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僕らはこの手を離さずに 2

第二話

 

「──凛にお願いがあります」
 部活がはじまる前に、蘭が真剣な表情で顔を近づけてきた。
「いいけど、なんで敬語」
「それだけ本気だってことで。あのさ。その……私、実は、せ、瀬川のことが好きなんだけど……」
 蘭は言いづらそうだったが、凛はなんだそんなことかと思った。
「だろうね」
「えっ、気が付いてた? 私、そんなにわかりやすい?」
「このあいだのデッサン見ればわかるよ」
 倫はもともと美形だが、それにしたって三割増しくらいで男前に描けていた。恋心がダダ漏れだ。
「で、お願いって?」
「協力してもらえないかな」
「協力って、どういう」
「ほんとはふたりでどっか遊びに行こうって誘いたいんだけど、いまの瀬川と私の関係じゃ唐突感ありありで、たぶん断られちゃうと思うんだ。だから、凛も含めて三人でお出かけしようって誘うのはどうかなって」
「どうかなって言われてもなあ……」
「お願い。凛はほら、瀬川と仲いいし、誘いやすいでしょ」
 凛だって放課後にそこそこ話すようになったというだけで、気軽に学校外で遊ぼうと言えるような仲ではない。
 それに誘うのも自分の役目なのかと思うと荷が重い。
「仲いいっていうか、親戚になりかけたから、多少気安いっていうだけなんだけど」
「それでも、私よりは親しいじゃない」
「……まあ、聞いてみるくらいはいいけど、私ふたりの間を取り持つような器用な真似できないよ?」
「大丈夫。そこまでは期待してない」
 そう言われると、それはそれで微妙な気分だ。
「で、どこに誘えばいいの?」
「どこがいいかなあ」
 知らないよ、と心のなかで突っ込む。
「あんまりお金かからないところにしてよね」
「それじゃ、動物園はどう? 瀬川と動物をスケッチしたいんだーとか言って」
「動物園ねえ……」
 小学生の頃に行ったきりだ。たしかにああいう公営の施設は入場料が安い。中学生の安い小遣いでも気楽に行けるし、よっぽど動物が苦手でなければ、退屈することもないだろう。

 というわけで、そのあと美術室にやってきた倫を、さっそく誘ってみることにした。こういう、蘭には悪いがちょっと面倒なことは、早めに終わらせるに限る。
「動物園かあ。小学生の頃に行ったきりだな」
「私も」
「だめかなあ……? 暇だったらでいいんだけど」
 蘭は上目遣いで倫をじっと見ている。
「暇かと聞かれると、一応受験生なんで、暇ではないかな」
「うっ」
 凛と蘭は同時に矢で射られたように胸を押さえた。勉強のことを言われると弱い。
「……受験のことは、秋になったら考えようよ」
「もう九月ですぜ、おふたりさん」
 倫がニシシと笑う。
 彼は十中八九推薦狙いだろうから、一般受験組の凛や蘭より受験が早い。
「まあでも、べつにいいよ。もう部活もないし。他には誰か行くのか? 俺ら三人だけ?」
「う、うん」
 蘭の声が上擦っている。頬は紅潮していて、倫が承諾してくれたことをめちゃくちゃ喜んでいることが丸わかりだ。
 素直でかわいいな、と凛は思った。
 タイプは違うが、愛華も考えていることが顔や態度に出やすかった。なにかあっても反応が乏しい自分とは全然違う。そんなだから、両親には愛華の方が可愛がられていた。
 一方倫がこの誘いをどう思っているのかは、正直よくわからない。もともと愛想がいいから、モデルを頼まれたときのような気軽さで受けてくれたような気もするし、蘭に好感を抱いているととれなくもない。
 ともあれ、今度の日曜日、待ち合わせ場所は動物園の入り口、時間は午後一時に決めた。

