初恋の君を離さない 1
第一話
────出会ったのは高校一年の頃。
真井(さない)初(はつ)という人は、初めて出会った時から類まれなる美貌と才能、頭脳を持っていた。
彼との友達付き合いはもう十年以上。有名人だから、街中で会う時はいつも帽子を目深にかぶり、黒縁眼鏡をかけている。
スマホを見ている人が多いからほとんどの人には気付かれないが、自分には、一目見ただけで彼が来たのだとわかる。
でも、彼がこちらに来ているのを知らないふりをして、声を掛けられるまで、できるだけ違うところを見ているのが常だ。
眼鏡を押し上げながら、ただ少し緊張して、名前を呼ばれるのを待つ。
「初芽(はじめ)ちゃん、久しぶり」
柔らかい声が上から降ってきて、そこでようやく顔を上げられる。
八坂(やさか)初芽は、いつもと同じく、笑みを浮かべて彼を見上げる。
「久しぶり、真井君」
初芽は大きめのトートバッグを肩に慎重にかけ直す。中に入っているのは、ロールケーキに生クリーム、イチゴなどをデコレーションした手作りケーキだ。
「みんなは?」
首を傾げる彼は、メッセージアプリのグループチャットを見ていないらしい。
「ここに来る途中に、みんな来られなくなった、って連絡があったんだけど……見てない?」
「え、そうなの? 見てない。ちょっと待って」
彼はスマホをポケットから取り出し、画面を見ると、「ほんとだ」とため息をついた。
「どうしようか……」
初芽はそう言って、バッグの中身をチラッと見る。
「二人だけじゃアレだし、よかったらだけど、ケーキ持って帰ってくれない? 明日、仕事先のみんなで食べてくれたらいいから」
肩からトートバッグを下ろし、初に向かって渡そうとすると、彼は受け取って微笑んだ。
「ありがとう」
微笑むだけで、秀麗な顔立ちは途端に魅力的になる。素敵だな、カッコイイな、と思いながら初芽も微笑んだ。
「味は保証しないけど」
「あなたが作ったのはいつも美味しいです。ありがとう、初芽ちゃん」
そう言ってくれるだけで、満足です。
初芽は心の中で呟きながら、彼を見上げる。
「それじゃあ、真井君忙しいだろうしこれで……」
本当は、みんなと会いたかった。
なぜなら、これから今まで仲良くしていたメンバーとは、少しずつ離れていこうと思っているからだ。
メンバー、というのは、長男長女会という高校の頃からずっと仲良くしてもらっている、友人たちだ。
初も初芽も名前から連想できるかもしれないが、長男と長女。とはいえ、初と初芽だけが一人っ子で、あとは全員兄弟がいる。
メンバーは、初と初芽以外に、三橋(みつはし)一世(いっせい)、三橋一乃(いちの)。一乃の旧姓は河瀬(かわせ)で、二人は結婚している。もう二人いて、宝井(たからい)一真(かずま)、加藤(かとう)初美(はつみ)。この二人は大学に入ってからメンバー入りした。いま同棲中で、あと数ヶ月で結婚する。
それに、初芽はごくごく平凡なのに、みんなそれぞれに美男美女ばかり。職業も、頑張って翻訳家と呼ばれるようにはなったが、難易度の高い国家資格ばかり持っている彼らとは違う。
また、みんなメンバー内でカップルになり、結婚するというところまで行きついた。初と初芽だけは、そういうことになっていない。
そういう小さなコンプレックスを積み重ねるのは良くないと思い、長男長女会のメンバーとは、少しずつ離れていきたいと思った次第だ。
実は翻訳家として独立したのもあり、今よりも少し広いアパートを契約した。三日後には引っ越しになるため、彼らとは少し距離を置けると思っている。
「帰っちゃうの? みんないないけど、一緒にご飯食べない?」
初が笑みを浮かべながら、初芽を誘ってくれた。今までこういうシチュエーションがなかったわけではないが、初芽はいつも断っていた。
初のことは、本当は高校時代からずっと慕っている。だけど彼はすごい人だから、引っ込み思案な初芽は気が引けてしまうのだ。
「それは……みんながいる方が楽しいし。また今度で……」
「ケーキも、良かったらあなたと食べたいんですが」
今日はなんだか、グイッと来られた気がした。いつもは、わかったじゃあ、で終わるのに。
「ええと……真井君、珍しいね。仕事は?」
「休みだよ。明日もオフだから、初芽ちゃんさえ良ければ」
初は有名人だ。きっと、この集まりのためにオフにしてもらったに違いない。だとしたらなんだか申し訳ない気もした。
初は、高校入学の時に新入生代表だった。当時から背が高くて、初芽は最初知らなかったが、モデルをしていた。雑誌の表紙を飾り、時にはランウェイを歩くような、スーパーモデルだったのだ。
初芽と初の高校は有名な私立の進学校だったが芸能活動を許していて、芸能活動をしているクラスメイトは数人いた。
とはいえ、初は一度モデルを辞めている。モデルとして再始動したのは、去年の今頃だった気がする。一度辞めたというのに、今では当たり前に人気モデルとして、あちこちから引っ張りだこだ。
辞めていた期間は五年間ほど。その間、初は弁護士事務所で、弁護士として働いていた。
「初芽ちゃんも、明日は土曜だし、休みでしょ? 僕の家に来ない? デリバリーで好きなの注文するから」
初の家は、さすがだと思うくらい広いマンションだ。賃貸ではなく分譲だと言っていた。
長男長女会のメンバーと一度だけお邪魔したことはあるが、さすがに一人では行ったことがない。でも、彼は友達なのだから、と心に言い聞かせる。
