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僕の猫にならないか? スパダリ社長の過保護な溺愛がすごすぎる 1

第一話

 家に帰る途中、横澤花梨(よこざわかりん)は気づくとふらりと電車を降りていた。本来ならばただ通り過ぎるだけの駅で。
「あ……私、どうして……」
 降りてしまってから我に返っても、もう遅い。振り返れば背後で扉が閉まり電車が走り出していく。
 去り行く電車が巻き起こした風を感じながら電光掲示板を確認すると、あいにく次の電車までは時間があった。
 ホームで待ち続ける気力もなく、花梨はふらふらと改札へ向かって歩き出す。
「私の何が悪かったのかな……」
 ぼんやりしていると、幾度も繰り返した問いが知らず口からついて出た。

 ああすればよかった、こうすればよかった、と次から次へと頭に浮かぶ。けれどそう思えるのは全てが終わった後だからだ。
 今日は、花梨にとって人生最悪の日だった。
 まだたった二十八年しか生きていない。それでも間違いなく今まで生きてきた中で最も辛い一日だったと断言できる。
 こんな日はすぐに帰るべきなのだろう。誰にも邪魔されることなく、これ以上傷つけられることなく、安全な場所で温かな布団にくるまって泣くのが最善の方法だ。
 何か辛いことがあれば、いつも花梨はそうしてきた。
(このまま、家に帰りたくない)
 けれど今はなぜか、そんな風に思った。
 最悪な状態のまま、一日を終わらせたくない。
 ほんの少しでいい。慰めを得て、気持ちを立て直したい。
 見知らぬ改札を出た花梨は、寄る辺を探すように歩き出した。
 週末の夜はまだ始まったばかりだ。駅の目の前が幹線道路だったこともあり周囲は明るく、人通りもそれなりにある。
(どこか……落ち着ける場所……)
 けれど見知らぬ街を当てもなく彷徨っていると、焦燥感と悲しみが徐々に心を覆い始める。つま先から冷たいものが沁みてくるような感覚に、思わず花梨は足元を見た。
 ベージュのラウンドトゥパンプス。少しだけ奮発して購入したお気に入りの靴は、当然濡れてなどいない。
「うわ……」
 しかしそのままぼんやりと視線を上げた花梨は、驚愕する。
 通りすがりの店のショーウィンドウに映った自分の姿が昨日までの、いや、今朝までの自分に比べて、格段に老け込んで見えたからだ。
 スモーキーベージュのシャツワンピースに紺色のカーディガンを合わせた姿だけならば、何にも変なところはない。百五十二センチと身長はやや低めだ。しかし肩を落とし丸まった背中と、そこに乗っかっている顔から絶望的に生気が感じられなかった。
 元々、特別造作が整っているわけではない。ベース型の輪郭にやや上がり気味の眼と小づくりな鼻と口という、没個性の地味な顔だ。ただ花梨はその分化粧は映えると思っていたし、実際あれこれ頑張ってそれなりに見せていたつもりだった。
 しかし今花梨に突き付けられたのは、この世の不幸を一身に背負いこんだような、淀み暗い目をした己の姿。
「……っ!」
 あまりにもひどい自分に背を向け、花梨は歩き出す。
(駄目、今正面から向き合ってしまったら、駄目……!)
