嫌われ花嫁なはずなのに、なぜか熱烈に愛されています!? 御曹司社長とあますぎる新婚生活 1
第一話
「俺は、おまえと結婚することにした」
耳を疑った。
というより、今のは幻聴ではないかと、遠藤菜々花(えんどうななか)は思う。
聞き違いや幻聴の可能性があるなら、聴覚の不調を疑うべき。
両耳の孔に小指を突っこみ、ぐりぐり掻きたい。そして再度、本当に耳の不調なのかを確認したい。
しかしそれでは、人様の前で耳の孔に指を突っこむ行儀の悪い女になってしまう。
目の前にいるのが、長いつきあいで気心が知れた友だちならその程度は許されるのだが、残念ながらつきあいは長くても気心は知れていない。
──かつて、知れていた時期もあったのだが……。
今では彼──花京院湊士(かきょういんそうじ)には嫌われているはずだ。
花京院家の広大な敷地内、本邸と並ぶように君臨する別邸は、ほぼ湊士専用といっても過言ではない。
その二階に彼専用の書斎がある。
高い天井にアンティークな調度品。超有名な海外の推理小説なら、ここで殺人事件が起こりそうなほど重厚な雰囲気だ。
本革張りの肘掛け椅子にゆったりと腰かけ、一八五センチの長身に見合う長い脚を大きく組む彼は、仕事から戻ったばかりなのだろう。上質な三つ揃いのスーツに、整った体鏸を包んだままだ。
整っているのはスタイルだけではない。
花京院湊士は、とんでもなく顔面の造形がいい。
この世に生を受ける際、よっぽど神様の機嫌がよかったのだろうと羨むレベルのイケメンだ。
三十歳という年齢もあって、そこに大人の落ち着きがプラスされ、紳士然としたところがとてもとても秀逸である。
そんな容姿に加えて、花京院コンツェルンの御曹司にして次期総帥。筆頭企業である【KKU(ケーケーユー)商事】の社長なのだ。
当然、呆れるほどモテる。……らしい。
大学時代や仕事中の湊士を知っているわけではないので噂話程度の情報しかないが、彼がモテるなんて聞かなくてもわかりそうなことだ。
おまけに幼少のころから婚約者候補が十人もいる。
そのうちのひとりが、菜々花だ。
これはもう、神様の嫌がらせとしか思えない……。
菜々花の家は、代々花京院家に庭師として仕えてきた。祖父や父が出入りしている縁があって、菜々花も幼いころから湊士を知っている。
四歳年上の幼馴染だ。湊士はひとりっ子だったせいか、妹のように菜々花をかわいがってくれた。
そんな彼に、菜々花の恋心は大きく育まれていく。
ふたりはとても仲がよかった。
──あのときまでは……。
(どうして、嫌っているわたしにそんなこと)
湊士が座る椅子から三メートルの距離をとり、菜々花は立ちすくんだまま彼を凝視する。握りしめた両手には汗がにじんでいた。
「あの……」
「結婚式はいつにする? 菜々花にこだわりがあるのならそれに任せる。クリスマスがいいとか、自分の誕生日に合わせたいとかあるか?」
「あのですね……」
「俺は早いほうがいいと思っている。挙式はあとにしても、入籍は先にしたい」
「湊士さま……」
「思い立ったが吉日ともいうし、善は急げだ。明日にでも入籍しよう。ああ、結納とか気にするな。結納品がそろったら遠藤家に届ける。お互い見知った仲だ、いまさら顔合わせとか必要はない」
「いや、だからですね、そんなことをいきなり……」
「もしかして入籍日にもこだわりたいとか? そうだな、入籍日というのも一種の記念日だ。しかし俺は今日にでも入籍してしまいたいくらいなのだが」
「そんなことじゃなくてですね……!」
「なに? 入籍日なんてどうでもいい? よし、今すぐ入籍しに行こう!」
「人の話を聞いてっっっ!!!!!」
意気揚々と椅子から立ち上がった湊士を、菜々花はやや興奮気味に制止する。
……のはいいが、口のききかたに問題ありだ。天下の花京院湊士殿に対して発していい言葉ではない。
慌てて取り繕おうとしたが、当の湊士がクッと喉を詰まらせて笑ったことで菜々花の緊張がゆるむ。
(湊士さん……笑った?)
