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オオカミくん、落ち着いて! 年下御曹司の終わらない執着愛 1

第一話

 危機感が働くうちは、まだ深刻じゃないと紗英は思う。
 十九年と約半年の人生、たいがいのことはそうして乗り越えてきた。
 父と母が同時期にリストラされたときも、家族旅行中に自宅が全焼した日も、柔道の練習中に両腕を同時骨折したときだって、結局はなんとかなったのだ。
「ほら、泣かないの。わたしなら大丈夫だから」
「けど、さ、紗英(さえ)、血が……っ」
「平気だってば。死ぬ以外はかすり傷だって、いつも言ってるでしょ。もうっ、いつもの悪ガキぶりはどこに行っちゃったのよ。調子、狂うじゃない」
 涙ぐむ少年の頭を、ぽんぽんと撫でてやる。
 そう、大丈夫。意識もあるし、命に関わるほどではない、と紗英は思う。
 しかし、左の額がとにかく痛かった。ズキズキと脈打って、そこが膨張していくかのよう。溢れた血液が顔半分を伝い、ぼたぼたと胸に滴るのが煩わしい。
(なんだか、寒くなってきた……)
 日当たりが悪い所為だろうか。
 ビルとビルの隙間、一メートルあるかないかといった空間は、壁もコンクリートの地面も、もれなく煤けてダウンタウンといったふう。排気ガス臭い風が、しゃがみ込んでいる紗英を押し流そうとするように吹き抜けていく。
「……苦労するわね、延(えん)。お金持ちの家に生まれたってだけなのに、こんな」
 こんな危険が付き纏うなんて。
 延を──この小柄な十歳の少年を、紗英が発見したのは十五分前のことだ。目出し帽を被った男たちに取り囲まれ、黒いワゴン車に連れ込まれそうになっていた。
 誘拐だ。
 連れ去られるわけにはいかないと、すぐさま立ちはだかった。
 なにしろ紗英は延の家庭教師だ。幸い柔道は黒帯だし、腕にも少々覚えがある。
 だが怯えた延を庇いながらの立ち回りに手こずり、気付けば額が割れていた。
 延のSPが駆けつけて来なかったら、今頃、どうなっていたかわからない。
「これに懲りたら、二度とSPさんから離れるんじゃないわよ。いくら、わたしの授業をサボりたくてもね。わかった?」
 路地の先には、体格のいい男が立っている。件の、延のSPだ。先ほど、通報しているのが聞こえたから、救急も警察も間もなくやってくるはずだ。
「わ、わかった。もうしない」
「そう。反省できたなら、いいのよ」
 答えたところで、息が上がっていることに気付かされた。呼吸をするたび、肩が上下する。苦しい。ようやく、ほんの少し、まずいかもしれないと思う。
 錯覚だろうか。
 延の顔が、ぼんやりと犬に見えてくる。毛が長くてシュッとした、大型の、そう、シェルティだったかコリーだったか。そっくりだ。お手。
「──え、紗英っ、聞こえてるかっ」
「ん……? あれ、わたし、ちょっと寝てた?」
「寝るな。寝たら死ぬぞっ」
「いや、それ、ちょっと違……うような、違くないような……へへっ」
「やべえ、笑ってやがる……そうだ、心臓マッサージ。俺の、友達の親戚が動画で観たって。なんとなくイヤホン越しに聞いたから、俺、じゃっかんわかる!」
「トドメ刺す気!?」
 勢いつけてツッコんだ直後、くらっとする。貧血かもしれない。目の前に、チカチカした小さな光が舞っている。どうしてだろう、視界がうっすらと暗い。
 すると遠くから、サイレンの音が聞こえた。近づいてくる。救急車だ。
 ああ、これでひとまず安心──ほっとした瞬間、脱力して崩れ落ちる。ついに地べたに仰向けで転がった途端、真上から生温かい水滴がバラバラ降ってきた。
