オオカミくん、落ち着いて! 年下御曹司の終わらない執着愛 2
第二話
ラーメン丼から溢れんばかりのラーメンを、紗英は十分あまりで完食した。
今日も美味しかった、満足感すごい、カロリーは考えない、それと実は一昨日も同じ店で同じものを食べたことは、延には黙っておこうと密かに思う。
食事どうのと俺の世話を焼くくせに、自分は暴飲暴食してんじゃねえか──と文句を言われること請け合いだからだ。反論できそうにもないし。
「すごい。このティント、あんなに飲み食いしたのに落ちてない……」
帰路、助手席で手鏡を覗き込み、紗英は感動していた。化粧直しのときに塗ったルビーレッドのティントリップが、まだ鮮やかに発色している。
流石は天下の王美堂だ。
アジアで最も売れている化粧品メーカーなだけはある。
「だろ。製品開発部の自信作だからな。でも、色の持ちを優先するとどうしても強めの成分になる。唇が荒れるってレビューも散見してるくらいだ。とはいえ、保湿成分に重きを置くと今度は色が長続きしなくなる」
「わかる! 密着度が高いと、乾燥しやすいのよね」
「王美堂は、ブランドイメージを守るために発色重視にせざるを得ない。けど、ストレスフリーな肌への優しさ特化ラインてのもあっていいよな」
二十歳になって、インターンとして働き始めてからの延は、本当に仕事熱心だ。
自社製品に精通しているのはもちろん、競合他社のリサーチも欠かさないし、最近では最新のメイクグッズなどにもアンテナを伸ばしている。
小学生の頃、さんざん悪ぶって両親に反発していたのが嘘のよう。将来はきっと、いい経営者になると思う。大成功の暁には、いずれビジネス雑誌か何かの取材を受けて、恩師として紗英の名を挙げてくれたり──は、期待のしすぎか。
「あ、クソ」
するとしばらく行ったところで、延が苦々しそうに舌打をする。
「どうしたの?」
「やっちまった。春の新作、自宅に用意してあったのに置いてきた……」
春の新作、というのは王美堂の製品のことだろう。
最初に化粧品一式をプレゼントされたのは、家庭教師として初めて相賀美家を訪れた日だ。延の母親が、授業のあと(背負い投げで延を黙らせたにもかかわらず)に「息子が申し訳ありません」と持たせてくれた。
当初はそれだけだった。
毎シーズン、新作をもらうようになったのは、紗英がメイク動画を公開し始めてからだ。わざわざ買うくらいならやるよ、とのことで、両親にも許可を取ったうえで、延が紗英に似合いそうな色を見繕っては届けに来てくれる。
ありがたいことだ。
そんなわけで、紗英は王美堂とビジネスの関係にあるとかではない。スポンサー契約はしていないし、マーケティングに参加したこともない。
延から受け取ったコスメに関して、レビューは正直に公開している。
そう、自費で購入しているほかのコスメと同様に。
企業の思惑通りに記事を書くのはPRになるが、自由に感想を発信するぶんには、その範疇ではない。いわゆるステマにもあたらないよう、細心の注意を払っている。
「じゃあ、先に紗英をアパートまで送る」
アクセルを踏み込みつつ、延は言う。
「先にって?」
「新作は、玄関前に届けておく。チャイムは鳴らすけど、おまえ、風呂入ったりするだろ。直接受け取らなくてもいいから」
「ちょ、ちょっと待って。これから、うちと延のマンションを往復する気なの?」
「なんか文句あんのかよ」
「文句も何も、そこまでしなくていいわ。一時間近く掛かっちゃうじゃない。化粧品なら腐るものじゃなし、また次に会ったときにでも渡してもらえない?」
「腐りはしなくても、旬ではなくなるだろ。おまえ、こないだの動画でドラコスの春の新色をずらっと並べてたじゃん。次はデパコスでやるんだろ、それ」
お察しの通りだ。
金銭なんて一切絡んでいないのに、なんという細やかな気遣いだろう。
延がそこまで気にしなくても、とは、喉もとまで出掛かったが言わずにおいた。せっかく用意してくれたものを、これ以上、遠慮するのも申し訳ない。
「……わかった。じゃあ、延のマンションに先に寄りましょ。往復するより早いはずよ。わたし明日は休みだし、遅くなっても全然平気だから」
