僕らはこの手を離さずに 1
第一話
ダリ。ロダン。藤田嗣治(ふじたつぐはる)。マグリット。
本棚に並んでいる図録や画集を片っ端から段ボールに移していた凛(りん)の手が止まった。
懐かしいものが出てきたからだ。
台紙にセットされた六つ切り写真は、十年前に撮られたものだ。写っているのは、ラウンド型のブーケを持ち真っ白いドレスを着て笑っている、五歳上の姉だった。
「お姉ちゃん、若っ」
そう声に出してしまうほど、当時二十歳の姉、愛華(あいか)は若々しく、光り輝くようだった。もとが美人で華やかなひとだから、スカートにボリュームのあるドレスがとてもよく似合っている。
結婚式の前撮りで愛華は、このウエディングドレスの他にも色ドレスや白無垢も着た。新郎とふたりで撮った写真もたくさんあった。
でもいまもこうして残っているのは、姉ひとりで写っているこの写真一枚だけだ。
他の写真はすべて、母の手で捨てられてしまった。
この写真は、自分が一番若くて綺麗なときのものをまるでなくしてしまうのはもったいないと、写真の束から姉が一枚だけそっと抜き取って凛に託して隠したものだった。
このときから、もう十年も経つなんて信じられない。
しばらく眺めてから、凛は段ボールのなかにそっと写真を紛れ込ませた。
「──愛華!」
新郎新婦が今まさに誓いの口づけをしようとした瞬間、チャペルの扉が開き、芝居がかったような男の叫び声が響いた。
真夏のむあっとした空気がチャペルのなかに入ってきて、結婚式に参列していた招待客たちが一斉に振り返る。
両親と一緒に一番前の席にいた凛も、反射的に後ろを向いた。
紺色のポロシャツを着たがっしりした体形の男が、肩で息をしている。どこかで見かけたことがあるような気がするが、思い出せない。
「愛華! 来い!」
もう一度、男が叫ぶ。
次の瞬間弾かれたように、姉がチャペルの出口に向かって駆け出した。
フワ、フワ、と愛華が両手で掴んだボリュームのある真っ白いスカートが上下に動くのが、スローモーションのように見える。
ついさっき父と新郎の瀬川理(せがわおさむ)に手を取られてしずしずと歩いたヴァージンロードを、愛華は飛ぶように走った。
「……あ」
凛は男のことを思い出した。たしか、愛華が高校三年生の頃に付き合っていたひとだ。家に遊びに来たのを、何度か見かけたことがある。日に焼けていてよく笑う、いかにも野球部という感じのひとだった。
いっぱいに伸ばした愛華の手を、元カレがしっかりと掴む。
ふたりの足がチャペルの外に出た辺りでやっと、参列者たちがハッと気づいたように動き出した。
「愛華、待てっ!」
まずは父が、足をもつれさせながらふたりを追いかけはじめた。
「ま、待ちなさい、愛華!」
「愛華さん、どこへ行くんだ!」
母と、新郎側の両親がそれに続く。
凛はそれを見送るばかりで動けなかった。どうすればいいのかわからず、前を見る。牧師と新郎が、ぽかんと口を開けて、愛華の逃走劇を見守っている。
いや、あなたは追いかけなさいよ。
と、自分を棚に上げて新郎である瀬川理に対して思う。
もう一度愛華の方を見る。元カレが用意していたらしき車の助手席に、愛華が飛び込むように乗る。車は普通のセダンだ。あんなボリュームのあるスカートが扉に挟まらないものだろうかと思ったら、案の定挟まって十センチほど外に出ている。
そのままの状態で、車は急発進した。父がボンネットに縋り付こうとしたが、非情にも車は走り去っていった。
父は外でまだ姉の名を叫んでいる。
新郎である瀬川家と新婦である葉山(はやま)家の親戚たちで八割ほどの席が埋まったチャペルのなかは意外にも静かで、クライマックスの直前で突然明かりを点けられてしまった映画館みたいな空気が漂っている。
