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僕の猫にならないか? スパダリ社長の過保護な溺愛がすごすぎる 3

第三話

「ねえ、カリンより私がいい?」
「……っ!?」
 唐突に女の口から出た名に、花梨は思わず飛び上がりそうになる。
(ちょっと、待って。相手は私の存在を知っているの?)
「まだ別れてないんでしょ? もう一年になるのに、気づかないの超ウケるんだけど。てかいつまで二股するつもり?」
「まあまあ、そんなに拗ねるなって。向こうが忙しくてろくに話も出来ないってだけだよ」
 話が不穏な方向に転がっていくのがわかり、花梨の頭から血の気が引いていく。
(浮気、じゃなくて……二股? それも一年? うそ、でしょ……?)
「ねえ、私の方が可愛いって言って!」
「ああ。お前の方がずっと可愛い。あいつはなんでも自分で出来るって顔して、俺に甘えてきたことなんてないしな」
「えぇー? いつも私のこと甘えん坊だって怒るくせにぃ」
「そこがいいんだよ。男は甘えられたら嬉しいんだから。あんなただ寝転がっているだけのマグロ女よりお前の方がずっと可愛い」
 しかしそんな彼女に対する浩志の相槌や宥め方はどこか慣れたもので……この会話がふたりにとって「甘いひと時のお約束」なのだと察してしまった。
 何も知らない恋人である花梨をこき下ろすのが、ふたりにとってある意味楽しみになっているのだろう。
 浩志の言葉を喜ぶように女が嬌声交じりの笑い声をあげる。
「あははっ、マグロ女なんて早く捨てちゃってよぉ」
「そうだな。そろそろ潮時かもなぁ」
「やったぁ! そしたらもう浩志は私だけのものね!」
 女の勝ち誇ったような声が、花梨の頭の中にぐわんぐわんと響く。
 甘えてこないだの可愛くないだの、悪口を言われているだけでも十分ショックだ。
 しかしさらにはふたりだけの秘密と言って差し支えないはずのベッドの中のことまで、二股相手に暴露されていたなんて。
「……そっか」
(浩志にとって、私はもう恋人じゃないんだ)
 ひとまず衝撃が治まると、花梨の心を支配したのは虚無だった。
 もはや、何も感じない。
 バッグから合鍵を取り出し、花梨は躊躇なく目の前の鍵穴に差し込んだ。解錠を知らせる小さな金属音と手ごたえに口元が歪む。
「えっ、何!?」
 扉の向こうから戸惑うような声が聞こえてきた。どうやら鍵が開いたことに気づいたらしい。
 しかしもう遅い。
 向こうのことなど全く気にせずドアノブを引くと、引っかかるものは何もなかった。どうやらドアガードは使っていなかったようだ。
 ぎぃっとドアが微かに軋みながら、開いていく。それを待つ花梨の顔からは表情が完全に抜け落ちていた。
「……お邪魔します」
 ふたりは想定通り玄関の目の前、キッチンの一角にいた。恐怖に顔を引き攣らせながら。
 風呂上がりなのだろう。ふたりは濡れた髪のまま、中途半端に下着を纏わりつかせた身体を絡め合っている。
 実際あられもない姿を目にすると、冷静になってくるから不思議なものだ。
「……っ!? なんでっ?」
 突如現れた花梨に、浩志が驚いたように声を上げた。
「合鍵あったから」
 わざとらしく合鍵を掲げてみせる。ついているキーホルダーは以前デートで行った遊園地で彼が買ってくれた思い出の品だ。
(そういえばこの合鍵、前に使ったのはいつだったっけ?)