直後、進路を変えた車に揺られ、紗英は密かにため息をつく。
(ほんと、口は悪いくせに人がいいのよね、延は)
二十歳の学生なんて、世間一般では遊びたい盛りだろうに。紗英だってその頃──大学在学中は、しょっちゅう友達と集まって呑み歩いていた。
とくに延は、ただでさえ学業にインターンにと忙しい。プライベートの時間は、とても貴重なものなのだ。それなのに。
しかし延は、中学、高校時代もこんなふうだった。
時間さえあれば、紗英を訪ねてくる。空いた時間はすべて、紗英のために使おうとする。だからモテるはずなのに、延が恋人を作った、という話は聞いたことがない。
そろそろ家庭教師離れしたら? と言ったことが何度かある。
毎回、おまえはもう家庭教師じゃねえだろ、と返される。
だったら姉離れでもいいわよ。このままじゃ寂しい青春時代になっちゃうわよ。そうだ、マッチングアプリとかやってみたら? うっせ、おまえ、姉でもねえじゃん。じゃあ近所のお姉さんにしとく? どこが近所なんだよ。俺はな、姉でもご近所でもなく、紗英のこと……。ちょっと延、揚げ足取りはそれくらいにしなさいよ。揚げ足なんか取ってねーよ。クソ、この鈍感年増女!
なんていう具合に、言い合いになること数十回。
(いい加減、潮時だと思うのよね)
ここ数年は、ずっと考えていた。そろそろ手を離さなければと。
大学を卒業すれば、延は社会人だ。
それも、一般的な社会人じゃない。
いずれ王美堂を背負って立つ者として、なすべきことが山ほどある。そしてそれは何ひとつ、紗英からは教えてあげられない。もともと住む世界が違うのだ。
少年の頃から成長を見守ってきた延が、遠い人になってしまうのは寂しいが──。
これ以上、延の大事な時間を奪うわけにはいかない。
「どうぞ、上がれよ」
延のマンションに着くと、紗英は車を降りて最上階までお伴した。
本当は部屋に上がるつもりはなかったのだが、そうしなければ延は紗英を待たせまいと、部屋まで走って往復しかねない勢いだった。
「ここ、お邪魔するの初めてよね。失礼しまーす」
廊下の左右には、開け放たれた扉がいくつか並んでいる。
寝室と、客間と、洗面所……間取りは2LDKといったところ。どの部屋も極端に物が少なく、かつ掃除が行き届いていて売物件のよう。
いくらなんでも綺麗すぎるから、家政婦でも出入りしているのかもしれない。
「案外、ちゃんとしてるのね」
「案外は余計だ、案外は」
「だって、実家にいた頃は散らかし放題だったじゃない。お手伝いさんの掃除が間に合わないくらいに。とくに大学受験の追い込みのときとか、お母さまからヘルプに呼ばれて行ったら、足の踏み場がなくてびっくりしたわ」
「あれは受験前だったからだよ。紗英、コーヒーでいいか?」
「淹れなくていいわよ。目的さえ果たしたら、すぐに帰るし」
そう言ったのに、延はキッチンにたどり着くと、さっさとコーヒーメーカーをセットしてしまう。これで最低十五分は滞在しなければならなくなった。
もう、と小さくため息。
早く紗英を送り届けて、早く休めばいいのに。とは、また言い合いになってしまいそうだから言わないでおく。もう二十二時だ。騒いだら近所迷惑だろう。
だだっ広いリビングダイニングへ行き、ベランダに続く掃き出し窓を覗く。
見事な夜景が、まるで果てなんてないみたいに広がっている。
大小、角度もそれぞれ異なるビル群は、子供が雑に並べた積み木のようだ。屋上に灯る赤いランプが、近く、遠く、またたいて遠近感を狂わせる。
「ね、ひとり暮らし、慣れた?」
コーヒーメーカーのゴボゴボという音を聞きながら、背中で問う。延はキッチンに立ったまま「まあな」と答える。
「慣れたっつーか、なんつーか。ここに戻るのは、寝るときくらいだし」
「ええ? 食事は? 勉強は、どこでしてるの?」
「メシはたいがい外。時々は、実家に顔を出して食ってる。勉強は会社の休憩室か、大学近くのカフェか、学食か……自炊もしたいけど、時間がなくてさ」
「大変じゃない。実家、戻ったほうがいいんじゃない?」
