戻る

二度目の恋は、甘く蕩けて 捨てられたはずの元カレ幼馴染みと溺愛結婚始めました 2

第二話

 「――結城さん、ちょっといい?」
 翌日、ランチ休憩を取ろうと一階に下りた私は、弱り切った顔の店長にバックヤードへ手招きされた。
 店長は寝癖かと見間違えそうなくせ毛を持つ、四十代後半の男性だ。いい人だけれど気弱で、眼鏡をかけると学生じみた雰囲気になる。
 実際、学生アルバイトとよく間違われるのを気にしているようで、よほどのことがないとフロアに出たがらない。
 その店長の向かいには、入社二年目の後輩で販売員の仲野(なかの)さんがうつむいていた。
 私と似たようなスーツを着ているのに、髪型もメイクも垢抜けてこなれた印象だ。
 定時以降は一秒たりとも残業しないと公言する彼女は、休憩時間にはよくお客様の待ち時間用のファッション誌を事務所に持ちこんで読みふけっている。
 若い女性には親しみやすいようで、客受けはいい。一方で仕事に抜けがありがちで、ほかのスタッフから不満を耳にすることもある。
 そんなふたりのただならぬ雰囲気をけげんに思いつつ近づくと、店長が一枚の伝票を私の前に差し出した。お直しの伝票だ。
「仲野さんが、お客様への納品日を間違えて記載していたんだ」
 星見眼鏡店はアフターサービスが充実しているのがウリで、お直しの注文も多い。
 このお客様の場合、希望納期は今日だったのに、記載間違いで先の日付が指定されてしまったとか。
 しかも、お直しでは見えかたや使用感を店頭で確認してから引き渡すのが通常の流れだけれど、自宅での受け取りを希望されている。
「今日の午後には必ず納品しなければならないそうで。結城さん、今から納品に行ってもらえないかな?」
 弱った顔で助けてと懇願されると断れない。
 昔からそう。助けを求められれば、どうにも無視できない。
 ただ単に、応じないとあとで罪悪感に悩まされるからだけれど、真由子さんに言わせると「そこが『お人好し』なのよね」ということらしい。
「わかりました、じゃあ仲野さんも一緒に――」
「あ、結城さん。あたし午後休なんで行けません。彼氏が熱を出したらしくって、お見舞いに行かないと可哀想じゃないですか」
「え……」
 仕事で失敗したフォローは他人任せで、恋人のところに行くんだ。ううん、それ自体はかまわない。かまわなくないけれど、気持ちはわかる。
 でも、人にフォローさせるのを当然かのように振る舞われるのは……なんて、もやもやするのは私の心が狭いだけ?
 店長はといえば、午後休ならしかたないよねとうなずいている。
 なんだろう、この心になにか重くのしかかる感じは。
「……急ぎで納品と謝罪、あとその場で着用してもらって使用感を確認すればいいですね? 万一のときのために、いくつか代替品を持っていきます」
「助かるよ、こういうとき結城さんは頼りになるね」
 現物はまだお直しの工房にあるという。すぐに行ってピックアップしなきゃ。
 私はこっそりため息をついた。
 しかたない、ランチは後回しだ。


