エリート夫と離婚するまでの100日間 契約結婚ですが本気で愛されてるかもしれません 1
第一話
私が“役”を演じる舞台は、いつも決まって華やかなパーティー会場だ。
女優でもない私が、特別な役を背負うようになったのは、今からちょうど三年前のこと。
三年前のあの日、朝は爽やかに晴れていたが、昼過ぎから徐々に雲が広がり始めた。パッとしない天気とは裏腹に、会場内の光景はいつも通り絢爛だった。
その日、私は彼の提案に乗った。彼が相手だったからこそだ。
もちろん、不安がなかったわけではない。
彼──七城(しちじょう)匠(たくみ)さんは、全面的に信じるべき人間ではないということを、私は痛いほど理解していた。
それでも、彼の“妻”という役を引き受けたのだ。
三年間の思い出とともに、この日もパーティー会場の扉を開ける。
室内に足を踏み入れるなり、目に入ったのは匠さんの姿だった。
百八十一センチの長身に均整の取れた体つき、艶のある黒髪に整った眉、優しげな目元。その端整な顔立ちは母親譲りだった。
彼の母親はかつて名を馳せた大女優。匠さんが俳優と見間違えられるのも無理はない。
匠さんは私に気付くと、いつものように嬉しそうに目元を細めた。その仕草はあくまで自然だ。
すぐに彼は私の目の前まで来て、柔らかな声で囁く。
「あやめ、今日も綺麗だな」
甘い言葉と優しい表情──それは、まるで本当に愛している相手に向けたもののようだった。
周囲にいる誰もが、彼は心から妻を愛しているのだと思い込むだろう。時に事情を知る私自身ですらそう錯覚させたくらいだ。
──匠さんと私はいわゆる“契約結婚”だった。
肉体関係どころかキスすらしたことがない。住まいも同じ部屋ではなく、マンションの隣同士という徹底ぶり。それら全てが契約書に明記されている。
だが、そんな二人が世間から“日本一のおしどり夫婦”と称されているのだから、不思議なものだと私は思う。
ちらりと視線を前に向けると、深い愛情を宿しているかのような瞳でこちらを見つめている匠さん。
その瞳に見つめられると、心臓に悪い。三年を経て、それなりにうまく反応を返せるようになっていたはずが、今日に限っては私の返す笑みがぎこちなくなっていた。
この生活もあと百日。むしろ、今夜突然「今日で終わりだ」と告げられても不思議ではない状況だったからだ。
それなのに──。
「ふぁっ、あっ……ンッ、やっ……それ、だめ!」
その夜、私は“偽の夫”と初めて身体を重ねていた。
声にならない抗議を漏らしたものの、匠さんは止まらなかった。
裸にした私の胸を舌で刺激し、花弁の上で震える卑猥な突起を愛撫していた。とめどなく溢れ出る蜜は、私の太ももを淫らに濡らしていく。
彼の動きは絶妙で、それを演技と呼ぶにはあまりにもリアルだった。
私は知らず知らずのうちに息が荒くなっていく。快感に耐えきれず目を閉じると、さらに匠さんの指先の感触が浮かび上がる。
私の脚に一瞬力が入った。それを見透かしたかのように、彼の指は硬くなった蕾を摘まんで震わせる。
「ぁああんっ……!」
私の身体は数回跳ね、それから一気に脱力した。
ふうっと意識がどこかに飛んでいきそうな感覚が私を襲う。
次にはっきりと意識が戻ったのは、目の前の匠さんが乱暴に服を脱ぎ捨てた時だ。
初めて見る男性の裸に、私は慌てて視線を逸らした。ぬめりを帯びた秘部にそっと剛直が当たる。
私は戸惑ったが、もう何度も達したそこは次の刺激を待つようにヒクついていた。
「あやめ……」
耳元で甘く囁かれる自分の名前。
その響きの中に演技の余韻が残る一方で、ほんのわずかに真実が混じっているような気がした。
──お願い、少しでも私のことを好きでいて。
その一瞬の思いを打ち消すように、匠さんの低い声が、静かな部屋に再び響いた。
「このまま避妊せずにしないか?」
避妊しない──?