世話を焼きすぎかと思いつつも、言わずにはいられなかった。このマンションは駅直結で交通の便はいいけれど延がもともと暮らしていた実家のほうが、大学にも本社にも近い。
「戻らねーよ」
しかし、延はボソボソ言う。
「実家暮らしじゃ、小学生の頃から進歩ないみたいに見えるだろうが」
「え?」
「なんでもねえし。ほら、これ」
歩み寄ってくるのが窓に反射して見えて、振り返る。差し出されているのは、王美堂のロゴマークがサイドにプリントされた、長方形の小ぶりな紙袋だった。
「ありがと」
受け取って中を覗けば、底のほうに箱がいくつか収まっている。クッションファンデーションの新しいコンパクトと、アイカラー、チークにリップ。
「次の動画で使うわ。新色、楽しみっ」
「おう」
部屋には、コーヒーのいい匂いが充満している。紗英がいつも自宅で飲む、インスタントコーヒーとは明らかに違う。芳醇で、品のいい香りだ。
延はキッチンへ引き返し、冷蔵庫を開けたり、戸棚を覗いたりしていた。お茶請けなんもねーな、とか言いながら。
「……あのさ、延」
「ん?」
言おうか、どうしようか。
呼び掛けてから数秒迷ったものの、思い切って告げた。
「こういうの、もう、やめにしない?」
手に持った紙袋を一旦、足もとに置く。なりゆきでここまで来てしまったけれど、考えてみればこんなふうに改まって話せる機会は、そうそうない。
今夜を区切りにさせてもらおう。
どこかでけじめをつけなければ、いつまで経っても先へ進めない。
「やめるって、何をだよ」
「化粧品を分けてもらうのも、こうやってふたりでつるむのも。わたしたち、別に血の繋がりがあるわけでも、気の合う友達ってわけでもないでしょ? ただの、元家庭教師と教え子ってだけ。ましてや、利益が絡んでるってこともないんだし」
数歩前で、延がゆるりと振り向く。
「それ、マジで言ってる?」
「マジも何も、大真面目よ。ご両親にも伝えてもらえないかな。今までたくさんいただいてしまってすみませんでしたって。これからは、ちゃんとカウンターで買いますって。わたしね、動画でもそこそこ稼げるようになってきたし、ちゃんとしたいのよ」
「これっきり、俺と縁を切ろうってのか」
「縁を切るって、そんなに大袈裟なことじゃないの。たまに電話したり、メールを送り合ったりするのはいいと思う。でも、これまでみたいに二週間と置かずに顔を合わせたり、しょっちゅう車に乗せてもらうのは、どうかなあって」
「……もしかして、男でもできたのか」
「なんでそうなるの。見ればわかるでしょ。この通り、おひとりさまも堂に入ってきた今日この頃よ。まず出会いがないんだから、相手がいるわけないじゃない」
どうしてこんなことを夜分に力説しなければならないのか。
急激に虚しくなってくる。いっそ、嘘でも結婚を考えているとか言えばよかった。
(まさかこんなに食い下がられるとは……ううん、わからないこともないけど)
家庭教師として出会ったばかりの頃──。
彼の両親は揃って忙しく、延の側にはSPと数人の家政婦しかいなかった。
全員、優秀すぎるほど優秀な人たちだ。顔を合わせるたび、その手際のよさに感服させられたほど。けれどプロフェッショナルであるがゆえに、彼らはきっちりと、己が仕事だけを機械的に全うしているように、紗英には見えて……。
延はひとり、蚊帳の外という印象だった。
誰とも、心の通わない場所にいた。
紗英とは、例の事件含め、すったもんだがあったからこそ分かり合えたのだ。理解者を失うような、避難先が遠ざかるような、そんな気持ちなのだと思う。
「だったら、なんで俺から離れていこうとするんだよ」
「なんでって、そりゃ、だって、延は天下の王美堂を背負っていく人でしょ」
「そんなの関係ねえだろ」
「関係ないわけないじゃない。延には、立場に見合った立派な人になってもらいたいのよ。時間は有限なんだから、こうやって無駄に使うんじゃなくて、もっと……」
「時間を無駄にはしていない。そのために早期インターンを希望したんだ」
「だからこそよ。毎日忙しいのに、わたしのことまで気に掛けなくていいの。ちゃんと息抜きして、自分を大事にして、それで将来のために本当に必要なことを」
