嫌われ花嫁なはずなのに、なぜか熱烈に愛されています!? 御曹司社長とあますぎる新婚生活 2
第二話
「ななかっ、おっ、おまえ、坊ちゃんと結婚するって!?」
「今、花京院の奥様からお電話があって、もう、ビックリしたわ~」
「姉ちゃん、あいつのこと嫌ってなかったっけ?」
驚きを顔いっぱいで表現し詰め寄ってくるガタイのいい父、茂彦(しげひこ)。驚きつつもオロオロする小柄な母、清枝(きよえ)。驚きもオロオロもしないが呆れ顔で苦笑いをする日本人の標準を体現したような弟、夏彦(なつひこ)。
実に性格に合った現れかたをしてくれたが、両親の視線は菜々花から暴言を吐いた夏彦へと移る。
「なつひこ! おまえ、なんてことを言うんだ! 坊ちゃんを嫌う人間がこの世にいるわけがないだろう!」
「えー、おれ、あいつ嫌いだけど」
「夏彦っ、口が裂けてもそんなこと外では口にしちゃ駄目よっ!」
「裂けたら痛くて声も出ないんじゃない? 知らんけど」
両親を軽くかわし、夏彦だけが菜々花を見る。時間的に登校前なので彼は高校の制服姿だ。
「で? 姉ちゃん、マジで結婚すんの?」
そのひと言で両親の視線は戻ってくる。湊士から電話がきた同じようなタイミングで花京院家の奥方から両親に話が通ったらしい。
これでは、なにを言ってもごまかせない。
「うん……する、みたいだね」
「なにそれ。他人事じゃん」
「実感がないっていうか。意外すぎて」
「じゃあ、やめなよ」
非常にあっさりとした弟である。答えを出すのが速くて羨ましい限りだが、もちろん脇のふたりが物申す。
「おまえは黙ってろっ」
「しゃべったら、今晩のご飯、おかずナシだからね!」
今夜のメニューがなんなのかはわからないが、おかずナシはつらいだろう。もちろん、食べ盛りの成長期はグッと唇を引き結ぶ。
軽く話せる相手が脱落してしまった。菜々花は腹を決めて両親に向き合う。
「……なんの気まぐれなんだか知らないけど、昨夜、湊士さんに言われた。わたしと……結婚するつもりだって」
「どうして昨夜のうちに話してくれなかったの? 奥様からの電話で、お父さんなんか驚いて腰抜かしちゃったんだから」
今度は菜々花が母の言葉に驚く。腰を痛めて極力安静中の父が、腰を抜かした、は一大事ではないのか。
「ちょっと、お父さんっ、腰抜かしたとか、腰っ、大丈夫なのっ!? って、なんで作業服着てるの? 安静にするって約束したばっかでしょう!?」
制服姿の夏彦、エプロン姿の清枝、あまりにも日常そのものの光景だったので深く考えていなかったが、茂彦は作業服姿だ。
花京院家の庭を取り仕切る庭師の家系として、代々続いてきた遠藤家。【有限会社遠藤造園】という小さな看板だけは掲げているが、仕事のほとんどは花京院家にかかわるものだ。
茂彦は腕のいい庭師なのだが、数年前に腰を痛め、ときどき痛みがぶり返す。特に季節の変わり目はつらい。
先日、来年の花のためにも梅の剪定をしなくてはならないと仕事に出かけ、頑張りすぎて腰を痛めて仲間に担がれながら帰ってきた。
無理な作業は仲間に任せておけばいいものを、彼の職人魂がそれを許さないらしい。
『あの梅はなぁ、坊ちゃんが生まれたときにオレが植えたんだ! オレがお世話をする責任がある!』
仕事にかける姿勢は素晴らしいが、それでさらに腰を痛めていては元も子もない。
というよりは、腰の症状はヘルニアからもきているので全快は見込めない。騙し騙し、様子をみながら仕事をしていくしか手はない状態なのだ。
おそらく【遠藤造園】は茂彦の代で終わりだろう。花京院家の庭師としての仕事は、今まで一緒にやってきた仲間たちが引き継いでいく。
父の作業服姿に驚いてベッドからずり落ちそうになった菜々花だったが、娘の心配をよそに茂彦は胸を張った。
「馬鹿野郎っ、娘が坊ちゃんの嫁になるって知っためでたい日に、家で茶なんか飲んでられるかっ。仕事してくるっ」
「し、仕事って……腰が」
「いい報告を聞いて腰の痛みなんざ吹っ飛んでった! そうかそうか、坊ちゃんが菜々花を……」
病は気からとはよくいうが、嬉しさのあまり痛みや苦しさを忘れているだけだと思う。なんにしろ無理は禁物だ。
