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僕の猫にならないか? スパダリ社長の過保護な溺愛がすごすぎる 2

第二話

 (なんでいるの?)
 花梨の前には佐川だけでなく、同じ企画営業部の男性社員である高橋(たかはし)がいた。
 シュペットは事業内容からすれば当然だが、社員のほとんどが女性だ。
 しかし少ないながら、男性社員も存在する。
 周囲が女性ばかりだからこそ磨かれるのか、少数派である男性社員も皆、美意識が高い。そうでなければわざわざ男性の身でエステの会社に入社することはないだろう。
 高橋も性別だけでなくその整った顔立ちから社内では非常に目立つ存在であった。
 オルタネイトストライプ柄の華やかなスリーピーススーツをさらりと着こなしている姿は、まるで雑誌のモデルのように決まっている。実際、社内には彼のファンも多い。
 しかし花梨は同い年のこの彼が苦手だった。
 大卒の彼よりも専門卒の花梨の方が入社は先だ。しかし営業企画部としては向こうが先輩という少々ややこしい関係な上、彼は花梨を下に見ていることを周囲に全く隠さない。
 本社採用の人たちの中には、店舗のスタッフを見下す人間がいることはわかっていた。
しかし実際にここまであからさまな態度で示されると、あまりいい印象を持てない。仕事の上でもかなり相性は悪かった。
 特にここ数か月、仕事で花梨が高橋に指示を出すことが多かった。そのたびにいちいち嫌味や酷い態度を返されてかなり仕事がやりづらかった。そのため、彼の姿を前にすると身構えてしまう。
「まあ座って」
「はい」
 促され、机を挟んで彼らの前に座る。
 仕事の話なら高橋が同席することはあり得る。しかしなぜ高橋は花梨の側でなく、副社長の隣にいるのだろう。
「なんで呼ばれたか、わかっている?」
 副社長は組んだ指に顎をのせ、花梨に鋭い視線を投げてきた。
(えっ……私、何かした?)
 まるで説教の前触れのような雰囲気に、花梨の違和感が急激に胸の中で膨れ上がっていく。
「マジェスティグループの案件、ですよね」
 考えを巡らせなくても、花梨が携わっている仕事で何かあるとすれば、大手ホテルチェーン、マジェスティグループの案件しかない。
 マジェスティグループとは国内外でホテル・レジャー事業を展開する日本有数のホテルブランドである。今回の案件はマジェスティホテルの中でも特に規模の大きい都内と関西の四施設に高級エステサロンを出店させるという計画だった。
 とはいえ、シュペットが指名されたわけではない。コンペを経て受注に至ったのだ。
 連絡が来た時は誰もが「奇跡」だと口を揃えていた。なにしろ業界最大手を含む数社との競合を勝ち抜いての受注だったのだから。
 正直なところ、企画書を作った花梨以外の社員は、目の前にいる副社長を始め皆最初から諦めムードであった。
 記念参加だと言われていたほど見込みがなかった。
 だからこそまだ経験の浅い花梨にコンペの企画立案の機会が回ってきたのである。
 花梨は企画立案者としてプロジェクトのメインメンバーとなり、この数か月は文字通り寝る間を惜しんで仕事に励む毎日だった。
「何か、問題がありましたか? 進捗状況の確認でしたら、昨日お渡しした報告書の通りです。あとは週明け先方との打ち合わせですが……」
「ああ、それ」
 改めて今後の予定を説明しようとした花梨の話を、副社長はにっこりと笑って遮る。
 そして次の瞬間、副社長の口から発せられたのは、花梨が予想もしなかったものだった。
「その打ち合わせ、あなたは参加しなくてもいいわ。今までご苦労様。あとはこちらでうまくやっておくから」
「……えっ!?」
 言われてから言葉の意味を理解するまでたっぷり数秒はかかったように思う。
 副社長の隣で高橋がなぜか面白そうににやにやとした笑みを浮かべている。
「あの、打ち合わせに別の人間を立てる理由がわかりません」