「将来のことなら考えてる。おまえに心配されなくても大丈夫だ」
それは、まだ本格的に社会に出ていないから言えるのだと紗英は思う。組織に属することと、組織を率いることは明確に違う。責任の大きさも、負い方も違う。
それなりの立場の人と交わったほうが、延のためになる。ましてや延は、早々に周囲を追い越して出世するのだろうし、無駄にできる時間なんてない。
(頑張ってるのはわかるのよ。わかるからこそ……)
足を引っ張りたくないのだ、紗英は。
頭を一気に回転させ、どう説得すべきか考える。そしてひとつ、思いついた。
「あ、あのね。実は、オファーをもらったの」
「オファー?」
「そう。外資系の、ロゴを組み合わせた丸いマークのブランドあるでしょ。そこから出してるメイクアップラインのね、美容部員の講師になってもらえないかって。専属契約となると、ほかのメーカーの化粧品を公に使うのはNGじゃない?」
「したのか、専属契約」
問う顔からは、血の気が引いている。この世の終わりだとでも言いたげだ。
そこまでショックを受けることだろうか。とは思いつつも、これまで無償提供を受けていた身で突然他社と組もうと言うのだから、道理にかなわぬのは紗英のほうだ。
「ええと、その、まだ、はっきり決まったわけじゃないのよ」
「まだサインはしていないんだな?」
「うん」
「だったら、俺だって次のプレゼ──」
「でもね、ローンチパーティーには行くつもりなの。ちゃんと、前向きに考えようって思ってるの。ほら、講師となると、たくさんの生徒を前にしなきゃならないじゃない? 十年前はできなかったけど、今なら」
今なら、できるかもしれないし。
いや、できなければならないのだ。十年も経ったのだから、いい加減に。
「ちゃんと乗り越えたところを、延にも見てほしいって思う」
「……」
「それに、ほら! パーティーなんて出会いの宝庫でしょ? セレブもたくさんいるだろうし、ふふ、アラブの王族に見初められちゃったりして……」
茶化したのは、延が暗い顔をしたままだったからだ。どうにかして、笑ってもらいたかった。が、延は大股で歩み寄ってくる。突然、腕を掴まれた。
両方の二の腕を左右から、体ごとしっかりと捕まえるように。
「言うな」
低い声にどきっとして見上げれば、切なげな瞳が紗英を映して揺れていた。
「それ以上、言うな。なんなんだよ、おまえ。わざとやってんのかよ」
「え……延?」
「知ってるか? ルージュってのは一説によると、悪魔除けが起源らしい。その赤さで、魔物が体に取り憑くのを避けようとしたわけだ。でも俺には、時々、おまえの唇そのものが悪魔にしか思えないことがある」
何を言っているのだろう。紗英にはさっぱり理解できなかった。けれど延の表情はみるみる苦悶に、やるせなさそうに歪んでいく。
こんな顔を見るのは、十年ぶりだ。
あの事件のときも、手負いの紗英を見下ろして、延のほうが苦しそうだった。
原因は、紗英だろうか。いや、そうとしか考えられない。どうにかしてやりたいのに、皆目見当がつかない。そうして狼狽えていると、視界にふっと影がさした。
直後、焦点より近くに、延の顔。ぼやけていても、際立つ眼光。と、油断し切っていた唇が、かさついた体温に覆われて──。
キス。
悟っても、動けなかった。
信じられなかった。現実とは、思えなかった。だって。
「……いい加減、気付けよ」
掠れた涙声のあと、重ね直される唇。
舌を押し込まれて反射的に顎を引いたが、逃げられなかった。噛み付くように口づけられ、強引に顎を浮かされる。後退しようとしても、動けたのは半歩だけ。
後頭部に手を添えられ、口内へ攻め込まれる。
頭がちっとも追いつかなくて、眩暈がする。
必死になって抵抗したはずだ。
担がれて寝室へ運ばれる間も、ダウンコートやニット、デニムパンツを脱がされているときも、下着を剥ぎ取られたときだって、決して手加減していたわけじゃない。何度か横っ面を叩いてやろうとしたし、鳩尾を狙い、膝蹴りを入れようともした。
けれど、敵わなかった。受け身を取ることも許されなかった。