 日曜の空は、綺麗に晴れた。おかげで真夏並みに暑い。
 若干うんざりした思いで、凛は適当なTシャツを着てくるぶし丈のパンツを穿いた。いつも下ろしている髪は、高めの位置で結ぶ。
「部活もいいけど、そろそろ勉強の方もちゃんとやりなさいよ」
 玄関で母に小言を言われた。
「はーい」
 ちなみに母には、蘭とふたりで動物のスケッチをしに行くと言ってある。瀬川家に大迷惑をかけたと思っている親には、倫も一緒に行くなんてとても言えなかった。
 十分前には待ち合わせ場所に行ったが、蘭はもう着いていた。
「凛、やっほー」
「……気合い入ってるね」
 日傘をさした蘭は、学校で見るよりもずっと大人っぽかった。イヤリングをしているし、うっすらとではあるけれど化粧もしている。
「やだ、わかっちゃう?」
「どうだろう。化粧してるって、瀬川は気づくか気づかないか微妙な線だと思う」
 こういうのは、女同士だからわかるのであって、男は案外気づかない。
「よし、そのくらいを狙ったから、いい感じ。凛はいつもの凛って感じだね」
「私が気合い入れてどうするの」
「それもそうか」
 そんなことを話しているうちに、倫がやってきた。
「悪い、待たせたか」
 とは言ったが、時間通りだ。
 倫はなんてことのないチノパンとストライプのシャツを着ていたが、私服姿が新鮮だったのか、蘭は倫に見とれている。
「それじゃ、行こうか」
 三人揃ったのでさっそく動物園に入った。安いだろうと思っていた入園料は、中学生だとなんと無料だった。公営だけあって、太っ腹だ。
 園内は日曜日だけあって家族連れを中心に賑わっているが、敷地が広いから混雑しているというほどではない。
「どこで描く?」
 倫に聞かれ、一瞬なんの話かと思ったが、そういえばスケッチがしたいという口実を使ったんだった。スケッチブックはちゃんと持ってきた。
「あんまり混んでなくて、動きの少ない動物がいいな」
 蘭が言った。
 きょろきょろと辺りを見回しながら、ゾウの脇を通る。かわいいし大きくて描きやすそうだが、意外とよく動く。続けて猿山が目に入ってきた。こっちはもう、みんな動きっぱなしだし、見ているひとが多くて邪魔になってしまいそうだ。
 ああでもないこうでもないと喋りながら、この動物園の東園と西園を繋ぐ橋を渡る。
「あ、あれがいいよ」
 蘭が指さした先にいたのは、ハシビロコウだった。
 なるほど、これは動かない。それはもう、びっくりするくらいじっとしている。しかもラッキーなことに、柵の近くにいる。
「瀬川、この辺立って。自然と、柵に手を置く感じで」
 蘭に指示されるがまま、倫は柵に両手を置いてハシビロコウを眺めた。
「なあ、『ハシビロコウに噛まれることがあるので、柵に近づかないでください』って書いてるんだけど」
「瀬川の犠牲は忘れないよ。はい、それじゃ二十分。開始」
 凛は時計を見て言った。
 凛と蘭はすぐに、スケッチブックに鉛筆を走らせはじめる。
 前回よりは楽なポーズのためか、倫はハシビロコウ並みに動かない。
 他の観客に絵を見られたら少し恥ずかしいなと思っていたが、たまにちらりとなにをやっているんだろうという感じでこちらを見ていく子供がいる程度で、それもすぐに飽きて親の元へと走り去っていった。
 ちょっと暑いけれど、青空の下でスケッチするのは楽しかった。集中していると、二十分はあっという間に過ぎた。
「はい、終了。瀬川もハシビロコウもお疲れ様」
 どちらも二十分間、ほとんど動かなかった。
 どれどれと、蘭とスケッチを見せ合う。
 同じ景色を描いているはずなのに、なにを中心に置いているのかが違っておもしろい。もちろん蘭は倫を中心に描いていてハシビロコウは背景のスパイスになっているし、凛はハシビロコウを主役に据えていて倫はあくまで観客という感じで描いている。