凛はヴァージンロードを挟んで左側の一番前の座席を見た。
他の参列者が全員立ち上がっているなか、瀬川理の弟、倫(みち)だけは座っていた。右腕で頬杖をつき、口元を隠して軽くうつむいている。
ロダンの『考える人』のポーズだ。
目の前で自分の兄が花嫁に逃げられてしまい、ショックを受けているのだろうと初めは思った。
しかし肩がかすかに震えていることに気づき、笑いをこらえているのだとわかった。
このとき、凛は初めて倫という人間に興味を持った。
瀬川倫は、凛と同じ中学に通っている。二年生になったときのクラス替えから、クラスも一緒だ。ただ美術部に所属している凛とバスケ部の部長である倫に、ほとんど接点はなかった。
教室にいるとき、倫はいつも大勢の友達に囲まれていた。そして当たり前のように、学年でも目立つかわいい女の子たちのグループがそれにくっついていた。
凛は自分が地味な存在であることをよくわかっていたから、彼らと関わろうとは思わなかった。席が隣だったときすら、二言三言事務的な会話をしたくらいだ。
倫はクラスで一番背が高く、整った顔立ちをしていて、大きな声でよく笑った。
向日葵みたいなひとだな、と凛はひそかに思っていた。自分はそこから少し離れたところで咲いている、誰も見ないシロツメクサといったところか。
倫との関係が大きく変わったのは、三年生に進級した頃だ。
倫の兄である理と凛の姉である愛華に結婚話が持ち上がった。
出会いは友人の紹介ということだったが、交際一か月で理は二十三、愛華に至ってはまだ二十歳という若さだった。
姉は惚れっぽく衝動的なところがあるのを知っていた凛は、本当に大丈夫なのかと少々心配した。両親も同じだったと思う。
しかし瀬川側の両親は美人で明るい愛華を一目で気に入り、トントン拍子に話は進んでいった。
料亭の個室で行った両家顔合わせの席で、凛と倫は向かい合って座った。凛は肩くらいまである髪をそのまま下ろし紺色のワンピースを着ていったが、倫は学校の制服を着ていた。
愛華は成人式のときに作った振袖を着て、嬉しそうに笑っていた。
初めて会った義兄になる予定の理は、倫にあまり似ていなかった。体形は痩せ型。顔は顎が細く、太い眉が下がり気味で、優しそうなひとだと思った。愛華が理の前に付き合っていた人はいかにも体育会系だったから、全然タイプが違った。
会食はなごやかに進んだ。
葉山家は従業員十名、瀬川家は約五百名と規模はずいぶん違うが、どちらの家も商売をしているだけあって、両親たちは話が合うようだった。
凛は一番下座でもそもそと食べなれない懐石料理を食べながら、黙って親たちの話を聞いていた。教室ではいつも話の中心にいる倫も、兄が主役の場ではさすがにほとんど喋らなかった。
こんなに静かな彼を見るのは初めてで、新鮮だった。凛は教室でも同じ感じなので、倫から見て新鮮さは特になかったと思う。
「凛と倫くんは、学校も一緒だし、仲良くやれそうだな」
父が突然話を振ってきた。皆の視線もこちらに集まる。
大人はおおざっぱだなと凛は思った。学校が同じというだけで仲良くやれるなら、いじめはこの国からなくなるだろう。
倫とはろくに話したことがなく、仲がいい悪い以前の話だ。もっとも、愛華たちの結婚にまつわる一連の行事が終われば、教室の外で会うことはほぼなくなるだろうし、特に問題はないだろうが。
「……はい」
倫は困ったような顔で小さく笑った。もっとうまく取り繕った態度をとると思ったので、少々意外だった。
凛も同じように笑って曖昧に頷く。
話はすぐに、お互いの兄と姉のことに移った。
倫がちらりとこちらに視線をよこす。片方だけ口角を上げて、軽く肩をすくめてみせる。教室ではあまり見せたことのない、皮肉めいた仕草だ。
凛は、よろしくね、と唇の動きだけで伝えた。