 プロジェクトのメインメンバーである花梨は全ての打ち合わせに出席してきた。特に次は重要な最終確認だ。外されるのは困る。
「別にあなたである必要はないでしょう。あとはこれがあれば十分です」
 副社長がタブレット端末を示した。
 画面には花梨が作成した企画書と先方の要望をすり合わせてようやく完成にこぎつけた事業計画書が表示されている。
「それとも、計画書を見ただけの他の人ではできないような、不完全なものを作ったの?」
「いえ、そんなことは誓ってありません。ただ、理由をお聞きしたくて」
「ずいぶん偉そうね。あなたに説明する義務なんてないわ。そもそもひとりで仕事をしていたとでも言うの?」
(そ、そんな……)
 まるで自分が手柄を独り占めしているように言われ、花梨は一瞬言葉を失う。しかしここで引き下がれない。
「ですが……私が動かないとこの企画は」
 マジェスティグループの案件自体は、営業企画部、いや、会社が総力を挙げて取り組んでいる。しかし計画のコンセプトから出店の詳細までのほとんどは花梨が主導して作り上げたものだ。
「あなたが考えたのだから最後まで責任を持て」と指示してきたのはほかならぬ佐川である。だから寝食を犠牲にし花梨は頑張ってきた。
「己惚れるのはいい加減になさい! 責任者でもあるまいし。あなたでは力不足です!」
 食い下がろうとした花梨に、まるで聞き分けのない子供を叱りつけるように副社長はぴしゃりと言い放つ。
 確かに、直接的に動いていたのは花梨だが、このプロジェクトの責任者は佐川だ。これまでの実績を考えれば佐川の言う通り、力不足だろう。
 経験が足りていない自覚はあった花梨は黙り込む。すると副社長はやれやれと大げさに肩をすくめてみせた。
「たまたま企画がひとつ通ったからといって思い上がられては困るわ。大きな案件には相応しい担当者が必要でしょう。……ねぇ?」
 副社長がちらりと横へ視線を向けると、高橋は厭らしい笑みを浮かべたまま鷹揚に頷いてみせる。
 そこで花梨はようやく、高橋がこの場に同席している意味を理解した。
「今後マジェスティグループの案件は高橋君をメインに動いてもらいます」
 断言され、今更花梨がどんな言葉を重ねてもこの決定が覆ることがないとはっきり分かった。
「そんな……」
 もうプロジェクトは大詰めを迎えている。
 走り出した仕事はもう誰の手に渡っても形になるだろう。
 だから会社にとってメインで動く人間の頭を挿げ替えても、なんの支障もないのかもしれない。
(それにしたって、私の仕事を奪っていくのが、よりによって高橋さんだなんて)
 努力が全て報われるなんてあり得ないし、世の中は不平等で理不尽なものだ。
 店舗でスタッフとして勤務していた花梨は毎日頭を下げてきた。
 普段なら多少の理不尽は黙って飲み込む。
 勤め人なら上司の言い分が絶対だということも、もちろん弁えている。
「……だったらなぜ、今なんですか?」
 それでも、自分がつかみ取ったチャンスを、時間と労力をかけて形にしてきた仕事を横から取り上げられてすぐに納得できなかった。
 曲がりなりにもひとつの企画を形にしてきたという小さな自負が、花梨を奮い立たせる。
「今更高橋さんがメインになるなら、企画立案から高橋さんが手掛ければよかったのでは?」
 震える声で花梨は副社長に問う。
 これが彼女にできる精一杯の抗議だった。
 高橋はずっと花梨を目の敵にして、時にプロジェクトの邪魔をするような真似をしてきた。おかげで余計な業務を増やされたことは一度や二度ではない。
 それを取りなしてくれたのは他でもない副社長である。
(高橋さんの仕事ぶりを、副社長は一番知っているはず!)
 しかし必死に訴えた花梨に、副社長は心外だとばかりに肩をすくめてみせる。
「もともとこのプロジェクトは高橋君をメインにするつもりだったのよ。でもね、あなたに経験を積ませてあげたの。色々勉強になったでしょう。むしろ感謝して欲しいくらいだわ」
「え……?」
 全く悪びれもせず言われて、再び驚く。
(も、もしかして副社長は初めから……?)
