初恋の君を離さない 2
第二話
初は自身のオフィシャルサイトの紹介通り、祖父がアメリカ人のクオーターだから、目鼻立ちがはっきりしている。彼が微笑むたびに、いつも初芽の乙女心はドキドキだ。
彼が初芽にグラスを持たせ、乾杯をする。初はビールを半分ほど飲んで、用意していたケーキナイフでケーキを切り分けた。割と会心の出来だったロールデコレーションケーキだから、断面も綺麗で、満足した。
「みんなカップルになったけど、それはそれだから。みんな初芽ちゃんを好きだし、今まで通りにして欲しいと思う。僕だってそうだから」
一乃や初美とは個人的に連絡を取るけれど、初には自分からメッセージを送ることはほぼない。
彼は特別だし、二人きりになるなんて、普通はできない。
「食べない? エビのピザ好きだったよね?」
「あ、うん……ありがとう。真井君が好きなの頼んだらよかったのに。誕生日だし」
グラスの中のカシスオレンジを飲み、ピザをワンピース取ると、彼もまたピザを手に取った。
「僕は食べられないものはないし、初芽ちゃんの好みでいいかと思って」
「ありがとう」
笑みを向けると、彼もまた笑顔のまま小さく頷き、テレビのリモコンを手に取った。
「映画でも見ながら食べる?」
「そうだね……でも、最後までは見られないかも。終電あるし」
「そうか、そうだな……」
初とはいつも、間が持たない気がする。
それになんと言っても今日は隣に座り、ピザを食べているから余計だ。落ち着かないままカシスオレンジを飲み干すと、初は二本目を出してくれた。
注いでもらったそれをまた飲みながら、パスタも食べた。
彼のファンからしたら、羨ましいポジションだろう。でも、高校時代からの友達という関係であるだけで、そのほかは何もない。
みんなメンバー内で結婚してしまっているし、気軽に誘っていいのかもしれないが、なんだかできなくて。
初とだって、メチャクチャ仲が良いわけじゃない。彼は一乃も初美も呼び捨てにするが、初芽だけはちゃん付けで呼び、一線を引かれている気がする。
初芽が一番普通の顔をしているし、十年間ただの一度も女性として見られていない気がする。もちろん引っ込み思案の初芽が初へ気持ちを伝えることもなく、今に至っているのも一因なのだが……。そんな関係も、そろそろやめたい。
そういう理由もあって、初芽は長男長女会から少し距離を置こうと思っている。
「初芽ちゃん、付き合ってる人と別れたって聞いたけど」
「あ……ああ、うん、そう……えっとね、半年くらい付き合ったんだけど……私とは合わなかったみたいで」
実は半年前に初めての彼氏ができた。その人は同じ出版業界の人だったが、優しくて、背が高くて、初芽の話を楽しそうに聞いてくれた人だった。
だから、思い切って求められるままセックスをしたのだが、それが良くなかったんだと思う。
初めてだと伝えていたし、羞恥に耐えながら受け入れ、ものすごく痛かったのも我慢をしたが、その初めてが、彼が思ったのとは違ったみたいだった。
二度目も痛くて、勘弁して欲しいと思ったし、三度目はもう痛くて入らず。
性の不一致って、だめなんだな、と思った。
『君はさ、俺のこと好きじゃないから、そもそもセックス無理なんでしょ? 君、最初からちっとも濡れないしね。好かれてない相手とずっといる気はないよ』
初めてできた彼に言われたセリフはショックだった。だが、初芽は彼に何も言えなかった。私なりに頑張っていた、と最後に言った。腕を強く握り、初芽なりに我慢して、いろんな思いも呑み込んでいた。
なのに、彼は初芽をバカにするように笑って言ったのだ。
『頑張ってたって、何を? 最初は可愛いと思ってたけど、こっちは萎えるんだよね。じゃあ、そういうことだから』
