかった。
「美味しい」
「それはよかった。それでさ、プレゼントなんだけど、買おうとしたらサイズがわからなくて。このあと、一緒に買いにいこう」
「サイズ? 服?」
「ではないかな」
 そうなると、一番に考えつくのは指輪だ。
「あんまり高いものはやめてよ。お返しできないし」
「そんなでもないから大丈夫」
 喫茶店を出て、街を歩く。下見をしたからだろうが、倫の歩き方に迷いはない。
 しばらく進んだところにあるファッションビルに入る。休日だけあってそれなりに混んでいる。三階の一角にある店がお目当てだったらしく、倫の足が止まった。それは凛も名前を聞いたことがある、高校生や大学生に人気のブランドの店だった。
「いらっしゃいませ」
 三人いる店員のうち、手の空いていたひとりが笑みを浮かべて声をかけてきた。
「なにかお探しですか」
「ピンキーリングを見せてもらえますか」
「こちらへどうぞ」
 店のなかに招き入れられ、ショーケースのひとつを指し示される。
「この辺りがピンキーリングですね」
「わあ、かわいい」
 思わず声が出た。
 小指用の指輪だから、普通の指輪より径が小さく、華奢なデザインが多い。そんなに背伸びしたブランドではないから、もちろん高いものもあるが、お手頃な価格のものもある。どれもキラキラしていて、目移りしてしまう。
 そのなかでも、ひときわ細いピンクゴールドのピンキーリングが凛の目を引いた。
「これ、かわいい……」
「つけさせてもらっていいですか?」
 倫が店員に尋ねた。
「もちろんです」
 店員がニコリと笑ってショーケースからリングを取り出す。
「どうぞ」とリングピローに置かれたものを倫が手に取り、凛の左手の小指にはめてくれる。凛のひとより短い小指に、細いリングはよく似合った。
「どうかな」
「かわいい」
 倫がとろけそうな顔で笑う。
 凛は値札を見た。高校生同士のプレゼントとして、安くはないが高すぎるということもない値段だ。
「サイズはいかがですか」
「あ、ちょうどいいみたいです」
「じゃ、これください」
 倫は即決した。
「そのままつけていかれますか?」
 凛は倫と一瞬見つめ合って、「はい」と頷いた。
 会計をすると、店員はリングケースを小さな紙袋に入れて渡してくれた。
 店を出てからも、凛は嬉しくて自分の左手をずっと見ていた。
 凛の学校は倫の学校と違って校則が厳しいし、休日にもアクセサリーをつける習慣がないから、凛にとってはこれが初めての指輪だ。
「気に入った?」
 倫が空いている右手を繋いでくる。
「うん。大事にするね、ありがとう」
 本当に嬉しくて心からのお礼を言うと、倫が立ち止まっていきなりしゃがみ込んだ。真後ろを歩いていたひとが、ぎょっとしたような顔でふたりを追い越していく。
「倫?」
「あーーーーーー」
 低い声で倫が地面に向かって呻く。
「ど、どうしたの」
「……めちゃくちゃキスしたい」
「えっ……」
 凛は顔が熱くなった。
 とっさに周囲を見る。週末の繁華街はそれなりの人出だ。様子のおかしい倫をチラチラ見ていくひともいる。
 当然だが、こんなところでキスなどできない。
 倫と初めてキスをした中学の頃を思い出す。あのときは同じ学校だったから、ふたりきりになれるタイミングが掴みやすかった。
 いまは難しい。バスケの試合を観に行くことはあるけれど、凛は違う学校の生徒だからそのあと校舎のなかをうろうろすることはできない。お互いの家には行けないからデートは必然的に外になるし、カラオケボックスなどには防犯カメラがついているはずだ。
 というわけで、高二の夏に再会して以来、ふたりは手を繋ぐ程度の触れ合いしかしていなかった。
「凛はしたくない?」
 倫がしゃがんだまま、上目遣いでこっちを見てくる。
「……したくない、ことはない、よ」
 恥ずかしくて小声になった。
「でも、難しいよね」
「そうなんだよ……うちの母親が家を空けることってほとんどないし」
「うちも」
 どちらの家庭も母親は専業主婦なので、だいたい家にいる。もちろん買い物や友人との食事などに出かけることはあるが、いつ帰ってくるかわからず、とてもお互いを家に招くことはできない。
「もっといちゃいちゃしてぇなあ……」
「いちゃいちゃって」
 笑いを込めて言ってしまったが、倫の気持ちはよくわかる。
 ふたりとも、手を繋ぐだけでは我慢しきれない段階まできてしまっているのはたしかだった。
「両親そろって泊まりで出かける日が来るといいね」
 そう言いながら、まだしゃがんでいる倫にピンキーリングをした手を差し出す。その手をぎゅっと握って、倫は立ち上がった。
「ふたりで温泉でも行ってくれればいいんだけど。難しいだろうなあ、兄貴の件があってから、うちの親、そんな仲良くないし」
「うちもだよ」
 それでも姉が帰ってきたおかげか、喧嘩は減った。
「できないとなると、ますますしたくなるな」
 物欲しげな表情をされ、思わず顔をそむける。こんなところで見つめ合っていたら、公共の場だというのにキスされかねない。そして一度されてしまったら、拒む自信がなかった。
「なんだよ、せめて顔を見せてくれよ」
「減るからだめ」
 なにが!? と騒ぐ倫の手を引いて、凛は人ごみのなかを大股で歩いた。

 


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