 面倒なことは花梨にやらせ、筋道が出来たら成果ごと全て奪うつもりだったのか。
 ──おそらく、この案件を受注した時から。
 それを理解した途端、花梨は足元にぽっかりと穴が空いたような錯覚を感じ、たまらず身体が傾いだ。
(嘘、でしょう?)
 あまりのことに、言葉が出ない。
「安心しなさい。横澤さんに相応しい仕事はちゃんと考えておいたわ」
 花梨が黙ったのを了承ととったのか、副社長は得意げに続ける。
(……これからは高橋さんの下で働けってことなのかな)
 これまでの仕打ちを考えれば、花梨が彼の下で動くのは正直辛いものにしかならないと予想できた。……しかしマジェスティグループのプロジェクトに少しでも関わり続けるためには、我慢するしかない。
「週明けから、店舗の方へ行ってもらいます」
 ところが沙汰を待つ花梨に副社長が示したのは、全く想像もしていなかった異動だった。
「え?」
 また間抜けな声を出してしまったのは、プロジェクトのメインから外れろと言われた時よりも、信じられなかったからだ。
 店舗のスタッフから本社への異動はほとんど例がない。
 けれどその逆……本社から店舗への配置換えは稀にだがある話だ。しかしそれに従った者はいない。皆、辞令が出た時点で辞めてしまうのだ。
 エステティシャンは技術職だ。その上、流行の移り変わりや施術の進歩はすさまじく、常に勉強は欠かせない。数年現場から離れたら、施術するのにまた一から勉強し直しになる。
 つまり、本社から店舗への異動は、新人に戻るようなものなのだ。立場も、給与も。
 副社長が示したのは、実質的な辞職勧告であった。
 驚愕のあまり目を見開き慄く花梨に、副社長はにんまりと笑う。
「もともとエリアマネージャーでもないあなたを本社に迎え入れるのに、私は反対だったのよ」
「ふ、副社長がそれをおっしゃるんですか……?」
 思わず、問い返さずにはいられなかった。
 二年前花梨が突如営業企画部に異動になったのは「現場の感覚をもった人材を入れたい」という副社長の意向だったからだ。
 もしも異動せず店舗で勤め続けていたら、今頃店舗の管理スタッフになれていただろう。むしろそちらの方が花梨の望んだキャリアであった。
 いつか自分のサロンを持って、お客様を綺麗にする手助けをすること。
 その夢を叶えるために、シュペットにスタッフとして入社したのに。
(……気まぐれで人の人生捻じ曲げて、予想外にうまくいったらこき使って、最後にはポイと捨てるの?)
 これまで副社長に対して抱いていた尊敬の気持ちが、音を立てて崩れていく。
 呆然となった花梨に見せつけるように、副社長の手が高橋の肩に触れる。
(なに……してるの)
 頼りにしている、と身振りで示すというよりも、どこか甘えるような仕草を見て、花梨は再び衝撃を受けた。
(ま、まさか)
 これまで考えてもいなかったことが、頭を過る。
 高橋は笑みを浮かべたまま、肩に触れた副社長の手に自分のそれを重ねた。一見何気ない行動。しかし上司と部下がするような、触れ合いではなかった。
(この人たち……そういう関係だ)
 社内恋愛が禁止されているわけではないし、双方独身だから別に誰に憚るものでもない。個人の自由だ。理屈ではわかる。
 四十代後半の副社長と、花梨と同い年、二十八歳の高橋。かなり年の差があり、そこには上下関係も存在する。