 そのあとは、ちょうど眠っていたサイと、ハシビロコウ並みに動かないイグアナのところでまた二十分ずつスケッチして、終わりにしようということになった。
 屋外にたくさんベンチを並べている軽食屋でかき氷を買い、三人で食べる。モデルのお礼として、倫の分は凛と蘭で払った。
「労働のあとのかき氷は最高だな」
 合計一時間じっとさせられて大変だったろうに、緑色のシロップがかかったかき氷をザクザク食べている倫はご機嫌に見えた。
「ほんとありがとうね。久しぶりの野外スケッチ、楽しかった」
 赤い色のシロップがかかっているかき氷を持っている蘭の頬はわずかに赤くなっている。ここに凛がいなければ、たぶんふたりはかわいらしいカップルにしか見えなかっただろう。
「これからどうする? もう帰っちゃっていいのか?」
 行儀悪く先がスプーン状になったストローを口で咥えて振りながら倫が聞いてきた。
 凛は携帯で時刻を確認した。まだ午後三時を回ったくらいだ。
「せっかくだから、パンダ見ていこうよ、パンダ」
 蘭が身を乗り出した。
 パンダの展示には列ができているのがベンチから見えた。三年前に生まれた双子のパンダは、現在三十分待ちらしい。
「三十分くらいならいいぞ。列は動くし、二十分じっとしてるよりずっと楽だ」
「やったー」
 倫の返事に蘭が手を叩いて喜ぶ。
 凛も嫌ではなかったので、付き合うことにした。
 パンダは現在この動物園に四頭いて、いま展示されているのはお父さんパンダと双子パンダの男の子の方で、それぞれ別の部屋にいるようだ。
 双子の男の子の方は三十分待ち、お父さんパンダはすぐ見れますとのことだったが、蘭は迷わず双子の男の子の方に足を運んだ。
「こういうのって、どうしても子供の方見たくなっちゃうよね」
 それもあるだろうが、倫ともっと話したかったんだろうなと凛は思った。
 疲れたからベンチで待っているとでも言ってふたりきりにしてあげるべきだったかと最後尾に並んでから気づいたが、もう遅い。
 こういうところ、自分は本当に気が利かない。
「──私らの名前って、ちょっとパンダっぽいよね」
 蘭がいたずらっぽい顔をした。
「え?」
「リンリンとランラン」
「どっちも俺らが生まれる前にいたパンダだな。ちなみに俺の名前はミチだけどな」
「そうだけど、バスケのひとたちはみんなリンって呼ぶじゃない。私いつも瀬川と凛が一緒にいると、パンダっぽいなあと思ってた」
 係員に促され、前へと歩く。十五人ほどを一グループとして、二分ごとにパンダの前から移動させられるらしく、列が進むときにはぐっと進む。
 蘭は倫の顔を見上げ、なにか言いたげにもじもじしている。
「なに?」
「その……私も、リンって呼んでいいかな」
「いいよ」
 倫はあっけらかんと答えた。
「リンでもミチでも瀬川様でも好きに呼んでくれ」
 バスケやクラスの他のひとたちならともかく、一番凛と一緒にいる時間が長い蘭まで彼をリンと呼ぶと、正直わかりづらいなと思うが口にはしない。
 はにかむように笑っている蘭がかわいかったからだ。
 倫は蘭の好意に気づいているんだろうか。いままで何人も女の子から告白されてきただろうし、ひとの気持ちの機微に鈍くはなさそうだが。
 列は順調に進み、ちょうど三十分ぴったりくらいで三人は双子の男の子パンダの前に着いた。
 三歳のパンダは、木の上で丸くなってこっちを向いている。
 生まれたときさんざんニュースで見たのよりはずいぶん大きくなっているけれど、まだまだ子供っぽさが残っていて、まるでぬいぐるみのようだ。
「か、かわいいっ……!」