元彼に恋をしていたわけではなかった。それでも付き合っていれば、気持ちは育っていくかもしれないと思ったのだ。彼が求めてくるから、好きになりたいと思ったし、身体だって開いた。
人付き合いというのは、そんなものじゃないと、よくわかった出来事だった。
初芽はたくさん考えたつもりだったが、ただ恥ずかしく痛い思いばかりを残しただけだったのだ。
「真井君に話すことじゃないけど……心が付いていかなくて。いろいろ頑張ったけど、その……、できなくて」
自虐的に笑いながら、そうだな、と自分で言って納得した。
思えば、確かに最初から好きじゃなかったし、二十八にもなって処女というのが恥ずかしくなっていたのもある。自分が悪いんだ、と言い聞かせるしかない。
初が、ぽつりと呟いた。
「君は、恋人とか恋愛とかダメなんだと思ってた」
初芽は初の言葉に首を傾げた。ダメ……とは。
「初芽ちゃんは、男を寄せ付けないオーラがあったし……一乃と一世の関係も、遠巻きに見てたというか。きっと、そういう男女の付き合いが苦手なんだと思ってたけど、違った?」
当たらずとも遠からず、という感じだ。
一乃が急に大人になったようでなんだか疎外感があったし、変わらず接してくれる一世も、男なんだなとそこでしっかり自覚した。
何より、多感な十代のあの頃──というのもある。私立の超が付くほどの進学校に入学したものの、勉強が追いつかず焦っていた。それに一乃と一世の関係をいいな、と思っても、好きな男の子とのアレコレを想像すると、どうしても現実感が湧かなかった。
ちなみに好きな男の子というのは、今隣にいる初だ。
高校生の頃は、真井君も三橋君と同じことを女の子としたいのかな、と考えていた。むしろとっくに経験しているだろうと感じていたし、そういう雰囲気だった。
初は出会った時から芸能界にいた。そして、彼が初芽を恋愛対象に見ていないことなど、知っていた。
「違ってはいないけど……そういうのは、私に似合わない気がしてて、ずっと。恋愛は、私には向いてないし……ただゆっくり、丁寧に生きられたら、それでいいと思ってる」
はぁ、とため息が出た。取り繕うように笑みを浮かべて初を見る。
「要するに、ちょっと人づきあいが苦手なのです。不器用にしかできないというか……努力しても空回るから、止めておけばよかったのに……元彼には悪いことしたと思う」
初芽が頭を掻くと、初はそれを止めて、頭を撫でてきた。
そしてそのまま、頭を自分の方に引き寄せられる。初芽は初の肩に頭を預ける感じになった。ドクンと、心臓が跳ねた。
「……っ」
「初芽ちゃんは、すごく良い人だ。ずっと勉強も真面目に取り組んでいたし、いつも周りに気を遣っていた。それはずっと変わらないし、君の今の仕事もすごいと思う。尊敬しているよ」
長男長女会のメンバーはいつも優しい言葉をかけてくれる。
彼と別れたとき、一乃は一世と居たのに、わざわざ夜中に初芽のアパートへ来てくれた。なんだかいろいろショックだったし自分が悪かったんだ、と言うと、そんなことないと何度も言ってくれた。
一乃にセックスがダメだったことなどは言っていない。でも、なんとなく察するところはあっただろうと思う。
初芽の初体験はとても遅いものだったが、いい思い出にはならなかった。
きっと初も、初芽のことを長い付き合いの友達だと思っているから、優しくしてくれるのだろう。
誰かに寄りかかることの楽さが、体感的にもよくわかる。
もし次に恋人を作ることができるのであれば、ちゃんと好きな人がいいと思う。そして今、初がこうして寄りかからせてくれるように、互いに支え合えたらいい。
そんな風に考えていたら、上から声が降ってきた。
「付き合ってくれないか、僕と」
初芽は彼の言葉に目を見開いて、彼の肩から頭を上げた。
初の肩に頭を預けていたことを思うと、自分的には結構信じられない。高校生の頃からここまでほとんど接触することがなかったのに、何をやっているのか。