「ごめん……ごめんな、紗英……っ」
 俺の所為で。
 そう言われそうだったから、紗英は手探りで延の手を掴んだ。
「いいってば、もう」
 指先に痺れを感じるのは、気の所為だということにしておこう。
 ゆっくりと瞬きし、紗英は「ねえ、延」と柔らかく言う。
「家に帰ったら、お父さんとお母さんに思いっきり甘えて。あったかいお風呂にゆっくり浸かって、ふかふかの羽根布団で……朝まで眠るのよ」
「は……? おまえ、何言っ……」
「悪いのは、あいつらよ。非力な小学生を、誘拐しようとした奴ら。延はちっとも悪くない。だから、負い目に思わないで。自分を、絶対に、責めないで」
 直後、聞こえていたサイレンが止まる。ほど近い場所に、パトカーと救急車がやってきたのだ。それなのに、けたたましさはまるでなかった。
 耳に袋でも被せたみたいだ。あれだけ煩わしかった風の音も、SPが救急隊員たちを路地に招き入れている声も、延のしゃくり上げる声も、ずいぶん遠い。
「……大丈夫。わたしなら、絶対に大丈夫だからね」
 そんなに泣かないで。そう、声に出せたかどうかはわからない。
 しかし小刻みに震える小さな手は、ぎゅうっと紗英の手を握り返した。わかった、と言われたような気がした。よかった。自然と口角が上がる。
(やっぱ駄目かも。人生、ここで終了かも……)
 途端、暗転した意識は深く深く落ちていく。

 

「あれ? わたしもしかして十四連勤じゃない? いつもより元気だから気付かなかった。いやー、人間ってほんと、あんがい頑丈にできてるもんよね」
「それ、小咲(こさき)係長だからなんじゃ……」
 苦笑した女性──パート従業員の六十歳──が段ボールを折り畳んで片付ければ、本日の勤務は終了だ。出荷ラッシュを終えた倉庫内は、すかすか、とは言わないまでもやけに風通しがよくて、気分までなんだかすっきりする。
 あれから十年、小咲紗英は気付けば二十九になっていた。
「さて、定時です。みなさん、お疲れさまでした!」
 作業を終えた部下たちに、順に声を掛けていく。
「休憩室にどら焼きがあるので、よかったら一個ずつ持って帰ってくださいね」
「どら焼きって、もしかして、係長のお祖父さまのお店のですか」
「ええ。大口予約がキャンセルになって、余っちゃったらしくて。ゆうべ突然、アパートに大量に置いていかれちゃったんですよ」
「やった、嬉しい! 『くすのき』のどら焼きと言えばふわふわしっとり、並ばないと買えない逸品じゃないですか!!」
 かもめのようにきゃあきゃあ言いながら去る集団を見送ると、紗英は白いヘルメットを脱ぎつつ、事務所へと引き返した。二月半ばの曇り空、西のほうはうっすらと茜色だ。作業用ジャンパーの襟もとから入り込む空気が、ひときわ冷たい。
(係長、かあ。いまだに慣れないな、その呼び方)
 物流会社の倉庫で働き始めたのは、七年前だ。
 この近くに住む母方の祖父宅のポストに、求人広告が入っていたのがきっかけ。当時の紗英は夢を失い、大学を辞め、なんとなく祖父の仕事を手伝っている身だった。
 ちょうど、そろそろ定職に就かねばと思っていたから、タイミングがよかった。体を動かすのは楽しいし、人間関係も良好だし、今では天職だと感じている。
「小咲、戻りましたーっ」
「おう、お疲れ」
 事務所で迎えてくれるのは、年配の男性上司たちだ。
「どら焼き、美味しかったよ。みんなでさっき、お茶請けにいただいたんだ」
「ありがとうございます、部長。消費していただけて助かります。わたし、ゆうべのうちに八個も食べちゃって、流石に食傷気味でして」
「八個! いつもながら気持ちのいい食べっぷりだなあ」