 蘭は最前列までパンダに近寄り、スマートフォンのカメラで連写している。凛は親にスマートフォンを買い与えられていないので、パンダをじっくり眺めてから振り返ったら、そのタイミングで後ろにいた倫に写真を撮られた。
「な、なに」
「パンダと葉山のツーショ。さんざん描かれたんだから、一枚くらい撮ったっていいだろ」
「まあいいけど」
 その写真が倫の親の目に入ったら面倒なことになるかもしれない。ちらりとそんなことを思ったが、普通の親なら中学生の子供のスマートフォンを覗くような真似はしないだろう。
「リンリン、写真撮らないの?」
 蘭が満足げに最前列から退散してきた。
「私はスマホないから。っていうか、まとめて呼ばないで」
 パンダ舎の前にいられる制限時間二分が経ち、外に出る。
 それからお喋りしながらだらだらと歩き、橋を渡って東園から西園に戻り、動物園の出口を目指す。出口の近くには園内で一番大きい土産物屋があり、蘭が見たいと言い出した。
「パンダばっかりだね」
「ほんと。八割パンダって感じ」
 凛は蘭の言うことにうんうん頷いた。
 店にはぬいぐるみや文具、お菓子などいろんなものが売っているが、その八割はパンダにまつわるものだ。
「凛、ちょっとお店見てて。私お手洗い行ってくる」
「わかった」
 蘭を見送り、店内の商品を眺めていると、変わったパンダが目に入った。
 十センチほどの大きさのそれは、本来なら白い部分がピンク色で、黒い部分は薄い灰色だった。同じ籠のなかには、全身ピンク色で黒い部分がまったくなく、細身のぬいぐるみもある。
「さっき見た双子パンダの生まれてすぐの頃を再現したぬいぐるみみたいだな」
 倫が話しかけてきた。
「ああ、そういう」
 言われてみれば、値札の近くには双子のパンダの名前と日齢、そのときの重さが書いてあった。双子は男の子が百二十四グラム、女の子が百四十六グラムで生まれたようだ。灰色の模様が出ているのは、生まれて十三日目の姿らしい。
 重さまで再現しているから作るのが大変なのか、おひとり様各一点までの制限がかかっている。
「パンダ感って、黒い模様によるところが大きいんだな」
「ほんとだね。全身ピンクだと、なんの動物なのか全然わかんなくて、すごいかわいい」
 手に取ってみると、背中には金具がついていて、キーホルダーになっていた。
 一瞬買おうかと思ったが、二千円弱と、中学生としては少々迷う値段がついていた。今月のお小遣いはいくら残っていただろうか。
「なんの動物なのかわからない方がかわいいって、どういう感性だよ」
 笑いながら言って、倫は凛の手から生まれたての女の子パンダのキーホルダーを取った。そして商品棚の籠のなかから男の子パンダの同じものをひとつ取り、迷わずレジへ向かう。
「え、瀬川?」
「リンリン仲間のよしみだ」
 サッと会計を済ませ、女の子の方を凛によこした。
「あ、ありがとう」
 もらってしまっていいものか迷ったが、押し付け合っているところを蘭に見られてはまずいと思い、すぐにバッグに入れる。
 それからすぐに、蘭は手洗いから戻ってきた。
「お待たせー。なにかおもしろいものあった?」
 蘭の笑顔に、胸がぎゅっと痛む。
「ハシビロコウのぬいぐるみあるよ。全然動かないところが本物そっくり」
「そりゃそうだ」
 あははと笑う蘭の表情に陰りは一切ない。さっきの倫とのやり取りは見られていないようだ。
 凛はバッグの上から、女の子パンダのキーホルダーをそっと撫でた。
 やましさと嬉しさで心がぐちゃぐちゃになる。感情が顔に出づらいタイプで本当によかったと初めて思った。

 

 文化祭が終わり十月に入ると、三年生の日常は受験一色になった。