「や、え、延っ……こら、イタズラもいい加減に……っ」
剥き出しの乳房を左腕で庇い、右手で目の前の肩を叩く。掌で、それから拳でも。
力いっぱい打ったつもりだが、延はびくともしなかった。それどころか、スーツのジャケット越しにしっかりした筋肉を感じて、かえって困惑させられてしまう。
「この期に及んで、まだそんなふうに言うのかよ」
「だって、こんなの、なんの冗談──」
「おまえさ、イタズラとか冗談でこうなると思ってんの」
右手を掴まれ、導かれたのは延の脚の付け根だ。
みっちりと張り詰めたものが、手の甲にグッとあてがわれてぎくりとする。慌てて手を引っ込めたが、心臓が壊れそうだった。
「予想もしてなかったって顔だな。でも、悪い。俺は男だから」
「お、とこ」
「そう」
ドクン、ドクン、と耳もとでうるさいくらいに脈が打つ。
「現実を直視しろよ、紗英」
両手を捕まえられ、咄嗟に振り解こうとしたが、あっけなく体の左右に退かされた。
隠せなくなった両胸は、体の上でふるんと無防備に揺れる。
「な、何すんの……っ」
全身で抗ってみたものの、形勢は覆らなかった。
十年前なら、簡単に投げ飛ばしてしまえた。あるいは寝技に持ち込んで、参ったと言わせるのも容易かった。柔道を辞めて十年、ブランクがあるとはいえ技を忘れたわけじゃない。倉庫の仕事で、筋力も維持してきた。
それなのにどうして、敵わない?
「……離しなさい!」
認めたくなくて声を荒らげれば、両腕を掴む手に力がこもった。
「そうかよ。そんなに、わからせてほしいのかよ」
逃げ出すこともできないまま、左胸にかぶりつかれた。
やんわりと食い込む前歯に、思わず震える。みるみる肌を這う生温かさに、上げそうになる声を必死で噛み殺す。甘い声なんて、絶対に漏らすわけにはいかない。
考えただけで、後ろめたくて消えたくなる。
「ふ……っ」
先端を舐められても、膨らみに頬ずりをされても、我慢した。
無反応でいれば、つまらなくなって放り出されるはずだ。そう思った。
しかし延は離れない。むしろ意地でも声を上げさせてやるとばかりに、じゅうじゅうと音を立てて胸全体をむしゃぶり尽くす。
(どこで覚えたのよ、こんなこと)
情熱を塊のままぶつけるような愛撫は、荒っぽいのに、いい加減ではない。身じろぎひとつせずやり過ごすつもりでも、腰が浮いてしまう。
盛んに捏ねられた胸は張り始め、吸われた先端が硬く立ち上がる。
それでも唇を引き結んで耐えていたら、おもむろに秘所を撫でられた。
「っ……!」
ビクッとそり返る背中。いけない、と急激に危機感が増す。
そこはだめだ。慌てて太ももを閉じ、寝返りを打って逃げようとする。
またも阻まれるかと思いきや、ころりと左に転がされた。うつ伏せの体勢になった途端、膝の間に入り込まれて、さっと血の気が引く。
失敗した。
今度こそ、逃げ場がない。
柔道なら身を固くして石になるところだけれど、この状況でそれは悪手だ。枕もとにも余裕がないから、上に体をずらすこともできない。
「そろそろ気が済んだでしょ? ね、終わりにしよう?」
ダメもとで、説得を試みる。これ以上、打てる手は思いつかなかった。
「ねえってば」
返答はない。
代わりに聞こえてきたのは、バサバサと服を脱ぎ捨てる音──続けて、ふたたび後ろから脚の付け根を探られる。とろりとぬめる感触に、ショックで呼吸が浅くなる。
「おまえだって、まんざらでもないくせに」
「ち、がう」
違う、違う、違う。
そんなわけがない。認めちゃいけない。
「へえ。これの、どこが?」
しかし延は現実を突き付けるように、紗英の目の前にずいと片手を差し出した。
濡れた指先。掬い取った液を糸を引くようにされ、恥辱にカッと全身が熱くなる。
「感じてんじゃん、こんなにも」
「そんなこと……っ」
そんなことない、と言いたいのに舌がもつれて言い切れなかった。
しっかりしろ。流されたらだめだ。思えば思うほど焦る紗英を、延はまるで愛でるようにクスリと笑う。そしてこれ見よがしに、濡れた指先を舐めて見せた。
(いやだ。こんなの、延じゃない……!)
