エリート夫と離婚するまでの100日間 契約結婚ですが本気で愛されてるかもしれません 2
第二話
「うわぁああああ!」
凌牙さんの悲鳴が、静寂を破ってエレベーターホールに響き渡った。それは、まるで獣が断末魔の叫びを上げるかのような、凄まじい悲鳴だった。
その場にいた誰よりも先に駆けつけたのは、他でもない匠さんだ。
彼は、まるでこの事態を予期していたかのように、冷静に凌牙さんにハンカチを差し出すと、私を抱き上げた。
突然の出来事に、私はただ目を泳がせることしかできない。
「顔が真っ青だな。すぐに医務室に連れていきます」
そう言うと、匠さんは到着したエレベーターに私を乗せ、最上階のボタンを押した。そして、ためらうことなく『閉』ボタンを押す。
エレベーターの扉が閉まり、取り残された凌牙さんとどこからともなく駆けつけたホテルマンの姿が見えなくなって、私と匠さんを乗せたエレベーターはゆっくりと上昇していく。
私は匠さんに抱き上げられたまま、呆然と彼を見上げていた。
匠さんの瞳は、相変わらず冷静さを湛えている。こんな場面でも、彼は少しも慌てる様子を見せない。
だからかその胸の中にいるだけで、不思議な安堵感に包まれるのだった。
チーン、と無機質な音が響き、エレベーターは最上階に到着した。
扉が開くと、匠さんは私を優しくソファへと下ろす。私は、彼に深々と頭を下げた。
「もう吐き気も治まりましたし、体調が悪いわけではないので、病院は大丈夫です。本当にありがとうございました」
そう言うと、匠さんは口元を手で覆い、私をじっと見つめていた。
次の瞬間、彼は真面目な顔で呟く。
「まさか、本当に吐くとはな……」
「た、匠さんが言ったんでしょう!」
私は思わず反論してしまった。しかし、彼は冷静な口調で返してきた。
「半分は冗談だった。それに、いざとなれば助けようと思っていた」
本当だろうか? 私は首を傾げた。
私には、人の顔色を見てその真意を読み取ろうとする癖があった。そのおかげで、相手の表情から大体の心情を推察することができる。
しかし、この匠さんだけは例外だった。彼はいつも冷静な表情を崩さない。そのため、他の人のように心情を読み取ることができなかったのだ。
彼が何を考えているのか、これから何をしようとしているのか、全く予想がつかない。
だからこそ、私は余計に彼のことを知りたかった。
ただ、心情が分からないといっても、彼は七城家の一員であり、凌牙さんの弟である以上、警戒すべき存在であることは間違いない。
凌牙さんと匠さんは、異母兄弟だ。しかも、匠さんの母親は元女優で、黒い噂が絶えない人物だった。
本来ならば、最も警戒すべき相手なのかもしれない。なのに……。
──私は、匠さんにだけは苦手意識を持てない。
七城家の男性の中で、そんなふうに思えるのは彼だけだ。
匠さんは、私をじっと見つめ、容赦なく言い放った。
「嫌なら断ればいい」
「断れるものなら、とっくに断っています」
私には、会社の事情も、父の必死な思いも、痛いほど分かっていた。
だから、政略結婚を受け入れること自体は、ある程度覚悟している。
ただ、相手が凌牙さんであるということが、どうしても受け入れられないだけだ。
匠さんは、不思議そうに首を傾げた。
「結婚自体は断る気がないのか? ただ先延ばしにしたいだけか?」
「いいえ、断れないんです。それに……凌牙さんは、二十代前半の女性と結婚したいそうなので、たとえ先延ばしにしたとしても、猶予はあと一年しかありません」
「あやめさんは、今何歳だった?」
「二十三です」
今日はたまたま凌牙さんを撃退することができたけれど、それは一時的なものに過ぎない。私に与えられた猶予は、あと一年しかないのだ。
凌牙さんの前妻である静香(しずか)さんも、二十二歳で彼と結婚した。
彼には、女性の年齢に対する強いこだわりがあるようだった。
「本当は、結婚を断りたいと思っているのはどうしてなんだ?」
匠さんの問いかけに、私はきゅっと唇を噛み締め、彼の顔を見つめた。
さすがに、彼の兄を「生理的に受け付けない」と正直に言うのは、彼に対しても失礼だろう。そこで、私は言葉を精一杯にオブラートに包んで伝えることにした。
「私、凌牙さんのような方と結婚したら、いつか家庭内で傷害事件を起こしてしまうんじゃないかと不安なんです。そうなれば、お互いの会社にも迷惑がかかってしまいますから」
すると、突然、匠さんが吹き出す。
私は目を丸くして、匠さんを見つめた。何かおかしなことを言ってしまったのだろうか。
「そんなに笑う話でしたか?」
「いや、すまない」
そう言いながらも、彼はまだ愉しそうに笑っている。
何がそんなにおかしいのか、私にはよく分からなかった。しかし、彼の笑顔を見ていると、私まで自然と頬が緩んでくる。
これまでも匠さんは時折、私の前で笑顔を見せることがあった。私にとって、彼の笑顔は特別なものだったのだ。
「じゃ、三年もあれば、あやめさんは晴れて二十代後半だな」
「そうですね」
「君が逮捕されないための、いい考えがあるんだ」
彼が私のために考えてくれたこととは、一体どんな〝考え〟なのだろうか?