倫と姻族になるという事実が、このときはまだうまく呑み込めていなかった。
舞台はチャペルから、ホテル内の親族控室に移った。
憤る倫の両親の前で、凛の両親が土下座している。父の額は、カーペットに擦り付けられていた。こんな土下座らしい土下座、テレビドラマ以外で初めて見た。
「うちのバカ娘が、まことに申し訳ございません!」
「いったいどういうことなんですか。誰なんですか、あの無礼な男は」
「……娘が以前交際していた相手だと思われます」
「以前? だったらなぜ、こんなときに現れるんです。うちの理と二股かけていたとしか思えませんよ」
「けっしてっ……けっしてそんなことは……!」
修羅場も修羅場、ド修羅場だ。しかも本人たちは不在ときたものだ。
新郎新婦の友人や会社関係のひとたちは、ホテルのスタッフから披露宴を中止する旨を伝えられてすでに解散している。
いま親族控室に残っているのは、親戚たちだ。近隣に住んでいてもう帰宅したひともいるが、遠方からわざわざ来てくれた親戚は、帰るに帰られず気まずそうにしている。
凛は居心地の悪さを覚えながらも部屋から出ることもできず、自分は壁紙だと思い込みながら壁に背中を張り付かせていた。
「こうなった以上、費用はすべて、こちらでもたせていただきます」
「金の問題はそれで解決かもしれませんけど、うちの面目が丸つぶれなのはどうにもならんでしょう」
「それは……はい……」
親同士の話し合いという名の一方的な糾弾は終わる気配がない。
壁紙になったまま、目だけで親族控室のなかを見回す。
新郎である理は、自分の親の斜め後ろに立ち、落ち着きなく手を組んだり足先で絨毯をいじったりしている。そんな様子を見ると、まるで彼が責められているみたいだ。
一方その弟である倫は、壁際に並べてある椅子のひとつに座り、退屈そうにしている。いったいなにを考えているのだろう。とりあえず、親たちと違って怒ったり嘆いたりはしていなさそうだ。
ずっとひとりでいるのも気づまりで、凛は壁紙と一体化するのをやめ、そっと倫に近づいて隣に座った。
「よう」
倫は教室で隣の席に座ったときのような気軽さで声をかけてきた。
「なんかごめんね、うちのお姉ちゃんが」
一応謝ってみたのだが、倫はあっけらかんとしている。
「いや。逃げられる方も悪いよ」
「そう……なのかな……?」
「そうそう。結婚しようとまで考えている相手の様子がおかしいのに、全然気づかなかったなんてどうかしてるし、気づいていたのに放置してたなら、それこそどうかしてる」
倫はあまりにあっさりとしていた。親たちとのギャップがすごい。
「昔の映画でこういうのがあったな」
歌うような口調で言われた。
「そうなの?」
凛は知らない。
「『卒業』っていう、古い映画。俺らの親もまだ生まれていなかった頃のやつ」
「古い映画、好きなんだ」
意外だった。映画を観るなら、アクションかスポーツものというタイプかと勝手に思っていた。
「そうでもない。死んだじいちゃんが好きで、遊びに行ったときによく見せられてたんだ。いま思うと、『卒業』は色っぽいシーンもけっこうあるし、小学生の孫に見せるような映画じゃないと思うんだけど」
懐かしむように遠い目をしてから、倫は続ける。
「そのラストシーンで、主人公の男が別の男と結婚式をしている女を奪って逃げるんだ。あれ、カメラが逃げた方を追ってるからドラマチックだし、やってやったっていう爽快感もあるんだけど、逃げられた方はたまったもんじゃないよなと映画観た当時思ってた。実際見てみてると、なかなかの地獄絵図だな」
倫の父は凛の父を責め続けている。倫の母はヒステリックに泣きわめいている。そして倫の兄は迷子の子供のように心細そうな顔をして、自分の二の腕を撫でさすっている。