 花梨が思い出せないくらいだ。もしかして浩志は合鍵を渡したことすら忘れていたのかもしれない。
 なにしろ近頃のデートといえば花梨の家に来て配信の映画だのどうでもいいバラエティ番組だのを見て、ご飯を食べてセックスするだけというお気楽手抜きなものばっかりだった。
(無理に出かけたりしないのは忙しい私を気遣ってくれているんだと思ってたんだけど)
 実際は、ただ面倒だっただけ。
 付き合いの長さが目をくらませていたのだろう。
 多忙を極めていたここ数か月、いやそれ以上前から浩志の行動を思い返してみれば、怪しいところはいくらでも思いついてしまう。
(気づかなかった私が、馬鹿だっただけ)
「お取込み中のところ、ごめんなさい」
 花梨の言葉に女が小さな悲鳴を上げて色々もろだしになっていた身体を隠す。とはいえ裸同然なことには変わりないのが間抜けである。
「ち、違うんだ花梨。これは、その」
 浩志が狼狽えながらも言い訳を始める。この期に及んで開き直るのではなく言い訳を選ぶ姿を目にして、改めて胸に沸き起こったのは大きな失望と悲しみだった。
「ご心配なく。忘れ物を引き取りに来ただけだから、すぐに済むわ」
 花梨は玄関の脇にある作り付けの靴箱の上を見る。目当てのものは、すぐに見つかった。靴箱の天板に投げ出されていた、花梨が持っていたのとよく似たキーホルダーにぶら下がっているもの。
 浩志に渡した、花梨の家の合鍵だ。
 それと今使ったばかりの鍵を交換するなり、花梨は踵を返した。
「申し訳ないけど、私の荷物は捨てておいて」
 一応、鍵を交換し合った仲だ。彼の家には花梨の私物がそれなりに置かれていた。
 揃いで買った食器や部屋着、化粧品。
 おそらくもう、彼女の手によって処分されているだろうけれど。
「花梨、待っ……」
「……さよなら」
 引き留めようとした浩志の言葉を遮るように、ドアを閉じる。
 アパートの階段を降りていると、先程までの嬌声よりもずっと大きな怒声が響き渡る。
喧嘩が始まったのか、それとも花梨を罵っているのか。
 どちらにせよ彼らのそれを聞くつもりなどない。
 花梨がここに来ることはもう二度と無いのだから。
 花梨は振り返ることなく元来た道を戻る。
 その後のことは、よく覚えていない。
 気づいたら見知らぬ駅で電車を降りていて──この店に辿り着いていた、というわけだ。

 たった一日で、花梨は大切なものをふたつも失った。
 二年打ち込んできた仕事。
 三年付き合った恋人。
 どちらもかけがえのないものだったのに、失うのは驚くくらいあっという間だった。
 しかし、どちらもよくある話だ。
 物語にするにも陳腐すぎる筋書き。
「大切だって思ってたのは、私だけだったんです。すごく、間抜けですよね」
「いや……」
 かける言葉が見つからないのか、男性は小さく首を横に振ると、グラスを口元へ運んだ。ふたりの間に沈黙が落ちる。
(嫌だ、暗くしちゃった)
「……すみません、本当にくだらない話をお聞かせして。……私の悪いところ思い切り披露しちゃいましたね」
「悪いところ?」
 男性がいぶかしげに問いかけてくる。
「ええ。同僚を苦手だと思わずもっと配慮出来ていたら、本社から追い出されずに済んだかもしれないし、仕事にかかりきりにならずに、もっと彼と過ごす時間を作れていたら、浮気なんてされなかったでしょうし。ほら、全部私が悪いじゃないですか」
「それは違うだろう」
「えっ?」
 男性のはっきりした声が、自嘲し沈み込む花梨を引き上げる。
「君の話を聞く限りだが、落ち度は見当たらない」
「でも……」
 つい否定してしまいそうになる花梨の目を、男性は真っすぐに見つめて、言った。
「君は何も悪くない」
「……っ!」
 自分が悪いと口にしながらも、心の奥底でずっと思っていたことをずばり言い当てられ、花梨は言葉を失う。
「あぁ……ごめんなさい」
 目の前のグラスを脇に押しやり、花梨はカウンターに突っ伏した。
 見栄を張る程の気力なんてもう残っていない。
 それよりも流れ出てしまった涙を男性から隠したかった。
 人生ままならぬものだとわかっていたつもりだけど、理不尽過ぎて嫌になる。
(なんで? なんでこの人はこんなに優しいの?)