次の言葉を待つ私に、匠さんは焦らすような間を置き、ゆっくりと口を開いた。
「三年間だけ、俺と結婚しないか? そうすれば、離婚する時には君は二十六歳。もう凌牙と結婚する必要はないだろう」
「……さ、三年間の結婚?」
あまりにも予想外の提案に、私は驚いて固まってしまう。
まさか、三年間の結婚などという提案を受けることになろうとは。
しかし、匠さんは落ち着き払っていた。
「実は、俺にも結婚したい理由があるんだ。端的に言えば、七城の役員になりたい。そのためには、グループ会社の社長になる必要がある。だが、うちは既婚者でないと役員になれない慣習があるのは知っているだろう」
「はい、それはうちのグループも同じなので……」
「やっぱり、あやめさんは話が早いな」
匠さんに褒められ、急に頭が冴え渡る。
つまり、お互いのメリットを考えて三年間結婚しようと提案してくれているようだ。
彼は、私が納得するまで説明を続けようとする。
「俺は役員になるために。あやめさんは、凌牙と結婚しないために。俺たちの結婚は、キスもセックスも必要ない、ただの契約結婚だ」
「キスもセックスも必要ないって……本当に?」
「あぁ。それとも、あやめさんはしたいのか?」
「え……」
あまりにもストレートな質問に、私は戸惑いを隠せなかった。
キスやセックスがしたいかどうか……。
少なくとも、さっき凌牙さんに触れられた時のことを思い出すと、ぞっとしてしまう。
私は首を横に振った。
「い、いえ……」
「だろう?」
「でも、キス……とか、他のことも必要ない結婚って考えたこともなくて」
私自身がどう思おうが、結婚相手の男性に自分の身体を全て任せるような未来しか、私には用意されていないと思っていた。
──それが免除される結婚なんて、あるんだ……。
匠さんの言葉は、私の心に新たな光を灯してくれた。
「契約結婚なんだから、必要なものと必要ないものに分けて考えればいい。例えば住居のこともだ。一緒の部屋だとあやめさんも嫌だろう?」
「え……」
そう問われて、嫌かどうかすぐに判断できずに戸惑った。
男の人と住むことに抵抗はある。けれど、匠さんなら……と少しだけ心が揺れる。
「男と一緒に住むなんて心配だろうし、マンションの隣同士に住まないか? ちょうどいいマンションを持っているんだ。それならあやめさんも安心して生活できる」
匠さんは小さな不安も全て払拭していくような、冷静で自信に満ちた言葉を紡いでくれる。
「あやめさんの生活の面倒は俺が見る。あと、お父様の会社の方も何とかするから安心して」
彼の提案は何もかもが完璧だった。
しかし、こんなに私に都合のよい条件ばかり提示されて、何か大きな見返りを求められるのではないだろうか。
「それで匠さん側の条件は何ですか?」
「こちらの条件は、パーティーや夫婦として出席しなければならないものには妻として同伴すること。そうでないと既婚者かどうか疑われるからな。俺も君が夫を必要とする場面には必ず付き合う」
彼は本当に形だけの妻が欲しいということらしい。
──匠さんはいつも虎視眈々と七城家を乗っ取るチャンスを狙っているんだから、気をつけなきゃ。あの女狐の息子なのよ。
昔から彼はよくそう噂されていた。彼の母親は女優で、後妻だったから余計に……。
普段はその素振りは見せないけれど、こういうチャンスにしっかり提案してくる姿を見ると、野心家ではあるのだろうと納得できた。
「なぜ私に声をかけたのですか? きっと匠さんならもっといろんな女性がいるでしょう? 私が若いから?」
社長令嬢、という肩書以外に、自分にあるのは若さだけだ。決して卑下しているわけではないが、そんなふうに思っていた。
彼が大きな企みをしているなら、きっと私のような立場ではあまり役に立たない。
そんな私に、匠さんは微笑む。
「理由は二つ。一つ目、君はSNSの類をしていない。そうだろう?」
「そうですけど……それが何か」
「契約結婚だから、リスクは少ない方がいい。それに最大の理由は、俺はプライベートでは結構人見知りでね。仕事以外で普通に話せる女性がいないことだ。こんな不躾な提案をできる女性もね」
その言葉を聞いて、つい嬉しいだなんて思ってしまった。
これも彼の戦略だろうか? すでに彼の手のひらで踊らされている?