倫は家族の様子を、右肘を左膝に置き、頬杖をついて眺めている。花嫁に逃げられたのは自分の兄だというのにどこか他人事っぽいというか、愉快そうですらある。
家族の一大事に対してこんな突き放した見方をするなんて、倫らしくないなと凛は思った。
彼のなにを知っているのかと言われればほとんどなにも知らないが、教室で見る向日葵みたいな彼とは別人のようだ。
だからつい、言ってしまった。
「……瀬川さ、さっき笑ってたでしょ」
「え?」
「うちのお姉ちゃんが逃げた直後。チャペルで、『考える人』のポーズで」
ああ、と彼はすぐに思い出したようだ。
「だって笑うしかないだろ、あんなの」
「はい、ここで問題です」
凛は唐突に言った。
「『考える人』は、なにを考えているでしょうか」
「え……と、付き合ってる女と結婚するか逃げるか」
戸惑った顔をしながらも、倫は答えた。
「惜しい。正解は、地獄について考えている、です」
「惜しいのか……?」
倫は首をひねった。ちなみにあまり惜しくはない。
「『地獄の門』っていう高さ五メートル以上あるおっきなブロンズ像があってね。もともとの『考える人』はその上の方に座っていて、地獄を見下ろしてるの」
「なんか偉そうだな」
「ほんとだよね。深刻ぶってひとの不幸を見下ろしちゃってさ」
「……だけど、ひとの不幸ってけっこうおもしろいもんなんだなって、俺今日初めて思っちまった」
自分の親兄弟のことだというのに、やっぱり倫は他人事のようだ。
「ほんとごめんね、うちのお姉ちゃんが」
凛はもう一度謝った。心はあまりこもっていなかったかもしれない。
「いや、全然」
ニカッと、倫が笑う。顔だけ見れば皮肉っぽくなく、教室にいるときに見せるような、向日葵みたいな笑顔だった。
「それにしても、葉山って意外とよく喋るのな」
いま気が付いたみたいに、倫が言う。
「べつに普通だよ」
「普通か? 同じクラスになってから、こんなに話したの初めてだろ」
それはそうだった。
「席が隣だったときだって、もっと話さなかった」
「それは瀬川がいつもひとに囲まれていて、それを掻き分けてまで話す用事がなかっただけで」
「そうか」
「そうだよ」
学校に戻れば、倫はまたひとに囲まれるだろう。だからこんなに話すのはいまだけだと凛は思っていた。
あと一週間で夏休みが終わる。
秋の展覧会に出す絵はとっくに描き終わっているので、特に部活に出てくる必要はないのだが、凛は美術室に通い鉛筆デッサンに励んでいた。美術室にこない日は、図書室で自習している。
家の居心地がすこぶる悪いからだ。
チャペルから逃げ出した愛華は、母の携帯に『彼とふたりで生きていきます』という短いメッセージを送ってきたきり、半月経ついまも帰ってきていない。
肝心の愛華がいないものだから、父と母は毎晩お互いにお前の教育が悪かったせいだとなじり合っている。
家のなかの空気はずっとピリピリしていて、外にいた方が気が楽だった。
美術室のなかには下級生が三人いて、おそらく展覧会に出す絵の仕上げを熱心にしている。静かだった。
デッサンをはじめてから、一時間ほど過ぎた頃だった。
そろそろ持ってきたお弁当を食べようかと思っていると、美術室の後ろの扉がノックされた。顧問の美術教師が来たのかと思い、なにげなく目をやると、そこに立っていたのはユニフォーム姿で首にタオルをかけた倫だった。
「よう」
「今日も部活?」
バスケ部は来週、三年生にとっては引退試合となるかもしれない試合を控えている。
「うん。いま昼休憩に入るとこ。葉山がいるの見えたから」
リン、と彼を呼ぶ声が廊下から聞こえる。彼の名前は倫と書いてみちと読むが、仲のいいひとたちはだいたい彼をリンと呼ぶ。
「先行ってて」
バスケ部仲間に返事したかと思うと、倫はつかつかと美術室のなかに入ってきた。