 ロッカーに置いていたジャケットを手にして外に出ると、サウナかと思うほどもったりとした空気がまとわりつく。
 私は強すぎる日差しに顔をしかめて、駅へと駆け出した――けど。
「えええ――……」
 まさかこんな日に限って、電車が遅延だなんてあり得る?
 改札口のすぐ向こうの電光掲示板を仰いで、その場にへたりこみそうになった。途中で買った菓子折の入った紙袋をぎゅっと持ち直す。
 目的の電車は、途中の区間で踏切内立ち入りがあったとかで緊急停止中らしい。
 お客様にはすぐに納品に向かうと店長から連絡済みなので、こんなところで足止めを食っている場合じゃないのに。
 迷ったのち改札口を引き返し、私はタクシー乗り場に急いだ。一台だけ停車しているのが見える。助かった……!
 ところが駆け寄ろうとした私は、背後から聞こえる子どもの声に足を止めた。
「ママが遅いから取られちゃったんじゃんー」
 ふり返ると、五歳くらいの男の子が母親だろう女性の手をぐいぐいと引っ張って近づいてくる。
 女性は私と同年代くらいで、大きく膨らんだお腹をさすり肩で息をしている。この暑い中、歩くのもやっとという感じだ。
 私は左右を見回した。
 タクシーはこれ一台きり。ほかに来る様子もない……あああ。私はタクシーからあとずさる。
「…………あのっ、どうぞ。乗ってください」
 やってきた親子に声をかけると、女性が目を丸くした。
「外は暑いですし、早く乗ってください。熱中症になったら大変ですし」
「はやくー、ママびょーいん!」
 男の子が「やったー」と歓声をあげてタクシーに乗りこむ。女性はしばらくためらう様子だったけれど、子どもに急かされると頭を下げてタクシーに乗った。
 あれ、お腹に手を当てる姿が苦しそう……?
「……あの、あとこれ持っててください!」
 私は思いついて、あるものを鞄から取り出す。勢い余って一度落としてしまったのは、金糸で刺繍されたクリーム色の御守。
 瞬間、頭をよぎった未練をふり切って拾いあげ、私はそれを妊婦の手に握らせた。
「合格御守って書いてありますけど、これ最強なんですよ。私もこれのおかげで助かったんです。きっとお母さんと赤ちゃんも守ってくれます! だから……元気な赤ちゃんを産んでくださいね」
 無事に母子が乗ったタクシーが走りだすのを見送り、私はようやくほっと息をついた。って、そんな場合じゃない。
 あらためて周囲を見回すも、タクシーが来る気配はない。
 お詫びにうかがうというのに遅刻なんてしたら目も当てられない。せめて配車アプリを入れておけばよかった!
 こうなったら地下鉄の駅を目指しつつ、タクシー会社に電話して――。
「律」
 足が、止まった。
 低く、すうっと胸の奥に染みこんでくる声。
 うなじの毛がかすかに震える。
 この声は、そっけないようで実はとことん優しい彼の――。
 そう思ったときにはもう、胸が切ない音を鳴らしていた。
「……拓巳」
 皺ひとつないシャツにセンスのよい紺ネクタイ、そして質のよさがうかがえるグレーのスラックスを着こなしてそこにいたのは、私の幼馴染み――久我(くが)拓巳だ。
 心臓が小さく跳ねる。
 ひとつ上の幼馴染みで……高校生のころ付き合っていた、元カレ。
 昔よりさらに背が伸びて、肩の厚みも増した。
 十代のころにあった尖った雰囲気はなりをひそめ、大人の男性らしい落ち着きが備わっている。
 拓巳は懐かしそうに切れ長の目をしばたたかせてから、笑みを深めた。
「やっぱり律だ。こんなところで会うなんて奇遇だな」
「……う、ん」
 何年ぶりかの再会なのに、言葉が見つからない。
 言いたいことは山ほどあるように思う。同時に今となってはもう、なにも彼に言うべきことはない気もする。
 ただ狼狽と混乱、困惑がまざって喉の奥につっかえる。
「あ、えっと……」
「ああ、悪い。仕事中だよな」
 拓巳が、私のライトグレーのスーツ姿に目を走らせる。その言葉で、私もようやくわれに返った。
「そ、そう。急ぎでお客様のところに行かなくちゃならなくて。でも電車は遅延してるし、タクシーは捕まらないしで、ほんとやんなっちゃう」
 つい早口になる自分のダメさ加減に呆れつつも、止まらない。
 思わぬ再会に対する動揺と、なんとか間を持たせようという謎の焦りと、そんなことより仕事に戻らなきゃという義務感で、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「えっと、じゃあ、わたし地下鉄のほうに行くからこれで――」
「急ぐなら乗ってけよ。車、置いてるから」
 拓巳が視線で路肩を指し、私は仰天した。停められていたのは、派手すぎず落ち着きすぎない、絶妙に洒脱な濃紺のセダン。
 海外メーカーのエンブレムは、さらに言えばいわゆる高級ライン限定のものだ。佇まいも洗練されている。
 でもよく考えれば、拓巳が車を運転するのも、その車が庶民には手の届くものではない高級車なのも、驚くことではないのかもしれない。
 拓巳も私も、もう子どもじゃない。
 まして拓巳は久我家の御曹司なんだから。
「場所どこ? ナビ入力して」
 言いながら、拓巳は私がついてくるのを疑う様子もなく歩きだす。
 私はとっさに「でも!」と拓巳を呼び止めた。
「や、いいよ、拓巳だって仕事中だよね?」
「俺は調整可能」
「だけど」
「ここ駐車禁止だから、そろそろ動かさねぇとまずい。早く」
 手首をつかまれ、私は上げかけた声をのみこんだ。
 ぶっきらぼうな口調、少し強引な仕草。
 それでいてたしかな優しさも汲み取ってしまう。意思とは関係なしに胸がきゅうっと締めつけられる。
 ――どうかこの動揺が、拓巳には伝わっていませんように……っ。
 別れて十年も経てば冷静でいられると思ったのに、情けない。
 拓巳に手を引かれて車に向かうあいだ、私はともすれば暴れだしそうになる鼓動を抑えるのに必死だった。