「あははっ。いつ地球が滅亡してもいいように生きてるんで!」
 気取る必要がないのは、単純にありがたい。
 伸び切った髪を引っ詰めにしていても、汗っぽくても、私服がダサくても、誰も気に留めない。現場のパート従業員だってそうだ。女性ばかりだが、ヘルメットを被っているから、誰ひとりとして知らないはず。
 紗英の額に、はっきりと目立つ傷跡があること──。
 日報を記入し、メールチェックをして、夜勤の従業員に引き継ぎをしたら、やっと紗英の仕事は終わる。更衣室へ行き、ロッカーを開けて鏡を覗く。
「うわあ、どろっどろ……」
 一日の重労働を終えた顔はテカテカで、メイクがすっかり崩れている。
 汗で張り付いた前髪を退かすと、朝、コンシーラーで隠したはずの傷跡がうっすらと見え始めていた。縦に赤っぽく主張したそれは、十年前の。
 延を庇って誘拐未遂犯と戦ったときにできたものにほかならない。
(わたしは正直、気にならないんだけどね。目にした人を狼狽えさせるのは申し訳ないし、前に、ちっちゃい子に泣かれたこともあるし)
 ひとつ唸って、紗英は鞄から美容液のミストを取り出す。それを額全体に振って、ティッシュで軽く押さえ、コンシーラーを指に取ってからトントン塗る。
 傷口を隠すメイクは、紗英の得意中の得意だ。
 前述の流れでメイクを始めたら楽しくて、ハマりにハマった。出勤日の朝は忙しいから簡単に済ませてしまうのだが、休日は何時間も掛けて顔を作ったりもする。
 もともと凝り性で、沼に落ちやすい性格なのだ。
 メイクについて研究し、コスメを集めに集めること、数年。
 やがて誰かと情報共有したくなり、SNSを始めたところ、傷跡を隠す『難隠しメイク』の動画が見事にバズった。今では、ちょっとした副収入を得る身──。
 いや、これからはメイクが本職になるかもしれない。
(ふふ。なにせ、来てしまったのだからね)
 SNSを通して、某外資系コスメブランドから、うちと専属契約しませんか、美容部員たちの講師になっていただけませんか、との誘いが。
 単なる商品PRの仕事ならば片っ端から断っているのだが(公正公平にコスメの品質をレポートしたいから)、講師となれば話は別だ。
 一度、話を聞いてみたい。
 新作のローンチパーティーにも招待されていて、楽しみな今日この頃なのだ。
「お先に失礼します!」
 ヘアゴム跡のある長い髪を靡かせ、守衛に会釈をして門を出る。くたびれたデニムが一気に冷え、下半身から体温を持っていかれた。思わず、ブルッと身震いをする。
 倉庫を出たときの茜色はどこへやら、あたりはすっかり暗くなっていた。
 塾帰りと思しき、小学生の集団とすれ違う。忙しそうに、駆け抜けていく。先生がさ、などと話す声が聞こえて、いいなあとしみじみ思った。
 何を隠そう紗英は、十年前まで小学校教諭を目指していたのだ。
「──おい!」
 すると、車道のほうから声がする。
「おいこら、そこの年増っ」
 誰に呼びかけているのだろう。いや、ひょっとして。
 振り向いてなるものかと咄嗟に思ったのは、若干ハスキーなその声に聞き覚えがあったからだ。絶対に立ち止まってやらない。そんなの、年増を認めたことになる。
 声を無視して、大股でずんずん進む。
 すると向かって右方向、沿道に一台の乗用車が滑り込んできた。日本国内ではあまり見かけない、米国産の電気自動車……最新型だ。やはり、と思ったときには、運転席の窓から覗く若い男と目が合っていた。
 延だ。
「今、帰りだろ。アパートまで送ってやるよ」
「……それ、わたしに言ってるんじゃないよね。さっき、年増って言ったものね」
「なんだ。聞こえてたならすぐに振り向けよ」
「まったく失礼なんだから!」