「なに描いてるんだ?」
「見ての通り。手だよ」
チラッと見たら出て行くのかと思ったら、倫は手近にあった椅子を引き寄せ、背もたれを前にして凛の隣に腰を下ろした。
凛はあのド修羅場だった親族控室で、彼と並んで座ったときを思い出した。
部活の途中だったらしいので当然だが、倫からは汗の匂いがする。
「うまいもんだな」
背もたれに肘をついて、倫は感心したように言った。お世辞には聞こえなかったので、素直に「ありがとう」とお礼を言った。
凛は自分の左手を見ながら、右手でデッサンしていた。
手はいい。特別なものを用意する必要がなく、適度に複雑な形状で、簡単にポーズを変えられる。
それ以上話しかけられなかったので、凛は手を止めずに描き続けた。
ちらちらと、後輩たちが倫を気にしているのがわかる。この地域では強豪のバスケ部の部長ともなれば、校内では有名人だ。気になるのは理解できる。
なにがおもしろいのか、倫は完全に見る体勢に入っている。
凛はお腹が空いてきたが、この状態で弁当を食べだすのもはばかられ、デッサンし続ける。
「──なんか」
倫がぼそっと呟いた。
「え?」
「小指、短くね?」
彼の視線は凛の左手に向いている。
「うん、短いよ」
凛は左手の指をそろえて、手のひらを倫に向けた。
凛の手は左右とも小指だけが短く、薬指の第一関節と第二関節の真ん中より少し下くらいまでしかない。
倫は凛の手と自分の手を見比べている。
「短指症っていうらしいよ。ピアノとかやるひとだと困るだろうけど、特に不自由はないかな。手袋が小指の先だけへんに余るくらいで」
「バスケをやるとしたら困るんだろうか」
「どうだろう。そうかもしれないね、ボールをしっかり掴みづらいだろうから」
倫がこちらに右の手のひらを差し出してきたので、左の手のひらを合わせる。温度の高い手だと思った。こうしてみると、もともとの手の大きさがかなり違う。指の股のところを合わせ、指の長さだけで比べてみる。凛の小指だけが子供の指みたいに見えた。
フフッ、と倫が笑った。
「なんか、かわいいな」
そんなふうに言われたのは初めてで、胸の辺りがむずむずしてきた。触れ合っている手のひらが敏感になっている。
「瀬川の手は、大人みたいだね」
小指以外の指も、長さや太さが凛とはずいぶん違う。それに関節が骨ばっていて、いかにも男の手という感じがした。
「葉山の手は、すべすべで気持ちいいな」
にぎにぎと、指を絡めて倫が手を握ってくる。ずっとこうしていたいような、手を引っ込めてしまいたいような、複雑な気持ちになる。
倫の手は、普段硬いボールを扱っているからか、皮が厚い感じがした。
男子と手を握り合ったことなんていままで一度もなかったが、嫌ではなかった。温かい手を拒む気になれずされるがままでいると、美術室の前の引き戸がスパーンッと開いた。
「ああっつい! 外にいると溶けるわあ」
凛や倫と同じクラスの森野蘭(もりのらん)だ。ショートカットの髪をハンディファンでなびかせながら、うんざりした顔で入ってきた。
「凛、お昼もう食べた? 私パン買ってきて──」
そこでやっと倫の存在に気づいたらしく、蘭の言葉が途切れた。
「瀬川……凛、なにやってるの……?」
「えっ」
凛は倫と繋いでいた手を慌てて解いた。
「いや、これはそういうんじゃなくて」
なんの説明にもなっていない言い訳を口にしてしどろもどろになっている凛の隣で、倫は焦る様子もなく徐に立ち上がった。
「俺も腹減った。そろそろ行くわ」
「あ、うん」
じゃあねと手を振る。手を振り返して、倫は美術室から出て行った。
「ずいぶん仲良くなったんだね」
蘭は複雑そうな顔をしている。
凛は苦笑した。倫の兄と凛の姉の結婚が破談になった話を、蘭にはしてあった。
