エリート夫と離婚するまでの100日間 契約結婚ですが本気で愛されてるかもしれません 3
第三話
七城家のしがらみは、金銭面での不自由がない代わりに、心の余裕を全て削り取っていくものだった。
俺には十歳離れた腹違いの兄・凌牙がいて、凌牙は幼少期から実母に「何をしてもいいからトップに行け」と繰り返し教え込まれていたようだ。彼の母親は、実際にそれを体現していた。
息子を一人の人間としてではなく、七城家の後継者として鍛えあげようと、暴言を吐き、暴力を振るうことも厭わなかったらしい。
やがてその行為が問題視され、祖父が離婚を強く勧め、凌牙から母親を引き離した。
彼はその事実を知らされず、再婚してやってきた後妻──俺の母に敵意を向けた。
そして後妻とその子どもである俺への嫌悪感は、年齢を重ねるにつれて深まっていく。
特に母に対する風当たりは七城家全体からも強かった。
元女優という経歴が災いし、母は『会長の愛人』だの『家族の和を壊した女狐』だのと、根も葉もない噂を囁かれた。
凌牙が俺や母に向ける敵意は、そうした家の空気に乗って、さらに剥き出しになっていった。
小学生になる前のある日、俺は凌牙に階段から突き落とされた。頭から血を流し、痛みで身動きが取れなくなった俺を見下ろす凌牙の顔は今でも記憶に焼き付いている。
『お前が楽しそうに笑っているからだろう。女狐の子のくせに笑うな』
その時、笑うという行為がこんなにも罪になるのか、と子どもながらに悟った。
それでも母は、凌牙を責めなかった。凌牙の気持ちを慮っていたのだろう。
母はどんな時も落ち着いた人だった。そんな母が俺によく言っていたことがある。
「匠、常に冷静でいなさい。本当の気持ちは好きな人の前でだけ見せればいいの」
その言葉の意味を、俺は正確には理解できないまま、母の前でだけは笑ったり怒ったりするようになった。けれど、そんな母も俺が小学生の時に亡くなる。
それからというもの、俺は感情というものを失った。笑うことも、怒ることも、泣くことも、驚くことさえも。
全ての感情を失うことでしか、この家では生きられなかったのだ。
パーティーにもよく連れ出されたが、もちろん気乗りして行っていたわけではない。
しかしその中で目を引いたのは、比較的に俺と年の近い柾(まさき)さんとその妹のあやめだった。
篠崎電機の社長の息子と娘。二人の年は八つ離れているらしく、十歳離れている自分と凌牙に近いと思った。しかし、この二人の関係性は俺たちとはまるで違った。
あやめは、いつも表情が豊かで、子どもらしく笑ったり怒ったりしている。
そんな無防備な表情をしていれば、どのように非難されるか分からない。俺は心配する気持ちと同時に、少し批判的な気持ちであやめをよく見ていた。
「もう帰りたいよー。帰ろうよー」
あやめの声が聞こえる。彼女は不服そうに頬を膨らませ、眉間に皺を寄せていた。
また今日も彼女は人目を気にせず、素直に言葉と顔に感情を出しすぎている。心の中で眉をひそめながらそちらを見た。
「あやめ。無茶言わないで」
柾さんが困ったようにたしなめる。彼はあやめが不平を口にすれば周囲の反感を買い、彼女自身が嫌な思いをすることになると分かっていたのだろう。七城家の大人たちは女、子どもだからと優しくすることはなかったからだ。
「だって、こんなクリスマスやだもん。なんで今年はクリスマスパーティーなんてあるの? お兄ちゃんと二人でお祝いしている方が楽しかった」
「帰ったらちゃんとお祝いしよう。だからもう少し我慢して」
「分かったよ。ちゃんと今年もプレゼント用意してるからね。今年こそちゃんと使ってよ」
「【なんでもいうこときくけん】ね。あれは大事だからさ、いざというときに使おうと思ってるんだ」