私は一瞬、耳を疑った。目を見開いたまま何か言おうとしたが、喉に言葉が詰まる。
慌てて首を横に振ることでようやく反応を返した。
「離婚まであと百日ですよ」
その言葉に匠さんは一瞬、眉を下げた。普段は飄々とした態度の彼にしては、あまりにも感情が露わだった。
それは本心なのか、それとも彼の得意とする演技の一環なのか。
わずか一秒にも満たない沈黙が、永遠のように長く、重く感じられる。
「……そうだよな」
匠さんは力なく頷いた。
そして、彼が観念したように避妊具を手に取るのを見て、私はほっと胸を撫で下ろした。しかし、先ほどの彼の言葉が胸の奥に引っかかる。
どうして今、そんなことを言ったの──?
疑問がポツリと心の中に落ちて、波紋のように静かに広がっていった。
それをかき消すように、彼の先端がぐぬりと私の中に入ってくる。
「んんっ……!」
「あやめっ」
全てが中に埋まると、匠さんの手が私の手を探り当て、まるで本物の恋人のようにしっかりと握りしめられた。
その瞬間、胸の奥が切なく軋む音がしたが、私は目を閉じてそれを無視した。
唇が再び重なり、深いキスが交わされる。唾液が混ざり合うと互いの境界を失っていくようだった。
やがて、匠さんがゆっくりと律動を始めた。
思考を全て奪うほどの鮮烈な快感だけが私の身体に刻まれる。
気付けば、無我夢中で彼を求め、さらなる高みに達していた。
私にとって、それは予想外の出来事だった。
そして──翌朝、匠さんの放った言葉が、私にさらなる衝撃を与えた。
「これから契約終了日の三月三十一日まで一緒に住んで、もしあやめの気持ちが俺に向いたら、離婚はなしにしてほしい」
二〇二一年十二月十八日
やっぱり来たくなかった……。
私、篠崎(しのざき)あやめは心の中でその言葉を何度も繰り返していた。
その日、私が出席していたのは旧財閥系の七城グループ内で行われる『七城電機(しちじょうでんき)創業十五周年記念パーティー』だった。
華やかな会場には、名だたる経営者や財界人が集い、格式高い雰囲気が漂っている。
そして、その中心が、壇上に立ち、形式通りの挨拶を淡々とこなす七城電機社長──七城凌牙(りょうが)さん。
今年三十八歳の彼は、私より十五歳も年上である。明るい茶髪をきっちり整え、細身のブランドスーツを着こなしたその姿は、誰の目にも洗練されて見えるだろう。
七城一族の皆がそうであるように、見た目において彼に非の打ちどころはない。
だけど、私にとっては関係のないことだった。
──やっぱり苦手だ。
挨拶を続ける凌牙さんをちらりと見る。しかし目が合わないように、すぐに視線を逸らした。
会場に響く拍手が挨拶の終了を知らせる。それでも、私の心は重いままだった。
──早く帰りたい。
始まったばかりのこの会が終わるまで、あとどれほどの時間がかかるのかを考えるだけで、身体が重くなる。だが、帰ることはできない。
私の父は自身が経営する会社を支えるためにこれまで多くの努力を重ねてきた。兄が亡くなってからはなおさら、父の奔走ぶりが目に見えていた。
それを知っているからこそ、私も逃げ出すなんてできなかった。
それが最も苦手とする男性との結婚であったとしても──。
「あやめちゃん、やっぱり来てくれたんだ」
背後から聞き慣れた、少し高めの男性の声が耳に届く。その瞬間、背筋が凍るような感覚が走った。
振り返ると、そこにはやはり凌牙さんが立っている。
彼の何が苦手なのか──一番は、女性の身体を値踏みするような視線だ。
そして、『女は若いほどいい』『女は選ぶ男で人生が決まる』という口癖がさらに嫌悪感をかき立てる。
しかし、それらは七城グループの多くの男性にも共通する特徴だった。
彼らのような立場の人間に逆らう女性など、現実にはほとんど存在しない。それが、七城グループという巨大財閥の力だ。
凌牙さんと向き合っているだけで、先ほど呑んだワインが胃の奥から込み上げてくるように感じたが、ぐっと唾を飲み込んで事なきを得る。
隣では父が深々と頭を下げた。
「この度は十五周年おめでとうございます」