心が弱くなっているんだな、と初芽は逸る鼓動を抑えつつ、目を瞬かせる。
「びっくりした……冗談はよして、真井君」
「冗談なんかじゃないよ。君にはいつも、慎重になりすぎてたし、ずっと仕事のこともあったから、言えなかっただけ。男と付き合うのだって、無理だと思ってたから、せめて近くには居たくて……そのうちに、とは思っていた」
そう言って初は初芽を見つめる。いつになく、目に熱が籠もっているように見えた。
「初芽ちゃんに彼ができたって、一乃から聞いて、すごく苦しかった」
予想外のことすぎて、内容がよく頭に入ってこない。静かに、でも熱心に言い募る綺麗な顔を、初芽はぼんやりと見返した。
彼はきっと、髪も肌も気を遣っているから綺麗だ。
加えて、顔も小さくはっきりとした二重目蓋の美しい目をして、唇も薄すぎず厚すぎず、綺麗な形をしている。鼻筋は通っていて、体躯も何もかも、彼は神様にギフトをもらったかのようだと思う。
「好きなんだ、君が。高校生の時から、ずっと」
神様に愛されたような容姿と才能を持ち、二十七歳でモデル復帰しても、すぐにトップモデルに上り詰める彼が、初芽を好きだと言って、見つめてくる。
高校の頃から好きなのは、初芽も一緒だった。だけど、彼は初芽を選んでいいような人ではなく、ただいつも眩しい存在だった。
すごくモテて、美人な同級生、先輩、後輩からも次々に告白されていて。
なのに、高校生の時から初芽を好き、なんてやっぱり信じられない。
信じたい気持ちがあっても、いろんなことで差がすごすぎて。
「ありがとう……でも、真井君の相手は、私じゃないと思う。もっと素敵で、美人で、すごい人が……」
「初芽ちゃんも、同じ気持ちだったと思ってた」
初芽の言葉を遮るように言われ、再び瞬きをして彼を見る。
恋愛しなきゃと焦っていたのは本当だが、誰にもこの気持ちを話したことはなかった。だが、もしかしたら夜中に駆けつけてくれた一乃にはわかったのかもしれない。一乃が感じたままを初に話したとしても不思議ではない。
「真井君はだって……」
初芽がそう言いかけて言葉に詰まると、初はため息をついた。
「だいたいわかるよ言いたいこと。でも、去年どうしてもって言われて出たパリコレで、君が……いつになく僕を、まるで本当に恋したみたいに見てくれたから」
去年のパリコレクションに、デザイナーのたっての希望で、初はモデルとしてランウェイを歩いた。当時はまだ弁護士事務所で働いていたけれど、事務所に許可を得て、身体づくりをして出たのだ。
初芽も翻訳家として独立を悩んでいた時期だったので、一乃と一世と一緒に思い切ってフランスへ行き、彼が歩くところを初めてちゃんと見た。
初は全部で五回歩き、最後はデザイナーと歩いて、ショーを締めくくった。
いつも以上にカッコイイし、素敵だった初に、初芽はいつになく興奮して、すごくよかった、と何度も言った覚えがある。
言いたいことはわかる、と言った初は、本当に初芽が思っていることをわかっている様子だった。
彼は一度きっぱりとモデルの世界から身を引いた。もちろんオーラがあるから、それでも普通の人と違ったのだが、弁護士事務所に就職し、きちんと弁護士をしていたのだ。
大手の弁護士事務所の誘いは断り、手堅い仕事をするような事務所に就職した彼が優秀だったらしいのは、一世から聞いている。
「君がカッコイイって言ってくれたから、もう一度モデルに戻ろうと思った」
初は一呼吸おいて、初芽を見つめる。
「考えてくれない? 初芽ちゃん。僕たちはもう高校生の頃と違って、いい年した大人だ。君を思う気持ちは、色褪せない。これからのずっとを、考えてみない?」
彼の目は、いつも人を惹きつけて離さない。
だから、こんな風にジッと見つめられると、堪らない気分だ。
初の、少し淡々とした喋り方の中に、熱い気持ちを垣間見て、ここで断るのは非常識とさえ思える。