 優しくされて嬉しいはずなのに、辛い。
 無責任な他人の方が自分を思いやってくれる事実が花梨をさらに打ちのめす。
「どうした?」
 男性が優しく尋ねてくる。
 これ以上は駄目だ、と思っても一度溢れたものを花梨は止められない。
「な、なんだか何もかも、嫌になっちゃいました。……もう人間なんかやめちゃいたい。こんなしんどい思いはもう嫌」
 まるで駄々っ子のようだと、花梨は思う。しかし今以上に辛い思いをするのだけは、どうしても嫌だった。
「人間をやめて一体何になる?」
 まるで転職先を尋ねるような気軽さで、男は質問を続ける。
 その時ふと脳裏によぎったのは、気ままに過ごす可愛らしい生き物の姿。
「……猫になりたい」
 馬鹿みたいだと思う。
 しかし口に出してみるとあまりにも今の気持ちにしっくりきすぎていた。
「猫みたいに……ただ可愛がられるだけの存在になりたい」
 花梨に今必要なのはお酒ではない。
 全てを肯定し、存在を丸ごと愛してくれる、そんな甘やかし。
(でも私は、小さくいたいけでもなければ、ふかふかの毛並みもない)
 猫のように愛される要素がそもそもない。
 花梨は、何もかもを失った人間のまま、生きていかなければいけないのだ。
「僕が君を猫にしてあげようか」
「へっ?」
 思わぬ提案に、花梨の口から間抜けな声が出た。
「僕の猫になってくれたら、うんと可愛がってあげる。もちろん、大切にするよ」
 申し出の意図が掴めず、花梨は思わず顔を上げて隣を見た。
 男性は頬杖をつきながら微笑みを浮かべていた。己の魅力を十二分に理解した者の、確信の笑み。
 それを見て、ようやく花梨は意味を理解する。
 ──自分は今、ひと晩の誘いをかけられているのだと。
「……っ!」
(そんなつもりない!)
 とっさに侮辱されたように感じ、瞬間花梨の胸に怒りの炎が灯る。しかしそれが燃え上がらなかったのは、自分の状況を思い出したからだ。
 飲んだくれて見知らぬ相手に愚痴をこぼす、仕事も恋も失敗した、さして美人でもない女。しかも花梨から声をかけている。都合がいいと思われても仕方がない。
「あなたほどの人なら、他にもっといい相手がいますよ」
 この男性なら下手なナンパなどしなくても相手はすぐに見つかるだろう。なんなら呼び出せる相手すらいそうだ。
「いや、僕は君が気に入ったんだ。どうか、僕の猫になってほしい」
 花梨を見つめる男性の瞳に、下卑た欲望は感じない。
 ただ、ここで隠している欲望を表情に出すほど目の前の彼は間抜けではないだろう。
 その雰囲気からも、年齢からも、男性は自分の魅力を最大に理解したうえで誘いをかけてきていることはわかる。
 正直、別れたばかりの浩志より、ずっといい男だ。
 ひと晩の相手としては、悪くないどころか、かなり上等な部類に入るだろう。
 スーツを纏った姿からでもわかる、たくましい身体。大きな手のひら。あれに包まれたら、どれほど癒されるだろうか。
「駄目かな?」
 低く、それでいて艶のある声が、耳に心地いい。
 長かった社畜生活と別れたばかりの恋人とのルーティンのようなセックスで枯れかけた女の欲望が、身体の奥からじわりとにじみ出てくるのを花梨は感じた。
 ひと晩限りの関係なんて、相手がどんなに素敵な人でも考えたこともなかった。
 けれど今、可能性が示され、それを望んでいる自分に気づいてしまった。
(今、心が求めている通りにしてみよう)
 どうせ失うものはなにもない。
 けれど花梨には、心配なことがひとつだけあった。
「……マグロでも、いいですか?」
「もちろん。全て僕に任せて。料理は得意だ」
 花梨の返答に男性は声をあげて笑った。

 男性が花梨を連れてきたのは、バーからほど近い低層マンションだった。駅から徒歩圏内という立地、そしてエントランスの雰囲気から察するに、かなりの高級物件である。
「どうした?」
「いや、すごいところだなぁと思って。ここに住んでるんです、よね?」
 あまりのことに立ち止まってしまった花梨の手を、男性が優しくひく。