──久しぶりに、彼の笑みを見た気がする。
「懐かしいな。昔はよくそうやって菜々花に怒られたものだ」
「昔の話です」
「明日入籍する。入籍がてら食事に行こう。夕方、迎えに行く」
「だから、人の話を……」
まったくこちらの話を聞こうとしない。昔から人の話を聞かないところはあったが、こんなにひどかっただろうか。
聞かないというより、ワザと無視しているようにも感じる。
反論しようとした言葉は出しきらないまま止まってしまう。湊士がいきなり近づいてきたからだ。
とっさに距離をとろうとしたが、動きは湊士のほうが速い。腕を掴まれ腰を引き寄せられて、──唇が重なった。
なにが起こったのか、一瞬わからなかった。それでもハッと気づいたときには唇は離れ彼に抱きしめられていたのだ。
「ちょっ……、湊士、さまっ……」
「俺と結婚すれば、おまえにとってもいいことがたくさんある」
「いいことって、なんですかそれ、そんなものあるわけが……」
「ある。────」
耳元で囁かれたのは、悪魔の言葉。
ハッとして彼を見ると、美しい顔が狡猾に微笑む。
──そして、美しい悪魔は、絶対に菜々花が断れない条件を提示したのだ。
とんでもない人物に突拍子もないことを言われた翌朝。
目が覚めた瞬間頭に浮かんだのは、昨日のことは夢だったのではないかという実に都合のいい思考だった。
そうだ、きっと夢に違いない。しかし、なんという罰当たりな夢をみてしまったのだろう。
湊士に結婚宣言を受け、すぐ入籍しようと言われ、キスをされて──。
「うわぁぁぁ……」
自室のベッドで上半身を起こし、頭を抱えて菜々花はうめく。
(キスされる夢とかみちゃったよ……。湊士さんが、わたしにそんなことするわけがないのに。なんなの、なんなの、さっさと結婚してくれないかなとか思っていたからって、自分と結婚するパターンの夢にしなくてもいいでしょうが)
さっさと結婚してくれ。
菜々花は常々、湊士に対してそう思っていた。
もちろん、菜々花を除いた他の婚約者候補の誰かと、である。
湊士が結婚相手を決めてくれたら、菜々花は婚約者候補という重い荷を下ろせる。他の候補令嬢たちから笑いものにされることもなくなる。
────さっさと結婚しろ! いい男だからって、いつまでも遊んでんじゃない!
心の裡で、何度そう叫んだことか。
いくら三十路になっても結婚の意志を感じないからって、湊士が結婚を決めた相手を自分にしてはいけない。
普通ならば初恋の人と結婚できるかもしれないなんて、たとえ夢でも嬉しいものだろう。しかし菜々花はそんなことなど考えられない。
いや、考えてはいけないのだ。
そんな権利はないのだから……。
「忘れよう、忘れよう、はい、忘れたっ」
呪文をかけるようにブツブツ呟き顔を上げる。しかし一度呟いただけで忘れられるわけもなく、相変わらず夢の内容が脳裏でぐるぐる回っている。
──キスをされたあと、湊士はとんでもないことを囁いた。
────結婚すれば、菜々花は花京院コンツェルン次期総帥たる俺の妻だ。遠藤の両親は一生安泰、弟も気兼ねなく大学へ行ける。おまけに菜々花が計画を進めているフラワーカフェも支援してやれる。
「悪魔……」
再び頭を抱えてしまった。
現状、気がかりなことがたくさんありすぎる。その悩みから逃れたくて、夢の中の湊士にあんなことを言わせてしまったのかもしれない。
絶対に断れない内容だ。実際、夢の中の菜々花はなにも言えなくなり、「明日、仕事が終わったら迎えに行く」と告げられて逃げるように湊士の前から立ち去った。
……いや、少し違う。
逃げるように、ではなく、逃げたのだ。
返事もせずに立ちすくむ菜々花に向け、湊士が発したひと言に耐えられなかったから。
『どうした? 帰りたくないのか? 俺は構わないぞ、じゃあ、今夜は婚前交渉といくか』
思いだしたら頬が熱くなってきた。婚前交渉とは。なんて言葉を使ってくれるのだろう。
「……ったく、これだからモテる男は。男女の神聖な交わりをなんだと思ってんのよ。性教育やり直してこいっ」
と、夢の湊士に文句を言ってみるものの、偉そうに語れるほど性行為を神聖化しているわけではない。
むしろ未経験。菜々花は処女である。キスの経験さえない。……夢でされたようだが、ノーカウントだ。
一応婚約者候補という立場なので、異性との交遊には気をつけるようにと言い渡されていた。しかし気をつけるもなにも、異性と親しくなるきっかけもなかったのだから、交際経験などあるはずもない。
そんな菜々花に「婚前交渉」などという言葉は、限りなく羞恥心を攻撃されるものだ。
いきなり不穏な音楽が響く。不可思議なテーマを取り扱った、人気テレビドラマシリーズの有名なBGMである。
聞けば誰もがその番組を思いだすだろう。しかしテーマがテーマなので曲調が不穏というか不気味なのだ。
そんな音楽がどこから聞こえるのかといえば、枕元に置かれた菜々花のスマホから。
この曲が着信メロディとして登録されている相手はただひとり。──湊士だ。
しかし、こんな朝からなんの用だろう。彼の夢をみた朝に本人から電話がくるとか、いやな予感しかしない。
応答したくない。しかし、しないわけにはいかない。花京院湊士さまに対して居留守を使うなど万死に値する。
「お、おはようございます、湊士さま」
『遅い』
氷のように冷たく突き刺さる第一声。
『十コール近く待った。俺からの電話には三コール以内に出ると菜々花が言っていたはずだが?』
「申し訳ございません……」
(いつの話ですかっ。それって、中学生のときの話でしょ)
心の裡では反抗しつつ、菜々花はスマホを片手にその場で正座をする。背筋を伸ばして深く息を吸いこんだ。
『今、いつの話をしているんだ、面倒くさい……とか、思っただろう』
「めっそうもございませんっ」
(なんでわかったんですか!)