「私と瀬川が特別仲良くなったりしたら、うちの親になんて言われるか」
「それもそうか」
自分を納得させるように蘭は言った。
蘭は倫のことが好きなんじゃないかと、凛はひそかに思っている。倫の兄と凛の姉の結婚話が持ち上がったとき、羨ましそうにしていたからだ。バスケ部員以外でも倫に憧れている女子は多いから、特に驚きはしなかった。
「大変だよね、凛のうち」
「ほんとだよ」
「お姉さんの居場所、まだわからないの?」
「わからないねえ……いったいどこでなにしてるんだか」
とは言いつつ、凛は姉のことをたいして心配していなかった。
姉は衝動的で飽きっぽく、家事ができない。最初の興奮が落ち着き、元カレとの生活が日常になったら音を上げて戻ってくるに違いない。
九月がやってきて、二学期になった。
一学期とほとんど変わらない日常がはじまる。変わったことといえば、都大会の決勝で敗退しバスケ部を引退した倫が、ちょくちょく美術室に顔を出すようになったことくらいだ。もうユニフォームは着ていない。まだ暑いので、半袖の夏服を着ている。
教室にいるときは取り巻きみたいな連中の真ん中で向日葵みたいに笑っている倫だが、美術室にいるときはおとなしい。美術部員の邪魔になってはいけないと思っているからなのかもしれないが、だいたいは凛がなにかしら描いているのを隣でじっと眺めていて、ときどきボソッと小声で話す。
いつも人に囲まれていたから気づかなかったが、この人の本質は案外静かなのかもしれない。
「……瀬川んちって、あれからどう?」
なんとなく聞けずにいたことを、そろそろいいかなと思い、ふと尋ねてみた。
「空気最悪」
「うちと同じだ」
だから家に帰りたくなくて、美術室に通ってくるのか。
「兄貴は全然家に帰ってこない。たぶん、毎晩飲み歩いてるんだと思う。それはいいんだけど、会社に酒の匂いをさせていったり、遅刻したりするようになって、父親がイラついてる。でも母親は兄貴をかばうようなことしか言わないから、口喧嘩ばっかりだ」
凛は当事者である愛華がいないから父母がお互いをののしり合っているのだと思っていたのだが、倫の話を聞いて、たとえ姉がいても同じだったのかもしれないと思い直した。
「そっちのお姉さんは?」
「帰ってきてない。気楽なもんだよね。『彼とふたりで生きていきます』ってメッセージひとつで済むと思ってるんだから」
当然だが、結婚式と披露宴に関わる費用は、すべて葉山家持ちとなった。当日のドタキャンだから、キャンセル費用は百パーセントだ。かなりの金額になるはずだが、両親はなんだかんだで姉に甘いから、姉が帰ってきたとしてもそのお金を払わせることはないだろう。
話しているうちに、自分の左手のデッサンを一枚描き終わった。次はなにを描こうかと考えていると、斜め向かいに座って石膏デッサンしている蘭と目が合った。
倫と話したそうに見える。
少し考えて、凛は倫に提案する。
「ね、どうせここにいるなら、モデルになってくれない?」
「いいよ」
と倫はあっさり承諾した。
「どうすればいい? 脱ぐ?」
「中学の部活でヌードモデルを描くわけないでしょう……普通でいいの、普通で。ただし真ん中に行ってほしい」
「真ん中?」
「はい、みんないったん手を止めて」
部員に呼びかけ、凛はパンパンと二回手を叩いた。十数人いる部員たちが手を膝に置いた。
「展覧会の絵が間に合わなそうなひとは、そのままそっちを続けていて。それ以外のひとたちは、モデルをデッサンしてみましょう」
凛は美術室の真ん中に椅子を置いて、倫に座るよう促した。
「瀬川先輩だ……」
と後輩たちが色めき立つ。
「ポーズは?」
「好きなようにしてくれていいよ。ただし、一時間くらい動かないで」