「図星だろ」
 綺麗な顔で、得意げに笑ってみせる。
 さらりと額にかかる前髪に、強い意思を宿した丸い瞳。顔立ちは高校生のようなのに、なんとなく色っぽく見えるのは、いたずらっぽい表情の所為だろうか。スーツを難なく着こなし、慣れた手つきでハンドルを操る仕草は、すっかりさまになっている。
「とりあえず乗れば?」
「結構よ。わたしを送ったら遠回りになっちゃうじゃない。ていうか、こんなところでどうしたの? 大学も職場も、この辺じゃないでしょ」
「なんでもいいだろ。たまたま、その、通り掛かっただけだよ、別に」
「たまたまって……あ、もしかして外回り? 一旦帰社しなくていいの?」
「いいから、とっとと乗れって。後続車の迷惑になる」
 語尾に重なって、甲高いクラクションの音が響いた。後続のトラックは、追い越しができずに苛立ちもあらわだ。だから言っただろうが、とばかりに手招きで急かされ、紗英は慌てて助手席に乗り込んだ。
 
         
 
 延──相賀美(おうがみ)延はようやく二十歳になった。
 十八で成人を迎えた身だが、数字が繰り上がった最近、やっと実感が伴った。
「すみません、リーダー。明後日、飛び込みで僕もプレゼンさせてもらっていいですか。インフルエンサーを使ったマーケティングに関してなんですが」
「はい、いや、ああ。もちろんかまいませ……かまわないよ、相賀美くん」
「ありがとうございます。頑張ります! まずはこれ、資料の叩き台です。当日までに、もう一度ブラッシュアップしてくるつもりです」
「へえ、もう形になってるのか」
 目を丸くしたマーケティング部第三課Bチーム長の考えは、なんとなく読める。
 御曹司なんだからそんなにがむしゃらにやらなくても、あるいは、インターンなのにプレゼンなんて張り切らなくても、といったところだろう。
 確かに、相賀美家はここ『王美堂』──日本を代表する化粧品メーカーの創始家であって、延は生まれたときから将来を約束された身だ。のんびりしていても、いずれは代表取締役だ。必死になる必要は、これっぽっちもない。
 しかし延は焦っていた。無我夢中だった。
 一日でも早く仕事に慣れ、一刻も早く一人前になりたかった。
 紗英に、振り向いてもらいたくて。子供ではなく、男として見てもらいたくて。
(やっべえ、遅くなった。間に合うか? 改札を通られたらアウトだぞ)
 退社後、駆け足で社屋を出ると、愛車で一路郊外を目指す。
 刻々と暮れていく街並み。信号待ちでイライラしながらハンドルを手慰みにし、使える近道はすべて活用する。そうして街路樹の下を歩く紗英の後ろ姿を見つけたときには、安堵のあまり長い長いため息が漏れるほどだった。
 素直ではないから、年増などと呼んでしまったが。
「本当に送ってもらっていいの? そこの駅で降ろしてくれてもかまわないのよ」
 申し訳なさそうに前方を示す手を、横目でチラと見る。
「送るっつってんだろ。大人しく乗っとけよ」
 短く切り揃えられた爪も、マメだらけの指も、飾り気なんてさっぱりないのに、どきっとさせられる。仕草ひとつで、どうしてこんなに揺さぶってくるのだろう。
 デニムパンツに黒のダウンコートという洒落っ気のなさも、かえって色っぽいと感じてしまう。重症だ、とは、もちろん延は自覚している。
 もう十年だ。
 人生の半分以上を、紗英に恋して生きてきた。
「いいの?」
「しつこい」
 降ろしたら焦って車を飛ばしてきた意味がないではないか。
 そうだ。外回りのついで、だなんて嘘だ。今日は雪の予報が出ていたから、帰りに紗英が寒い思いをしないようにと、わざわざ迎えにやって来たのだ。