 倫は都立トップの進学校への一般推薦入学を狙っているらしい。凛は一般入試でそこそこの進学校を受けるつもりだ。蘭は親の勧めで私立の女子校を第一志望にしたという。
 もう絵を描いている場合ではないのかもしれないが、凛は週に何度か下級生たちに混ざって美術室にこもっていた。
 勉強だけしていると息が詰まる。背伸びをして無理めの高校を受けるわけではないので、そこまで頑張らなくてもいけるだろうと思ってしまうのも、勉強にいまいち身が入らない理由だった。
 絵を描いていると落ち着く。自分の実力はよくわかっているので、美大に行きたいなんて大それたことは考えないが、ずっと趣味にしていけたらいいなと思っている。
 コンコンと控えめなノックの音がして、美術室の後ろの扉が開いた。
 もう振り返らなくても誰が来たのかわかる。
「よう」
 肩から鞄をかけ、帰り支度を済ませた倫が後ろから近づいてきて、凛の隣に座った。そこはもう、彼の定位置みたいになっていた。
「葉山がいるの見えたから」
「うん」
 生返事をしながら、手を動かし続ける。モデルは中央に置いた石膏の胸像だ。
 しばらく描き続けたが、いまいちしっくりしないできだったので、鉛筆を置いた。
「もう完成?」
「じゃないけど、違うの描きたい。どうせいるなら、モデルやって」
「六十分じゃなければ」
「根に持つね」
 凛は苦笑して、美術室にある彫刻の写真集を開く。
「これが描いてみたいんだ」
「『手』か。美術の教科書に出てた」
「そう」
 高村光太郎の『手』。反り返った親指に、ふわりと曲線を描いた小指。おそらく日本で一番有名な手の彫刻だ。高村光太郎自身の左手をモデルにしたといわれているので、凛も自分の手で描いてみようとしたことはあるのだが、女の手、しかも極端に小指が短い手では全然同じフォルムにならず断念した。
「どれどれ……え、これ難しくね?」
「難しいよ。頑張って」
 手首を反らせ、中指と人差し指はスッと上に伸ばす。薬指と小指は自然とまるまるように。
「親指もっと前。それから手首ぐっと反らせて」
「やばい、これ絶対指つるって」
 ヒイヒイ言いながらもやめないでいてくれるのだから、倫もひとがいい。
「こ、これでいいか?」
「うーん……小指の角度を、もうちょっとこう……」
 倫の左手に顔を近づけ、細部の調整をする。そうしていると、自然と体を寄せ合う感じになる。
 そこへ美術室の前の扉が開き、蘭がなかに入ってきた。
 タイミング最悪だ。
「いや、これは違くて」
 凛は倫の手をパッと離した。
「……べつに誤解してないけど」
 そうは言いつつ、蘭が傷ついた顔をしているものだから、凛はいたたまれない気分になる。
「なあ、これ描くなら早くしてくれないか。たぶん十分もたない」
 手をプルプルさせて倫が情けない声を上げてくれたので、居心地の悪い空気はうやむやになる。
「私も描いていい?」
「もちろん」
 蘭は凛と並んで、スケッチブックを開いた。
「なんか……」
「うん?」
「リンリンって、距離近いよね」
 蘭がぼそっと言った。
「そんなことは」
 ないよと即答できなかった。
 他の男子にさっきと同じことをするかと聞かれると、たぶんしない。そもそも凛に他の男友達はいないのだが。
 ただ、男女問わず友達の多い倫なら、他の女子と平気で同じことができるように思う。
 クラスの教室にいるときの倫は、たいていひとに囲まれているから、凛や蘭に話しかけてくることはない。そしてかわいい子が集まっているグループの子たちは、平気で倫の腕に腕を絡めたりしているのを見る。
「瀬川は、私とだけじゃなくて、老若男女問わず誰とでも距離が近いんだよ」
「俺褒められてんの? それともディスられてんの?」
「どっちでもない。事実を言っただけ」