でも、それでもいいと思い始めていた。
「で、あやめさんはどう思ってる?」
「……その条件は私にとっても最高だと思います」
「そうだろう」
匠さんがゆっくり頷く。
凌牙さんの弟であることとか、野心家であるところとか……彼を信用しきれていない部分はある。だけど、それを含めてもこれまでの関わりの中で私は彼に“ある感情”を抱いていたから。
覚悟を決めた私は、ソファから立ち上がり、自分の右手を差し出していた。
「匠さんがいいなら、是非お願いします」
「あぁ、よろしく」
そう言うと、匠さんは私の差し出した右手を握り返してくれた。
男性に触れられることに、嫌悪感以外の感情が沸き起こる。
そういえば、抱き上げられた時も、嫌な気持ちは全くしなかったことを思い出した。
──できればずっと、この手を握っていたい。
そう思ってからすぐ、彼は私の手を離した。言いようのない寂しさが込み上げる。
私はその時にはもうとっくに、彼に好意を寄せていたのだ──。
話が決まったその日のうちに、匠さんは各方面に承諾を得た。
そしてすぐにホテルの部屋をリザーブし、弁護士とともに婚姻届と契約書を作成していく。
「契約期間は、二〇二二年四月一日から二〇二五年三月三十一日までの三年間。期間終了後は、双方の合意に基づき、契約の更新は行わないものでよいですね。婚姻費用の負担は匠さん。また、契約期間中、性的関係を持つ義務を負わず、一切の強制を行わないと明記します」
弁護士の男性が抑揚のない声で言った。それに匠さんは頷く。
「あぁ、あとは義務として、『必要に応じて互いに協力すること』、『困難な状況や問題が生じた場合には、必ず相談し、協力して解決を行うものとする』という項目も入れてくれ。いいよな?」
突然私に振られて、私は慌てて頷く。
「ではそちらも契約項目に入れ込みましょう」
匠さんは、慣れた手つきで出来上がった契約書に署名した。
私はまだ夢を見ているような気分で、ペンを走らせた。
契約締結後、結婚生活開始日の前には両家の顔合わせが行われた。そこも匠さんの卓越した演技力と見事な切り返しで乗り越えることができた。
そして二〇二二年四月一日。私たちは、都内の高級マンションの最上階、二部屋あるうちのそれぞれ別の部屋に住むことになった。
それからというものパーティーや必要な時以外は、ほとんど顔を合わせることはなかった。もちろん契約の通り、匠さんが私に手を出してくることもなかった。
彼は公の場では常に完璧な夫を演じきり、私たちは、いつしか“日本一のおしどり夫婦”と呼ばれるようになっていった。
だが、あくまでも仮面夫婦。私たちの関係は、契約書で結ばれたビジネスライクなものに過ぎなかったのだ。
それでも、結婚生活を続ける中で、私は以前よりさらに匠さんに惹かれていく。
彼のさりげない優しさや気遣いに触れる度に、私の恋心は大きく育っていったのだ。
匠さんとの心の距離が縮まることはないと分かっていながらも、私は彼への気持ちを止められなくなっていた。
──そして、三年という月日は容赦なく流れた。