楽しそうに柾さんが笑うと、あやめもキラキラした笑顔に変化した。
少し様子を見ただけでも、二人は本当に仲が良い兄妹だと分かる。
対して俺たち兄弟は、母が亡くなったあとも特に関係に変化もなく、むしろ悪化の一途をたどっていた。声をかけても無視されるだけだ。下手すれば怒鳴られる。
父は仕事で世界を飛び回り、ほとんど家には帰ってこない。自宅にいるのは家政婦と兄だけ。あの二人のように兄とお互いに支え合える関係であればどれだけ心強かったか……。
ふいに柾さんがこちらを向く。ドキッと心臓が跳ねた。
「七城匠くん、だよね。ごめんね、うるさかったでしょ」
「あやめはうるさくないもん」
あやめが言うと、柾さんは軽くたしなめた。それを全然気にしていないかのように、あやめはテーブルの上のチョコレートを見つけて目を輝かせる。
「あ、チョコがある! 取りに行ってくる!」
「走っちゃだめだよ」
そう言いながら、柾さんが心配そうな眼差しをあやめに向けた。
その先を見つめていると、柾さんが俺に言った。
「もしかして、匠くんもチョコ好きなの?」
「え……」
確かに好きだったけれど、すでにその頃、好き嫌いが表情に出ることもなかったので、それが好物だと分かる人はいなかった。だけど、柾さんは淡々とした顔で言った。
「僕も好きなんだ。あやめも心配だし、一緒に行こう」
それから柾さんは、パーティーで俺を見かけるとよく声をかけてくれるようになった。
彼があやめと話す時以外は、表情を出さない人なんだということもすぐ分かった。彼自身もあやめを心のよりどころにしているようだった。
柾さんはこちらの高校には進学せず、遠方の全寮制の進学校に入学した。
そこは全国でも選りすぐりの天才が集まるような高校だった。
しかし柾さんが高校に入学して一年が過ぎようとした冬、彼が亡くなったと聞いて驚いた。
あとで聞いた話では、彼が通う高校には天才がゴロゴロ集まっており、思うような成績が出せず焦りを募らせていたらしい。そんな中での事故だった。
自殺とはっきりしなかったが、そうだろうと思っている関係者は多かった。
葬儀の日、あやめは大きな黒い額縁の中の柾さんに向かって「気付かないでごめん」と何度も謝っていた。
あやめはそれからパーティーにもほとんど顔を出さなかったが、一年後、久しぶりに見かけた彼女は人の顔色を必死に読むようになっていた。
まるで、柾さんの真意に気付かなかった自分を責めるように。
それから、俺はあやめをパーティー会場の中で見つけようと、無意識のうちに目を凝らすようになった。
大切な人を失った少女──その姿が、どうしても自分の過去と重なったからだ。
時が流れるうちに、あやめは元のあやめへと戻りつつあった。その変化には、静香さんが気にかけて声をかけてくれていたことが大きかったのだろう。
少し年月が経つと、俺はあやめがパーティーを抜け出し、ホテルの廊下で困っている外国人に声をかける場面を何度か見かけた。その時の表情で、彼女が英語を好きなのだということが素直に伝わってきた。
しかし、パーティー会場内の彼女は、いつも嫌なことがあると眉間に皺を寄せた仕草を見せる。
今はもう、彼女をたしなめる柾さんもいないのに……。
このままでは七城家のせいであやめ自身が何か嫌な思いをするのではないかと不安に駆られて、ある日、俺は意を決して彼女に言ってしまった。
「君は表情に感情が出すぎる。言葉で言っているのと変わらない。気をつけた方がいい」
あやめも成長しているし、たぶん、彼女自身も気付いていると思っていた。
だが彼女は、俺の言葉に驚きの表情を浮かべた。
──まさか本当に気付いてなかったのか? あんなに顔に出てるのに?