 倫はいまいち納得していないようで、軽く唇を尖らせた。
 凛はスケッチブックに鉛筆を走らせながら、鞄の奥に入れたままのパンダのキーホルダーのことを思った。
 蘭を裏切りたいわけじゃない。でも蘭には話せないことがじわじわと増えていく。

 

 秋の空気が深まり、教室の空気がいよいよピリピリしてきた。
 一月に試験のある推薦入試組はあと二か月、一般入試組も三か月ちょっとで本番だ。
 目には見えない重りを両肩に背負っているようで、常に少し息が苦しい。
 両親は凛が第一志望に決めた学校に不満があるようで、もっと上を狙えばいいのにとチクチク言ってくる。でも凛は、ぎりぎり滑り込めるような学校に入って、そのあと周りについていけず辛い思いをするのが嫌だった。まあまあ勉強のできるひと、くらいの位置をキープできるような環境に身を置きたい。
 推薦入試組の本番が近づくなか、倫は回数こそ減ったものの、週に一度は美術室に顔を見せた。推薦入試の対策は、面接と小論文が中心だ。要領のいい倫なら、そつなくこなせるだろう。
 部活が休みの水曜日は、いつも美術室で絵を描く道具ではなく勉強道具を広げている。
 なんだかんだで、ここが一番落ち着く。けっして倫が来るのを期待しているからではない。と思いたい。
 苦手の数学のテキストを開き、うんうんうなりながら問題を解く。図形を切り取って断面積を求める問題も、動く点Pの問題も大嫌いだ。点Pはとりあえずじっとしていてほしい。凛は根っからの文系人間だった。
 後ろの扉から、コンコンと控えめなノックの音がした。
 倫かと思い、パッと振り返る。倫は数学が得意だから、教えてもらえると期待したのだが、入ってきたのは蘭だった。
「蘭?」
 様子がおかしい。
 必死になにかを我慢するように通学鞄の持ち手を握り締めている。
「どうしたの?」
 返事をせずに、ずんずんと凛のところまで来て、隣に座る。
 見れば大きな瞳にはいまにもこぼれ落ちそうなくらい涙が溜まっていた。宝石みたいだと凛は思った。
「……瀬川に、振られちゃった」
「え、コクったの?」
 うん、と頷いた蘭の目から涙が溢れ、頬を濡らした。
「いま、ちょうどひとりでいたから、空き教室に呼んで。好きだから付き合ってって言った」
 蘭らしいストレートな告白だ。
「瀬川、迷ってもくれなかった。まっすぐ私の目を見て、そういうふうには見れない、ごめんってハッキリ言われた」
 こちらも倫らしいストレートな返答だ。
「三人で遊びに行くのはオッケーしてくれたから、あまたの瀬川に振られてきた女の子たちよりは一歩リードしてるんじゃないかと思ってたんだけど、全然そんなことなかった」
 蘭が静かに泣きながら肩に寄りかかってくる。凛は蘭の髪をくしゃりと撫でた。
「こんな気持ちを抱えたまま受験勉強に集中するなんて無理だから、告白したんだ。きっぱり断ち切ってくれた瀬川には、感謝しないとって思ってる。まだそこまで割り切れないけど」
「そっか……」
 次から次へと溢れてくる涙が、とても綺麗なものに見えた。蘭の素直さや勇気は、凛にはないものだ。
 それからしばらくふたりは、巣穴のなかにいるきょうだいの獣みたいに体を寄せ合っていた。
「──ねえ」
「うん?」
「凛はほんとに瀬川のことなんとも思ってないの?」
「思ってないよ」
 蘭のさらさらした髪を指で梳きながら答えた。
 ピンク色のパンダが、胸の奥で聞いたことのない鳴き声を上げる。
「でも仲いいじゃない」
「普通だよ。それに、うちのお姉ちゃんと瀬川のお兄さんのこと話したでしょ。私と瀬川がどうにかなったりしたら、親が卒倒しちゃう」
「それもそうか」
 蘭が小さく笑った。