「これからの、ずっと……?」
初芽が言うと、彼は頷いた。
「そう。これからずっと、一緒にいるということ」
こんなこと言われる感じの私だっけ、と初芽はみたび瞬きをした。
焦って見つけた彼氏には、セックスの最中ちっとも濡れないと言われたし、人付き合いだって苦手だ。
最近は長男長女会とも距離を置こうと思っていたくらい、割とネガティブになりやすい初芽に、こんなに素敵な初が、これからずっと一緒にいる、と言ってくれている──。
思考停止している間に、彼の手が初芽の後頭部に回され、引き寄せられた。何をされるかわかっていた。
こうやって引き寄せられるのは、元彼から何度かされたことがあるからだ。でも、それはさておき、それを初からされている事実が、信じられない。
そうこう考えているうちに、唇が触れ合う。ただ唇をくっつけただけのキスだから、よくわからなかったが、次にされたキスで、彼の唇が柔らかく熱いのがわかった。
「っ……」
初芽は息を詰めた。
唇全体を彼の唇が覆い、一度離したかと思うと、初芽の開いた唇の合間から、舌が入ってくる。
「は……っ」
水音が聞こえてくる。その音が耳に届く。
初が初芽の舌を捕らえ、絡め、吸う。
キスくらい、したことはある。でも、経験は役に立たないのだとわかった。
だって、これはずっと好きだった人としている。その相手が初で、彼の息遣いさえ近くにあり、情熱を感じられるから。
なんだかとても気持ちが良くて、あれどうして、と思っている間に初芽は力が抜けてしまい、ソファーに背が付いてしまう。
「初芽」
名を呼ばれて目を開けると、見たことのない顔をした初がいた。
胸がグルグルと疼く。息をつかせないほどの激しいキスをしたわけではないのに、呼吸が上がる。
初芽はブラウスの胸元を握りしめ、それからスカートも握りしめた。
疼く場所は、一か所ではなかった。
こんなの初めてで、どうしようと思うくらい、自分の身体を持て余す。
「あ……」
初芽が目を泳がせると、初が目尻を親指でそっと撫でた。
「……普通の反応だと思うけど、もしかして、知らない……?」
初はスカートを握りしめる初芽の手に自身の手を重ね、そっと包み込んだ。
綺麗な目が熱を帯びたまま、初芽を見つめてくる。
「何が、普通……え?」
何度も目を瞬きすると、初は少し驚いた顔をして、それから微笑んだ。
「知らないなら、僕が、丁寧に教えたい」
耳元でそう囁かれ、いつもながらの低くて良い声が掠れていて、よりいつもの初と違うことを感じさせられる。
膝をすり合わせると、初芽は自分の足の間が、なんだか濡れている感じがした。
「わ、私……」
戸惑いを隠せない。
初とキスをして、それからこうなっていること。そして、付き合った相手から教えてもらえなかったこと。
「こんなの、想定外だけど」
そう言って初芽の耳を食むようにキスをされ、耳の後ろを濡れて柔らかいものが這う。
「ひ……ぁ」
変な声が出て、頭の中も身体の内側も、グルグルしておかしくなりそうだ。
「初芽ちゃん、君を抱きたい」
そう言って初は初芽を抱き上げ、リビングから移動する。
初の誕生日だから、初の家に来ただけ。たまたまいつものメンバーが来なかっただけ。
互いに大人になって、たまたま二人きりになっただけなのに。
どうしてこんなことになっているんだろう。
初が移動した先は寝室だった。シンプルな大きめのベッドに初芽の身体を下ろし、覆い被さってきた初に、初芽はどうしようもなく震えた。経験したことのない身体の反応に戸惑う。
「大丈夫、怖がらないで」
もしかしたら、泣きそうな顔をしていたのかもしれない。
初の言葉にどうしたらいいかわからないまま、初芽は初と唇を重ねる。
そしてずっとずっと好きだった初の、身体の重みを感じながら、息を詰めるのだった。