もしかしたら本人も、古い話を出してしまったと気まずさを感じているのだろうか。……しかし、気まずそうに困った顔をしている湊士が想像できない。
都合のいい予想は、あえなく却下である。
『まあ、いい。今日は夕方の四時ごろに迎えに行く。用意して待っているように』
「迎え……? 誰のですか? あっ、父ですか?」
『なにをとぼけたことを言っている。今日は入籍しに行くと昨日言ってあっただろう』
「は?」
不思議そうな声を発したまま、会話が止まる。
いやな沈黙が流れ、菜々花は血の気が引いていくのを感じていた。
(夢じゃ……なかった……?)
『とぼけた、というか寝ぼけているのか? 夢と現実の区別がつかなくなったというところか。その様子だと、入籍の話は夢だと思いたかったと?』
「めっそうもございませんっ」
はい、そのとおりです。……とは言えない。間違っても言えない。
「おっしゃるとおり起きたばかりでして、寝ぼけて失念しておりました。はい、それだけですっ」
『それならいい。ところで、俺が迎えに行くと言ったのは何時だった?』
「え? 四時ですよね。湊士さまこそどうしたんですか、ご自分で言って忘れたんですか?」
『俺が忘れるわけがないだろう。菜々花がちゃんと覚えたか確認しただけだ』
「申し訳ございませんっ」
『俺は、自分が言ったことは忘れない』
「そうですよね、湊士さまは記憶力も秀でていらっしゃいますので」
『……それだから、結婚を決めたのに……』
「はい?」
菜々花のセリフと重なるように出した言葉がよく聞こえなかった。彼の言葉を聞き逃して、もし大切なことだったら大変だ。
「すみません、もう一度……」
『入籍のあとは食事に行く。大切な日だ、仕事の予定などは入れないように』
「はい……わかりました」
どうやら繰り返してくれる気はないようだ。しかし返事をしなくてはいけないようなものではなかったようで、心ひそかにホッとする。
『菜々花』
「はい」
『嬉しいか?』
「なにがですか?」
──沈黙。
(あれ? なんか大事なことだった……?)
しかし、いきなり嬉しいかと聞かれても、主語がないのでなにに対して嬉しいかと聞かれているのかがわからない。
いやしかし、“天下の花京院湊士さま”のお言葉を察することができないのは問題である。
己が境地に立たされていると察した菜々花は、ハッとして脳髄が沸きたつほどに頭をフル回転させる。
この状況からして、もしや、──一緒に食事に行くのが嬉しいかと聞かれたのではないか。
「あの……」
『まあいい。では、用意しておくように』
「あっ、ああああ、湊士さまっ!?」
確認することも答えることもできないまま、菜々花の焦りだけを置き去りにして通話は終わる。スマホを見つめ、菜々花は眉をひそめた。
「……湊士さま……いつも以上に意味不明……」
一緒に食事に行けて嬉しいかと聞かれて「嬉しくない」と答える選択肢など許されてはいない。そもそも、嬉しくないわけがない。
──初恋の人なのだから。
胸の奥から顔を出しそうになった想いを息を止めてぐっと抑え、次に大きく深呼吸をする。
それよりも大変なことが発覚してしまった。
結婚は、夢ではなかったのだ。
夢だと思いこんで自分をごまかそうとしていたというのに。無駄に終わってしまったようだ。
(だって、夢としか思えないじゃない。なんでわたし? よりによってわたし? わたし、湊士さんに嫌われてるんだよ?)
スマホを持ったまま両手を握りしめ、背中を丸める。まったくわからない。もしやなにかの嫌がらせなのだろうか。
思い悩む思考は、床を踏み抜かんばかりの大きな足音が耳に入るなり切り替わる。何事かと驚いて背筋を伸ばし、キョロキョロと周囲を見回した。
「ななかぁ!!」
「菜々花っ」
「ねーちゃん!」
いきなり部屋のドアが開き、三者三様の叫びかたで飛びこんできたのは両親と弟だった。