 ある社員が大事に育てた仕事を取り上げて職場から追い出し、その仕事を恋人に与えたら、もうそれは立派な公私混同だ。
「横澤の力は現場の方がきっと生かされると思うよ。頑張って」
 高橋の勝ち誇ったかのような声が、ぐわんぐわんと花梨の耳に響いた。

「……酷い話だな」
 花梨が話し終えると、男性は同情を滲ませた声色で呟いた。
 たったそれだけなのに、自分の気持ちが少し落ち着いたことに花梨は静かに驚く。
 男は良い聞き手だった。時折相槌を挟み、疑問に思ったことを尋ねてくるものの、話の腰を折ることはしないし、求められていない自らの見解を述べることもしなかった。
 その絶妙な距離感に、花梨の鎧っていた心が静かに解きほぐされているのを感じた。
(やっぱり人に話すと違うのね)
 誰かに共感してもらえれば、慰められるものがある。
 でも、と花梨は少しだけ思う。
(……できるなら、見知らぬ人じゃない方が、よかった)
 吐き出したことで気持ちは少し、楽になった。
 しかしできるならば自分の頑張りを知っている人に、この悲しみを理解してほしかった。
「それにしても上司から色恋で仕事をもらうなんて、真っ当な社会人としてあり得ない。それに応じる上司も上司だ」
「……ただ、私が力不足だということは、間違ってないんです」
 プロジェクトを進めていくにあたって、先輩たちにはたくさん迷惑をかけてきたのは事実だ。本来であれば花梨はメインメンバーにいることすら、おこがましい。
「たくさんの人たちの協力なしには、ここまで来られませんでしたし」
 それは間違いなく花梨の本音であった。しかし聞いた男性はなぜか批難するかのように眉をしかめる。
「君は、少し自己評価が低すぎるのではないかな」
「そう、ですか?」
「コンペで仕事を勝ち取ったのは君なんだろう? なら胸を張っているべきだ」
「たまたま採用されただけですよ」
「それでも、されたことに対してもっと怒っていいと思うが」
 静かに首を横にふる花梨に、男性は意外そうに言う。
「……私、気づいてしまったんです」
 何を、と男性が目線で続きを促す。
「取られたのがその同僚だったからこんなに傷ついているんだって」
 相手が高橋以外の先輩社員だったのなら、花梨はここまでショックは受けなかった。
 それはつまり、高橋が花梨を蔑んでいたように、花梨もまた、彼を下に見ていたということなのだ。
 自分の醜さに気づいてしまえば、怒りなど湧かない。
 ただただ自己嫌悪が増すばかりだ。
「周囲は助けてくれなかったのか?」
「巻き込むことになってしまいますから」
 呼び出しから席に戻った時に向けられた視線で、部署の人たちが高橋と佐川の関係に気づいていたことはすぐに察した。
 むしろ、気づいていなかったのは花梨だけ。
 佐川は人事権を持つ会社のナンバーツーだ。下手に関われば次の矛先を向けられてしまう。同僚たちの自己保身を理解こそすれ、責めるのは筋違いである。
 記憶を掘り返すと悲しみが胸に迫ってきて、それを誤魔化すようにハイボールを口に運んだ。苦く酸味のある酒は、弾けながら喉を落ちていく。
「君はこんなに魅力的なのに、周囲は見る目がないね」
 この店にひとりぼっちでいた花梨を包み込むように、男性は笑う。
(どうして)
 その魅力的な表情と声色を前にして、花梨の脳裏に、幾度となく繰り返した答えのない問いがまた、響く。
(今日会ったばかりの人の方が、こんなに優しいの?)