「……望みなんてないのわかってたのに馬鹿みたいって凛は思うかもしれないけど、悔いを残したくなかったんだ」
「馬鹿みたいなんて思わないよ。蘭はすごい。勇気ある。さすが私の親友だよ」
 照れくさそうに笑う蘭は、本当にかわいかった。

 

 年が明けて、三学期がはじまった。
 倫はあれから美術室に来なくなった。
 蘭に会うと気まずいだろうし、推薦入試組は受験が間近だ。だから仕方ないと思いつつ、体の内側で冷たい風が吹いているような心地がした。
 これが寂しいという感情なのだろう。
 部活のない水曜日。凛はまた美術室でひとり、受験勉強をしていた。誰もいない教室は静かで、自分がシャープペンシルで字を書く音だけがかすかに聞こえてくる。
 勉強には、あまり身が入っていない。先日受けた合格判定模試で、第一志望校の合格率は八十パーセント以上と出た。たぶん受かるだろうと思うと、いま以上に頑張ろうという意欲が湧いてこない。
 かといって、あまり早く家に帰りたくもなかった。少しでもだらだらすると母がいらいらした空気を出してくるのが嫌なのだ。
 母自身は自覚していないかもしれないが、凛の受験について神経質になっているのではない、と凛は思っている。
 あれから電話ひとつよこさず、どこにいるのかもわからない姉への苛立ちを本人にぶつけられないものだから、手近にいる凛の一挙一動が気になって仕方ないのだろう。凛にしてみれば、いい迷惑だ。
 倫はどうしているだろうかと、ふと思った。
 さっきクラスの教室から出たとき、他のクラスの女子が倫を呼び出しているのを見かけた。あれはそのままどこかへ連れていかれ、そこで待つ誰かに告白される流れだろう。
 受験前だというのに、いや受験前だからなのか、誰と誰がくっついただの離れただのいう話が増えた。その手の話題に鈍感な凛の耳にまで入ってくるぐらいだから、相当数あるのだろう。
 他人の恋愛話にはあまり興味がない。ただ、倫が誰かと付き合いだしたら蘭が悲しむだろうなと気がかりではある。
 完全に集中力を失い、参考書から顔を上げて窓の外を眺める。
 グラウンドにいるのは一年生と二年生ばかりで、もう三年生の姿はない。カキーンと、バットにボールが当たるいい音がした。部活の中心は、もう二年生だ。あと二か月で自分たち三年生はこの校舎から出て行くのだと思うと、感傷的な気分になった。
 参考書を閉じ、スケッチブックを取り出す。三年生になってから使いはじめたものだが、残りページはもうほとんどない。
 ぺらぺらと初めからページをめくっていくと、自分の手のデッサンがしばらく続いた。そのなかの一枚が目に留まり、手が止まる。
 夏休みに、倫が初めて美術室に来たときのものだ。凛の姿が見えたから、と入ってきて、隣に座り凛が描いているのをじっと見ていた。凛の小指が短いことに気づいて、手を合わせてきたのもこのときだ。
 左の手のひらを眺める。体温が高く、皮膚が厚そうだった倫の手の感触を思い出す。
 スケッチブックのページをさらにめくる。
 倫に手のモデルをしてもらったときのデッサンが出てきた。高村光太郎の『手』の形が難しくて、倫は十分も同じ形を維持できず、デッサンは中途半端なところで終わっている。
 凛は短い小指で、鉛筆で描かれた倫の小指にそっと触れた。
「──それ、途中だったな」
 声をかけられ、振り返った。開きっぱなしだったドアの向こうに倫が立っている。帰るところだったのか、鞄を持っている。
「勉強、順調?」
 倫が椅子を持って隣に座ってきた。彼がここに来たのは一か月ぶりだったが、それまでと同じように背もたれを前にして、肘置いている。
「そこそこ。私はそんなに難しいところ受けるわけじゃないから」
「そうか」