「ああ。安心してくれ。僕は独り身だし、恋人もいない」
 花梨は見たままを口にしただけだったのだが、別の懸念だと受け取ったのだろう。男性が笑顔で説明を追加する。彼の年齢を考えれば家庭を持っていても不思議ではないし、これだけの容姿を持つ男に特定の相手がいないわけがない。
(本当に、優しい)
 見え透いた嘘に花梨は思わず苦笑する。しかし嘘こそが彼の優しさなのだ。見知らぬ相手に罪悪感を抱かぬようにしてくれている。
「あの、私なんかを家に連れてきて平気ですか? ホテルとかの方が、いいと思うんですけど」
 自宅などより男女が束の間休憩を取るような場所の方が相応しいだろう。
 ところが男性は花梨の提案に思い切り顔をしかめ呟いた。
「あんな場所は落ち着かない」
(確かに、この人に時間いくらのホテルは全く似合わないかも)
 身体に合ったスーツや皺の見えないシャツ、襟元に光るラペルピン。袖口から覗く腕時計。どれをとっても上質なものだとすぐにわかる。改めて彼の姿を見れば見るほど、自分には似合わない。
(どんな仕事をしているのかしら。……だめ、詮索するのはよくない)
 ひと晩の情事に耽るのであれば、極力余計なものは見聞きしないほうがいい。花梨は男性の正体についてあれこれ考えることを止めるために小さく頭を振る。
 そんな花梨を見て、男性は喉を鳴らすように笑いながら言った。
「君にはどう見えているのかわからないが、僕は普通の男だよ」
(普通の男の人は、行きずりの女を自宅に連れ込むもの、なのかしら)
 花梨は自分を普通の女だと思っていたが、会ったばかりの男性の家になど行ったことはこれまで一度もない。
(普通の基準が私とは違う人、なんだろうな)
 深く考えるのはやめよう、と花梨は思う。
 世の中にはいろんな人がいる。
 裏切る人もいれば、こんな風に優しい嘘で包んでくれる人もいる。
 今見るのは、隣にいてくれる彼の一面だけでいい。
 遅い時間だというのにコンシェルジュがいるエントランスを抜け、エレベーターに乗り込む。
「名前を教えてもらえるかな」
 密室でふたりきりになるなりさりげなく腰を引き寄せながら、男性が尋ねてくる。絡んだ視線は先程よりも濃度を増し、花梨をひたと捉えていた。
「……花梨、です」
「ありがとう。……花梨」
 低いけれど艶のある男性の声で名を呼ばれ、身体の奥がうずくのがわかった。
 女としての矜持を粉々にされた直後だからこそ、魅力的な男に求められていることに悦びを感じているのだ。
 そんな浅ましい自分がいたことが新鮮で、花梨は驚いてしまう。
 実際はただの性欲の発散だとしても、今求めてもらえることが嬉しかった。
「僕のことは、ハヤトと呼んで」
「わかりました。……ハヤトさん」
「呼び捨てで構わないよ」
 確認するように名を呼んだ花梨に、ハヤトは微笑みながら言った。
 互いを見つめていたら、静かにエレベーターが止まる。花梨からもそっとハヤトに触れながら廊下を歩き、玄関のドアを潜った。
 その途端ハヤトは花梨の腰をさらに引き寄せ、顔を寄せてくる。
 花梨は受け入れるために、目を閉じた。
「ん……」
 期待した通り、ハヤトの唇が優しく花梨のそれへと押し当てられる。
 伺いを立てるようにゆったりと啄まれ、緩く口を開ければ熱い舌がするりと入り込んできた。
「ふぁ……」
 口づけの時、人が目を閉じるのはなぜか。
 ふとそんな疑問が花梨の心に浮かぶ。
 一番は触れている相手のことしか、考えられないようにするため。
(でも今は……余計なことを、考えないようにするため、だ)
 官能を満たすにしては穏やかな、けれど熱量を高めるには十分なキスの合間に、ハヤトの手がゆったりと花梨のうなじを撫でてくる。
 そのあまりに慣れた態度に、緊張から強張っていた身体の力が少しずつ抜けていく。
 身体が期待で火照り、胸は早鐘を打っていた。
 きっと彼にとってこの行為は特別ではない。
 見知らぬ女性を誘うのも、自宅に連れ込むのも、日常茶飯事なのだろう。