 拓巳がハンドルを握る車は、都会の喧噪はどこへ行ったのかと思うような閑静な住宅街の一角に停まった。
 車がかろうじてすれ違える程度の道幅の両側には、立派な門構えの家が並んでいる。
 警備上の理由なのか、表札のない家ばかりだ。道しるべになる建物も見当たらない。
 ――けっきょく、口を開くきっかけも見つけられなかったな。
 拓巳はたしか、ホテル業とブライダル業を広く展開する『久我リゾート』グループの社長息子で、グループ傘下の企業である『久我フルール』の副社長だったと思う。
 別れてから一度だけ、気になって調べたことがある。
 二十代で副社長なんてずいぶん若いと思ったけれど、業界の性質上そう珍しいことでもないらしい。それに業界紙を読む限り、有能だからこその出世のようだった。
 華々しい肩書きを持つ彼との久々の再会。本来なら、お互いの近況報告に花を咲かせていたはず。だというのに、それがひどく難しかった。
 口を開こうとするたび、十年前に告げられた言葉が脳内に再生される。
 近況を尋ねる言葉は喉につっかえて声にならなかった。
「『目的地周辺です』ってことは、この辺りか。一軒ずつ当たるか?」
 物思いにふけっていた私は、拓巳の言葉にはっとした。
「いいっ。大丈夫。あとは私、歩いて探すから」
「つっても、家と家の距離、けっこう遠くね? 律の足じゃ、すぐへばりそ」
「そ、そんなことないって。ここ一方通行(いっつう)の場所もあるし、車だとかえってやりにくいだろうから。ほんとうにここで大丈夫。すごく助かっ……えっ、あれっ?」
 シートベルトが外れない。え、うそ、なんで。高級車って、シートベルトの外しかたも違うの?
 焦ってシートベルトを強く引っ張る私に、隣から手が伸びた。
「急に引っ張っただろ。ロックかかってる」
「え、あ」
 あのころとは違う、たくましさを増した体が近づいてくる。無意識に息をのんだ。
 昔は毎日のように隣で感じていた香りが懐かしく鼻をかすめて、肩が小さく跳ねる。
 拓巳がゆっくりと私の席のシートベルトを引く。さっき私があれだけ強く引っ張っても外れなかったシートベルトは、あっさりと外れた。
「ロックかかったときは、ゆっくり引けば解除できる」
「そ、そうなんだ。っ、ありがと……客先いってくる」
「ん。あのさ、律――」
「拓巳も仕事中なのにごめんね、ありがと。じゃあ」
 なにか言いかけた拓巳に被せるふうにしてお礼を言い、車を降りる。熱射の中、ドアを閉める音が硬い響きをともなって耳に届く。
 逃げるように駆け出すと、やがて背後で車の発進音がした。
 そのエンジン音が完全に聞こえなくなってから、私はさっき車を降りた辺りをふり返った。
 もうそこに、拓巳はいないとわかっていたけれど。