おまけに勢いづいたあと、茂彦は感慨深げに目元を押さえる。そんな反応をされるとよけいに困ってしまう。
感動もひとしお。茂彦は威勢よく作業服の襟を引っ張る。
「よしっ、行ってくる。母さん、今夜は熱燗で頼む」
「わかってますよ。お父さんが好きなもつ煮込みも用意しておきますからね」
熱燗ともつ煮込みでテンションが上がった茂彦が、お見送り隊に手を上げて応えながら部屋を出ていく。話題を考えれば主役は菜々花だったはずなのだが、すっかり持っていかれてしまった。
「単純だよね、父さん。まあ、そこがいいところなんだけど」
ドライなひと言を発する夏彦の背中を、清枝がパシッと叩く。
「お父さん、嬉しいのよ。ずっとお世話になってきた花京院家との結婚相手に菜々花が選ばれるなんて、本当に夢みたい」
「夢ならよかったのにな。なあ、姉ちゃん」
話はふいに菜々花に振られる。痛いところをついてくるというか、さすがは弟、よくわかっている。
父が腰を抜かしたと聞いてすっかり話題はそれてしまったが、両親に結婚の話をしていなかったのはまさしくそれが原因だ。
「ん~、わたしも……実は夢だったんじゃないかって思っててさ……。昨夜、湊士さんに言われたのはいいけど、なーんか幻覚でも見ていたんじゃないかって気分で現実味がなくて、とりあえず寝て起きたら昨夜のあれは夢だって思いこんでいて……。だから、お父さんにもお母さんにも言えなかったんだよね」
「なんだよそれ、姉ちゃんヘンな薬でもやってるみたいになってるじゃん」
夏彦がゲラゲラ笑う横で、清枝が大きなため息をつく。
「夢なんて思わなくてもいいじゃない。坊ちゃんはずっと菜々花を気にかけていてくれたんだし、奥様も言っていたよ、『菜々花さんがお嫁さんになってくれるのは本当に嬉しい』って」
「奥様が?」
「うん、お知らせをもらって、お父さんが張りきっちゃってね。花京院家へ嫁に出しても恥ずかしくない準備をしないと、って。でも奥様、そんなことは考えなくていいって、『菜々花さんは、その身ひとつで湊士さんに嫁いでくださるだけでいいんです』って言ってくださって」
「まあ確かに、あんな金持ちン家に嫁に出す準備なんて、うちにできるわけねーもんな。環琥(たまこ)さん、いいこと言うじゃん」
「夏彦っ、奥様って言いなさいっ」
下手をすると菜々花が口にしてしまいそうだった事実を、遠慮なく夏彦が口にする。母の注意は入るものの、まったくもってそのとおりなのだ。
天下の花京院コンツェルンに嫁入りさせるとして、俗にいう「恥ずかしくない準備」など遠藤家の全財産を投げうったってできっこない。
注意はするが、そのあたりは母だってよくわかっている。いや、母だからよけいにわかっている。ゆえに片手を頬に添え、何度目かのため息をついた。
「奥様のお気持ちはありがたいけど、お嫁に出すんだもの、少しでもなにかしてあげたいと思うものなのよ。だからお父さんも張りきってるの。嬉しいじゃない、やっぱり」
「見栄じゃん、そんなの」
「またそういうことを……。ああ、そうだ、嬉しいといえば先日の模試、夏彦の順位がよかったから先生に今より上の大学を目指せるって連絡をもらっていてね。それもお父さん嬉しかったらしくて、張りきってた」
「父さんが張りきる必要なんかねーよ。おれは奨学金申請してバイトしまくって大学を出るって決めてるんだ。成人してまで親のスネかじる気はねーから、安心しとけ」
「そんなこと考えなくても……」
「あー、朝メシ食わねーと遅れる。やべーやべー」
いつの間にか話の矛先が変わってしまった。それを避けるかの如く夏彦はそそくさと部屋を出ていく。息子の姿が消えたドアを眺め、清枝は諦め気味に笑う。
「あんなことばっかり言うんだから……。菜々花もご飯食べて。仕事、あるんでしょう?」
「うん、わかった」
清枝が出ていくと急に室内が静かになる。今までの騒がしさが耳に残っているせいか、なんとなく落ち着かない。ベッドから出て思いきり伸びをした。
大きく息を吐いて、ベッドの端に腰かける。両親や夏彦の様子が頭から消えなくて、胸が苦しくなってきた。
終始ドライな軽口をきいていた夏彦。はたから見れば高校二年生という思春期特有の反抗期にも感じるだろうが、まったく違う。