 それだけ言って、倫が口をつぐむ。彼が黙ってしまうと。凛は落ち着かなくなる。窓の向こうから、どこかの部活の歓声が聞こえた。
「そ、そういえばさ」
 不自然なくらい明るい声が出てしまい、内心焦る。
「さっきまた女の子に呼び出されてるの見たよ。瀬川はもてもてだね」
「え? ああ……」
 倫は露骨にうんざりした顔をした。
「なに。嫌なの?」
「嫌っていうか……削られる」
 倫の言いたいことがよくわからない。
「振られた側の精神が削られるのはわかるけど、瀬川はべつに失うものなくない?」
 慣れてるだろうし。と、蘭が先月倫に振られていることもあって、つい恨み言のようなことを言ってしまう。
「慣れないよ。何度同じようなことがあっても。自分のせいで傷ついている女の子を間近で見てなにも思わないほど冷たい人間じゃない」
「……ごめん」
「森野から、俺の返事が冷たかったって聞いたのか?」
「そういう言い方はしてなかったかな。ハッキリ断られたとは言ってた」
「突き放したような断り方だったかもしれないけど、曖昧な返事をするとよくないんだ。例えば『受験のことで頭がいっぱいで、いまはそういうことは考えられない』と言ったとする。そうすると相手は、『それじゃあ受験が終わればそういうことを考えられるようになるのかな』って希望を持っちゃうだろ」
「たしかに」
「だからその気がないときは、その気はないってハッキリ言った方がいいんだよ。お互いのために」
 倫の言うことはいちいちもっともで、凛はなにも言い返せなかった。ハッキリ言われた方が一時的には深く傷つくかもしれないけれど、立ち直るのは早そうだ。
「しっかし、急に増えたよ、この二、三か月で。卒業までこんな感じなのかと思うと、辟易する」
 倫は背もたれに載せた腕に頬を置いて、ぼそっと言った。
「みんな悔いを残したくないんだよ。卒業までに溜め込んでいた気持ちを告白してスッキリしたいっていうのはわかるかな」
「みんな自分がスッキリするためなら、俺の気持ちなんてどうでもいいのかなって、ときどき思う」
 そうきたか。
 これは相当疲れているなと凛は思う。倫が言っていた通り、削られているのだろう。
 モテるひとにはモテるひとなりの悩みがあるものらしい。
「ごめんな、愚痴っぽくて」
「いや、いいよ」
 また少し、会話に間が空いた。
 倫は立とうとしない。凛は勉強を再開するべきか迷った。
「これ、続き描きたい?」
「え? ああ……」
 一瞬なんのことかと思ったが、倫はスケッチブックの『手』に視線を向けていた。またモデルをやってくれるつもりなのだろうか。
「もういいよ、瀬川も忙しいだろうし」
 推薦入試は一月末だ。あと二週間しかない。そしてその一か月後には、凛が受ける一般入試がある。
「じゃあ、お互い受験が終わったら、続きをやろう」
 約束、と倫が小指を差し出してくる。
「……うん、約束」と、指切りをする。
 倫の小指と比べると、自分の小指は子供のようだ。
 指切りをしたまま、倫は自分の指と凛の指を見比べて、フフッと小さく笑った。
「やっぱりかわいいな、指」
 倫の指が、離れていかない。
 凛より体温が高く、皮膚の厚い指が。
 腕を引けば外れるのかもしれないが、凛は動けなかった。
 全身ピンク色の赤ちゃんパンダのキーホルダーが、脳内にちらつく。パンダは自宅の学習机の上にあるちょうどいいサイズの籠に入れられ、布団代わりのタオルハンカチをかけられている。
 倫がふと真顔になった。
 もともと近い距離にあった顔が、さらに近づいてくる。
「あ……」
 凛の口から小さく声が漏れ、倫は動きを止めた。しかし凛が逃げないとわかると再び動き出し、そっと唇を重ねてきた。
 凛にとって、初めてのキスだった。