私も続けて頭を下げたけれど、凌牙さんはわざとらしい笑みを浮かべて答える。
「俺の代で経営が傾くなんてことはうちの会長が許さないですから。それはそちらも同じでしょう?」
父は苦しそうに笑いながら、さらに頭を下げる。
その顔を見るだけで、父がどれだけ追い詰められているかが分かった。
「まあ、篠崎電機(しのざきでんき)も七城と繋がっている限りは安泰ですよ。取引を切られない限りはね」
言葉に脅しめいた雰囲気が含まれているのは、篠崎電機は七城電機に依存する形で経営が成り立っているからだ。それでも凌牙さんが社長になるまでは平穏だった。
しかし彼が社長になり、昨年離婚した途端に、取引継続の条件として、私との結婚を持ちかけてきたのだ。
本来、私は父の会社のためになるのなら政略結婚を受け入れる覚悟があった。
だけど、凌牙さんとだけは例外だった。彼と結婚する未来を考えるだけで息が詰まりそうになる。
父も私の気持ちを理解しているのか、無理に結婚を強いることはしなかった。
それでも、最終的に私はその道を選ぶしかないのだろうと、父の表情や態度から察知していた。
父が凌牙さんに深く頭を下げ、私の腕を軽く引いてその場を離れる。
凌牙さんの視線から解放され、ようやくほっと息をつくことができた。
「すまなかったな、あやめ」
「ううん。お父様こそ、大丈夫なの?」
「心配するな。大丈夫だ」
本当にそうなのだろうか、と父の表情を見つめてしまう。
篠崎電機の経営は、どこからどう見ても楽観できる状況ではない。
私は父の力になりたい──その思いだけは強くある。だが、そのための覚悟がいまだ決めきれない。
どのみち凌牙さんと結婚するなら、自分できちんと覚悟を決めるつもりだった。
父がふと何かに気付いたように視線を会場の入口に向けると、「少し外す」と言い残して会場を出ていった。私はその背中を見送りながら、軽く息をつく。
再びワインを受け取り、一口呑んだ。
時計を見ると、時刻は午後六時半。あと一時間程度かな。そう自分に言い聞かせながら、周囲を見渡した。
会いたい人などほとんどいない。以前はよく話しかけてくれた静香さんも、もちろんここにはいない。昨年、凌牙さんと離婚したのを境に、彼女はパーティーに姿を見せなくなっていた。
そしてもう一人──匠さんもまだ姿が見えない。
今日もこの場に来るはずなのに、忙しいのかな? もしかして休憩で外に出ている?
そんなことばかり考える。
気が付けば、いつもこうして会場で匠さんの姿を探している自分がいた。他の誰のことも気に留めないのに、匠さんだけは別だった。
彼は他の男性とはどこか違う。七城グループの支配的な空気とも違う、不思議な存在感を放っており、彼と言葉を交わすと自然に笑顔が増えた。
私は今日もつい匠さんの姿を探してしまっていた。
「篠崎社長は?」
その声に現実に引き戻され、振り向いた。後ろにいたのは匠さんではなく、凌牙さんだった。
思わずため息が漏れそうになる。
「今、外に出ています。お呼びしましょうか?」
「いや、いい。あやめちゃんに用があるから」
そう言いながら、凌牙さんの視線が私の身体を下から上へと這った。
胸で視線が止まる。彼の目は、それを評価するかのように動きを止め、不快な笑みを浮かべる。
その笑顔を避けるように後ずさる私の左手首を、彼は無造作に掴んだ。
「あやめちゃんだって、自分の立場くらい分かっているだろう?」
「立場、ですか……?」
「七城電機なしに篠崎電機がやっていけないことくらい、分かるよな」
その言葉の裏にあるものを、彼の目が語っていた。
拒めば、篠崎電機は市場から排除される。そんな未来図が鮮明に見える。
ギュウ、と目を瞑った私に、彼は耳元で囁く。
「今日、泊まっていこう。そろそろ身体の相性だって確認しておいた方がいい」
その言葉に、嫌悪感が抑えきれなかった。
父に助けを求めたくても、まだ戻ってきていない。
大声で「やめてください!」と叫ぶ勇気は持ち合わせていなかった。
それに、叫んだところで何になる?