紗英の知っている延は、無愛想で口が悪くて、しかし人が良くて割と素直で、そしてまだ幼いところの残った青年だ。恋愛にも疎くて、というよりさっぱり興味などなさそうで、だからこういうこととは無縁だとばかり。
今、目の前にいるのは誰? こんな男、知らない。
どう抗ったらいいのかわからなくなって、紗英はシーツにしがみつく。毛皮を刈られた小動物にでもなった気分だ。好都合とばかりに、延はまたもや秘部を撫でる。
「……ふ、ぅ」
滲んだ蜜を塗り広げる指は、明らかに慣れていない。恐らく、初めてなのだ。探り探り、膣口をまさぐる。試すように、浅く入り込んでくる。遠慮がちな愛撫に、もしかしたらこれで見逃してもらえるかもしれない、などと甘い考えが浮かんだときだ。
ぐっと、二本の指を押し込まれた。
突然増した圧迫感に、喉がヒュッと鳴る。
痛かったわけじゃない。濡れてはいたから、引っ掛かりもなかった。
だが想定外の異物感に、驚いて息もできなくなる。
そう──そうだ、セックスって、こんなふうだった。襞をゆるゆると撫でられながら、思い出す。最後にしたのは確か、大学生の頃。額に怪我をするまで付き合っていた相手と。だからもう、十年ぶりになる。
眠っていた感覚を、叩き起こされているようで、眩暈がする。
「ああ、ここって、こうなんだな。これが、紗英の中……」
「ァ……もう、やめ、て」
「やめない。聞こえるだろ? 中はこんなに、従順に蕩けてる」
差し込んだ指を動かされると、湿った音が背後から聞こえた。
じゅぶじゅぶと淫らに、鼓膜まで官能に侵されていく。たまらなくなって、思わず耳を塞ぐ──すぐに塞いでいられなくなったが。
「あ……!」
茂みを掻き分けられ、割れ目の中を探られたからだ。
かろうじて隠れていた過敏な突起を、戒めのようにつままれて呼吸が浅くなる。
「や」
やだ、と言いたかったのに、高く喘いでいた。久々の快感だ。知っているはずなのに、初めてのように新鮮で、圧倒的で、ただ巻き込まれる。
「そうか。ここ、好きなんだな」
延はすっかり、のめり込んでしまったようだ。夢中になって、花弁の中の粒を転がす。撫でてはつまみ、つまんでは撫でて、執拗にそこばかりを刺激してくる。
そう、中指と薬指を膣内に収めたまま。
人差し指と親指で、繰り返し、器用に。
「う……ぁ、い、いやだ、延……っ」
「泣き声みたいだ。すげえ……そそる」
泣きたいくらいだ。感じたくなくても、強引に感じさせられてしまう。
痛め付けられて喜ぶ趣味なんてない。それなのに、蜜道の中の指をぐちぐちと揺らされ、割れ目の粒をしごかれ、混乱した状態で訳もわからず昂っていく。
「ァ、っあ、アっ、あ……っ」
「すげ……、中、めちゃくちゃにうねって、欲しそうに絡み付いて……もしかして、おまえ……イきそう、ってやつなのか」
図星だ。いや、認めたくない。
シーツに爪を立て、紗英は必死でかぶりを振る。
「っは、ぁっ、ん、だ……めぇ」
「だめ? どこがだよ。こんなにヒクヒク、俺の指、引き留めてるくせに」
「そ、んなことないっ、やだ、あ、んぁっ、は、なして、よ……ぉっ」
脚の付け根がジンジンする。しつこく弄り回されている場所だけじゃない。下腹部全体が、熱を持って腫れていく感じがする。このままでは、破裂してしまう。
「っふ、ァ、あっ、せめて、ゆび、止めて、え」