あれは、両親と菜々花に対する思いやりだ。
【遠藤造園】は、それっぽい屋号はあるが、ひとり親方で成り立っている。スケジュールや事務は母が手伝っているし、ときどきアルバイトが入るくらいで他に従業員がいるわけでもない。
昔は祖父も一緒にやっていたが、今は花京院一族所有の別荘地で庭をいじりつつ管理人として隠居生活を送る身だ。
大きな仕事のときには同じくひとり親方仲間が集まる。ときに協力して仕事をするが、単体仕事のほうが多い。
それなのに、身体の故障のせいで動けない、仕事量を減らさなくてはならない。ひとり親方にとっては絶望的だ。
現実的なことをいえば、働かなくては収入がない。しかし以前のようには働けない。当然、収入は減る。
菜々花はいい。すでにフラワーコーディネーターとして独立しているし、職場に近いからという理由で自宅に住み続けてはいるが、家を出てもやっていける。
しかし夏彦は高校二年生。来年は三年生で大学受験を控えている。
家業の流れでいくなら、夏彦は父の技術を受け継いで庭師への道を歩むはずだった。それが、代々花京院家の専属として仕えてきた遠藤家の決まりだったのだ。
だが、夏彦はそれを拒否した。
大学を出て、国家公務員になる。安定した職に就いて人生を歩むのが目標だと、小学生のころから言い続けている。
その目標は揺らぐことなく、弟は非常に成績優秀だ。かつて菜々花が目指して落ちてしまった高校へも、塾へ通うこともなく自力で合格した。
奨学金とアルバイトで大学に通う。そんなことを言いだしたのは、父親を気遣い、母親や菜々花によけいな気を揉ませないためだ。
特に菜々花が自分の店を持ちたくて頑張ってきたことを夏彦もよく知っている。下手をすれば自分のせいでその夢を諦めさせてしまうのではと危惧しているのだろう。
ドライな態度を崩さないまま、その実、家族想いすぎる九つ年下の弟が、菜々花はかわいくてたまらない。
──それだからあのとき、なにも言えなくなってしまったのだ……。
『結婚すれば、菜々花は花京院コンツェルン次期総帥たる俺の妻だ。遠藤の両親は一生安泰、弟も気兼ねなく大学へ行ける。おまけに菜々花が計画を進めているフラワーカフェも支援してやれる』
悪魔の囁きであることこのうえない。
湊士と結婚する。それだけで、菜々花どころか両親や夏彦の気がかりも解決してしまう。
願ってもない条件ではある。けれど、やはりわからない。
湊士はなぜ、嫌っている女を妻にしようなんて考えたのだろう。
「あああ~、菜々花さん、おはようございます~、大変なんですよぉ」
【フローラデザイン企画】のオフィスに入ると、いの一番に聞こえてくる声。派遣社員一年目の山花美衣子(やまはなみいこ)、毎朝の恒例行事だ。
今日はいったいなにが「大変」なのだろう。
コーヒーを淹れたと思ったらココアだったとか、家で焼いたクッキーを持ってきたと思ったら干しシイタケのパックだったとか、花の仕入れ数をゼロひとつ間違えたとか。……最後のは本当に大変なので、勘弁してほしいところ。
ちなみにこの三例は、実際に美衣子がやらかした事案である。
「おはよう、美衣子ちゃん、今日の『大変』はなにかな?」
デスクに鞄を置きニコッと笑うと、両手握りこぶしで駆け寄ってきた美衣子もニコッと笑う。
デザイン系の専門学校を出て派遣になった彼女は、まだ二十一歳。小柄であどけない雰囲気のせいか、こうして無邪気な笑顔を見せられると夏彦と同い年くらいに思えてしまい、よけいにかわいい。
しかしときに、そんな笑顔で彼女は菜々花の気持ちをえぐるのだ。
「昨日、花農家の垣田(かきた)さんから連絡があって、菜々花さんが発注していたお花が期限にそろわないらしいんです。なんでも大口発注が入ってしまっているらしくて」
笑顔が固まる。その顔のまま、菜々花はポンッと美衣子の肩に両手を置いた。
「……昨日の……いつ? の、電話?」
「菜々花さんが帰って……三十分くらい、ですかね?」
そのくらいなら戻ってこられた。いやたとえ戻ってこられなくても、早急に代替案を検討すべき案件だ。
(連絡くらいは欲しかった!)