いつもこんな風に、初を好きだと思う気持ちに蓋をする。それがもう、癖になっていた。
「ケーキもよかったら一緒にどう?」
普段は静かな表情の彼に微笑まれ、初芽は心を掴まれる。こういうのがキュンと来るというやつだ、といつも思う。
きっと、初芽よりもずっと大人なのだと思う。自分たちがまだ子供の頃から、大人に囲まれて仕事をしていたのだから。
「……そうだね、わかった」
彼は嬉しそうに笑った。
「もともと、みんなを家に呼ぼうと思ってたんだよね」
初がそう言って初芽に手を差し出した。
「待ち合わせが僕の家の最寄駅でよかった。すぐそこだから」
初芽は彼の大きな手をジッと見てしまう。その手は取らなければならないのか、と逡巡しているうちに、彼が初芽の手を取って歩き出した。
「え……?」
「何が食べたい? ピザ? 中華? イタリアンがいいかな?」
今までこんなことなかったのに、初めて手を繋いでいる。
なんだか今日は変だ、と思いながら、彼に手を引かれるままに歩いた。
「初芽ちゃん、何がいい? パスタとピザにする?」
心臓が高鳴る。手汗が滲むのを感じて、初の手を一度離した。
「初芽ちゃん?」
「ご、ごめん。手汗が、すごくて……」
初芽がハンカチをボディバッグから取り出し手をごしごし拭くと、初はクスッと笑った。
「それ、どっちの手汗かな」
そう言って可笑しげに微笑んだあと、また手を差し出された。
「真井君、有名人なんだから、ダメでしょ。写真とか撮られちゃうよ?」
笑いながら彼に言ったら、彼は首を傾げてこちらを見た。
「みんなスマホ見てるし、僕なんか見てないと思うよ?」
でももしかしたら、と思う気持ちがあり、あたりをキョロキョロしてしまう。その間に彼は再び初芽の手を取り、歩き出した。
「初芽ちゃん、手、小さいな。知らなかった」
なんだか、これって恋愛フラグが立っているような……。初芽は初を見上げた。
しかしなんで出会って十年以上たってこんな風に、と考え、慌てて打ち消す。
初みたいな男の人が、初芽を好きになるわけがないだろう。彼の周りには、とても綺麗な人たちばかりいるのだから。
初芽の交友関係は、非常に狭い。自分でも、もう少し友達がいても、と思うが無理はしたくない。
初芽の仕事は外国語の本を翻訳すること。基本は英語だが、スペイン語とフランス語も翻訳することがある。一時期、旅行社などで外国人を案内する仕事に就こうかと思ったこともあったが、そこまで社交的じゃないため多分無理だろう、と断念した。
とりあえず語学を頑張れば何か未来が拓けるはずだと思っていたが、明確なものを見出せないでいた。そのとき、初が本の翻訳などはどうか、と言ったのがきっかけで今の職業に行きついた。
同じ長男長女会のメンバーは、全員国立大学に進学し、初もみんなも国家資格を取ったりする秀才ばかりだ。
ちなみに初芽は受験に失敗し、語学に強い私立大学へ入学し、卒業した。
初芽の職業だって、「手に職をつける」という意味では良く頑張っているほうだと自分では思うが、初をはじめ、上には上がいるということだ。
「仕事、順調?」
不意に聞かれ、初芽はうつむけていた顔を上げた。すでに初の家に上がらせてもらっている。
初が自宅に戻りがてら注文したデリバリーのピザとパスタをテーブルに並べている。
初芽は自分が持ってきていたケーキをテーブルに置き、ソファーに座りながら二と八のロウソクをケーキに立てていた。過去を思い出し、ボーッとしていたと思う。
「うん、まぁ……。この前は、直接出版社に行って修正してきたけど……久しぶりにスペイン語やると、表現に悩んで……」
初芽が苦笑すると、そう、と言った彼はフォークと取り皿もテーブルに置く。ケーキナイフも忘れていない。
「一乃が、最近初芽ちゃん素っ気ない、遊んでくれないって言ってたけど、本当?」
あ、と思いながら、とりあえず笑っておいた。
「一乃、三橋君と結婚したし……まだ新婚だから、邪魔できないよ」
もともと、一乃と一世は高校生の時から付き合っていた。高二の頃からなので、もう十一年の付き合いとなるだろう。
一乃の初めての相手は一世で、付き合って半年になった頃に、そういう関係になった。打ち明けられたのは、彼らが初めてした日から数えて三日後。
その時ものすごく、性というものを意識したのを覚えている。
「新婚って言っても、いつもの延長線上に婚姻契約をしただけって言ってたけど。気にすることはないよ、初芽ちゃん」
「……まぁ、そうかもしれないけど」
「初芽ちゃん、何を飲む?」
「私は、いつもの……」
いつもの、と言いながら食事も飲み物も出してもらっていることに、ちょっと気が引けてしまった。配達の支払いの時、初芽がお金を出そうとしたのだが、いいよ、と言って彼が支払った。
「いつものほろ酔い系? カシスオレンジでいい?」
グラスと缶を見せると、初はビールの缶と大きめのグラスも持って、またテーブルへ戻ってきた。
「なんだかみんな結婚しちゃうから……連絡とりにくいな、って」
長男長女会のメンバーは皆二十八歳だ。
一真と初美ももうすぐ結婚する。
「そうかなぁ。そんなに気にしなくていいと思うけど」
初芽の隣に座り、彼は缶のプルトップを開け、カシスオレンジをグラスに注いだ。自分のビールもグラスに注ぎ、ライターでロウソクに火をつける。
「初芽ちゃんのケーキを見ると、誕生日って感じがする」
そう言って、彼はロウソクの灯りを吹き消した。
「お誕生日おめでとう、真井君」
「今年もありがとう、初芽ちゃん」
優秀すぎる顔が笑う。