その表情を見た瞬間、俺はなんだかおかしくなって吹き出しそうになった。
「全然気付いてなかったって顔だな。はっきり顔に『不満だ』って書いてあるよ」
「やだ……。あんなに我慢してたのに、意味なかったんですか?」
そんな彼女の素直すぎる声に、結局俺は笑ってしまった。
笑うなんて、何年ぶりだろうか──そんなことを考えながら、次に他の人に話しかけられるまで自然に漏れた笑みを止めることができなかった。
それがきっかけだったのか、あやめとは、他の女性たちと違ってなぜか自然に話せるようになっていることに気付いた。
そしていつの間にか、あやめも俺と会う度に声をかけてくれるようになった。
「あ、匠さん」
嬉しそうな表情を浮かべる彼女を見ると胸が高鳴った。あやめの前では俺もつい笑ってしまう。
「今日は会場を抜け出してないんだな」
「そんなの時々ですよ」
「そうかな。結構、会場の外で見ているように思うけれど」
「えっ……そんなに目立ってました!?」
あやめが素直に驚くと、つい笑みが漏れた。彼女の色々な表情を見られるのがやけに嬉しかった。
「大丈夫。気付いているのは俺だけだ」
だって俺は本当によくあやめの姿を探していたから。
その後、当時は祖父の秘書だった名倉が驚いたような表情で話しかけてきた。
「匠さんが笑うなんて珍しいですね。あの方は確か、篠崎電機のご令嬢の──」
「篠崎あやめさんだ」
「そうですか……」
名倉はじっと俺を見つめた。その視線に少し怯んだ。
名倉智己──彼は幼少の頃から俺を知っている。だからこそ、何かを見抜かれたような気がして、俺は一瞬身を引き締めた。
名倉家は代々七城グループの役員秘書を務めている名家だが、その中でも名倉はずば抜けて優秀で、弁護士資格も持ち、歴代最年少で会長秘書に就任した男だ。
「私は幼少期から匠さんを存じ上げておりますので……人間らしさが欠けていることを少々心配してまいりましたが、無事にあったようでよかったです」
「どういう意味だ」
「さぁ」
名倉は自分の中の、人間らしい感情をすでに見抜いているのではないか──そう思わずにいられなかった。
次のパーティーでも、俺はあやめの姿を探していた。
彼女の姿を見つけ、目が合った瞬間、彼女も顔を綻ばせた。しかしその時、俺は七城商事(しょうじ)の社長に声をかけられてしまう。彼は俺の叔父だ。
「匠くん、すごい活躍ぶりじゃないか。まぁ、取り入るのがうまいのは、あの女狐の子だから当然だろうけどな。あれだけ計算高いなら、何だってうまくやるさ」
「私などまだまだです。これからも精進してまいります」
そう言うと、叔父はいつも通りもう少し何か小言を漏らして去っていった。
俺は嫌味を言われても、嫌味を言われている事実は分かるけれど、それに対してどんな感情を持つのが正しいのかよく分からなかった。だからどうとも感じなかった。
しかし、まだ近くにいたあやめを見ると、さっきまで嬉しそうな顔をしていたはずが心底『不快だ』という表情をしている。俺は思わず声をかけた。
「顔、怖いけど、どうしたの」
「えッ……?」
あやめは驚いて頬を両手で覆った。また気付いていなかったのか。
「すみません。今の人、すごく嫌味な感じでしたから腹が立って……つい」
「ははっ」
俺が思わず笑うと、彼女は「笑い事じゃありませんよ」とむっとして、さらに俺は笑ってしまう。結局彼女も表情を緩めた。
笑いながらも、どうして俺は彼女にこんなに心が惹かれるのか分かった気がしていた。
彼女が素直な表情を俺に向けてくれると安心するし、嬉しい。
そして、それを見る度、俺は失っていた大事なものを見つけた気分になるのだ。
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