「美衣子ちゃん、あのね……」
ひと言注意をうながそうとした。……が、そこで菜々花は昨日の自分を思いだしたのだ。
『ちょっとお家の一大事で、今夜は連絡がつかないと思います。明日出社しなかったら手討ちになったと思ってください』
血の気が引いた顔で、そう言ってオフィスを出た。
美衣子をはじめ、社長も事務スタッフもデザイナーも、菜々花があまりにも深刻な顔をしていたからなのか、ただ単に呆気にとられただけなのか言葉が出なかったようだ。
冗談抜きで、人生ここで終わりか、という気分だったのだから仕方がない。
なんといっても天下の花京院コンツェルン。目障りな庶民ひとり社会的に抹殺するなど造作もない。──実際に抹殺はしないだろうが、そう思えるくらいのものがあるのだ。
昨日の夕方、湊士本人から電話がきた。いったい何年ぶりだろう。軽く十年以上、彼直々にかけてくるなんてことはなかった。
湊士に嫌われる決定的な出来事のあとから、彼は本当に遠い存在になってしまっている。
もともと、花京院家の御曹司というだけで遠い存在ではあった。幼いころに縁があってかわいがってもらえていたのは奇跡に近い。
三メートル以上は近づかないと固く心に決めている人。そんな人から「話があるから、仕事が終わったらすぐに屋敷へこい」と電話がきた。
これはもう、手討ちになるしか見当がつかない。
辞世の句でも詠もうかと考えながら湊士がいる別邸へ向かったのだ。
(連絡なんか、できる雰囲気じゃないか……)
美衣子は気を使ってくれたのだ。花農家から連絡がきたのは社長も知っているかもしれないが、きっと菜々花はスカイツリーから飛び降りそうな顔をしていただろうし、連絡は控えようという話になったに違いない。
「連絡がつかないとは言われていたんですけど、一応電話したんですよ。でも本当に連絡がつかなくて、ああ、これは駄目だって」
菜々花は思いだす。手討ちになる覚悟を決めて、スマホの電源を落としたままであったことを。
(わたしが悪いんじゃないかあああああああああああ!!!)
考えこんでも仕方がない。菜々花は気持ちを切り替える。顔を上げ、美衣子を見ながら肩に置いた手でポンポンと叩いた。
「ありがとう、美衣子ちゃん。気を使わせてゴメン、すぐになんとかするよ」
「え? できるんですか? イベント会場、内装は仕上がってるんですよね? 違うものを使ったらイメージが合わなくなるんじゃ……」
「できるんですか、じゃなくて、やるんだよ。イメージが合わなくなるなら、合うように考えればいい。どうしようって悩むより、考えるんだ」
意気込んでデスクに向かう。立ったままノートパソコンを起ち上げると、今度は菜々花の肩がポンッと叩かれた。
「相変わらず頼もしいなあ。おはよう、菜々花さん」
眼鏡の奥で目が虹の形を作る。【フローラデザイン企画】の社長、宮崎要(みやざきかなめ)が笑顔で立っていた。
著名なデザイナーのアシスタントとして経験とスキルを磨き、独立したのが五年前。菜々花が入社したのはその翌年だ。
細身の長身に眼鏡と少し長めのうしろ髪がトレードマークの三十七歳、独身。性格はいたっておだやかで、競い合うより信用で任せられた仕事を堅実にこなす人柄だ。
仕事に対するスタイルがどこか職人肌で、父の仕事を見て育った菜々花の感性にとても合っている。
菜々花もどちらかといえば競うより任せられたものに集中するほうなので、その点からいってもここの仕事は肌に合っている。
【フローラデザイン企画】はフラワープロデュースをメインにする花卉販売企業だ。
スペースデザイン、ディスプレイの企画、設計、オンラインのフラワーギフト事業など。
装花はもちろんのこと、さまざまなイベント会場や空間に合う花を使った飾りつけをデザインする。それが菜々花、フラワーコーディネーターの仕事である。
庭師の娘だから草花にかかわる仕事がしたかった。……と、いうわけではなくて、大学生のころ生花店でアルバイトをしていたのがきっかけになっている。
「昨日、山花さんが一生懸命連絡をつけようとしていたんだけど、やっぱり無理そうだったから諦めさせたんだ。だから、連絡がいかなかったのは僕のせいだと思ってくれていいよ」
菜々花はいつも思う。社長は本当にいい人だ。
「それにね、菜々花さんならきっと打開策を見つけ出してくれると思っているから、あまり焦らなかった」
おまけに、申し訳ないくらい社員を信用してくれている。これで張りきらないのはただの罰当たりだ。
「そんなふうに思っていただけて嬉しいです。ただ、垣田さんは最近反応が鈍かったので……、もしかして花材を他に回されたかな、という気持ちもあるんです。大口の取引があったようですし」