 しっかりしているように見えて、紗英はいまいち己に無頓着だから。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。ありがと」
 不服そうな返答がなんだか少女っぽく聞こえて、延は内心、悶えに悶えた。
 可愛い。かわいい、かわいい──なんなんだよオマエ、俺を殺す気か。いっぺん抱き締めさせろ。最高かよ。などとは、天地がひっくり返っても言えないが。
 とくに、本人が聞いている状況では。
(クソっ、運転中でなければガン見するのに)
 素直にはなれなくても、延は紗英に首ったけだ。
 本当は、時間が許す限り、紗英と一緒にいたい。一分一秒だって、離れていたくない。独り占めしたいし、してほしいと思う。それから歯が浮くような台詞も山ほど囁きたいし、テンプレなイチャイチャだって、ものすごくしてみたい。
 もしも両想いになれたら……という不毛な空想なら、何千回、何万回とした。
 自分でも、気持ち悪いなコイツ、と思うくらいである。
「それにしてもさ」
 紗英は助手席のシートに埋もれ、ため息混じりに言う。
「相変わらず、御曹司やるのは楽じゃないのねぇ」
「あ? なんだよ、唐突に」
「だって。普通のインターンなら、こんなところまでひとりで外回りに来させられたりしないでしょ。ちゃんと寝てる? 食事だけは抜いちゃだめよ」
 母親のような口ぶりだ。が、かまわれるのは悪い気はしない。いや、嘘だ。
 かまってもらえて死ぬほど嬉しい。もしも延が犬ならば、尻尾をぶんぶん振って飛びついた挙句、お腹を見せて寝転がっているだろう。
「問題ねえよ。食事も睡眠も抜いたらパフォーマンスが落ちるからな」
 スンッとしてしまうが。反射的に。
「そう。ちゃんと食べて、休めてるならいいの。己を過信しちゃダメよ。若いときはそれでなんとかなるかもしれないけど、いつまでも若いままじゃないんだから」
「……わかってる」
 過信しているのは紗英のほうではないか。この寒さの中、防寒具はダウンジャケットだけだなんて──文句を言いたくなるのは、若い若いと連呼されたからだ。
 そんなに子供扱いをするな。
「あ、口うるさい奴だって思ってるでしょ」
「別に」
「言っとくけど、わたし、延のこと認めてないわけじゃないのよ。大学に通いながらインターンにも精を出して、誰より努力してることは、すごいと思う」
「……誰より、ってわけじゃねーし」
 思わず口もとが緩みそうだった。
 紗英の一言一句に、簡単に上がったり下がったりさせられるチョロさが悔しい。
「わたしが知ってる誰よりも、よ。本当にすごいわ」
 左から頭を撫でられそうになって、延は咄嗟にその手を払い除けた。
 照れと、恥ずかしさと、徹底した子供扱いへの反発と──まったく、二十歳の男をなんだと思っているのか。頭ナデナデなんて、小学生と同じ扱いではないか。
 しかし「なによぅ」と不満げな声を聞きながら、ほんの少しだけ後悔する。
 触れてもらえばよかった。ほんの一瞬でも、紗英の体温を感じられるチャンスを、自ら棒に振ってしまった。今週一番のがっかりだ。
(進歩ねえな、俺……)
 十年前──。
 延は十歳の小学四年生だった。
 かたや大学一年生の紗英は、百七十センチの身長も手伝って大人に見えたものだ。
 当時、延は大人なんて敵だと思っていた。自由気ままな振る舞いを制限してくる、目障りな存在でしかなかったからだ。すると紗英は、さながら両親から差し向けられた新たな刺客。断固、懐柔されてなるものかと即刻、敵視した。
 幼少期から、延はやんちゃだった。
 親の財力や権力を傘に、やりたい放題だった。