 仕方ないと本当はわかっている。
 それなのに悲しみは次から次へと湧きだし花梨の心に迫ってくる。
 今、対峙したくないのに。
「あまり気持ちのよくない話を聞かせてしまって、申し訳ありません」
 花梨は意識して笑みを顔に張り付けた。
 次に泣いたらもう、止められる気がしなかったから。
「いや、こちらが無理強いしたからね。申し訳ない。……酒ばかりでは寂しいだろう。何か食べないか?」
 話を変えようとしてくれたのだろう。男性が目線を送るとすぐに店員がフードメニューを差し出してくる。
(そういえば何も食べてなかった)
 炭酸を飲んだせいで空腹感はあまりなかった。けれど何も食べずに酒ばかり流し込むのは身体に悪い。
 とりあえずメニューを受け取り眺めていると、目に留まった項目があった。
「……マグロとアボカドのタルタル……マグロ……」
 マグロ。それは今一番目にしたくない単語だった。
「それにするかい?」
「いえ、ごめんなさい。……あの、チーズの盛り合わせ、頂けますか?」
 とりあえず無難なものをオーダーしてメニューを店員に返す。
「マグロ、苦手だったかな?」
 男性の問いかけに花梨は首を振る。
「いえ……ふふ」
 マグロ、という単語に気を取られたのは、食べたかったからではない。
 理由を思い出したら、笑えてくる。それが自己防衛だと花梨はどこかで分かっていた。愚かな自分を嗤うしかなかったのだ。
「今日私、マグロって、呼ばれたんです」
(ああ、私酔っぱらっている)
 これまではあまり感じなかった酔いが、花梨の口を急激に軽くさせる。
 しかしどうせ今夜限りの相手だ。どう思われたって構わない……そんな投げやりな気持ちも、普段は慎重な花梨をあまりよろしくない方向に後押しした。
「お付き合いしていた人から……マグロ女って」
 意味を理解した男性の顔色が変わる。
「なんて酷いことを……っ!」
 男性が不快感も露わに吐き捨てた。それがおかしくてますます花梨は笑ってしまう。
「彼は悪くないんです。悪いのは、私の方。全部、私が悪いんです」
 ──マグロ女。
 花梨のことをそう称したのは、つい先程別れたばかりの元恋人である浩志(ひろし)だった。

 散々な目に遭った。
 この行き場のない気持ちを、やるせなさを誰かに話したい。
 できれば優しく包み込んで慰めてほしい。
 ──そんな気持ちを恋人に甘えることで満たそうと思うのは、別におかしなことではないだろう。
 やりきれない思いに動かされるまま、会社を出た花梨は恋人である浩志に会いに行くことにした。
 三年の付き合いになる彼とは、すでに合鍵も交換している仲だ。
 お互いに遠慮などない。
「急だけど、今から行くね」とメッセージを送ったあと、花梨は職場から真っすぐ浩志の家へと向かった。
 もし彼がまだ仕事中でも、家で待っていればいいのだから。
 花梨の会社の最寄り駅から浩志の住むアパートまでは、自宅に帰るよりも少し遠い。二度の乗り換えの間にもメッセージを送ったけれど既読にならなかった。
(残業? それとも仕事帰りにご飯でも食べているとか)
 金曜の夜だ。仕事終わりに友人と飲みにでも行っているのかもしれない。
 浩志は元々連絡がマメなタイプではなかったし、盛り上がっていたらメッセージの通知など気づかないだろう。
(電話……でも楽しんでいるのなら水を差すのは申し訳ないしなぁ)
 とにかく今は自宅以外の場所、いや、浩志の側に居たかった。
 くしゃっと目尻に皺のよる、優しい笑顔を見たかった。
 そして抱きしめて慰めて欲しかった。花梨は何も悪くないと言って欲しかった。
「あれ?」
 しかし花梨の視界に彼の住むアパートが入った途端、足が止まる。
 てっきり留守だと思っていた浩志の部屋に灯りがついていたからだ。
 彼のアパートは玄関周辺に水回りがまとまっている間取りだ。風呂の換気扇が動いているのが通路から見える。
(なんだ、お風呂入ってたんだ)
 それなら返信が無いのも納得である。
 在宅であることにほっとしながら部屋の前に行き、呼び鈴を鳴らそうとしたその時。
「やだぁ、もう。こんなところでぇ」
 甘えたような女の声がドア越しに聞こえた。
(えっ!?)
 何が起きているのか咄嗟に理解できず、花梨は呼び鈴に指を伸ばしたままその場で固まってしまう。
「いいじゃん。風呂であんなに可愛い声聞いたら我慢できるわけないだろ」
「お風呂でもやだって言ったじゃない」
 くすくすと笑いを含ませながら女が応じる。
「えー? あんなに感じてたのに、本当に嫌だった?」
「んもぅ、浩志のいじわるぅ」
 そこで会話が途切れたのは……話すよりも他のことにかまけていたからだろう。
 扉一枚隔てた向こうで行われている行為があまりにも易々と想像できてしまう音が聞こえてきて、花梨は呆然と立ち尽くすしかない。
 どちらかと言えばやや演技がかった女の嬌声は、ちゃちなアパートの扉越しでもよく響いた。