苦し紛れに、壁によじ登る格好で逃げようとしたが、遅かった。
頑なな意思に反し、内襞がキュウっと縮む。溜まりに溜まった悦が、ぶちまけられる予感。軽い浮遊感を覚えたら、覚悟を決めざるを得なくなる。
イく。弾けてしまう。
「ンあっ、あ、ぁ、あ──!」
ビク! と跳ね上がる腰。続けてへこへこと下半身を揺らしながら、紗英は拳を握り締める。悔しい。情けない。なのに、きちんと気持ちいい。
(わたしの愚か者……っ)
どうして我慢しきれなかったのか。
こんなにあっけなくイかされて、快感に悶えるさまを晒してどうする。
でも、いい。悲しいかな、腰から下が蜜にひたされているみたいだ。はあっ、とシーツに顔を埋めて甘い息を吐けば、尾てい骨の上に何かがずしりとのせられた。
いきり立ち、容量をオーバーするくらいに怒張した、脈打つもの。
これは。
「っ、ひ」
絶対にいけない。取り返しがつかなくなる。
体を丸めて逃げようとしたが、肩を掴まれ引っ張り戻された。開きっぱなしの脚の付け根に、丸い先端を押し当てられる。
「やめて、延……っ」
後ろ手に押し返そうとしても、びくともしない。
蜜口を容易く割って、それはついに入り込んできた。
「……やめてってば、っもぅ! 馬鹿ぁ、あっ」
「馬鹿で結構。子供扱いされるより、ずっとずっとマシなんだよ。ッく、狭……、いつぶりだ、これ。セカンドバージンってやつか、もしかして」
「ひっ……ぅ、うるさい、抜きなさ……っア、やぁ、あ……っ」
みるみる埋め込まれてゆく、沈み込んで来る。奥へ奥へと、侵される。
(奥、届いちゃう……だめ、だめなのに……っ)
腰の近くまで痺れが昇ってくるほどの、強烈で官能的な圧迫感だった。ゾクゾクっと背中を反らせた瞬間、それは最深部に到達する。
ああ、越えてしまった。越えてはならない一線を──越えてしまった。
「は……っ」
延はまだ腰を止めない。ねじ込むようにして、根もとまで咥えさせられる。最奥をぐりぐりと撫でられると、軽く弾けたのか、全身が恍惚とした。
こんなにいいのは初めてかもしれない。
隅々まで押し広げられた襞が、歓喜に震えている。
いっぽう、延は固まっていた。紗英の行き止まりを押し上げたきり、じっとしている。眉根を寄せた表情に余裕はなく、動いたらおしまいだ、とでも言いたげだ。
それでも苦しそうな声で「大丈夫か」と気遣わしげに問うてくる。
「苦しく……ないか」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
あまりの快感に頭がぼんやりして、考えられなかったのだ。くるしくないか……くるしく……べつに、そんなことはない。
蕩けた顔でゆるゆると、かぶりを振る。
「……動くからな。辛かったら、言えよ」
優しい声と一緒に、頬に口づけが降ってきた。続けて肩にも、背中にも。慈しむようなキスの雨に、紗英はもはや肩をぴくりと跳ねさせるばかり。
ベッドが軋み始めると、シーツにしがみつく気力もなく、ひたすら喘いだ。己の意思の届かない体を投げ出して、なすがままに揺さぶられ続ける。
肩越しに視界に映る延は、悲しいかな「男」だ。
こんな男は知らない。知らない──はずだ。それなのにその瞳だけは十年前、路地裏で見上げていたときと同じ。今にも泣き出しそうな少年に見えた。