「垣田さんは、息子さんが跡を継いでからどうも上手く折り合いがつかない。うちは小さな会社だからね、契約内容にも納得いかないところがあるのかもしれない。僕の交渉不足かな、すまないね」
「そんなことありませんよっ」
気を使わせないように明るく笑うものの、内心少々おだやかではない。
交渉不足どころか、むしろ宮崎に対してはへつらっているのがわかる。菜々花が甘く見られているのだ。それは常日頃から感じていた。
小さな会社のフラワーコーディネーター、それもキャリアの浅い若い女と見くびられている。今回だって、このタイミングで花材の断りを入れるということは、こちらが困るのをわかっていてやっているとしか思えない。
ひねくれた考えではあるが、間違いではないのだ。
「それでね、菜々花さん」
ふいに深刻な表情が出てしまったのかもしれない。宮崎の口調が宥めるようなものに変わり、下がりかけた菜々花の顔をのぞきこんだ。
「竹中花園(たけなかかえん)さんに話をつけてあるんだけど、どうだろう? 大量発注はできないけれど、品質は垣田さんに負けない。いや、むしろ手厚さでは勝っている」
沈みかけた気持ちがグイッと押し上げられる。品種改良された良質な花を丁寧に育てている花農家だ。ただ問題は、こだわりを持ち少数精鋭でやっているので単価が高く仕入れも難しい。
「嬉しいご提案ですが……今回の案件に単価が見合いません。別案を立てますので……」
「別案は認めない。クライアントは菜々花さんの案をとても気に入ってくれていた。その期待を、裏切るのかい? たかが、金額の問題で。この仕事で出る赤字なんて大したことはありません。間違いなく、菜々花さんが他の仕事で取り返してくれるレベルです」
言葉も息も止まり、ごくりと喉が鳴った。
こういうときの宮崎はとてもズルい社長だと思う。菜々花が仕事において、職人気質な性格だとわかって言っているからだ。
クライアントの期待と、金額の問題。そんなもの、クライアントの期待が大切に決まっている。それに応えて出してしまったマイナスは自分で埋めればいい。
菜々花は表情を引き締め、背筋を伸ばし大きく頭を下げる。宮崎は菜々花を信頼して助言してくれているのだ。
「ありがとうございます、社長」
「いつもどおり納得のいく仕事をしてください。妥協は嫌いでしょう? 僕も嫌いです」
「はいっ。『フローラデザイン企画に遠藤菜々花あり』と言ってもらえる仕事をします」
「頼もしい。期待しています」
「任せてくださいっ」
バンッと手のひらで胸を叩く。ハラハラしながら見守っていたのだろう美衣子が抱きついてきた。
「きゃー、菜々花さんカッコいいですっ、最高ですっ、嫌がらせなんかに負けないでくださいね!」
「当然だよ。コーディネーター舐めんなっての」
握りこぶしを作って意気込むと、周囲からホッとした空気が流れてくる。どうやらオフィスにいた社員みんなに心配をされていたらしい。
みんな、といっても十人そこそこではあるが。
「竹中さんの社長に直接電話して。これ、電話番号」
宮崎が菜々花のデスクに電話番号が書かれたメモを置く。さらに抱きついてくる美衣子を押さえつつ、それを手に取る。
「竹中社長、知人の娘さんの結婚式で菜々花さんが担当した装花を見たことがあるそうだ。花を生かせる人だと褒めていた。竹中社長もこだわりが強い職人気質な人だから、話が合うと思うよ」
「はい、ありがとうございます!」
ワクワクしてきた。手が届かなかったものを預けられる前の胸の高鳴り。今日は一日中、徹夜で仕事をしても元気かもしれない。
「あ……」
しかし、そこで思いだす。
今日は、一日中仕事はできないのだ……。
「すみません社長、わたし、今日は四時で上がります」
「四時? うん、それは構わないけど」
事務員以外はフレックスの形をとっている。出勤退勤は仕事の様子を見ながら決められるので、問題がない限り特になにか言われることもない。
が、昨日のことがあるので、言いづらい。
「……もしかしたら、その後、連絡がつかなくなるかもしれないんですけど、明日出勤しなかったら手討ちになったと思ってください」
「もー、菜々花さんっては! 二日連続その手にはのりませんからね!」
アハハと笑い声をあげながら美衣子が肩をポンポン叩く。ちょっと不思議そうに苦笑いをする宮崎を除いては、オフィスが軽く笑い声に包まれなごやかな雰囲気だ。
思いだしてしまった菜々花は、なごやかになれない。
今日は、湊士と会う日。
冗談か聞き間違いだと今でも思う。──湊士と、入籍をする日だ。