ここは祝いの場だ。主役の凌牙さんに恥をかかせるような行為をすれば、それが父の会社にどんな影響を与えるか分からない。
凌牙さんは私の震えを感じ取ったのか、顔を近づけてクスリと笑った。
「大丈夫、俺は上手だから、心配しなくていい」
上手だとか、そんなことはどうでもよかった。この人とは絶対にしたくない。それどころか、本音を言えば、どんな男性とであっても──。
──どうして自分の身体なのに、自分の思う通りにならないの?
首筋にかかる彼の吐息を拒絶することすらできない。目を閉じてただ耐えるしかない自分が悔しい。
さらに彼の手が私の肩に回り、自然な動作で会場から連れ出される。歩く速さは容赦なく、私の足がついていけないことなど彼は意に介さない。
「社長ですし、最後のご挨拶がまだ残っているのでは……」
どうにかこの状況を打破しようと、私は口を開く。
やめてください、と言えない分、どうにかして凌牙さんから引き下がってほしかった。
「もう、あとは勝手にやるさ。一度シタあとに最後の挨拶だけ戻ってもいいしな」
「でも……」
必死に凌牙さんの手を解かせる言葉を探す。しかし、こんな場面で穏便に断れる、そんな機転の利いた言葉がどうしても浮かばない。
「俺は上に行くべき人間だし、これからもっとのしあがる。そういう面でも、俺に抱かれてよかったって間違いなく思えるさ」
彼の吐息は荒く、肩にねっとり触れる手の重みが嫌悪感をさらに募らせる。
込み上げてくる吐き気を、必死に飲み込んだ。
──だめ、吐きそう……でも、こんなところで吐くわけにはいかない。
全力で耐え続ける中、視界の端に人影が入った。
その瞬間、胸の奥で何かが弾けるような感覚があった。
長身で、端整な顔立ち。切れ長の目には漆黒の瞳がはまり、その目つきはいつも冷静だ。
どんな危機的状況にあっても、彼は驚かず、焦らず、冷静な判断を下す。
そして、無理に笑顔を作ることもなく、常に自分のペースを崩さなかった。
──匠さんだ!
思わず泣きそうになりながら、私は彼の顔を見つめた。
その瞬間、胸の中にわずかな希望の光が差し込むようだった。
しかし、彼は私の異変に気付いているのかいないのか、表情を全く変えない。ただひたすらに前を見据え、歩みを止めようともしなかった。
まるで私の存在など眼中にないかのように……。
匠さんは『七城データ』という会社の部長職ではあったが、グループ役員ではなかった。
七城グループという巨大な組織の中では常に役職が上のものが優先され、いくら凌牙さんの弟とはいえ、匠さんの発言力など微々たるものだろう。
まして、匠さんにとって私は「時々話す仲」に過ぎないのだ。
──だから匠さんが私を助けてくれるはずはない。
匠さんは、私が誰とどうなろうと気にしないのだろう。そう思うだけでさらに目の前が霞む。
いずれ凌牙さんを受け入れるしかないのなら、今そうしたところで同じこと?
頭がぼーっとする。吐き気のせいで思考能力が著しく低下しているのが分かる。
そんな時、私の耳元に低く冷静な声が届いた。
「気持ち悪いならいっそこいつに吐いてしまえ。こいつは潔癖だから、萎える」
え、と私は思わず足を止めそうになった。凌牙さんは構わず歩いて私を引っ張る。
凌牙さんは、今の言葉に気付いていないらしい。
声の主は、ちょうど隣を通り過ぎた匠さんだったのだ。
エレベーターホールに着くと、凌牙さんは荒い息を漏らしながら上階にあがるボタンを押した。
三基あるエレベーターのうち、二基は一階に止まっている。残りの一基は上の階で止まったままで、まだ動き出す気配がない。
私は、先ほどの匠さんの言葉を反芻していた。
──気持ち悪いならいっそこいつに吐いてしまえ。
次の瞬間、凌牙さんは私の肩にかけていた手を、ドレスの胸元から中に差し込んだ。
ぐにゃり、と胸を直接乱暴に揉まれ、今日一番の恐怖が全身を駆け巡る。
再び、匠さんの言葉が頭をよぎった。その瞬間、胃から何かが一気に込み上げてくるのを感じた。
気付けば、私は凌牙さんに思いっきり吐き戻していた。