少し迷うような仕草をみせたあと、倫は右肘を左の太股に置き頬杖をついた。
考える人のポーズだ。
「大丈夫、瀬川? それで一時間はけっこうキツイと思うよ」
蘭がからかうように言った。
「大丈夫、大丈夫」
余裕余裕と倫は言うが、体を軽く捻るポーズになるので、時間が経つにつれつらくなるだろうなと凛は思った。
「それぞれ描きやすいところに移動して、一時間を目標に描きましょう。じゃ、開始」
凛は自分の椅子を持とうとしたがやめて、スケッチブックを持ち、倫の斜め前の床に直接座った。顔を見上げる形になり、普段あまり気にしていなかった顎のラインや鼻筋がよく見えた。
蘭はセンターを陣取って、胸から上辺りを描こうとしているようだ。
みんなの移動が済むと美術室が静かになり、鉛筆や木炭が紙の上を滑る音だけが聞こえてくる。
騒がしいのがあまり得意でないけれど、常にひとりでいたいわけでもない凛は、こういう時間が好きだった。
倫は真面目にモデルを務めてくれていて、じっと動かない。
初めてモデルをするときは、普通ならもっと照れたり恥ずかしがったりするものなのだが、倫は落ち着いたものだ。強豪のバスケ部を率いた部長として校内では有名なひとだ。ひとから見られることに慣れているのだろう。
凛は夢中になって鉛筆を走らせた。
いつもは隣に座って前を向いたまま話していたから、こうしてまじまじと彼の顔を見ることはなかったように思う。
すっと通った鼻筋に、細めの顎。上がり気味の眉。屋内のスポーツに励んでいたからか、日にはあまり焼けていない。顔だけ見ると中性的だが、喉仏の出た首を見るとしっかり男で、そのアンバランスさがいかにも思春期という感じだ。
端的に言えば、男くさすぎずかっこいい。
これは中学生女子に刺さるのもわかる。
「やばい。けっこうキツイ」
みんなでモデルのデッサンをはじめ、四十分を過ぎた辺りで、倫が弱音を吐いた。
「だから言ったじゃん」と蘭が笑う。
「頑張って、あと二十分」
凛はざっと描いたデッサンに影をつけていく。半袖のワイシャツから伸びた腕は、筋張っていて硬そうだ。
五十分を過ぎた頃には、倫の膝から下がプルプル震えていた。いまあの捻った脇腹をつついたら、いったいどんな声を聞かせてくれるんだろう。そんな悪いことを考えながら、凛は鉛筆を置いた。
「終わった?」
すかさず倫が反応した。
「私はね。でもみんなはまだだから」
「鬼!」
下級生がくすくす笑っている。蘭はまだ真面目な顔で鉛筆を走らせ続けていた。時間ギリギリまで粘るつもりのようだ。
じりじりと時計の針は進み、六十分ぴったり経過した。
「はい、そこまで」
凛はパンパンと手を叩いてデッサンタイムの終わりを宣告した。
下級生たちがお互いの絵を見せ合ったりして、ざわざわと美術室が少し賑やかになる。
倫は座ったままふーっと大きく息を吐いて、腰をこきこき鳴らした。
「お疲れ様」
「まじで疲れた……ただ座ってただけなのに。モデル舐めてた……」
「プロのモデルさんでも、二十分に一回は休憩するものだからね」
「それを六十分って! やっぱり鬼だ!」
「正直途中でやっぱり無理だからやめるって言い出すと思ってたよ。忍耐力あってびっくりした。瀬川はすごい」
「……そう?」
手放しで褒めると、まんざらでもなかったのか、倫は照れたような顔をした。
「見て見て瀬川、かっこよく描けたよ」
蘭が描きあがったばかりのデッサンをスケッチブックごと倫に渡す。凛も倫と一緒に見てみたが、気合いが入っているのがよくわかる、いい絵だった。頬杖をついて斜め下に視線をやっている倫の憂いを含んだ表情が印象的だ。
「おお……かっけえじゃん。誰だ? 俺か」
まじまじとデッサンを見つめる倫を見て、蘭が嬉しそうに笑う。蘭の邪魔をしたくなくて、凛は自分のデッサンを出すのはやめた。