 その証のように口づけに酔っている間に、花梨は寝室へと導かれていた。
「シャワーは、必要かな?」
 寝室の扉の前で、ハヤトが囁く。己の耳元に届いた吐息の熱さに、身体が震えた。
 一日働いた後だ。汗を流したい気持ちはある。
「……あなたが望むなら」
 しかし行為を中断したくなかった。
 キスと同じだ。余計な要素を加えれば、途端にこの熱は冷めてしまうに違いない。そもそも双方の気まぐれによって生まれた関係なのだから。
 オレンジ色の間接照明に照らされた寝室は、1Kの花梨のマンションよりよほど広かった。部屋の中央にキングサイズのベッドが鎮座している以外、めぼしい家具といえばベッドサイドにある小さなチェストと読書灯と思われる小さな照明だけ。
 見知らぬ部屋にハヤトとふたりでいるというのに、どこか現実味が感じられないのは、このシンプル過ぎる部屋のせいかもしれない。
「ではこのまま」
 背後で扉が閉まるなり、再び唇を塞がれた。
「……っ、んんっ!」
 寝室での口づけは、それまでの紳士的な態度はどこにいったのかと責めたくなるほど容赦がなかった。差し込まれた舌で濃厚に口腔をまさぐられ、背筋を悪寒に似た痺れが駆けていく。
(こんな風に感じたのは、いつぶり……?)
 元恋人である浩志との触れ合いは花梨にとって半ば義務に近かった。
 たまにしか会えないのだから、会うたびに求められるのは当然ではある。
 花梨自身、彼の体温を感じることは嫌いではなかった。
 しかしその先。雑な口づけにこちらを全く顧みない一方的な愛撫と挿入は、花梨にとってあまりよいものではなかった。
 時に出血を伴う繋がりは、どちらかといえば苦痛の方が多かったのだ。
 それなりに長い付き合いだ。何度も浩志に改善を訴えた。自ら挿入を助ける潤滑剤を購入したこともある。けれど痛みが無くなることはなく、触れ合いは体温を感じるためだけのものと花梨はある意味割り切っていた。
(そういう態度が、浩志の心変わりの一因になったのかもしれないな)
 アパートの扉越しに聞いた相手の声は、とても気持ちよさそうだった。花梨があんな風に乱れたことは、ない。
「こら」
 咎めたハヤトが花梨の下唇を食む。
「僕に集中しなさい」
「……は、はい」
 まるで花梨の心を読んだかのように咎められ、花梨は頭の中から余計なことを追い出した。
「ん……ん……」
 ハヤトの口づけは、巧みだった。
 やがて刺激が目の前の浮ついた感覚を少しずつ消していく。これは夢幻などではなく、現実なのだと身体に言い聞かせているかのように。
「可愛いね、花梨」
 唇を触れ合わせたまま囁かれただけで、身体が震えた。
「やだ……」
 服の上から身体を確かめるかのように、ハヤトの手のひらがゆっくりと花梨を撫でる。
「んあ……」
 口づけに蕩け始めた身体は指先の感触だけで、時折びくんと反応してしまう。どんどん深くなる口づけと共に花梨に触れる指もまた、遠慮をなくしていく。
 その絶妙な間と力加減にハヤトの経験を感じつつも、花梨はある意味納得した。確かに、料理が上手いと自分から言うだけはあると。
 なにしろマグロ女を容易くその気にさせてしまうのだから。
「どうされるのがいい?」
「どうって……」
 シャツワンピースのボタンを外しながら問いかけられ、花梨は目を瞬かせた。
 一応年齢なりの経験はある。しかしこれまで付き合ってきた相手からそんなことを問われたことなどなかった。基本的に恋人と抱き合う時、いつも花梨は受け身だったし、そうあるように望まれていたから。
「わから、ない、です」
「なら、僕に任せてくれる?」
 花梨が小さく頷きを返すとハヤトは優しく頬を撫でた。
 その手がゆっくりと襟元に向かい、ボタンがひとつずつ外される。ワンピースはあっという間に脱がされカーディガンと共に足元に落ちた。

 


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