 それは予感ではなく、確信だった。
 迫りくる猛烈な絶望から逃れるように、花梨は目についたバーに飛び込んだ。
「あの、ハイボール、濃い目でお願いします!」
 週末の夜だというのに誰もいないカウンターの端に陣取るなり、花梨は注文を飛ばす。
 店員は縋るような目でオーダーした一見客に動じることなく、折り目正しく「かしこまりました」と頭を下げた。
 可愛らしいカクテルを頼もうとは全く思わなかった。
 なにより、今はとにかくがばがばとたくさん身体に流し込みたかった。
 ……早く酔って、何も考えられない状態になりたかった。
「……なんで?」
 ところがハイボールを何杯飲んでも、ちっとも酔いが回ってこない。
 店員はちゃんと注文通りに作ってくれていたし、元より大して酒が強いわけでもない。それなのに、花梨の頭は冴えたまま。
 だからどうしたって思い出してしまう。
 ──最悪な、今日という日のことを。
「どうして……」 
 酔えないの? という花梨の自問自答を遮ったのは、頬を伝う涙だった。
「やだ……」
 慌てて指で拭う。
 けれど一度零れてしまうと涙は次から次へと溢れてきてしまう。
「……これ、よかったら」
 俯いた視界の中に、声と共にすっとハンカチを持った男性の手が滑り込んでくる。
「あ……」
 気づかぬうちに、カウンターに花梨以外の客が座っていた。
「すみません、大丈夫です」
「指で拭うと、眼が腫れてしまうから」
 ね、と男性は促すように言うと、優しく花梨の手にハンカチを握らせる。
 しかし見るからに上質なハンカチを汚してしまうのは申し訳なかった。
「でも」
「ハンカチは拭うためにあるものだよ」
 返そうとする花梨に、男性は笑いながら手を引っ込めてしまう。
「……すみません」
 初対面の男性の気遣いに花梨は頭を下げ、涙を拭う。
(見知らぬ人はこんなに優しいのに)
 近くにいる人たちは、誰も花梨に優しくなかった。
(私って……その程度だったんだな)
 悲しみと共に湧いてきた自嘲が花梨の涙を止めた。
 自分の価値のなさに気づいてしまえば、今日のことは仕方のないことだったのだろうと諦めがつく。
「……これ、ありがとうございました」
 花梨は改めて男性に向き直り、汚れたハンカチを両手で返した。今度は受け取ってもらえてホッとする。
「汚しちゃってごめんなさい。あの、クリーニング代お支払いしますね」
「大丈夫だ。さきほども言ったが、ハンカチはそのためにあるものだから」
 男性は笑いながらグラスのお酒を飲み干した。ロックグラスの中でカランと大きな氷が転がる。
「じ、じゃあお礼に一杯ごちそうさせてください!」
(あっ! なんか、ナンパみたいなこと言っちゃった!)
 花梨に全くそんな気持ちはなかった。しかし状況や言葉だけならそうとしか見えない。
「あの、まだ飲みたい気分だったら、ですけど……」
 思わず尻すぼみになってしまった花梨に、男性は明るい笑い声をあげた。
「まだまだ飲みたい気分だよ。よければ僕にもごちそうさせてくれるかな」
「えっ、なぜ……です?」
「君の涙を勝手に見てしまったから。お詫び」
「いやいやお詫びなんて、必要ないです! むしろみっともないところをお見せした私がお詫びしなきゃいけない立場ですから!」
「なら、お互い様だね」
 申し訳なさからまくし立てた花梨に男性はまた笑うと、さっさと店員に注文してしまう。こうなるともう断れない。
「すみません、ありがとうございます」
 改めて礼を言いながら花梨は男性に向き直る。
(……あれ?)
 そこでふと違和感を覚える。
「何か?」
 花梨が自分の顔を見ていぶかしむように眉を寄せたのに気づいたのだろう。男性は笑みを浮かべたまま、優しく尋ねてくる。
(この顔、表情、声……どこかで、見覚えがある) 
 花梨は頭の中で記憶のページをめくった。けれどちっとも酔った気がしないというのに、思考能力はしっかり落ちているらしい。どうにもうまく情報がサルベージできない。
 長めの前髪を撫でつけたスタイルは一見無造作に見えるけれど、そうなるように計算されているとすぐにわかる。端整な顔立ち……凜々しい眉にすっと通った形のいい鼻、男らしいシャープな顎から喉に続くライン。それらから成熟した色気が匂い立つ。
 年齢は、三十代半ば……いや、それ以上だろうか。若木の時期は脱している。そのかわり枝を大きく空に伸ばす大樹のように、ある程度年齢を重ねた者だけが持つ威厳、凄みのようなものを感じさせる。
 そこまで観察して、花梨は己の記憶を探ることを諦めた。
(だってこんなに格好いい人と一度会ったら絶対忘れないもの)
 プライベートで異性との出会いはここ数年求めていない。
 数合わせの合コンすら断っていた。なので可能性があるとすれば仕事だけ。