 両親ともに忙しく、周囲にきちんと叱ってくれる大人がいなかった……というのは見事にグレる御曹司のテンプレで、ガキ大将にありがちな取り巻きだって、わんさかいた。
 幼稚園受験も、小学校受験も、あえて失敗してやった。
 親が敷いたレールになど、死んでものってやるものかと思っていた。
 だから、初めて訪ねてきた紗英の前で教科書をズタズタに破り、こんなもんいらねえよ、俺は上級国民だからさぁと言い捨てた──途端、背負い投げで鎮圧された。
『もっぺん言ってみな、こんのクソガキが』
 投げられたのが初めてなら、罵られたのもそのときが初めてだった。
『なんっ……なんなんだよ、おま……っ、ゴリラ女!』
『寝技も味わいたいようね。お望み通り、固めてやるわ』
『ちょっ、やめっ……ぐあっ!』
『ふはははは、記念すべき初めての生徒がやりがいのあるタイプでなによりだわ』
 それまであてがわれた数多の家庭教師と、紗英はあまりに違っていた。
 柔道黒帯、空手の経験者、さらに水泳と持久走は都大会の新記録を持つ。迫力の美人かつ頭のほうも優秀で、通っているのは某難関国立大学の教育学部ときた。
 どこでこんな化け物じみた人材を発掘してきたのかと思ったら、どうやら『王美堂』が代々御用達にしている和菓子店『くすのき』の孫娘なのだとか。
 その後もどうにかして授業を放棄しようと、あの手この手で逃亡を試みたが、毎回、首根っこを掴まれて引っ張り戻された。やり返そうとしても腕っぷしで敵わず、ましてや教え方が案外うまいのも癪で、とにかく目障りで、気に入らなくて。
 それで──。
 腹が痛いとSPを騙し、ある日、学校のトイレの窓から逃げた。
 二、三日は雲隠れするつもりだった。考えが甘かったので、父親名義のカードさえあれば、優雅にホテルステイでもして時間を潰せるだろうと思っていた。
 想像もしなかったのだ。
 まさかその直後に誘拐されかけ、紗英に一生消えない傷を負わせてしまうとは。
『……大丈夫。わたしなら、絶対に大丈夫だからね』
 朦朧としながらそう言った紗英の手が、震えていたことを延は覚えている。
 本当は痛いくせに、怖いくせに、笑ってくれた。悪いのは延なのに、そんなことは誰が考えても明らかなのに、負い目に思うなと言ってくれた。
 あの瞬間から延には、紗英以外、見えない。
「そうだ、ねえ、延」
「あ?」
「ラーメン食べに寄らない? こないだ、美味しい立ち食い店を見つけたの」
「……俺を立ち食いラーメン店に誘う女は、おまえくらいだからな」
「嘘でしょ。じゃあみんな、普段どんな店でなに食べてるわけ?」
「おまえにとっての外食はラーメンだけか。……まあいい。奢るよ」
 今夜こそ奢らせろよ。
 そう言うつもりだったのに「何言ってんの!」と遮られた。
「誘ったのはわたしなんだし、学生さんに払わせたりしないわ」
「単なる学生と一緒にすんじゃねぇよ。俺だって、一応は」
「働いてる、って? でもね、学業と両立してやっと得た収入は、自分のためにこそ使われるべきよ。そんなに気を遣わないで。わたしのほうが十歳年上なんだし、こう見えてそれなりに稼いでるんだから。ねっ」
 宥めるように右肩を叩かれて、ムッとせずにはいられない。前と言ってることが違うじゃねーか、というのは子供っぽいケチの付け方だろうか。
 だが、忘れもしない。
『奢るって言葉はね、自力で稼げてから言うものなの』
 そうピシャリと言われたのは、高校一年生の夏だ。
 夏季休暇に入る直前、受験戦争に勝った爽快感が尾を引く中で、どっか連れてってやろうか、俺が奢るから、と紗英に持ち掛けた。
 海でもテーマパークでもいい。本音を言えば一泊がいい。
 つまり思い切った、デートの誘いのつもりだったのだ。
 しかし、豪快に眉を顰められた。
『あなたのお小遣いは、ご両親から与えられたものでしょう。大事にしなさい』
『小遣いじゃねえよ。貯金だ、貯金』
『アルバイトもしてないんだから、同じことよ。延、まさかとは思うけど、お友達にもそうやって簡単に奢ってあげたりしてないわよね?』
『なんだよ。生まれ持った環境を有効活用して、何が悪い』
 小学生の頃から、友人たちとつるめばいつも、財布を出すのは延だった。
 たかられているという感覚はまったくなかった。あるから出す、それだけだ。
 あの頃は、まだまだ物を知らぬ子供だったと延は思う。
 汗水垂らして手に入れる、数百円の重みも知らなかった。
 孤独感も、持てるものゆえの重圧も、生まれ持った環境の所為であって、それを相殺するぶんの贅沢は許されるだろうと思い込んでいたところもある。
 ましてや当時は、金持ちばかりが集う私立中学に通い始めたばかり。金銭感覚が、余計に麻痺していたのかもしれない。
『あのねえ』
 紗英はため息をついた。
『損得なしの友情を築けるのは、学生の特権よ。そもそも青春って、お金をかけなくても楽しめるものなんだから。それなのに、無駄にばら撒きなんて続けてたら、お金目当ての人間しか寄ってこなくなるわ』
『学生だって損得勘定くらいするさ。人間なんて、皆そんなもんだろーが』
 売られてもいない喧嘩を買いに行く勢いで言い返す。
 デートの誘いに失敗したのは明らかで、悔しいやら悲しいやら、半ば自棄だった。
『もう、ばかっ!』
 すると紗英は途端に、きゅっと眉を吊り上げる。
『わたしはね、延のいいところをいーっぱい知ってるわ』
『……は……?』
『そうやって悪ぶってても、素直に人の意見を聞くところとか。ツンケンしてても優しいところとか。なんだかんだ、努力してやり遂げるところもね。そういうのが全部、お金の陰に隠れちゃったら勿体ないって言ってるの!』
 一瞬、ぽかんとしたあと、延はジワジワと頬が熱くなるのを感じた。
 なんだ、こいつ。俺の金遣いの荒さが目について、突っかかってきたんじゃないのかよ。これじゃ、ただ心配されているだけのような──いや、そうなのか。
 あんな生意気を言ったのに、案じてくれるのか。
 親でも家族でもないくせに、そこまで見ていてくれたのか。
『う、うっせぇ』
 天邪鬼な口はそれしか発しなかったが、密かに延はときめいていた。
 胸のあたりをぎゅうんっと、鷲掴みにされているかのよう。
(ちくしょう。完全に不意打ちだ……っ)
 素直かつ単純な延は、以来、奢るという行為を封印した。ついでに、ばら撒くように無駄金を使うのもやめた。それで離れていく人間もいたが、それならそれでかまわなかった。世界中で一番、認めてもらいたいのは紗英だったから。
 そして決めた。
 いずれ己の力で稼ぐようになったら、そのときこそ紗英に奢る。親の金ではなく自分の金ならば、無駄に使ってもいいとか思っているわけじゃない。
 子供扱いされているうちはできなかったことをして、大人だと認めてもらう。そして、あのときは子供だったよな、と数年越しの反省を口にしたいとも考えていた。
 それなのに──。
 学生さんには払わせられない? まだ、認めてくれないのか。
 いっそ大学を辞め、仕事に専念すれば社会人として認識してもらえるのか。
 いや、それこそ紗英は喜ばないだろう。
 一念発起して中学受験に挑んだときも、外部の難関大学を志望すると決めたときも、一番近くで応援し、力になってくれたのは紗英だった。
「……じゃあ俺、辛味噌チャーシュー味玉ダブル大盛りと海鮮餡かけチャーハンな」