 しかし花梨の職場は九割以上が女性だ。あり得ないと思った瞬間、思い出したくない顔が脳裏に蘇り、花梨は思わず眉をしかめてしまう。
 するとなぜか男性が愉しげに笑い声を上げた。
「女性にそんな顔をされたのは初めてだな」
「あっ、し、失礼しました!」
 これだけの男ぶりだ。さらに身に着けているものから察するに相当余裕がある。異性から賞賛されこそすれ、しかめ面をされることなどないだろう。
「ただちょっと個人的に嫌なことがあって、それを思い出してしまって。本当に、あの、失礼な真似をしてすみません……」
 男性は興味を前面に出すように花梨に向き直る。
「君のような人にそんな顔をさせるなんて何があったのだろうね。ぜひお話を伺いたいな」
「……お酒の肴になるような話ではないんです」
 愉快な失敗なら、こんな時にちょうどいいかもしれない。
 けれど花梨にとって人生最悪の日である今日の出来事によって、傷は、まだ血を流しており、生々しい。花梨自身ですら、自分の気持ちを掴み切れていないのだ。こんな状態で人に話せるわけがなかった。
 気まずさゆえに男性から視線を逸らした花梨と彼の前に、新しいグラスが置かれる。
 男性は自分のロックグラスを手に取ると氷を鳴らすようにゆすってみせた。
「なら僕を井戸だとでも思えばいい。なに、大丈夫だ。どんなことを叫んでも、僕の耳は国中の井戸に繋がっていないから安全だよ」
(王様の耳はロバの耳、ね)
 どうだと言わんばかりの男性の提案に、花梨は思わず笑ってしまう。
(でもなんの関係もない人に聞かせて気持ちいい話じゃないわ)
「むしろ、なにも関係がないからこそ、吐き出すのにはうってつけだと思わないかい?」
 男性はまるで花梨の心を読んだように言う。
「この街で一度だけ顔を合わせた相手と再会できる可能性はどれほどだろうね」
 二度と会わない他人なら、何も気遣わなくていい。
 そうわかりやすく示してくれているのだ。
 やけ酒を呷ってもちっとも酔えず胸が塞いだままなのは、本来であれば飲み込むのではなく吐き出さなければいけないからなのかもしれない。
 ぐらり、と花梨の心が揺れる。
 真っすぐ家に帰らなかったのは、誰かに縋りたかったからだ。ひとりではないと思いたかったからだ。
 見るからに経験豊富な目の前の男性は、そんな花梨の感情などおそらくお見通しなのだろう。明らかに彼は、女を甘やかすことに慣れている。
(きっとこうやって女の子をたくさん口説いてきたんだろうな)
 慣れているのなら……この魅力のありすぎる男性に、自分も少しだけ甘えさせてもらおうか。
 花梨はふとそう思った。
 普段の花梨なら、絶対にそんなことを考えないのに。
「……別に面白い事なんてなにもないんですよ」
 なにしろ人生最悪の出来事なのだから。
 新しい酒を舐めながら、花梨はとつとつと語り始めた。
 部署のトップである副社長の佐川(さがわ)から急遽呼び出されたのは、半日前のこと。
「失礼します」
「遅い!」
 花梨がミーティングルームに飛び込むと、扉の真正面に座っていた佐川から叱責が飛んでくる。
「申し訳ありませんっ!」
 電話応対中に呼び出されたためすぐに来られなかったのだが、待たせたのは事実だったのですぐさま頭を下げた。佐川は言い訳を嫌う。
 関東を中心にエステ事業を展開する会社「シュペット」。その企画営業部に花梨は籍を置いている。
 花梨の上司である佐川は一代で会社を築き上げた社長の姪で、副社長だ。四十代後半とは思えないくらい若々しく、パワフルな女性である。明るい黄色の派手な色のスーツを着ているというのに、全くけばけばしく感じない。絵に描いたようなやり手の上司という雰囲気の人だ。
 子供のいない社長の後継者だと言われており、社内では絶大な権力を持っている。その分少々強引なきらいはあったが、上司としては尊敬できる人だと花梨は思っていた。
 とはいえ、花梨は最初から企画営業の業務をしていたわけではない。元々花梨が採用されたのは、シュペットが経営するエステチェーンのスタッフとしてだ。
 ところが二年前、急に企画営業部に異動を命じられた。店舗の管理者からではなくスタッフが本部の部署に異動するのは極めて異例だったが、それを押し切ったのがこの佐川だった。
 企画営業部は集客イベントやキャンペーン企画、新店舗の立ち上げなどを担当する部署で、店舗とは仕事の内容がまるきり違う。
 右も左もわからぬまま急に放り込まれた花梨は二年経った今でもまだ、毎日必死である。
「……っ」
 しかし慌てて下げた頭を上げるなり、花梨は不躾な声を上げてしまいそうになった。それをなんとか堪えたのは、また叱られるだけだとわかっていたからだ。