 ハンドルを切りながら言えば「はっ!?」と紗英が身を乗り出す。
「それ、三千円超えじゃないっ。ちょっとは遠慮しなさいよ!」
「稼いでるって豪語したのは、どこのどいつだか」
「わたしの財力と、延の傲慢さは別問題なんですぅ」
 ぶすっとしたのは一瞬だ。
 まいっか、と呟いて、紗英はラーメン店近くのコインパーキングを案内してくれる。
 文句を言っても、けろっと切り替えられるのが紗英のいいところだと延は思う。裏表のないこのあけすけさに、これまで何度救われただろう。
 あのとき家庭教師になったのも、誘拐犯から助けてくれたのも、どちらも紗英以外の誰かだったら、今の延はない。それは確実だ。
 運転席を降りたら、駆け寄ってきた紗英に右手を掴まれてどきっとした。
「早くっ。この時間、油断したら行列できちゃう!」
 引っ張られ、住宅街を走り出す。
 ひと気のない細道は薄暗く、角々に灯る街灯だけがふたりの道標だ。その灯りの下を通り過ぎるたび、綺麗なつむじが延の視線をくすぐった。
 かつて大人だと感じた長身の人に追いつき、追い越したのはいつだったか。
 奇跡のように繋がれた手が予想以上に華奢で、頼りなく冷えていて、延はたまらない気持ちになる。守ってやりたい、なんて月並みだけれど思う。
 いつまで追いかければいい? いつになったら、男としてその目に映る?
 叶わぬうちに、ほかの男に掻っ攫われたらどうする。焦るなと言われても、無理だ。
 早く一人前になりたい。早く、早く──紗英と、対等な関係になりたい。
(いや。対等なんて、おこがましいか)
 延は知っている。
 小学校教諭を目指していた紗英が、あの誘拐未遂事件の所為で道を閉ざしたことを。
 あっけらかんとしているように見えるが、紗英は額の傷痕のほかに、心に消えない傷を負っている。いわゆる、トラウマというやつだ。
 教室にいる生徒が、二、三人なら問題はない。しかし二十人、三十人となると過呼吸になり、みるみる意識を失ってしまうらしい。
 そう『くすのき』の主人に聞いた。
 トラウマの原因が、誘拐犯の男たちに囲まれた経験にあることも。
 腕っ節がいくら強くても、やはり怖かったのだ、紗英は。大勢の人間から注目されると──たとえそれが小さな子供だとしても、心が体にストップをかける。
 初めての生徒だと言ってくれたのに。
 教え方もうまくて、こんなに愛情深くて、いい教師になれただろうに。
「セーフ、まだ今日は行列が長くないっ。ああ、お腹空いた! よし、今日は私も大盛り食べちゃう。味玉ダブルで、チャーシューも倍よ。あと餃子ね」
「俺より食ってどうすんだよ。贅肉増えるぞ」
「うるさい、うるさーいっ」
 数秒置いて、ふはっと噴き出す横顔がきれいだ。
 紗英が大学を辞めたあと、延はその額の傷痕を消そうと画策したことがある。 
 トラウマを負わせ、夢を奪い、さらに顔に酷い痕まで残しては、あまりに申し訳ない。両親に、代金は出世払いにしてくれと頼み、美容整形を提案してもらった。
 だが紗英は、やはりそのときも『大丈夫』と笑顔で受け入れなかったそうだ。
 それどころか、相賀美さんも被害者なのに、と気遣われたと母が言っていた。
 だから延は、死んでも申し訳ないなどとは思わないと決めている。あの事件のことは──たとえ紗英が、負い目に感じるなと言ってくれなかったとしても。
(俺が過去に囚われていたら、前向きに生きている紗英に失礼だからな)
 いずれ、弱い部分まで曝け出してもらえるように。大丈夫ではないときに大丈夫と言わせないように。この胸で、きちんと泣いてもらえるように。
 その背中に守られたことを、誇りに思って強く生きたい。